研究機関誌「FOOD CULTURE No.10」国際的注目を集める「日本型食生活」の成立と展開 「日本型食生活の変遷」
国際的注目を集める「日本型食生活」の成立と展開 「日本型食生活の変遷」
第9号「異国食の受容と変容」のあらすじ
古代の日本では天皇もさかんに狩をし、肉ばかりか内臓まで食べていた。ところが、6世紀半ばに仏教が伝来すると、生きとし生けるものすべてに慈愛の心を持ち、殺生をつつしむべしという思想が広まった。天武天皇は期間をもうけて諸国に殺生・肉食の禁断を発令している。
仏教的殺生禁断、肉の穢れという観念が広まり、次第に肉食は少なくなっていった。フランシスコ・ザビエルと宣教師たちが来日しキリスト教の布教をはじめると、改宗する大名もいて肉食禁忌を積極的にやぶるものが続出した。そのキリシタン大名たちは宣教師がもたらした牛肉、豚肉、ワイン、バンなどを好んだ。
江戸時代には再び肉食がタブーとされたが、山村では貴重な食料として鳥獣肉が食べられていた。
そして明治5年、明治天皇が肉食の禁を解いて牛肉を食し、伝統的な肉食禁忌の慣習に一大転機をもたらした。しかし肉食反対運動が各地で起こったが、政府や各県は旧慣を打破して肉食の奨励に努めた。その効果もあって肉食文化が広がりをみせ、食生活における文明開化がはじまったのである。
「日本型食生活」の原型
世界保健機関(WHO)が発表した2003年版『世界保健報告」による世界の平均寿命は2002年(平成14年)に65.2才となり、50年前の46.5才から大きく伸びた。なかでも日本は81.9才(女85.3才、男78.4才)で依然として世界最長を誇り、さらに健康で何才まで暮らせるかを表す「健康寿命」も75才を保っている。
このような日本人の健康と長寿から、その要因の一つとして「日本型食生活」が国際的注目を集め、日本食ブームをまき起こしている。だが「日本型食生活」といっても、それは江戸時代に成立した伝統的な和食そのものではない。「伝統」とは昔から代々伝えられたものをいうが、英国では少なくとも50年以上以前から行われてきたものだけにTraditional(伝統的)の表示が認められている。
伝統食とは化学調味料、インスタント、冷凍ものなど工業製品ではない自然の食材を用いて、各地域や家庭で親の世代から伝えられた手作りの食事をいう。いま日本で「伝統食」とか「おふくろの味」とか呼んでいるのはだいたい大正末から昭和の戦前にかけての食事である。
その頃の日本食を柳田國男は「世界無類の多様な食」と呼んだ。それは伝統的な和食に文明開化以来、西洋や中国の料理がとり入れられた和洋華混合の食事である。これが現代の日本食の原型で、それが成立したのは日本が近代化を開始してからおよそ半世紀後である。
和洋華混合といっても当時の食事はやはり大きく米食に片寄ったものであった。米はたくさん食べればそれだけでも大部分の栄養はとれるし、味が淡白で洋食とも中華食ともよく合う特徴をもっている。それに和風化された西洋、中華の料理が副食として加わったのである。
この食形態は戦後の1950年代まで続けられた。それが大きく変化し始めたのは60年代からの高度経済成長期である。明治以来徐々に浸透してきた洋食化の波がこの頃から一挙にもり上ってきた。とくに肉や油の摂取量が劇的に増大した。そのため米中心の炭水化物、糖質に偏重していた日本の食事にたんぱく質と脂肪が増え、三大栄養素のバランスがきわめて理想的な食状況が実現した。これが世界的に健康食のモデルといわれる「日本型食生活」の実態である。これが成立したのは文明開化から約1世紀を経た1970年代であった。
戦後食生活の回復
戦争直後の1946年(昭和22年)、日本人の栄養状況は一人1日当り1400キロカロリーで、やっと、成人の安静時の所要量にすぎなかった。日本人は飢えていた。
そんな食生活が戦争、戦後の混乱期を脱して戦前の水準まで回復したのは1955年(昭和30年)の米大豊作の頃からである。国民経済も崩壊から立ち直り、翌1956年の『経済白書」は「もはや戦後ではない」と宣言した。
この頃国民一人1日当りの栄養摂取量は2100キロカロリーを超えて戦前水準を抜き、動物性たんぱく質も15gと戦前より倍増した。だがこの時代の日本の食は栄養量で欧米の3000キロカロリーにははるかにおよばず、畜産物もわずかで、基本的には米偏重の戦前型を継続していた。
