多様な民族食の融合で「新アメリカ料理」が結実する

研究機関誌「FOOD CULTURE No.10」世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【下】

著者:加藤 裕子(かとう ひろこ)

世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【下】

中編のあらすじ

独立宣言後のアメリカは食生活にも様々な変化が起こった。その一つに缶詰がある。缶詰は運齢に便利であり、長期保存ができ、南北戦争中は兵糧食として重宝された。南北戦争後の食生活で見逃せないのが牛肉の普及。アメリカ大陸横断鉄道の完成を機に、バッファローの狩猟が盛んになった。乱獲によって絶滅寸前まで数を減らしたが、スペイン人がテキサスに持ち込んでいた牛の子孫の数が増え、カウボーイによってテキサスから北部へ運ばれることになる。その後、アメリカの牛肉産業は順調に発展する。
同じ頃、アメリカの朝食を大きく変えたシリアル、コーン・フレークスとオートミールが商品化された。
20世紀に入ると、ヨーロッパの中でも貧しい地域からやってきた「新移民」が増加。彼らも母国の食生活を持ち込んで守り続けた。なかでもイタリア料理は、欠かせない家庭料理の一つとなった。このほか中国料理やメキシコ料理などに加えてユダヤ教、ヒンズー教、イスラム教の戒律にのっとった宗教料理など、それぞれ出身の食習慣を再現。こうしてアメリカの食文化はさらに多様化していった。

科学的で合理的な「アメリカの正しい食べ物」

多様な民族、宗教、言語、生活習慣から成る人々の大量移民は、それまでのアングロサクソン的価値観とは「異質」な集団の流入を意味し、アメリカ社会にさらなる多様性と共に、混乱をもたらすことになった。
そのため、1882年から10年間、中国からの移民を禁止する法律が制定されるなど、新移民に対する排斥運動が起こる。そうした動きは、「牛肉とバンを食べる男」が「米を食べる男」と一緒に働くわけにはいかない、という論理によって支持されていた。
また、アングロサクソン文化の優位性を保とうとするアメリカ中産階級の人々の中には、新移民をアメリカ社会に同化させ、「立派なアメリカ人」とすることに情熱を燃やした一派も存在した。その多くは、当時の科学万能信仰に基づいて家事の合理化を目指し、家政学というジャンルをうち立てた女性たちである。彼女たちは、移民たちの食生活は栄養や食品保存の知識に基づいておらず、経済的合理性や食事計画によったものではない、と批判した。移民たちに、「正しいアメリカの食べ物」、つまりニューイングランドの伝統的家庭料理を根付かせるために、様々な試みが行われた。
一例として、アメリカ家政学会の初代会長となったエレン・リチャーズがボストンで始めた「ニューイングランド・キッチン」がある。彼女はマサチューセッツ工科大学初の女性化学者でもあったが、移民労働者の食生活を改善し、健康を向上させようと、ニューイングランド料理を安価で提供した。
「ニューイングランド・キッチン」では、移民たちの食生活をアングロサクソンの価値観で批判(たとえば、ユダヤ人の母親は子供に良い肉や卵を食べさせるので禁欲を教えていない、と評した)する一方、「完璧なだけでなく、完全に一様なニューイングランド料理、毎日完全に同じトマトスープやシチューを供給」した。「毎日完全に同じ」と誇り高く語られた「正しいアメリカの食べ物」は、栄養価を考え、材料を正確に計量するという「科学的合理的」調理方法にのっとったもの、という点において、「正しい」とみなされたのである。
そこでは、栄養や科学的合理的調理法や健康維持以外の要素、たとえば、家族で食卓を囲む楽しさ、民族のアイデンティティなどは排除されていた。
さらに、ニューイングランドの家庭料理は、家政学運動を担った女性たちにとっては確かに「伝統的なアメリカの食べ物」であったが、それを「正しいアメリカの食べ物」と呼ぶことは、入植初期からアメリカの他の地域で息づいていたアングロサクソン以外の食文化の要素を無視する行為であった。
結局、「ニューイングランド・キッチン」は、3年で閉鎖される。移民たちにとっては、自分たちの食文化を批判され、栄養や合理性ばかりを追求した味気ない料理を押しつける迷惑な場所だったのだろう。リチャーズにみられるような「善意の押しつけ」はあまり成功せず、移民たちは自分たちの食文化を守り続け、自らの好みで、シリアルやコカ・コーラ、アイスクリームなどの「アメリカの食べ物」を選択して、食生活に取り入れていくことになる。

