研究機関誌「FOOD CULTURE No.11」江戸料理事情
「江戸料理事情」
| 司会 | キッコーマン国際食文化研究センターでは、一昨年から江戸しょうゆの復元を計画し、このほど、完成いたしました。その復元しょうゆを使って江戸時代の料理を再現していただいた柳原先生に、このフォーラムの場をお借りしまして、厚く御礼を申し上げます。それでは、先生に「江戸料理事情」 と題したお話しをいただきたいと思います。 |
| 柳原先生 | 皆さんこんにちは。私は、近茶流という流派を預かっております。近茶流は、もともと近茶料理といいまして、江戸としては、爛熟期の文化文政期(1804~1830年)に出来た流派です。他にも料理の流派がいくつかあります。四条流、生間流、大草流は室町時代ころにおこり、その伝書は儀式について書かれたものが多く、大臣大饗や式の膳饗の膳、お三方の盛り方、食べてはいけないものとか、何から手を付けて、などの約束が書かれています。当時の上級社会の饗応の様子がよくわかります。 |
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醤油の文字が現れた江戸の料理本
江戸の料理本の中で、私が一番興味を持つ料理書は、「料理物語」です。
1643年(寛永20年)江戸の初期に出来た本なんですね。それまでの本はどうだったのか。「料理物語」以前にも料理本はあるにはあるのですが、ほとんど、儀式の手順について書かれた本なのです。
料理本が献立として初めて出てくるのが「料理物語」です。調味料について出てくるのも、「料理物語」です。ただそれでも、寛永20年といいますとね、その中にもまだ、しょうゆはあまり出てこないです。探しましても、本当に、ぼつぼつとしか出てこないのですね。
普通、料理の本の中で、煮物や刺身のところを見ると、しょうゆがあるのですが、探しても全然ないのです。どこにあるのかなというと、「なます」の項にしょうゆという言葉がほんの少し、三つか四つ出てきます。それも江戸時代の初期の本というのは校正がしっかりしていませんのでね、漢字だったり、ひらがなで出てきたり。実は、その本の後ろにしょうゆの造り方があるんですよ。料理の調味料としては、しょうゆは少ししか出てこないのに、後ろに「正木醤油のつくり方」という本文が出てくるんですね。
キッコーマンさんがNHKと共にいろいろ研究されて江戸時代のしょうゆを、当時の別の文献の「萬金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)」を参考に復元されました。そこには、「諸味を仕込んだら60日間一所懸命かき混ぜる」と書いてある、とうかがいましたが、当時の別の料理本の中には、30日とも書いてあったと記憶していますね。
『萬金産業袋」は「萬金」にあたいする、これからの産業の発展につながる、当時の産業について詳細が書かれていて、実に興味深いものであります。その中にしょうゆの造り方が書いてあり、それをキッコーマンさんが資料として今回、「江戸しょうゆ」を復現され、そのお手伝いとして私は、その江戸しょうゆを使って江戸料理の復元を担当させていただきました。
江戸の初期の『料理物語」の中に、面白い料理がいっぱいあるんですけども、これを参考にするわけにはいかないんですね。何故なら、「料理物語」出版のころは、「萬金産業袋」が世に出ていないからです。「四季献立集」、「素人包丁」など、そういった本を、ちょうど「萬金産業袋」が世に出てから、50年位いから80年位い後の時代まで探しまして、その中からしょうゆを使った料理を参考にいたしました。
関東と関西で異なる魚類のおろし方