1960年(昭和35年)の一人一日当り供給食料を国際的に比較してみると、穀類ではアメリカ183g、フランス273g、英国235g、西独234gに対して日本は2倍の410gであったが、肉類では米235g、仏190g、英187g、西独164gに対して日本はわずか18g、牛乳・乳製品では米776g、仏828g、英904g、西独762gに対し日本は61gとほとんど10分の1にも満たないレベルで、到底洋風の食事とは遠い状態であった。
またこの当時のささやかな洋風化の中味は脱脂粉乳からの還元乳や粗悪な肉類を原料としたプレスハム、魚肉ソーセージなどといった安価な家畜加工品であった。
一応飢餓状態からは脱し、多少洋風化の進展は見られたとはいえ、この頃までの日本の食は量質とも戦前とはあまり変らないものであった。それが急激に変り始めるのは次の経済成長時代である。
経済成長と生活革命
戦後の日本経済は1956年(昭和31年)の神武景気にはじまり、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気と、1960年代から1980年代にかけて、途中1970年代の円高、石油ショックを乗り越えて未曽有の高度成長を遂げた。その結果1980年代末には一人当りGNP(国内総生産)がついにアメリカを抜き、スイスに次いで世界第2位に躍進、対外純資産も世界一で、日本は世界の経済大国にのしあがった。
経済成長に伴って国民の所得も上昇、生活も豊かになった。NHKの世論調査によると「国民の生活水準を戦前と較べてどう思うか」という質問に対して、1956年には「戦前以下」と答えたものが56%と過半数を占めていたが、1960年には「戦前以上」が58%に達した。
この頃から庶民の生活も「生活革命」 「消費革命」「電化革命」などと称されるほど大きく変わり始めた。1950年代中頃には電気洗濯機や電気釜が登場、家事労働を大幅に軽減した。 1960年頃には普及率でわずかに5%にすぎなかった家庭用冷蔵庫も氷式から電気冷蔵庫になり、1965年には50%、1978年には99%にまで普及した。この他、換気扇、ミキサー、トースター、オーブン、電子レンジなど次々と家庭電化が進み、家中が電化製品で溢れるようになった。燃料も大きく変った。電気やガスは明治時代から入っていたが戦前も戦後もまだ薪炭が大きな役割を果していた。
その頃の様子を本間千枝子『父のいる食卓」は次のように描いている。
「ガス、炭、練炭、薪と多種類あり、料理の素材や種類によってそれらを使いわけた。米を炊くのはへっついで木屑や薪を使い、焼魚のためには七輪に炭火をおこし、煮豆には練炭火鉢を用い、一定の強い火力が必要な揚げもの蒸しものにはガスを活用した。お茶のためには火鉢の白い灰の中に深々と活けた炭火の上にいつも重たい鉄瓶がのっており、丁度よい熱さのまろやかな湯を与えてくれた。そしてこのような多種類な火の使いわけは、ついこの間まで家庭を守る日本の女の常識でもあった」と。
しかし1960年代に入るとプロパンガスが急速に普及し始め、1963年にはプロパンガスが都市ガスを上まわるようになった。とくに農村部を中心に薪炭からプロパンへの移行が進み山村の伝統的な薪炭生産も次第に姿を消していった。
また、都市化が進み、団地やマンションでは魚を焼くこともはばかれるようになり、昔のように庭先でイワシやサンマを焼く光景などすっかりなくなってしまった。
1963年には「流通革命の旗手」としてスーパーマーケットが出現、たちまち全国に進出して食品流通の形を大きく変化させた。それまで八百屋、魚屋、肉屋と小売店をまわって食材を買い整えていたものが、スーパーで一度にすませられるようになり、マイカー時代の到来もあって人々の買物スタイルも一変した。こうした、この時代の日常生活の変化はまさに「革命」と呼ぶにふさわしい激しさである。

食生活の洋風化
食生活も大きく変った。その第一は洋風化である。世界的に国民の所得水準が上るにつれて栄養、とくにたんぱく質の摂取量が増える傾向にあるが、日本でも経済成長とともにそうした現象がはっきりと現れた。
まず栄養消費カロリーが1960年代から大きく増加した。戦前から戦後にかけて、大体一人一日当り2300キロカロリーであったものが1965年頃からは2500キロカロリーのレベルを上下するようになった。だがその後は所得が増えても摂取カロリーはほとんど変らず、このレベルで安定している。所得水準では欧米を上まわるようになっても、栄養摂取量は欧米の3000キロカロリーまでにはいたっていない。2500キロカロリー程度が日本人の充分満腹する適正量とみられる。日本人はすでに飽食状態に達したといってよい。このような食の量的な増加よりも顕著なのはその質的な変化である。何よりも食の洋風化、欧米化が進んだ。明治以来徐々に浸透してきた洋風化の波がここにきて爆発的に盛り上った。
