研究機関誌「FOOD CULTURE No.12」世界の食文化雑学講座 第9話
日本全国の味が楽しめる旅の友・駅弁
旅の楽しみの一つに駅弁がある。駅弁も、今では夕食のテーブルにのるほど日常的なものになっている。さらには、空港で売られる空弁まで登場し、JRと私鉄も含めた駅弁・空弁の種類は数え切れないほどバラエティーに富んでいる。
駅弁のルーツは握り飯2つ
デパートの特設売場で通称「駅弁大会」が開催されると、多くの買い物客で賑わう。スーパーマーケットや駅ビルの食品売場などでは、人気駅弁を常時置いているところもあるほど、日本人は駅弁好きである。ちなみに、デパートの駅弁大会を最初に開いたのは、昭和34年3月、東京・上野松坂屋で催された「有名駅弁とおみやげの会」だった。これが盛況だったからか、翌年には大阪の高島屋で「全国観光とうまいもの大会」が開かれた。やはり、どちらも観光と抱き合わせたイベントだったようだ。
駅弁のはじまりは、明治18年7月16日の宇都宮駅だった。上野―宇都宮間の新線(現在の宇都宮線)開通を記念し、日本鉄道株式会社が旅客サービスを目的に宇都宮市の旅館白木屋に弁当を売ってはどうかと勧めて売り出したのが最初だ。その駅弁は、ゴマをふりかけた梅干し入りの握り飯が2個にたくあんを添え、竹の皮で包んでいた。
ところで、駅弁は駅で売る弁当だから駅弁、と単純に定義づけられるものではない。JRの前身の国鉄時代、国鉄の許可を受けて駅構内で飲食業を営む事業者が売る弁当が駅弁とみなされていた。その事業者の組織である社団法人国鉄構内営業中央会は、民営化後も日本鉄道構内営業中央会と改称して存続しているが、加盟業者が販売する駅弁のパッケージや掛紙には「駅弁マーク」(昭和63年制定)を付けて、未加盟業者のものと区別している。
そもそも駅弁は「汽車弁」と呼ばれていた。明確な答えはないが、昭和四年に出された「日本国有鉄道建設規程」に停車場は操作場、信号所、加えて旅客・貨物を扱う「駅」からなるとされ、ここではじめて公式に「駅」という文字が登場する。この頃から駅弁となって普及したのかもしれない。
駅弁は、日本以外に台湾、韓国の一部でも売られているが、それほどポピュラーではない。ヨーロッパやアメリカでは、食堂車が一般的であることから、汽車の中で弁当を食べるという習慣はないようだ。

江戸の文化も香る弁当の由来
握り飯2個とたくあんだった駅弁は、今や各地の海の幸・山の幸が贅沢に盛られて華やかになり、予約をしなければ買えないものまである。また、冷たい弁当を温めて食べられるものや、ワインや地酒が付いてくるものもあり、いろいろなアイデア駅弁が旅を盛り上げてくれる。
その中でも「幕の内弁当」はどこの駅でも根強い人気がある。ご飯は俵型の握り飯を並べて詰めてゴマを散らし、おかずは汁気のない焼魚・玉子焼き・蒲鉾(弁当の三種の神器)と、揚げ物・煮物・漬物が基本となっている。ただし、現在では実際に俵型の握り飯を詰めているわけではなく、型押しをして俵型に見せているものがほとんどである。
この幕の内弁当の起源は芝居見物にある。芝居と芝居の間に幕が下がる時間、芝居の幕間・幕の内に金持ちの客たちは芝居茶屋で食事をしていた。一方、茶屋を利用しない客のために茶屋で出していたようなものを携帯できる笹折に詰め、弁当という形で販売したのが「幕の内弁当」のはじまりだ。この名称は、江戸時代の会席料理の店「万久(まんきゅう)」が生みの親だと言われている。
同じように、芝居から生まれた弁当に「助六弁当」がある。歌舞伎に「助六由縁(すけろくゆかりの)江戸桜」という演目がある。主人公の名前が花川戸の助六、その助六の恋人が吉原の遊女の揚巻という。その揚巻の名前を「揚げ」と「巻き」に分け、油揚げで包むいなりずしとのり巻きの組み合わせを「助六」と呼び、歌舞伎に持参する弁当にしたのが「助六弁当」となったという。
- 1『たべもの雑学事典』(毎日新聞社編)
- 2『駅弁資料館』