魚のおろし方には地方性があり、江戸おろしと、関西おろしがあります。江戸おろしというのは、自分から見て、魚の頭が右、尾が左、手前に背中、向こうを腹にして、右の頭のつけ根から左に捌くのが江戸おろしです。天ぷらのきすを思い出してください。また、穴子など背中側から向こうに開いてありますね。鰻も関東は背からおろしています。
これは、どこでいつ決まったかといいますと、江戸の初めに日本橋の河岸に出来た魚河岸です。その時は、大久保忠教の時代です。皆さんは、この人の名前を知らないというかも知れませんけども、映画にはよく出てくるんです。一心太助の映画に出てくる大久保彦左衛門のことです。実は、江戸初期に魚河岸が出来て、魚の向きを決めようと、いうことになったんですね。何故かというと、当時は氷がなかったし、ちょっと山手に魚を運ぶなんてことは無理。内臓の下側の身がいたみやすいので、 方向を一方にして上身を尊重したのです。魚があっちにもこっちにも向いていたら、両方駄目になっちゃうわけです。昔の輸送は全て人力で、時間もかかりました。輸送中になるぺく魚が傷まないように、考案されたのでしょうね。
向きの決まっている魚は、例えば鯛、鰹、それから鮪など。鮪は下身は上身より安いんですよ。どうして値段が違うのかというと、実は、押された身だからです。今も河岸の中で上身と下身は、ちゃんと区別しているのです。
それから鮎。鮎は頭が左ですね。鮎を箱に並べて売る時、必ず頭左で、腹が手前で並んでいるはずです。それから鯛など祝儀に使う魚も頭左で腹が手前です。鯛の姿焼きなどの時に、表身に手鈎などの傷をつけないようにするのは、日本橋河岸からの決まりごとです。鰻の背開きは先程お話しましたね。関東は武士の世界だから、切腹をきらって背中からおろす、と聞いたことあるかも知れませんが、これはまちがいです。私の好きな映画で、北大路欣也のお父さんの市川右太衛門演ずる早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)には額に向こう傷がありますね。あれは、つまり正面で闘って、眉間を切られたというのを意味してるんですよ。武士が背中を切られるというのは、実は、逃げるということで、当時、逃げて背中を切られるということは恥でした。とすると、背開きは成り立たないでしょう。
先程の大久保忠教の話にもどりますが、魚の表身を尊重し、魚の頭を右にして進行方向の左側を上にすると、かならず手前に背がきます。頭に近い背。つまり、肩の部分からはがしていく感覚です。上身尊重といっても、腹身から包丁すると肛門や尻からおろしはじめることになります。これが背開きの理由です。かならず背側からおろす、腹側からはおろさない。そういう決まりは、江戸時代に江戸の日本橋河岸から作られたのです。
一方、関西はというと、腹からおろしていきます。海が遠かった京都では、浜で腹のワタをぬき、塩をして運ばざるを得ませんでしたので、もうすでに開いてある状態からはじめることが多かったのです。ですから、今から30年位前までは、どこでその人が修行をしたのかがわかったんです。腹側からおろす料理人は関西仕込みですね。穴子や鰻ばかりでなくて、鯛など、背中からおろすのは江戸おろし。昔の向島や柳橋で修行した人達は、背側からおろす江戸おろしでした。今はもう、おろし方も統一性がなく、ばらばらで、親方はどなたと聞いても、不確かで修行の筋が通らなくなっています。
猪口の醤油につけて食べた江戸後期
刺身で食べる時はしょうゆにつけますよね。しょうゆをかけて食べる習慣というのは何時頃出て来たと思いますか。江戸の半ばには、その習慣がほとんどないのです。しょうゆは刺身に合うし、江戸にも下りしょうゆがあるんですけども、淡口に近いようなしょうゆなんですよね。色も味も、つけて食べてもあまりおいしくはなかったのでしょうか。