その動きを促進した要因の一つは食生活の近代化を挙げて展開されたさまざまな栄養改善運動である。例えば「油いため運動」、牛乳や動物性たんぱく質の奨励、パン食を増やすキャンペーンなどがさかんに行われた。とにかく欧米の食を基準として、それより摂取量の少ないものを欧米並みに増やそうとしたのである。その結果は図1のとおり、戦後の三大栄養素(炭水化物、たんぱく質、脂質)の動向にはっきりと現れている。
まずこれまで日本の食の炭水化物の主体であった米の消費が年々減少の一途を辿り、ほとんど半減状態にまで落ちこんでいる。かつて宮沢賢治は有名な「雨ニモマケズ」という詩のなかで「一日二玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と詠ったが、玄米4合は600gにあたる。戦前1939年(昭和14年)に公布された「米穀配給統制令」では一般成人への米の配給量は一人一日当り330gであった。それに対し今日の米消費量はわずか165gにすぎない。「一升めし」などといわれた時代はもはや遠く昔話になってしまった。
それにひきかえ動物性たんぱく質と脂質は激増している。1960年(昭和35年)から2000年(平成12年)までに肉類の消費は約4倍に増えた。魚食の民といわれてきた日本人も1980年代中頃には家庭での魚と肉の消費量が逆転するようになった。脂質の消費も急増している。もともと日本の食は世界的にも珍しいほど脂質の少ないものであった。「脂っぽい」ということは日本ではマイナスイメージで、少し油の濃い料理を食べると下痢を起す人も少なくなかった。大正頃の中華料理も日本人向けに油分をおさえて普及してきた。
戦後栄養改善で、もっと油をとろうという運動が行われたが、一般の家庭で油を使った料理をするためにはいくつもの条件が整わなければならなかった。まずフライパンや中華なべ類、それに化学洗剤や換気扇などの普及である。1960年代中期に換気扇が登場してから、家庭での炒めものが増え出したといわれている。
戦後の日本人はそれまであまり口にしなかった肉や脂をどんどん食べるようになった。日本人の食生活は急速に欧米型に接近してきている。明治以来「洋食」としてとり入れられてきた西洋食も、いまではすっかり日本食として定着している。
日本における料理学校の草分けであった赤堀峰吉は1919年(大正8年)に出版した『家庭実用西洋料理法」の序文で次のように述べている。
「近き将来に於いて、今日西洋料理と名付けられるものも、日本料理と交合して我国人の常食となり、恰も煉瓦建築を見て西洋館と呼ぶ者の減少せる如く、特に西洋料理と呼ぶ者の減少するに難からず。」
その予言どおり明治大正の人々が、西洋からの新奇な料理として恐るおそる試食していたものも、いまでは別に外国料理などとは思わなくなっている。明治末の新聞記事で、ライスカレーは一皿の中に西洋の文明と日本の文明が融合した文明の香りだと記されていたが、いまでは日本の国民食の一つである。
1987年(昭和62年)日本航空は、帰国便の機内食にビーフカレーを提供した。カレーライスにラッキョウ、福神漬、醤油ドレッシングのサラダ、野菜の煮物をつけている。帰国便で少しでも早く「日本」を味わってもらおうというのである。
海外に進出している多くの日本レストランでも、すき焼、天ぷらからカレーライス、トンカツ、カキフライ、焼鳥、ラーメンまですべて日本食として提供している。思えばすき焼は文明開化の牛鍋、天ぷらは長崎に伝えられた西洋料理の第一号、トンカツはポークカツレツ、ラーメンは「支那そば」と、みな外来食を日本化したものである。いま日本の食は外来食をさまざまな形でとり入れ、洋風化、欧米化にむけてますます変りつつある。

注)動物性脂質については昭和27年=100、鉄については昭和30年=100としている。平成12年『国民栄養の現状』(国民栄養調査結果)
食の外部化
戦後食生活のもう一つの大きな変化は食の外部化である。都市化の進展、女性の社会進出、労働条件の変化など生活の多様化に伴って食生活のあり方も変ってきた。これまでのように自宅で料理し、家族そろって食卓を囲むといった光景は次第に見られなくなってきた。新たな食は個別化と簡便化を押し進めている。そしてそんなニーズに応える形で外食産業や調理済食品が発展してきた。