家庭料理から食のマニュアル化へ

「科学的合理的」調理方法の普及に大きく貢献したのが、19世紀後半から盛んに出版され始めた料理本である。
誰が読んでも、ほぼレシピ通りの味を簡単に再現できる単純明快さが、アメリカ料理本の基本形だ。材料の分量は、テーブルスプーン(日本でいう「大さじ」にあたる)やカップ(アメリカの一カップは250cc)で表記され、いちいち秤を持ち出す必要はなく、目分量による誤差も生じない。また、日本のように「さっとゆでる」「ことこと煮る」といった曖昧な表現が見あたらず、たとえば「何分ゆでる」「材料の色が変わりかけ、汁が出てきたら火を止める」といったように、具体的かつ簡潔な記述である。
アメリカで、このようなスタイルの料理本が出版されるようになったのは、先に述べたような新移民の増加という社会事情も反映されている。それまでも主婦たちが自慢のレシピを交換しあうコミュニティ・クックブックというものはあり、そこにおいては「少々」「ひとつかみ」といったおおざっぱな表現が主流であった。それを変えたのは、1896年に出版された『ボストン・クッキングスクール・クックブック」である。
著者のファニー・ファーマーは、表題にある「ボストン・クッキングスクール」の講師であり、生徒の中には、文化的背景も育った環境も違う移民の女性たちが含まれていた。同じコニティで育ち、実際に母親や近所の主婦たちが作る過程を見ながら料理を覚えた女性たちであれば、おおざっぱな表現でも、カンと経験で理解できただろうが、移民にそれは通じない。『ボストン・クッキングスクール・クックブック」は、元々、この学校の生徒たちを対象とした「教科書」として書かれたものだが、やっと文字が読めるかどうか、という教育レベルの女性でも内容を理解できるようにするため、記述は明快にして簡潔、何度でも、誰がやっても、同じようにできあがるレシじである必要性があった。ちなみに、ファーマーは、調理用計量スプーンを考案した人物でもある。
『ボストン・クッキングスクール・クックブック」の初版3千部は、科学的合理的調理法を信奉していた当時の中産階級の女性たちに受け、あっという間に売り切れたという。その後も、著者の名前をとって、「ファニー・ファーマー・クックブック」と改題されたものが版を重ね、21世紀に入った今でも、一般の書店で買うことができる超ロングセラーとなった。その誰にもわかるような普遍性ゆえに、「ファニー・ファーマー」は、「母から娘へと愛情をこめて伝えられた家庭的なアメリカ料理を、味気ないマニュアルにしてしまった」との批判も受けているが、それは多様な文化的背景を持つ人々をまとめていかなければならないアメリカという国の宿命だったのかもしれない。