しょうゆにつけて食べる習慣は、文化文政に入ってから、1800年代の初め頃に出て来るんです。そのころに、江戸の料理を解釈した本がいろいろ出てくるのですけれども、「つけじょうゆをのぞきに入れて食べた。のぞきとはなんぞや。」と書いてあるのですね。「のぞき」というのは、そばちょこのような形。上からのぞかなければしょうゆが入っているかどうか、見えないんですね。ですから、「のぞき」という。そういう深い器に入れて、付けて食べていたのですね。
今の私達はしょうゆを、小さい猪口の中に入れてちょっと付けて食べますよね。ところが、江戸後期の頃でも、のぞきでしょうゆが出てくる。ただ、そのしょうゆも、一度煮かえしたしょうゆとも書いてあります。生のしょうゆ、そのままのしょうゆを使ってないのですね。そのころは、ほとんどがお酢または、「煎酒(いりざけ)」という調味料を付けて食べています。
又蓼酢(たです)、蓼を使ったお酢が好きですね。江戸の料理には、蓼酢がいっぱい出てきます。それから芥子酢(からしず)。江戸の人達は、鰹に芥子を付けて食べたというのを、聞いたことがありませんか。これが芥子酢なんです。それから生姜をすりおろした生姜酢、それと山葵酢。山葵しょうゆじゃないんですね。私だったら山葵しょうゆで食べたいなと思うのですけども、山葵酢、ほとんどが酢で食べていたようです。
平賀源内の砂糖と関東醤油の出会い
江戸に関西から入ったしょうゆを、「下りしょうゆ」といいます。江戸に入った「下りしょうゆ」がその後、なぜ、江戸末期には江戸周辺で造られて発達した「関東地廻りしょうゆ」に代わっていったのか。私どもは、それについて、先代から受け継がれてきた解釈(考え方)があります。
まず、上方の料理と江戸の料理を比べるにあたって、上方といっても王都の京を中心に考えます。まずは魚。京都では海産物のほとんどが一塩で入ってきました。一塩は昆布〆めにして食べることが多かったのです。例外的に鱧。あの鱧は、内臓を抜かれても生きているくらいの生命力です。活け鱧を一晩かけて桶の中に入れて運んでも、生きている。だから京の都の人は夏場に鱧を食べます。どれほど滋養になったことでしょう。
一方、江戸は江戸前の海を持っていて、魚貝類が豊富にとれ、新鮮なまますぐ食べることができました。魚を生で食べるとき、きりりとした江戸のしょうゆがよく合ったのです。
次に違うのは「水」です。京の都と比べて江戸は水が劣っていました。ですから、水売りが水を売りに歩いていたんです。また、良質の水を引いています。井戸ももちろん使いますが、御茶の水といって良水の多摩川から江戸の中心まで水を引いているんです。大変なことしていたんですね。
江戸の水質の悪さを補うかのように、しっかりと味をつけることによって、おいしいものを作れるようになりました。砂糖を料理に使いはじめたのが、大体その頃なんです。 平賀源内は1700年代の人ですが、平賀源内が砂糖の作り方を日本で工夫して、それから皆が使うまで、50年近くかかったといわれています。平賀源内の砂糖と、この関東の濃口しょうゆがうまくひき立て合ったんですね。水の悪さをしょうゆがカバーした。そして、しょうゆと砂糖の料理が発展してくるわけです。ですが、江戸の中期や後期にも近い1700年代の、「料理分類伊呂波包丁」もそうなんですけども、多くの本を作っている版元が関西なので、しょうゆが軽く見られた記載が多くあります。
濃口しょうゆを重く見てないんですよ。向こう(関西)のしょうゆだけで考えていますから、どうしても煮物を淡く作る。それは水がいいから塩味が立つ。よく関西料理は薄い味で、関東は濃い味だと思われがちですが、これは間違いです。関東のお吸い物はけっして濃くはありません。関西のお吸い物もけっして薄くありません。約0.9パーセント位の塩分を双方ともちゃんと入れてあります。ただ色は、東のほうが濃口を昔使いましたからね、淡口を関東ではあまり使っていなかったからです。