1960年代中頃から1970年代にかけて各種の飲食店が急増した。1965年(昭和35年)に立食そばが出現、1967年には「まわる回転ずし」、1968年には「安い、速い、うまい」のキャッチフレーズで牛丼の吉野屋、1970年にはドライブイン・スカイラーク、ケンタッキー・フライドチキン、小僧ずし、ダンキン・ドーナツ、1971年にはマクドナルド・ハンバーガー、1974年にはピザレストラン・シェーキーズ、1976年には持ち帰り弁当ほっかほっか亭、1977年には24時間営業のデニーズが営業を始めている。
こうした飲食店の数は60年の23万店から1970年の43万店、1992年には47万店と増加、年間販売額も同年次で4100億円、2兆4000億円、13兆円と激増している。
英国の民間市場調査会社ユーロモニターが発表した1995年(平成7年)の世界各国の飲食店の動向調査によると、一人当り外食費は日本が世界一でアメリカの2倍、ヨーロッパの3倍から5倍となっている。
加工食品の伸長も著しい。1958年(昭和33年)の「日清チキンラーメン」の登場がインスタント時代の開幕を告げたという。1960年にはインスタントコーヒーが出現、1965年にはレトルト食品が売り出され、1968年レトルトカレー「ボンカレー」、1971年には食器であり調理器具でもある簡便なカップめんが現れた。
また冷凍食品や「中食」と呼ばれる調理食品、レトルト食品など多種多様な加工食品が次々と登場、その生産量は軒並み増加を続けている。冷凍食品では1960年の5000トンから1990年の100万トン、1999年の150万トンへ、調理食品も同じ年次で3000トン、80万トン、125万トンと増大、レトルト食品も1965年の1000トンから1990年15万トン、1999年25万トンと急増している。
1960年代中頃から急速に普及し始めた家庭用冷凍冷蔵庫や電子レンジなどの電化製品がこうした加工食品の利用を支え、促進してきた。
いまや一般家計の食料費の半分以上は外食と加工食品類の購入で占められている。今後も核家族化や単身世帯の増加によって、こうした食の外部化、簡便化への指向はますます強まっていくであろう。

「日本型食生活」の成立
戦後食生活が豊かになったのは日本だけではない。欧米諸国ではそれより早く、それ以上に豊かな食を謳歌していた。
各国とも所得水準の上昇とともに栄養摂取量が増大した。1960年頃一人一日当り3000キロカロリー程度だったものが1980年頃には3200キロカロリーを超えるようになった。栄養を増やすとともに、その比重を炭水化物から脂肪へとシフトさせてきた。その結果として栄養バランスの崩れを拡大し(図2)、人々の健康に深刻な影響をおよぼし始めた。
とくにアメリカでは栄養過多から多くの肥満者を生み、心臓病、糖尿病、脳卒中、高脂血症などいわゆる生活習慣病が多発し、医療費も急増してきたことから危機感をつのらせ食生活の根本的な見直しを開始した。
まず上院に特別委員会を設置、徹底的な調査研究を行って、1977年(昭和52年)『米国の食事目標」という報告書を発表した。報告書は委員長マクガバンの名をとって通称「マクガバン・リポート」と呼ばれている。
これはアメリカ人の食事改善の方向を示しているが、一口でいえば食べすぎを抑え、脂肪から炭水化物へ栄養の比重を移して栄養のバランスを適正化するというものである。似たような動きをみせはじめた日本でも食生活を見直す機運は高まってきた。
1979年(昭和54年)の厚生省『国民栄養調査報告」は次のように記している。
「昭和30年以降における経済の高度成長とともに、国民の食生活はいちじるしい改善をみることとなったが、いっぽう肥満、貧血、高血圧、心臓病などのいわゆる成人病が増加しはじめ、疾病と食生活との関係が指摘されるようになった。」
そして、これまで西欧先進国に追いつき追いこせと食の欧風化をすすめてきたが、植物性食品の減少、動物性食品の増加など欧米の短所まで洋風化がすすみすぎてきたと指摘している。
「日本型食生活」という言葉がはじめて使われたのは翌1980年の農水省農政審議会答申「1980年代の農政の基本方向」においてである。答申は当時の日本の食生活が欧米諸国より優れているとして「日本型食生活」を評価した。