食の工業化とマスメディアの影響

1920年代、アメリカは世界に先駆けて大衆消費社会を実現した。20世紀の始まりには、まだ一部の富裕層しか所有できなかった自動車も、20年後には、一般庶民に手が届くものとなっていた。人々は農村から都市へ移り住み、産業化に伴い、女性も工場労働者として働くようになった。
移民の流入は増え続けていたが、工場での仕事に比べて低賃金であったため、家庭の使用人に雇われる女性は減り、主婦たちは限られた時間と労働力で、いかに家族を満足させる食事を作るかということに精力を注いだ。ここでの「満足させる食事」とは、味やボリュームが一定のレベル以上であることはもちろん、合理的かつ衛生的でなければならなかった。
彼女たちのニーズに応えたのは、現在、「アメリカ的」と表現される加工食品である。ますます中身が多様化した缶詰に加え、1920年代からは、冷凍食品も市場に出回り始めた。水や卵を加えれば簡単に焼けるケーキ・ミックスのようなインスタント食品が登場したのも、この頃である。これらの加工食品は、本来の素材の味とは異なってはいたが、衛生的かつ栄養が考えられており、安い値段で、手間をかけずに、それなりの料理を作りだすことができた。
缶詰やインスタント食品を利用した料理がアメリカで普及したのも、「合理的な料理」をよしとする風潮が主流だったためと思われる。主婦たちは新鮮な材料を使い、手間暇かけて調理する料理を時代遅れのように考え、ラジオや女性向け雑誌の料理コーナーや料理本からレシピを学ぶようになった。
マスメディアは、加工食品企業から広告をもらっていたこともあり、缶詰や加工食品を使ったレシピ、たとえば、ツナの缶詰とパスタを缶詰のクリームスープで混ぜてオーブンで焼いた「ツナ・ヌードル・キャセロール」などを紹介した。中でも、「ベティ・クロッカー」という架空の女性キャラクターは、加工食品企業が、消費者に対するアドバイザーとして作り出したもので、ラジオや料理本などで、親企業の商品を使った料理のレシピを伝授し、全米の女性たちに多大な影響を与えた。
加工食品を利用するこうした「合理的料理」は、現代に至るまでアメリカ料理の典型のひとつとなっている。この時代、世代間の交流を通して女性たちに受け継がれてきたアメリカ料理の知恵や伝統は、マスメディアと加工食品によって、大きく変えられたと言えるだろう。
1910年代からは、セルフ・サービスのスーパーマーケットがチェーン展開を始め、大量生産された加工食品を、全国の家庭に届ける役割を担うことになる。それ以前の人々は、リストを食料品店の店員に渡し、店員が必要な品物を揃えるという買い物スタイルであった。
スーパーマーケットは、それまで当たり前だった「つけ」の買い物や自宅への配達をやめて、その代わりに「低価格」という魅力で多くの客を集めた。特に、1930年代の大恐慌時には、「少しでも安く買える」なら客の多少の面倒は我慢され、スーパーマーケットは飛躍的に売り上げを伸ばすこととなった。
加工食品と共に主婦たちを助けたのは、家電製品である。トースター、冷蔵庫、電気レンジ、パーコレーターといった家電は、使用人の代わりに、大切な労働力となった。家電製品以外にも、ガスレンジやオーブンは、調理中の火の管理という厄介な仕事を引き受け、また、リンゴの皮むき器やレモン搾り器などのキッチン道具が次々に登場し、効率的な調理に一役買った。
アメリカの台所が、必需品ではないがあれば便利な家電製品やキッチン道具であふれるようになったのは、この頃に端を発していると思われる。

1940年頃のマイカーブーム。ニューヨーク郊外の渋滞風景©Granger Collection/PPS
女性の産業界への参画が、加工食品の登場を促した© Granger Collection/PPS

禁酒法から第二次世界大戦まで

アメリカの1920年代は、大衆消費社会の到来と共に、ジャズやハリウッド映画など、さまざまな大衆文化が花開いた時代であった。1919年に禁酒法が制定され、かえって酒の密造や密売が横行することにもなったが、1886年に薬用酒として開発されたコカ・コーラは酒の代替品として人気を得、やがてアメリカを代表するソフト・ドリンクに成長した。
華やかな時代は、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」と共に終わりを告げた。主婦たちは倹約にいそしみ、肉をあまり使わなくとも栄養価が高く、満腹感が得られる料理、たとえば「マカロニ・アンド・チーズ」などを食卓に出すようになった。
台所の倹約は、第二次世界大戦中も顕著であった。缶詰に使われていた鉄やアルミが軍需用に回されたことによる野菜の供給不足解消のため、政府は「勝利の菜園」と名付けた家庭菜園を奨励した。主婦たちは、菜園で採れた野菜をたっぷり入れたチキン味のスープを作り、配給となった肉の不足を補うため、ステーキの代わりに挽肉を使ったミートローフを家族に振る舞った。
砂糖、肉、バターなどは配給制となったが、それでも同時代の他の国々と異なり、アメリカ人が食糧不足で苦しむことはなかった。実際、終戦時のアメリカ人の平均身長・体重は、開戦時よりも増加したほどである。さらに、軍隊においては、食糧は他国軍の兵士に羨まれるほど豊富に用意されていた。
たとえば、1942年にアメリカの成人男子ひとりあたりが食べた肉は平均56キロだったが、兵士の場合、163キロという、驚くべき量を食べている。感謝祭には、敵地で戦う兵士たちに母国から七面鳥が届けられたりもした。

