研究機関誌「FOOD CULTURE No.12」江戸人のお膳を覗く 日本の料理文化の基礎を築いた江戸をたどる(その一)
江戸人のお膳を覗く 日本の料理文化の基礎を築いた江戸をたどる(その一)
江戸食年譜
江戸時代、日本は地方分権から中央集権へと政治のあり方を変え、豊かな文明社会を出現させた。幕府は、茫漠としていた関東平野の一角に、大都市・江戸を一気に出現させるとともに、多くの人々の労苦と工夫・努力によって、新たな歴史段階へと移行した。
食生活の面でも、江戸時代を通じて、庶民層までもが、比較的自由に料理や食を楽しむ、という風潮が社会的に浸透した。その食生活の発展には目を見張るものがあり、まさに江戸時代の人の創意工夫の結晶だったといえる。ただ、こうした恩恵をこうむることができたのは、おもに大都市に暮らす豊かな人々であった。地方の農村や山村・漁村では、新鮮な素材に接し、それを調理して楽しんではいたが、高度な料理文化に浴するには、江戸後期まで待たねばならなかった。
ひとくちに江戸時代といっても260年以上も続いた社会で、その内実は一様ではない。江戸幕府の基礎が築かれたのは慶長年間(1596〜1615年)から寛永年間(1624〜1644年)のことだ。寛文〜延宝年間(1661〜1681年)頃には、地方の支配機構が完備され、元禄年間(1688〜1704年)頃に一定の繁栄を迎えた。この幕府支配が安定した時代を江戸前期とすれば、政治・経済が動揺を見せはじめ、いわゆる三大改革が始まる享保年間(1716〜1736年)以降を江戸後期とするのが妥当だろう。
文化史からみた江戸時代の食文化
江戸の食文化は、文化史的にみると、寛永・元禄・化政期にそれぞれピークを迎え、料理文化や食生活も、この時期に大きな高揚を見せた。とくに江戸前期には、安土桃山文化の流れを汲んだ寛永文化が、大名や貴族もしくは豪商を中心に展開したのに対し、元禄文化は台頭する新興の町人層に広く受け入れられた。
その推進役のひとりであった井原西鶴は、”分相応の食の楽しみ“をしきりに主張している。『万(よろず)の文反故(ふみほご)』には、得意客を豪勢な本膳料理でもてなす話があるが、主人公たちは成功をおさめた新興町人であった。また、松尾芭蕉にも飲食の句が多く、「苔汁の手ぎは見せけり浅黄椀(あさぎわん)」といった秀句がある。芭蕉は、伊勢安濃津(あのつ)藩藤堂家分家の台所用人であったことも深く関係し、自身が料理人であった可能性も考えられる。武家上層の料理文化に精通しており、料理の器に関しても、洗練された感覚をそこで養ったものと思われる。いずれにしても江戸前期には、階層的に高い人たちが食文化を楽しんだ。
江戸後期になると、政治的には混乱の度合いを増すが、経済的にはさらなる発展を見せ、前期とは比べものにならないほどに社会は裕福になっていった。同時に食生活自体も向上し、食文化も社会的な広がりを見せていく。ところが、享保をはじめとする三大改革においては、精神論的な質素倹約が重視され、消費を罪悪とする観念が根強かった。
それゆえ、改革の谷間には、料理本と料理屋に代表される新たな料理文化が花開いた。江戸前期の料理書は、料理人向けの専門書で、高度な料理の知識と技術が詰め込まれている。ところが後期になると、料理や素材の知識をひけらかし、食談義を楽しむような、まさに料理本と呼ぶにふさわしい身近なものが数多く登場してくる。
また市中には料理屋も乱立し、中庭を置き、離れや二階座敷を設けて独自の空間を演出する高級料理屋が出現する。もちろん町中には、料理茶屋のほか屋台や小屋掛けの食事処があふれ、代金さえ払えば、誰でも自由に飲み食いができた。
初鰹に大金を投じて楽しむ風潮も生まれ、食が庶民に遊びとして楽しまれる時代となった。それは、消費を美徳とする社会風潮のなかで、料理や食生活を楽しむことが一般化したためである。その背景には、旧来の年貢からの収奪ではなく、商業や流通を積極的に推し進め、そこに新たな財源を求めようとした田沼意次(おきつぐ)の政策があった。
その後、田沼意次・意知(おきとも)父子が追放され、さらに松平定信の寛政の改革が失敗に終わると、再び料理文化は活況を取り戻した。消費が歓迎され、庶民的な文化を謳歌する時代となり、料理文化も爛熟期を迎える。いわゆる11代将軍家斉の大御所時代のことで、化政文化の繁栄をみた。この時期に日本料理は、ありとあらゆる素材や調理法、盛り付け法などが最高潮に達した感がある。