その第一は、当時の2500キロカロリーという日本人の栄養摂取量は適正水準で、3200キロカロリーという欧米は栄養過剰だということである。
第二は、戦後食生活の洋風化がすすみ、従来過剰であった炭水化物の比率が低下、不足気味であった脂質が増加して、炭水化物、たんぱく質、脂質の比率が適正化し、栄養のバランスがちょうど良い状態にあるということ。
第三には、日本人のたんぱく質のとり方が、動物性たんぱく質に片寄った欧米に対して、魚や植物性たんぱく質によって理想的なバランスになっているということである。
明治以来、食の近代化としてひたすら欧米型をめざしてきた日本の食生活は、ここにきてはじめてその流れに歯止めをかけようとしている。「日本型食生活」という言葉はまさにその歴史的方向転換の象徴である。

日本食の海外進出
1970年代になると、トランジスターからカメラ、テレビ、オートバイ、自動車などさまざまな日本の工業製品が続々と海外に進出。日本の技術力、経済力や文化が世界の注目を浴びるようになった。同時に日本の食文化も優れた健康・長寿食として各国で受け入れられ始めた。
その先鞭をつけたのは醤油である。日本の醤油はすでに江戸時代からヨーロッパに輸出され、フランス宮廷のかくし味などとして用いられたことが、フランス18世紀の『百科全書」にも記載されている。その評価はきわめて高く、1875年(明治8年)にはドイツで日本醤油の偽物まで現われている。
しかしアメリカではほとんど知られていなかった。アメリカでは貧しい日本の移民たちが使う得体の知れない調味料として「バグ・ジュース」と呼ばれていたという。バグ(Bug)とは虫のこと、つまり虫のジュースである。そんなイメージが一大転換をとげたのは戦後のことである。
1950年代後半、キッコーマンがアメリカへの進出を計画、さかんな宣伝活動を行って醤油の普及に努めた。その結果アメリカ人の間でも醤油の美味さが認められ、その需要が急増しはじめた。1973年(昭和48年)にはウィスコンシン州にアメリカで最初の現地生産工場を建設、本格的な供給体制を確立した。今日ではアメリカの家庭の40%が醬油を常備するまでになったという。
海外工場はその後シンガポール、オランダ、カリフォルニアと次々に建設され、2000年(平成12年)にはキッコーマンの全生産量の三分の一は海外での生産で占められている。それが営業利益の半分にも達しているという。醤油は「ソイソース」としていま世界の100か国以上で販売され、どこへ行っても醤油のないところはないといってもよいほど普及してきた。日本人などはほとんどいない、南太平洋のタヒチ島の小さな村のスーパーにも「テリヤキ用」「トンカツ用」「ステーキ用」などと銘うったキッコーマンの小ビンがずらりと並んでいた。醤油はいまや世界の調味料になりつつある。
日本食店の進出も目覚しい。吉野屋の牛丼が「ビーフボール」としてアメリカのデンバーに出店したのは1975年、いまではカリフォルニア州だけで80店にも達している。坂本九の「上をむいて歩こう」が「スキヤキソング」として大流行したのはその頃であった。
フランス料理でも日本料理の影響を受けた新しいフランス料理「ヌーベル・キュイジーヌ」が料理界に革命をもたらした。これまでのようなオーバー・クッキングをやめて出来るだけ素材の味を生かし、盛りつけも美しく、量を少なめにして多くの品数をそろえるなど懐石料理の手法を手本にしたといわれる。
1980年(昭和55年)にはロスアンゼルスに回転ずしが出店してアメリカに寿司ブームをまき起した。1984年にはパリにヨーロッパ初の回転ずし「まつりずし」が開店、1988年にはアムステルダムに寿司の仕出し工場がつくられ一日一万食の寿司パックをスーパーに出荷し出した。1990年代に入るとロンドンにもスシ・ロボットが現われ、「ハロッズマダム」で有名な最高級デパート、ハロッズに「スシ・バー」が開店、「ハイテク日本の象徴」として上流人種が贔屓にしている。かつて日本食といえばスキヤキ、天ぷらが代表とされていたが、1980年代からは寿司、刺身の時代に入った。とかく生魚を嫌った欧米人が喜んでこの「ヘルシー・フード」を食べ、それが格好のよい一種のステータスにもなってきた。
いま世界を歩けば、こんなところにまでと思われる場所にも日本食店が進出している。
たとえば南太平洋のフィジー・サモア、トンガ、タヒチ、バヌアッなどにも回転ずしをはじめ日本食がある。ホーチミン市にもスシ・バーがあり、バリ島には「禅」「影武者」「さくら」「はな」、カトマンズにも「菊」「ふる里」「桃太郎」、ウランバートルに「石庭」、ウラジオストックに「七人の侍」など、中東でもクウェートに「慶」という寿司屋があり、ドバイには「京(みやこ)」がある。