ファーストフードとTVディナー

1920年代に大衆文化が興隆したアメリカでは、食においてもいち早く大量消費への道に進むことは自然のなりゆきであった。缶詰やインスタント加工食品が合理的で衛生的なものであれば積極的に受け入れる、アメリカ人ならではのメンタリティも大きく影響しただろう。第二次世界大戦後、アメリカの食文化は一層の合理性や効率性を追求した結果、ファーストフード、そしてTVディナーと呼ばれる冷凍食品に代表されるものとなっていく。
ファーストフードといえば、まず浮かぶのはハンバーガーだが、早くも1921年には、初のハンバーガー・チェーン「ホワイト・キャッスル」がカンザス州に登場している。1940年にマクドナルド兄弟が開いたハンバーガー屋「マクドナルド」を、レイ・クロックがチェーン店として展開し始めたのは1955年のことだ。ベビーブームの時代、郊外に家を構える中流家庭をターゲットにし、子供連れで安心して入れる「マクドナルド」は、大成功を収めた。
ハンバーガーという食べ物自体は、その起源には諸説あるものの、20世紀初めにアメリカで生まれたものである。そのルーツはドイツ・ハンブルグに遡れるため、両世界大戦中には、「リバティ・バーガー」という名前で呼ばれたりもしたが、挽肉のパテを丸パンにはさんだサンドイッチは、アメリカ人が最も愛する食べ物のひとつとなった。
マクドナルドをはじめとするチェーン店では、調理から接客に至るまで、すべてマニュアル通りの、画一的な味が供される。だが、アメリカ人にとって画一的であることは、けっしてマイナスではない。全国どこに行っても同じ味のものを食べられる、それは安心感につながるのだ。
今やアメリカのみならず、世界中に店舗を増やし続けるアメリカのファーストフード・チェーンは、世界で最も早く車社会が到来したアメリカの産物ともいえるだろう。最初は、ドライブ・インという形態で、人々は食物を買って車の中で食べるというスタイルに慣れた。手も汚さず、スナック感覚ながらそれなりに満腹になれるファーストフードは、レストランに入る時間が節約でき、しかも経済的で、まさにアメリカ人が求めた食べ物であった。
1950年代に、マクドナルドの他、「ダンキン・ドーナツ」「ジャック・イン・ザ・ボックス」「ケンタッキー・フライドチキン」「バーガー・キング」「シェーキーズ」「ビザ・ハット」などのファーストフード・チェーンが、次々に登場したのは、このフード・ビジネスが、いかにアメリカ人のニーズに合っていたかを示している。
ハンバーガーに並ぶアメリカのファーストフード、ホットドッグとビザについても、少し触れておきたい。まずホットドッグだが、1995年のデータでは、アメリカ国内で160億個のホットドッグが消費されており、ハンバーガーとチーズバーガー合わせて52億個という数を大きく上回るほど、アメリカ人の人気は高い。チェーン店では「ネイサンズ」が有名だが、特に、野球などのスポーツ観戦には欠かせないファーストフードである。
ホットドッグも、ハンバーガーと同じく、ドイツ系移民によってもたらされたアメリカの「国民食」で、19世紀頃から、その存在は確認されている。
もうひとつのビザは、もちろんイタリアの食べ物であり、第二次世界大戰中、イタリアに駐留した兵士たちによってアメリカでの人気が高まった。それまでイタリア系移民のエスニック・フードにすぎなかったビザは、戦後たった半世紀の間に、イタリアのオリジナルとはかなり違ってしまっている。生地は「アメリカン・クラスト」と呼ばれる縁が盛り上がった分厚いもので、トッピングはアメリカ人好みの何でもあり、といった趣だ。
「テックス・メックス・ビザ」(スバイシーなソースを使い、ヒスパニックが好む鶏肉がトッピングされている)、「カリフォルニア・ビザ」(トマトソースや普通のチーズではなく、アーティーチョークや山羊のチーズなど、グルメ食材をトッピングする)などは、イタリアでは考えられない「ビザ」なのだろう。
車と共に、1950年代のアメリカ人を夢中にさせたもの、それはテレビである。1950年代の終わりには、700パーセント以上のアメリカ世帯が、少なくとも一家に一台、テレビを所有していた。食事の支度や後かたづけのために観たい番組を中座したくない、という需要に応えたのが、TVディナーである。これは、1954年、冷凍食品会社のスワンソンが、一皿のアルミトレイに、主菜(七面鳥のロースト)と副菜(サツマイモのマッシュとグリーンピース)を入れ、オーブンで温めればすぐ食べられるようにして売り出し、大ヒットした。これならば、料理にかける時間は最短ですみ、出来上がったTVディナーをリビングに持っていけば、テレビを観ながら食事ができ、食後の皿洗いも不要だ。
1個98セントという値段も、ヒットした理由のひとつだったろう。今では、TVディナーという名前こそなくなったが、似たような「一皿冷凍食品」は、アメリカのスーパーマーケットに行けば、圧倒されるほどの種類と量が、冷凍食品売り場にずらりと並んでいる。
ファーストフードといい、TVディナーに代表される簡易冷凍食品といい、味よりも便利さを優先させたこれらの食べ物は、「アメリカン・フード」の代表としてしばしば軽蔑の対象となる。しかし現実をみれば、ハンバーガーや冷凍食品ほど世界中に広まっている食べ物は他にない。大企業の資本力や大規模な宣伝に負うところもあるだろうが、便利な「アメリカン・フード」は、豊かな国アメリカの象徴として、「合理性の追求」という価値観もろとも、世界の人々に受け入れられたのである。