ところが、三大改革の最後にあたる水野忠邦の天保の改革が起こると、またまた料理文化は沈黙することになる。そもそも料理文化は、政治の季節の谷間に咲いた徒花(あだばな)であった。もっとも豊かな文化が、政治改革の名のもとに、活動を抑制されたのである。こうして全盛をきわめた化政期の料理文化は、しだいに影をひそめ、幕末の動乱の中でふたたび復活することはなかった。ただ、江戸時代を通して著しい発展を遂げた料理文化と、食生活の全般的な向上は、歴史的に高く評価されるべきだろう。
江戸の町と人びと
江戸は、徳川家康が江戸城を拡張して江戸城周辺に家臣団のための武家地を造成し、周辺の村々の農民を強制的に移住させた人工都市である。さらに湿地の埋め立て、舟入堀の開削を行った低地部に市街地を築き、商人や職人を外部から移住させていた。
とくに1657年の明暦の大火以後、市街地は拡大を続け、各地からの流入者が増加した。江戸後期はじめ頃には、膨大な人口を抱える巨大都市となった。その人口は、寛保3年(1743)の江戸人別改によれば、町人が男約31万人、女約21.5万人で、さらに武家地には、ほぼ同数の武士が居住していた。このことから、江戸の人口は100万人を超えていたと推定されている。
さらに、18世紀に世界最大級の人口を抱えながらも、その男女の比率がかなりアンバランスで、女性の1.5倍にも上る男性が江戸で生活していた。これでは、数字的には人口の3分の1が、配偶者を持ち得なかったことになる。その理由は、江戸への流入人口のほとんどが男子の単身者で、就業可能な男性が圧倒的に多かったことにある。
町人の世界では、若い独身男子が住み込みの奉公人として、あちこちの商家の大店(おおだな)で働いていた。武家地においても、参勤交代などで江戸詰めの任にあたる武士や奉公人が多く、妻子を国に残してくる場合も少なくなかった。これらの就業者のほか、農村から流入する日雇い層も膨大な数に上った。さまざまな小商いや日雇い労働、職人といったその日暮らしの人々が、江戸の人口のかなりの部分を占めていたと考えられる。
この膨大な人口を維持するためには、当然のことながら、毎日の食事が提供されなければならない。恒常的な就業者は、職場などでの賄いがあったとしても、外での飲食の機会も多かっただろう。ましてや日雇いの独身者は、日常的に外食の占める割合が高かったものと思われる。
もともと城下町として成立した江戸は、武家地と町人地とからなっていた。まったくの消費階級であった将軍をはじめとする武士たちは、自分たちの必要な食べ物を日常的に供給する、巨大なシステムを持たなければならなかった。そのため、彼らの日常生活の維持や技術・物資の独占を目的として、商人や職人が集住させられた。
それにもまして、人口の急激な膨張に伴って食料を供給するシステムも巨大化し複雑化したため、飲食関係の仕事に携わる人々はかなりの数に達した。江戸後期に入るとこうした社会的な前提条件が整ったため、江戸の食べ物屋は、かつて例がないような繁栄を見せたのである。
江戸暮らしの食生活
長屋住まいの町人・職人たち
江戸の朝は明け六つの鐘とともに始まる。明け六つとは、現在の時刻でいうと季節によって異なるが、夏場は午前4時ごろ、冬場は午前6時過ぎになる。ふつう、明け六つの鐘が鳴らされるのは、夜明けの約30分前というから江戸の朝はまだ暗いうちから始まる。
日本橋石町(こくちょう)をはじめとする十数か所の時鐘楼でこの鐘が鳴りはじめると、江戸の人々の大部分はその日の活動を開始する。前夜閉ざされた江戸城の周囲の見附門、町ごとの木戸が開けられるのもこの時刻だ。
町に目を向けると、夜明け前に起き出した豆腐屋は店を開き、町内にも売り声を上げはじめる。長屋住まいの町人・職人たちは、総楊枝(ふさようじ)に房州砂に香料などを加えた歯磨き粉をつけて歯を磨き、朝の身支度を整える。その傍らでおかみさんたちが、竈(かまど)に向って火をおこし朝食の準備をはじめ、竈の煙が長屋の路地から空に立ち昇る。通りには、納豆売りや浅蜊売り、青物売りの売り声も響きはじめ、江戸の朝は最高潮を迎える。
朝食の膳には、飯と汁、漬物のほかには、めざしか切り干し大根の煮物・昆布と油揚げ・きんぴらごぼう・煮豆など、今日でもなじみのあるおかずが1品か2品つく。なかでも、「八はいどうふ」という豆腐のすまし汁が好まれたようだ。おかずも、自前で料理したものもあれば、惣菜屋から買い求めたものもあっただろう。長屋住まい同士の親しさで、おかずの交換もあったと思われる。