江戸時代のこの頃は淡口的なしょうゆですけれども、江戸の終わりになると、しっかりと濃口で、香りがあり、色的には透明感のある赤銅色になってくるのですね。
もうひとつの調味料、味醂の登場
そこに1700年代に、調味料がもうひとつ増えます。それは味醂です。味醂が出て来ることによって、料理にぐんと奥行きができます。「ゆあんやき」というのを皆さん聞いたことがありますか。ゆあん焼きは、いつのまにか柚子の庵、柚庵焼きに変ってしまったんですけども、もともとは、幽庵という茶人の名前です。堅田幽庵という茶人なんですね。その方がしょうゆと酒と味醂を配合したつけ汁(幽庵地)を作ったのです。焼いたものが幽庵焼き。しょうゆも味醂も酒もふんだんに使える今の人達は、当時の幽庵の値打ちがわからないらしく、柚庵焼きと変えてしまうんですよね。高級な柚子を入れなきゃということで、柚子を入れるようになってしまったらしいのです。
江戸時代に味醂が調味料に使えるとは考えていず、高級なお酒として、大事にされていました。その流れがお正月のお屠蘇です。お屠蘇には味醂を入れますね。ところが最近は、お酒で作る方に人気があるらしく、あまり味醂を入れないらしい。つまり焼酎に餅米を入れて本当に造った味醂が少なくなってしまったために、お屠蘇の中に入れても甘いばかりで味が出ない。そのためにだんだんとお酒のほうがさっぱりしているということになってきました。時代が動いてゆくにしたがって、いろいろと変わってゆきます。
その調味料として味醂をとり入れたのが、先程の幽庵なんです。酒と味醂にしょうゆが入ることによって魚の生臭さがぬけ、焼けたときの芳ばしい香りが立ち、味醂独特の照りも出ます。当時食べたら、画期的においしかったんでしょうね。それで幽庵の名前が広まり幽庵焼きという料理が残っています。
鰹節の発明が味覚をひろげた
蕎麦はつゆ。蕎麦のそばつゆ。蕎麦は、椎茸や昆布だけでも駄目だった。ここで鰹節が出てきます。鰹節自体は前からあるんですね、平安の昔から。その鰹節を今の鰹節と勘違いしてしまうのですが、違うものなのですね。茹でて軽く乾かした鰹節なのです。その茹で汁は「煎汁(いろり)」といって、一つの調味料として使われるのですが、堅乾(かたぼし)にかけ熟成させたのが、紀州の漁師の甚太郎という人だったようです。本枯れの堅乾になると、保存と輸送がきくようになります。
これが、関東の「地廻りしょうゆ」の誕生と時を同じくします。地廻りがそろそろ出てくる時かな、下りしょうゆと入れ替る時かなといった時代です。鰹節と昆布のだしにたっぷりのしょうゆと味醂少々を入れておいしい蕎麦つゆが出来たのです。では以前、蕎麦は何で食べていたのか、味噌だれで食べていたし、そのもっと前は、大根おろしで食べていた。今でも福井などでは、蕎麦を大根おろしで食べます。昔の食べ方を踏襲しているんですよ。これはこれでとてもおいしいのですが、鰹節と昆布でだしをとった蕎麦つゆが一般的になってきて、蕎麦が私たちの生活に身近になったのですね。よく信州蕎麦はおいしいというけれど、蕎麦はおいしいけど、つゆは、江戸の方がうまいということもある。鰹節としょうゆの使い方が決め手です。蕎麦は打って、すぐのして、切ると茹でられる。発酵を待たないですむ点も江戸っ子気質にあったのでしょう。しょうゆの香りのよさが、蕎麦好きを大いに作ったといえそうです。
ぶつ切りにして焼いて食べた鰻
今度は鰻です。鰻は蒲焼といいます。蒲焼って、字を見て下さい。ガマという字を書きます。ガマ焼きって書いてるんですよね。なぜだと思いますか。実は、蒲の穂なんです。平安時代から、京都では鰻を食べていました。当時は、鰻を裂くという技術をまだ持っていませんでしたので、鰻をぶつ切りにして、串に挿し、焼いて食べたのです。蒲の穂にそっくりですよ。ですからガマ焼きなんです。私達は開いた蒲焼きしか見ていないので、なかなか連想できませんけどね。