大恐慌時代(1930年代)にスーパーマーケットは売上を飛躍的に伸ばした(筆者撮影)

ジュリア・チャイルドによる目覚め

1960年代以降も食における合理性の追求は続いていたが、豊かになったアメリカ人は、それ以外のものも求めるようになった。きっかけを与えたのは、ジュリア・チャイルドという、おそらくアメリカで最も有名で、スケールの大きい「料理研究家」である。
1912年にカリフォルニアで生まれ、名門女子大スミス・カレッジを卒業した彼女は、結婚後、稀代の美食家であった夫と共に住んだバリで、将来を決定づける経験をすることになる。
フランス料理学校の名門「ル・コルドン・ブルー」で学び、その時のクラスメイトから「英語でフランス料理の本を一緒に書こう」という誘いを受け、10年近くの歳月をかけて完成したのが、「マスタリング・ジ・アート・オブ・フレンチ・クッキング」であった。1961年に出版されたこの本は「ニューヨーク・タイムズ」紙で絶賛される。1963年、ジュリア・チャイルドは、「フレンチ・シェフ」というテレビ番組のレギュラーとなり、アメリカの家庭に、本格的なフランス料理を教えた。
番組を通して彼女が伝えたのは単なるテクニックではなく(実際、番組中に失敗することも度々あったという)、料理することの楽しさそのものであった。そして、それこそが、経済性や便利さばかりを追い求めてきた多くのアメリカ人が忘れていたものであった。
テレビの画面からにじみ出る、大柄な彼女の気さくな人柄、ユーモアあふれる語り口と料理に対する情熱は、それまでのプロのシェフによって調理され高級レストランで供されるというフランス料理のイメージを変えた。
「フレンチ・シェフ」が教えたフランス料理、たとえば「ブルゴーニュ風ビーフシチュー」や「舌平目ヴェルニック風」などが、決まり切った出来合いのメニューが続いていたアメリカの食卓にも登場するようになった。
ジュリア・チャイルドによって食の楽しみに目覚めた人々は、現在まで続くアメリカのグルメ・ブームを担うことになる。彼らは、もはや「ニューイングランド風伝統的アメリカ料理」に固執することなく、世界の様々な料理、新鮮な素材、ヨーロッパやアジアの食材、生のハーブやスパイスに好奇心を抱き、自然食品店や一度は廃れたファーマーズ・マーケット、有機農法の食材を使ったレストラン、また多くのエスニック・レストランを支えた。
チャイルド自身は、2004年に91歳で亡くなる直前まで、テレビ番組を持ち、料理本を執筆し、後進のシェフたちの育成に努めるなど、アメリカ料理界への貢献を惜しまなかった。
彼女が創設を呼びかけた「ジェームズ・ビアード賞」は、アメリカで「料理界のアカデミー賞」と呼ばれ、シェフやレストラン、フード・ジャーナリスト、レストランデザイナーなど多岐にわたる食関係者の目標となっておりアメリカ料理界全体のレベルアップにつながっている。