さらにアフリカでもタンザニアには「東」、ナイロビには「赤坂」「御園」「将軍」といった日本料理店がある。
「将軍」という屋号はアメリカをはじめニューカレドニア、ストックホルム、オスローなどにも見られる。これは徳川家康に外交顧問として仕えたウィリアム・アダムス=三浦按針を主人公にしたアメリカの小説『将軍」が1980年に島田陽子も出演したテレビ映画として放映され、全米に「ショーグン・ブーム」を捲き起した影響である。
とくにアメリカでは日本食ブームが続き、日本食店はこの10年で2.5倍以上増加、いまでは8000店を超えている。ニューヨーク・タイムズの社員食堂には寿司はもちろん、紅しょうが付きの焼きそばや冷し中華まである。また手打ちそば屋も人気を呼び、タキシード姿のアメリカ人たちは冷酒の枡の端に塩をのせて飲むのは「クール」だともいう。
最近ではトウフ、ミソスープからトンカツ、ラーメン、スッポン、ふぐ料理と、日本食ならたいていのものが受け入れられるようになってきた。
昨2004年(平成16年)には「料理本のアカデミー賞」といわれるグルマン世界料理本大賞に、栗原はるみの「はるみのジャパニーズ・クッキング」という英語のレシピ本が選ばれた。これまで日本食は普及しても、それは外で食べるもの、外で買うものであった。だがこの本は、そうした日本食を家庭でも気軽に楽しめるようにしたとして高い評価を得たという。
日本食はいまや「ヘルシーな外食」から家庭料理の世界に入ろうとしている。


【右】タヒチ島の流水式回転寿司。模型のカヌーで寿司が運ばれてくる(筆者撮影)

食生活の見直し
戦後マッカーサーが連合軍総司令官として来日した時、開口一番にこういったという。
「私は米と野菜と魚と味噌の日本人の食生活を、パンとバターと牛乳とハムの生活に変えるために来た。」
だが戦後半世紀、いまでは欧米人が「米と魚」の食生活を評価し始めてきた。しかし、日本人は依然として「パンとバター」の道を歩み続けている。健康食を誇る「日本型食生活」は欧米型への傾斜を強めるにつれて生活習慣病の急増など、欧米との同様の悩みを深めつつある。
2003年(平成15年)、沖縄県民に大きな衝撃が走った。「二六ショック」という。沖縄県が日本一の長寿県から転落したのである。最新2000年度の「国勢調査」の結果が明らかになると、これまで長寿を誇ってきた沖縄県で男性の平均寿命が5年前の全国4位から26位に急落、肥満率でも男女ともに全国一となっていた。65才以上の男性の平均寿命は依然全国一だが60才未満では全国平均を下まわり、女性でも50才未満ではやはり短命化がすすんだ。とくに若年層では男女ともに、肥満、糖尿、心臓、脳血管などのいわゆる生活習慣病が急増している。戦後暫く米軍の統治下に置かれていた沖縄は、日本でもっとも早くアメリカ化がすすんだところである。コーラの消費量など全国トップで全国の平均の4~5倍にも達している。食生活が急激に洋風化し、伝統食離れが進んだことが、沖縄短命化の大きな要因の一つとされている。このような「沖縄ショック」は日本人の食生活のあり方に重大な警鐘を鳴らしているのではないだろうか。
- 1唯是康彦「日本の食糧経済」NHKブックス
- 2安達厳「日本型食生活の歴史」農文協
- 3「食べ物」東大出版会
- 4小菅桂子「近代日本食文化年表」雄山閣
- 5秋谷重雄・吉田忠「食生活変態のベクトル」農文協
- 6大塚滋「しょうゆ世界への旅』東洋経済新報社

1932年 東京に生まれる。
1956年 早稲田大学卒業。
1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員
1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。
主著『都市と農村の間ー都市近郊農業史論』(1983年 論創社)、『聞き書・東京の食事』(編著・1987年 農文協)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 農文協)、『農のあるまちづくり』(編著・1989年学陽書房)、『東京に農地があってなぜ悪い』(共著・1991年 学陽書房)、『近代日本都市近郊農業史』(1991年 論創社)