それから「宇治丸」。昔宇治では、鰻っていわないで、宇治丸といったそうです。由来が宇治にあるということで、私、実は宇治まで調べに行きましたが、結果は、「誰もわからない、宇治丸って聞いたことがない」って。不思議ですね。
誰も知らないけど、古い資料の中には宇治丸と出てきます。しょうゆは付けません。で、ほとんどが、山椒味噌。皆さん蒲焼きに、山椒をふりかけますよね。「山椒と鰻」って合うんですね。昔は蒲の穂のような形で串に挿し、焼いて山椒味噌に付けて食べていたのです。
時代が下ると、鰻は焼いてからたれをつけます。そのたれを作るためには、どうしてもしょうゆが必要。そのしょうゆも淡口では成り立たない。濃口のしょうゆなんですねえ。
そして、その「しょうゆ使い」が和食の味のつけ方の原点へ繋がります。
和食の原形が完成した屋台の出現
今の和食の原点とされる食べ物は、1700年代の終りから、1800年代の始めに完成されたようです。寿司、蕎麦、天麩羅。最初は全部、屋台から始まったんですね。屋台で作って屋台で売り、屋台で庶民に喜ばれて完成された。ということは江戸の人達、男性が多かったんですね。
江戸は大火が多く、復興のために年中家を建てなければならなかったのです。それで地方から、大勢職人さん達が来るわけですが、その人達は夕方、手軽にちょっとひとつまみ、ちょっと一串という感じで何か食べたい。屋台は、そういう職人さん向けに安い値段で、たとえば蕎麦は茹でたて、天ぷらは揚げたて、など作りたての勢いのある食べ物を提供したのです。それで、屋台物が大体、文化文政には全部出揃った、というわけなんですね。(当時の屋台の様子は、表紙の浮世絵「歌川広重作」をご覧ください。)
ご飯を私達は今、一日三度食べます。昔は二食(にじき)が多く、朝炊く地方、晚炊く地方とありました。昔の本を読んでみますと、ぶっかけ飯というのが、多く出てくるんです。汁を温めて、冷めたご飯にその温かい汁をかけることで、皆さんどのような「汁かけめし」をご存知ですか。深川飯は、ご飯の上に温かいあさりの汁をかける、ぶっかけて食べるわけですよね。汁かけやお茶漬け、どんぶりものはご飯とおかずを一緒にあたたかく食べられるのが便利だったのでしょう。ねぎま汁なども、喜ばれていますし。
江戸時代、参勤交代がありましたね。参勤交代は軍役なので、大名は保有兵力として配下の武士を大勢引き連れて江戸に出仕しました。ほとんどの武士は単身赴任です。食事の支度が満足にできない場合、先程のような屋台には、下級武士も、職人にまじって時々、頭を突っ込みます。
一定の期間の参勤を終え、藩公は自国の領地に引き揚げとなると、配下の武士もお供をして郷里に帰りますね。何か故郷に珍しい江戸の物産を持って帰ろうということになる。お土産ですね。皆さんもどこかへお出掛けしたら、お土産を買って帰りますよね。
そうして、江戸から地方へと習慣や風習と共に、文化や教養、食べ物や食べ方、器の扱い方などなど、あらゆることが、交じり合ってゆきました。江戸での「しょうゆの使い方」も、自然と地方にも広まっていったのです。
伊達巻の元祖は長崎カステーラー蒲鉾
参勤交代制度で、大勢の随員が、配下の武士のことですけど、江戸と地方を往来している内に、物や文化が、地方へと拡散しました。同時に地方からも、いろいろな物が江戸に入って来て、双方の情報が豊かに伝わるようになりました。江戸にないものを、江戸の料理人が地方へ取りに行っています。草鞋掛けで出掛け、九州からある物を持ってきます。何だと思いますか?実はですね、砂糖と、そして必ず皆さんがお正月に作るもの。金団(きんとん)と伊達巻の技術です。