健康意識の高まりと日本食ブーム

1970年代は、フランスで始まった「ヌーベル・キュイジーヌ」が、世界中に広まった時代であった。新鮮な素材を生かすシンプルな調理によって生み出された料理は、味わいは軽く、カロリーも低かったため、「健康志向」という潮流にびたりと当てはまった。
当時、アメリカでは、心臓病、癌、糖尿病、脳卒中などの生活習慣病の患者やそれらの病気による死亡率が急増していたが、その原因のひとつに肥満があった。今でも、アメリカ成人の半数以上が、「太りすぎ」「肥満」に分類されるという統計があるが、そうした状況に危機感を抱いた政府が1977年に発表したのが、「マクガバン・リボート」と呼ばれる、国民的食生活改善の指標を指し示したものだ。
この報告書では「果物、野菜、精白されていない穀物の食べる量を増やす」「赤身(牛・豚など)の肉を減らして鶏、魚の食べる量を増やす」「脱脂した牛乳を飲む」「バター、卵などコレステロール値の高い食品を減らす」といった具体的な食事目標が挙げられている。アメリカのスーパーマーケットに行けば、「ローファット(低脂肪)」 「ファット・フリー(無脂肪)」のラベルがついた食品が、やたらと目につくが、こうした極端なまでの脂肪忌避は、この頃から始まっている。
健康意識の高まりは、ベジタリアン人気に貢献することにもなった。元々、アメリカにはベジタリアンの伝統があり、1850年には「アメリカ・ベジタリアン協会」が設立されている。それが、1960年代に入ると、ベジタリアニズムはヒッピー運動と結びつき、1971年に出版された「小さな惑星の緑の食卓」(フランシス・ムーア・ラッベ著)によって、地球環境問題や世界規模の飢餓を解決する方法として、多くの支持を得るようになった。野菜や果物、穀物(特に精白されていないものが好まれた)中心のベジタリアンの食生活は、肉や魚を食べずとも健康的であるというイメージも広がり、長い間、「変わり者」「健康的でない」と思われてきたベジタリアンも、次第に肯定的に受け止められていく。
2000年の調査によれば、アメリカ成人の2.5バーセントがベジタリアンであり、またアメリカ成人の半数が、「外食の際には、ベジタリアン・メニューを選ぶ」と答えている。実際アメリカのレストランの多くは、ベジタリアンでも食べられるメニューを用意しているし、味わいを本物の肉に似せたフェイク・ミートも一般のスーパーマーケットで入手できる。ベジタリアン用の冷凍食品や加工食品が多種多様に存在するのはアメリカらしいといえるだろう。
「マクガバン・リポート」の恩恵を受けた食といえば、日本食を挙げないわけにはいかない。殺類と野菜と豆を土台に、魚で良質のタンパク質をとる、低脂肪・低コレステロールの当時の日本食は健康的な食生活の指針からみて理想的であり、「日本食=ヘルシー」というイメージがマスコミによって広められた。中でも寿司は、米と魚というタンパク質も十分で、かつ低脂肪・低カロリーな健康食として注目を浴び、特に1980年代には健康志向が高く経済的にも恵まれたヤッピーたちの間で流行した。
アメリカにおける寿司は「ロール」と呼ばれる巻き寿司が主流であり、アボカドや天ぷらが具になっていたりと日本のそれとはだいぶ異なっているが、今日まで続く健康志向に支えられて、一部の富裕層のみならず一般にまで寿司ファンの裾野は広がっている。ランチに、とスーパーマーケットやデリで寿司のバックを求める若いアメリカ女性の姿は、おしゃれでヘルシーな食べ物として、寿司がアメリカに受け入れられた光景を表していると言えるだろう。
寿司人気は、1990年代から現在に至る、「ヌーベル・ジャパニーズ」の流行をもたらした。世界にレストランをチェーン展開するノブ・マッヒサ氏のようなスター・シェフを筆頭にして、日本食をベースにアメリカをはじめとする他の国々の料理とのコラボレーションが、アメリカ人に新鮮な感動を与えたのである。たとえば、熱いオリーブオイルとポン酢を回し掛けた刺身、といった料理は、生魚を苦手とする人でも食べやすいように工夫が凝らされており、またそれが新しい日本食のおいしさを引き出している。
フレンチのソースに似せて、醤油や味噌などを使ったソースで皿に絵を描いて供したり、日本の食材にキャビアやアメリカで馴染みのあるヒスパニックの辛いチリを合わせたりと、従来の日本料理ではみられなかった斬新な試みも盛んに行われている。
「ヌーベル・ジャパニーズ」は食べ手のみならず、アメリカのブロの料理人を刺激し、柚子やポン酢、山椒、味噌などは、ジャンルを問わず意欲的なシェフたちが常備する食材となりつつあるようだ。