このような長屋には、約50万〜60万人といわれる江戸の町人のうち、およそ7割が暮らしていたと思われる。それだけ多くの人が暮らしていたとなると、おのずから長屋にも階層があったようだ。例えば、通りに面した2階建てでちょっとした商売ができるところから、実質6畳1間までさまざまである。
彼らの昼食は、職人であればうどん・蕎麦・寿司・天ぷら・鰻の屋台ですませ、女房や子どもたちは朝ご飯の残りの冷や飯をあり合わせのおかずで食べていた。なかには、寺子屋から駆け足で戻って急いで昼食をとる子どももいる。庶民の食生活は、きわめてつつましいものである。夜の食事にしても残り物の冷や飯を茶漬けにし、漬物であっさりすませるのが普通だった。
表通りの大店と路地へ売り歩く振売り
表通りに面して軒を連ねる大店の朝は、台所の奉公人が忙しく働いている。
江戸の表通りにはあらゆる業種の店が軒を並べていたが、大店と呼ばれる規模の店は、絹織物を商う呉服商に限られていた。そこで働く奉公人は、例えば麹町の岩城升屋には約500人、駿河町の三井越後屋本店では約320人、尾張町の島田恵比須屋で約280人、芝口の松坂屋でも約200人を抱えていた。
こうした大店のほとんどが関西に仕入れ中心の本店があり、奉公人はその近辺から江戸にやってくる。ただし、この奉公人は店で販売に従事する「店表」の奉公人である。彼らは10代で江戸に下り、小僧・丁稚(でっち)から手代、番頭を目指して働く。これに対して「台所」の奉公人は、店表の奉公人のために炊事などの下働きをする男性であり、店全体の1割程度の人数で台所を賄っていた。
奉公人のほとんどは単身者であり、店の台所で食事をする。男性ばかりの食事は、効率重視の無味乾燥としたものだっただろう。そこで当然、息抜きが必要になり、祭りなどの年中行事の日には酒も供される。通(とおり)1丁目の白木屋に残された歳時記には、正月11日の蔵開きには夕食に料理の膳が店じゅうに出され、店が所有する長屋などの管理人である家守(やもり)衆も集って親睦を深めたことが記されている。この種の催しは、3月、6月、9月、11月にもあったようだ。
一方、江戸の商売の中でもっとも素朴な形態をとっているのが「振売(ふりう)り」である。あらゆる生活必需品を持って江戸の町をくまなく売り歩いた。江戸の商人や職人には、それぞれに経験を積んで熟練した技術を身につけていた者が多かったが、もっとも安易に商売できるのが振売りだった。
万治2年(1659)正月19日の江戸町触れ(『江戸町触集成』)では、振売りの鑑札を50歳以上と15歳以下の者および身体障害者に与える、としている。また、鑑札を必要とする品目と不要な品目にも言及しているが、食品関係はほとんど鑑札は不要であった。その品目は、魚・煙草・時々のなり物菓子(果物)・塩・飴おこし・味噌・酢・醤油・豆腐・こんにゃく・心太(ところてん)・餅など。鰹節・串海鼠(くしなまこ)・塩引鮭も鑑札が必要なく、当時は食品を商うことに関して規制が緩かったことがうかがえる。
幕末の風俗を描いた喜多川守貞の『守貞漫稿(もりさだまんこう)』に登場する振売りには、食品関係だけでも約50種類もある。その代表的なものに、油揚げ・鮮魚・白魚・菜蔬(さいそ:青物)・豆腐・醤油・塩・嘗(な)め物などの食材や調味料がある。そのほか、子ども相手に商売するしん粉細工・飴細工・飴・季節ものの初松魚(かつお)・枝豆・心太・松茸・初茸なども売り歩いた。
このような振売りを商売にしていた人々の中から、町中を流し歩くことをやめ、一か所で加熱調理した飲食を商売にした煮売りや屋台を営む人も出てくる。『守貞漫稿』の中にも、鰻蒲焼・蝗(いなご)蒲焼・蒸芋(むしいも)・蕎麦・汁粉などの煮売り・焼売りと呼ばれる人々が登場している。
文政年間に出された『柳庵雑筆(りゅうあんざっぴつ)』の中には、次のようなある振売りの八百屋の一日が紹介されている。
朝早く家を出て、江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。今日の仕入れは銭600文か700文といったところで、売り上げはその倍近い1貫300文くらいだろう。荷は軽くなったが、疲れは残る。家に帰り着き、売れ残りの野菜を台所に置いた。これは明日の飯のおかずになる。
