総武物流のあゆみ

創業90年の信頼と実績

江戸川を使った高瀬船での輸送

総武物流の創業は大正13年設立の野田運輸株式会社とされていますが、それ以前にも醤油の輸送は行われていました。 大正時代、江戸川は、船で各地に荷物を運ぶ輸送路として活躍していました。 江戸川には河岸(かし)に船問屋があって、上河岸(かみがし)を五右衛門河岸、下河岸(しもがし)を仁左衛門河岸といい、貨物は、ほとんどこの両船問屋を経由して”高瀬船”に積みこまれていました。

野田人車鉄道の設立

江戸川を利用した船舶が交通の要であったことから、工場と江戸川を結ぶ輸送路を改善する必要がありました。 そこで、設立された会社が野田人車鉄道株式会社でした。 設立年度は明治33年、今から1世紀以上も前となります。

積載重量は2トンで醤油樽70樽を運搬。 運転は車丁が2人1組となってトロッコを押しました。 運行ダイヤは存在せず、出荷状況に合わせて運行されていたようです。
トロッコの運転は非常に荒っぽく猛スピードで突っ走ったため、人身事故が多発し、町民はトロッコ車丁を”醤油屋者”と呼んで恐れていました。

船から鉄道輸送へ

明治末期になると、醤油の需要がさらに伸び、水運での輸送力不足が問題となっていました。 そこで、県が鉄道の建設を行う代わりに、県債を野田の醤油業者が買い占めることを条件として、県営軽便鉄道の野田~柏間が開通。 それに伴い、輸送が水運から鉄道による陸運に大きく転換し、人車鉄道も大正2年に野田町駅(現在の東武アーバンパークライン野田市駅)構内まで路線を延長して対応しました。

大正6年、キッコーマンの前進である、野田醤油株式会社と、万上味淋株式会社が設立され、人車鉄道は実質的に同社の運輸部門として活動しました。 大正9年、野田船業株式会社が設立。 それは、野田醤油株式会社設立により取扱量が急増したためで、個人の船頭たちが結束したものでした。
また同時期に、船問屋に野田醤油株式会社が加わり、野田運輸合資会社が設立されております。

大正11年、野田醤油醸造組合は、柏~船橋間の鉄道施設免許を取得し、北総鉄道株式会社(現在の北総鉄道株式会社様とは別)を設立します。 さらに、野田~柏間も県に払い下げ運動を起こし、翌年、柏~船橋間を開通することを条件に営業を開始します。

総武物流の前身、野田運輸の設立

大正12年は関東大震災が発生し、野田も被害をうけました。 北総鉄道も影響を受けて、船橋~柏間の施設工事は中止を余儀なくされましたが、同年12月27日に開業。

翌年13年、野田船業株式会社は解散、同年10月、船舶が本業の野田運輸株式会社が設立します。 野田醤油株式会社は買収した船を出資に充当し、野田運輸合資会社および東京野田屋合名会社が合同で設立しました。 この日が弊社の創立記念日となります。創立時の社長は茂木佐平治氏でした。

いっぽう、大正14年に野田人車鉄道が営業を廃止します。営業活動はわずか25年と短命でした。 北総鉄道においては野田から大宮までの路線延長を計画し、大正15年に鉄道免許を取得し、同時に電化工事も開始。 また江戸川を越えて大宮に至るのに、北総鉄道という社名は不適当と判断し、社名を総武鉄道株式会社と改めました。 その後、大宮から船橋間が全線開通となり、大宮から柏間には電車が走るようになりました。

昭和11年、野田醤油株式会社は野田運輸株式会社の株式を全株買収します。 同時期、一般荷主獲得のため、株式会社野田運送店が設立されております。

太平洋戦争の時代、
總武通運に社名変更

昭和16年、太平洋戦争が開戦。
政府は国内の戦時体制を固めるために、企業の合併を強制的に行いました。 開戦の翌17年、野田運輸株式会社は總武通運株式会社と社名変更します。 運輸省令により8社が統合。これにより、1線1社体制が確立しました。

