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「江戸前」とは、文政2年(1819年)、魚河岸の肴問屋が役所に提出した答書に「江戸前と唱へ候場所は、西の方、武州・品川州崎一番の棒杭と申場所、羽根田海より江戸前海へ入口に御座候、東の方武州深川洲崎松棒杭と申場所、下総海より江戸へ入口に御座候、右壱番棒と松棒杭を見切と致し、夫より内を江戸海と古来より唱う来り候」とある。江戸城前面の海で獲れた魚が江戸前の魚とされていたが、隅田川の千住、尾久あたり、特に神田川、深川産の鰻は川魚でありながら江戸前として賞味された。貝原益軒は「河魚の中、味最美し」(『大和本草』―宝永6年・1709年)と評しているが、背開きにし、串を打って、白焼きにし、蒸しにかけて、タレを掛けて焼き上げる、という丁寧な仕事にこそなにがなんでもうまいものを食べたいという庶民の執念を感じる。
土用の丑の日に鰻を食べる故事の由来ははっきりしない。「土用丑ノ日」の宣伝文句は平賀源内の発案とされるが、『江戸買物独案内』(中川芳山堂―文政7年・1824年)の「飲食之部・うの部」に
「」とあり、一般の慣わしとなっていたとがわかる。天明(1781~89年)の末ごろから蒲焼に飯をつけることがはじまり、文化(1804~18年)ごろにはうな丼の前身である「うなぎめし」、安政(1854~60年)ごろになって「うな丼」が登場する。市中の蒲焼店も二百軒を数えるほどの盛況振りであった。 |
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