さて、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。200文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また50文が渡される。
女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に12文が消えた。彼の手元に残ったのは300文ばかりの銭だ。それを手に「さてと1杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と、けっこう悩ましい様子が描かれている。
振売りの食生活は商人や職人と変わらない。昼食は、売り歩く途中で屋台や食べ物屋ですませていた。宝暦から天明期・化政期には、定食屋も出現していた。喜多村香城(きたむらかじょう)の『五月雨草紙』には、「百膳」という店が、大竹輪・椎茸・青野菜の煮染しめ、摘入(つみ)れ汁と飯、香の物で1食100文ほどの定食を出すと記している。幕末には、「三分亭」というチェーン店が1食銀3分(約50文)で刺身、焼魚、煮魚などの定食を出して繁盛したことが、四壁庵茂蔦(しへきあんしげつた)の『わすれのこり』などの随筆の中に見られる。
大身から下級武士まで武家の暮らしぶり
武家の台所は、大身であれば抱える身内も多く、庶民の台所とはおのずと規模が違う。大名クラスであれば、主君・饗応・家臣の賄い用と、台所も複数用意されていた。
しかし、武家とはいってもさまざまなランクがある。下級武士の場合は、一家の食事を賄えればよく、屋敷の規模に制約もある。幕末、武蔵国・忍(おし)藩の下級武士である尾崎準之助貞幹(さだみき)が記した『石城日記』には、本来百石取りの尾崎が、わずか10人扶持に減らされた時期の文久元年(1861)6月から翌年4月までの食生活を含む日常が書かれている。
その日常の食事はというと、汁と漬物類、茶漬けなどですますことが多く、いたって質素なものだ。せいぜい好物だったと思われる豆腐、野菜の煮物がつくくらいで、卵か下魚の類が食膳に供されれば、その日の食事は上ランクだったと考えられる。正月でも、雑煮が主で、目を引く料理が並んでいるわけでもない。
他家での馳走や料理屋の酒宴では、魚介類や鶏肉類が並んだが、文久2年(1862)正月28日の日記には、「起き出し、飯をかしき、(略)豆腐のわつかありしを煮て朝食し、土屋にもちをやき出す」などとある。日常の食事は豊かなものとは言い難い。これは尾崎に限らず、同様の境遇にあった下級武士一般に共通すると思われる。
一方、江戸城へ出仕する大身はといえば、その宿直の弁当をみても食生活に大きな差があることがわかる。元禄時代、尾張徳川家に仕えた朝日文左衛門は、『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』という日記の中で、世情の見聞やうわさ話、酒食に関する記述を残している。それによると、文左衛門が御本丸御番だったとき、宿直(とのい)の際に同輩と交代で弁当を用意していったことが書かれている。その弁当には、切干し・あらめ・梅干・豆腐・こんにゃく・山芋・牛蒡の煮物・蜆の和え物・鯔(ぼら)の浜焼き・香の物が詰められていた。また、干し大根の味噌汁と酒も用意して出仕したという。酒を飲むことも許され、ときには羽目をはずす者もいるほど、泰平の世の武士の勤めはいたってのんびりしていたようである。
貞享4年(1687)五月の町触れ(『御触書寛保集成』)には、「大手・桜田、両下馬ニて煮売仕間敷(つかまつるまじく)候」とある。江戸城大手門や桜田門の下馬所では、登城して仕事中の主人を待つ供の者がたむろしており、彼らを目当てに煮売り屋が立ち並んだことを伝えている。
さらに、文政から天保(1818〜1844年)の頃を思い起こして記した堀秀成の『下馬のおとなひ』には、「ござを着たる翁、白き袋かけたる老女など、この所のありさまに、たまげはてゝ立つめり。立売の商人は、こんにやくのでんがく、あまざけ、すみざけ(清酒)、すし、作菓子など、皆下部の買ふものなり」とある。武家の供の者たちで賑わう江戸城下馬所に、煮売り・立売りなどの食べ物商売が店を広げ、飲食物を商売していた様子がうかがえる。
江戸城表向・大奥の日常の食事情