当時の営業内容は、野田市における通運業、関東一円の自動車運送事業、野田~東京日本橋間の路線事業、野田より江戸川を下り東京、川崎、横浜方面へ船舶による輸送事業にも及んでおります。
総武鉄道も例外ではなく、昭和19年に、政府から強制的に埼玉を中心に路線を延ばしていた東武鉄道と合併し、東武鉄道野田線となりました。

戦後は生活物資の輸送も行なう

戦火は日毎に激しさを増し、首都東京も空襲を受けました。
東京は大空襲を受けましたが、幸い、野田は戦争による大きな被害を受けずにすみました。 終戦直後は原材料・資材が極度に不足したため、醤油の生産量が減少、輸送トン数も減りましたが、それにかわり、農作物生活物資の輸送に力を注ぎ、国民生活の安定に役立てることができました。
その後も、日本経済は不安定な状況が続きましたが、弊社は生活必需品である醤油の輸送が主力であったため、輸送実績を下げることなく、順調な営業成績を上げました。

本格的なトラック輸送へ

昭和29年には、以前から輸送力が問題だった内湾(ないわん)航路としての船舶部門を廃業。代わって観光バス部門を設立、一般貸切旅客業務を開始します。

昭和30年代になると、キッコーマン醤油出荷増大に伴い、鉄道輸送に加えてトラック輸送が年々拡大していきます。 昭和39年には、東京オリンピック開催されました。 同年、それに伴う高速道路建設等交通網の発達により、市内にトラック車庫(中根車庫)が建設され、鉄道貨物は本格的にトラック輸送にシフトしていきます。 昭和36年からはキッコーマングループ各社の設立や社名変更が続きました。昭和39年、野田醤油株式会社がキッコーマン醤油株式会社に社名変更しました。

野田トレーラー運輸の設立

昭和40年代は、人手不足による人件費高騰、交通量激増による輸送力低下、オイルショックによる燃料の値上げと供給不安、道路交通法改正、過積載問題等、次々に問題が発生、厳しい経営が続きました。 45年には野田トレーラー運輸株式会社が設立されました。

昭和50年代も引続き厳しい経営が続きますが、昭和52年には、キッコーマン物流部門の指導と協力を得て、パレット輸送、夕積方式の採用等、現在の作業フローが確立し、作業効率の向上に努めました。

鉄道貨物の廃止、引込み線の撤去

昭和57年になると、荷主の鉄道離れが加速し始めます。 昭和59年には国鉄の大幅な改革と合理化で通運部門は一部コンテナのみとなりました。 昭和60年、東武野田線における貨物輸送が廃止され、74年にわたる鉄道貨物は終わりとなり、引込み線も撤去。 それによって余情人員が発生し、経営を圧迫する大きな要因となりました。 その年にキッコーマン株式会社と合同出資により、株式会社総武サービスセンター(主に流通加工業務)が設立します。

60年代は年号も平成となり、当社にとっても新しい時代の始まりを予感させるものとなってきます。
昭和63年には野田トレーラー運輸株式会社が、当時倉庫業務を行っていた野田食糧倉庫株式会社の中根倉庫における、荷役作業に関する営業を譲り受け、社名を野田物流サービス株式会社に改めました。

これからも進化し続ける総武物流

平成6年4月、總武通運株式会社と野田物流サービス株式会社が合併し、現在の総武物流株式会社が発足しました。 平成10年、野田配送センターにて、当時は新鋭的だった自動倉庫が竣工(現在の野田第一DC)。 この自動倉庫は物流の合理化をより確実なものにするために建設されました。
また、平成11年に京浜地区、14年静岡県、そして15年に愛知、岐阜の2県が無在庫スルーセンターによる配送エリアとなり、近年の物流サービスの向上、コスト低減に成果をあげてきたものです。

総武物流は、今後も共同配送システムをはじめ、時代の変化に対応しながら大きな課題に取り組んでいきます。輸送合理化を進めて、関係各社のご期待に応えていきます。
弊社のモットー“顧客にまごころをお届けする”は永遠のテーマ。全社員が安全・確実・迅速・創意・工夫をいつも胸に抱き仕事に励んでまいります。