写真(上・中)「ヌーベル・ジャパニーズ」の先駆者「寿司」も変容を繰返している。中央右はSUSHI BAR
写真(下)アメリカ成人の半数が外食でベジタリアン・メニューを選ぶ(上下とも筆者撮影)

フュージョンからニュー・アメリカン料理へ

「ヌーベル・ジャパニーズ」は、フュージョンのひとつと呼べるだろう。「融合」を意味するフュージョンは、複数の民族要素を併せた料理であるが、環太平洋料理「バック・リム」が1990年代はじめに注目されたのを皮切りに、アメリカで花開いた料理ジャンルとなった。多様な民族が集い、世界で最もバラエティあふれるエスニック・レストランを楽しめるアメリカならではの現象だ。
フュージョンは、たとえばオーストラリアのように近年、移民を積極的に受け入れてきた国でも盛んであるが、アメリカにおけるフュージョンは、単にインターナショナルな融合のみならず、各地方の郷土料理、たとえばテックス・メックス(テキサス風メキシコ料理)やニューオーリンズのクレオールやケイジャン(フランス、スペイン、アフリカ、カリブ海、ネイティブ・アメリカンなど、様々な民族の影響を受けた南部料理)などにも光を当てている。アメリカ人は本来、自分たちが享受してきた、豊かな食文化を改めて発見しつつあるのかもしれない。
ホワイトハウスの公式晩餐会でも、ひと頃のフレンチ一辺倒から、オレゴン産トリュフで風味をつけたリゾットや、フロリダのキーライムで香りをつけたカレー味のロブスターなど、アメリカ各地の名物とインターナショナルのフュージョンとも言うべき「新アメリカ料理」が並ぶようになった。1990年代以降、「オーセンティック」(本物の、正式な)という形容詞が、料理を表現する際に多用されている。ファーストフードや加工食品の便利さに慣れ、極端なまでに合理性を尊ぶアメリカ人の習性がそう簡単に変わることはないだろうが、この「オーセンティック」という言葉に、アメリカ食文化の明るい未来が見えるように思えてならない。

参考文献
  1. 1Danforth, Randi, et al. 1998. CULINARIA: THE UNITED STATES: A CULINARY DISCOVERY. Konemann
  2. 2『事典 現代のアメリカ』 小田隆裕他編 (大修館書店 2004年)
  3. 3『世界の食文化12 アメリカ』 本間千枝子、有賀夏紀(農文協 2004年)
  4. 4『アメリカの食卓』 本間千枝子 (文藝春秋 1982年)

加藤 裕子(かとうひろこ)
1970年東京に生まれる
1993年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業 同年(株)集英社入社
女性月刊誌「LEE」 編集部に在籍
1999年退職。生活文化ジャーナリストとしてフリーランス活動を開始。同年渡米
The Vegetarian Resource Group (メリーランド州) に籍をおき、アメリカのベジタリアン事情、食生活、 健康志向などをテーマに取材。帰国後は日米のメディアで活躍している。
著書に『寿司、ブリーズ!~アメリカ人寿司を喰う』 (2002年 集英社新書)、『「シャキッと炒める」を英語で言うと』 (2002年幻冬舎)、『食べるアメリカ人』 (2003年 大修館書店)などがある