江戸城内の日常の食事はといえば、基本的に御広敷(おひろしき)御膳所で調理され大奥へ運ばれた。これは毒見役と相伴(しょうばん)役が務め、『徳川制度史料』によれば、すべて同一品を取り分けてまず毒見役が食すると伝えられている。その後、3人前の膳が将軍の御膳所に運ばれる。3人前の膳は、将軍のほかに相伴役の小姓2人が食べるためで、小姓は座敷の隅で先に箸をつけて食べ、そのうえで将軍が食べるというしきたりになっていた。このとき小姓は、将軍がゆっくりであればゆっくりと、1膳であれば1膳と、その速度と量に合わせなければならなかったようだ。
このような食事は、将軍が中奥の表向御膳所でとるものであり、大奥の奥御膳所では異なる。
『旧事諮問録』や『千代田城大奥』によれば、食事は10人前用意され、毒見役と御台様の膳を除いて、6人前が御目見得(おめみえ)女中のうち当番のものに下されたという。その食事の内容を、『千代田城大奥』に記された春の朝食の一例でみると、2つの懸盤(かけばん:儀式用の膳)からなっている。一の膳は飯と落とし卵の味噌汁・花の香を入れたサワサワ豆腐の平・蒲鉾・胡桃くるみの寄せ物・錦糸卵・昆布・鯛の切り身を寒天で寄せた置合(おきあわせ:口取り)。二の膳は、魴(ほうぼう)の焼物と干海苔で巻いた卵焼きに煎り豆腐の壷・瓜の粕漬け・大根の味噌漬けの香の物である。
『旧事諮問録』には、米は干飯(ほしいい)のように淡白な蒸し飯が出され、だいたい決まった献立で、将軍から特別な注文もなかったことが記されている。しかも、出された料理をすべて食べることはなく、例えば煮物9盛のうち、手がつけられるのは2盛ぐらいで、魚も1箸か2箸ほどしか口にしなかったようだ。残った料理は、中臈や年寄に振舞われた。ちなみに、酒は代々の将軍の好みによって異なった。食事と同様に小姓が相伴するとはいえ、基本的には独り酒で興に乗るということはあまりなかったという。
将軍の食事は、思いのほか質素であるが、このような食事は15代将軍慶喜のものである。11代将軍家斉の場合は、文政年間(1818〜1830年)における将軍の献立記録『調理叢書』の中で、豪華な食事をしていたことを伝えている。例えば、正月3か日は二汁七菜の料理が並び、普段でも、朝と昼は一汁四菜、夕食は汁なしで五菜の献立になっている。その中で魚介類をみると、鯛が圧倒的に多く使われ、記帳された29日間のうち22日にわたって出されている。月に何日か決められた精進の日を除くと、ほぼ毎日食膳に鯛が供されていたことになる。
家斉が豪華な食事をしていた頃、文政9年(1826)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に加わり、そのときに見聞したことを『江戸参府紀行』に書いている。その中で、江戸の物価が地方の城下町より5倍も高いこと、食生活の面で貧富の差が著しいことについて触れている。
例えば、大名たちの食膳に出す飯は、1升の米のうちから大きくて上質なもののみを選んで炊き、釜の中から真ん中だけを食べる。同様に、魚類や野菜類および酒類は大名屋敷では無駄に使われているが、最下層民たちは冬の寒空にあわれな露命をつないでいる、という具合だ。
上質な米の選定に関していえば、当然、将軍の場合も同じであった。『千代田城大奥』によれば、美濃米を御舂屋(おつきや)で精米したうえで毎日四、五人が黒漆の盆に並べ、大きく良いものを1粒ずつ選んで御膳所に送ったという。慶喜の食事は、家斉ほど豪華ではなかったが、背後では手の込んだ配慮が施されていたのである。
- 1『江戸の料理史』(中公新書)
- 2『江戸の食生活』(岩波書店)
- 3『和食と日本文化』(小学館)
- 4『江戸の料理と食生活』(小学館)
※いずれも原田信男編・著

1949年生まれ。明治大学文学部卒業後、同大学大学院文学研究科博士課程退学。博士(史学・明治大学)。札幌大学女子短期大学部文化学科専任講師を経て、現在、国士舘大学21世紀アジア学部教授、放送大学客員教授。
『江戸の料理史』(中公新書、1989年)でサントリー学芸賞受賞。『歴史の中の米と肉』(平凡社選書、1993年)で小泉八雲賞受賞。その他、『木の実とハンバーガー』(NHK出版、1994年)、『中世村落の景観と生活』(思文閣史学叢書、1999年)、『いくつもの日本』全7巻(共編著・岩波書店、2002-03年)、『食と大地』(編著・ドメス出版、2003年)、『江戸の食生活』(岩波書店、2003年)などがある。