当時の江戸には金団も、伊達巻も無かった。伊達巻は、江戸で出来た言葉です。九州では「カステーラー蒲鉾」といいます。魚のすり身に玉子が入っているからカステラ。それでふわっとしている。これらは、江戸で必ずヒットすると考えたんでしょうね。ですから、おせちの中にいれるようになったのは、江戸の終わりの頃です。
ちなみに、料理茶屋「八百善」は江戸は山谷にあり、文人墨客など、大勢のお客様で賑わっていたそうです。「八百善」は、お店の献立を「江戸流行料理通」という本にしました。江戸料理の喜ばれぶりが目に見えるようです。
江戸の終わりになって、食べ物も作り方もそれなりに充実してきます。私共は、その頃からの流派ですから、当時と重なります。まさに江戸料理ですね。そして、私共の流派は、おせちの技術を沢山持っています。で、私は、「伝承正月料理」という本を出させていただいております。
テレビの放送で黒豆の煮豆をお教えするのは、なかなか難しいんですよね。手順がこまかいし、時間がかかるので、それをテレビでは、大体15分位にまとめてしまわざるを得ない。煮豆などに取り組むのは本当に楽しいことなのに、本やテレビでは、伝えにくいのですよね。やはり、おばあさんやお母さんが作っているのをそばで見て、時々、豆をつまみながら教えてもらうのが一番なのですが。
このたび、復元された江戸しょうゆを使って、私が作りました江戸料理の数々を前頁(4~7頁)にご披露いたします。ご参照ください。
最後はお膳の献立にしましよう。本膳とニの膳を作りました。江戸の初期のころの本には、どう食べるか・・・とか、どれから食べるのか、箸はここでいいのか、・・・・とか、いろいろな作法が書いてあるんですね。この他に「膳の前」というのもあります。「膳の前」とは、一の膳、ニの膳、三の膳の向こうにあるものは食べるなという意味で、はっきり手を付けるなと書いてあります。なぜでしょうか? 実は、これはお土産なんです。膳には焼き物とか羊羹があります。ご年配の方の中には、お分かりの方がいらっしゃるかもしれませんが、昔、結婚式の帰りに鯛の焼き物と羊羹が入っている折り詰めが出ました。それを持って帰ると家の者が喜ぶんですね。それが「膳(ぜん)の前(ぜん)」なんですね。折りの中のどこに何を詰めるかも、全部決まっていたようです。
食卓に「味の音階」を招いた醤油の発達
この江戸時代に、コンピュータもなく温度管理の技術も経験からしか出来なかった時代なのに、これだけのしょうゆを、当時の人達が造っていたことに本当に感動しました。
熟成期間が短いために、塩なれがしていないということは、いたし方がないわけですが、塩や味噌、垂れ味噌などに調味をたよっていた時に、これだけのしょうゆができたことは、どれほど、食卓に「味の音階」が生まれたことかと推察します。私の作りました江戸料理も、とても美味しく出来上がりました。
豊かな関東の平野の大豆や小麦の供給と、利根川や江戸川などの水路を利用した出荷、大都市江戸の消費者の需要と何拍子もそろって、しょうゆが発達していったことを、実際に再現したしょうゆの味をみて、実感できたことでした。
その後のしょうゆ製造に携わった人々の努力と研究により、今や世界の味になっています。
鰯雲の頃の新しょうゆの初の滴り。しょうゆの香りの素晴らしさ、穀醤として、しょうゆは王者の風格です。

東京・赤坂で柳原料理教室を主宰。日本料理の指導にあたる一方、野菜を育て、魚を釣り、日本全国の食材を訪ねて回るなど食材への研究にも力を注いでいる。
現在、母校・東京農業大学客員教授、 儀礼文化学会常務理事、日本醤油技術センター理事。
著書:「和食」、「和食指南」(NHK出版)、「懐石近茶流」(主婦の友社)など多数がある。














