研究機関誌「FOOD CULTURE No.12」世界の寿司のれん繁盛記
~魅力満載な海外寿司事情~北米・中米・南米編
古い時代のすしを探して歩くのもいいが、世界各地にすしを広める人たちの活躍ぶりと、各地でどのように普及、発展しているのかを見るのも楽しいものだ。今や世界中で進行しつつある「すしのグローバル化」事情を報告する。
はじめに
1975年4月、私はニューヨークのマンハッタンにすし専門店「ニューヨーク竹寿司」を開いた。当時、ニューヨークには日本食レストランが約150軒あったが、店内の一角に小さなすしカウンターが設置されているくらいで、メインはすき焼きや天ぷらを出す店がほとんどですしの専門店は1軒もなかった。
「生魚を食べるのは料理を知らない野蛮人のやること」と、当時のほとんどのアメリカ人は考えていた。そんな国にすし専門店を開くのはいささか無謀であったかもしれない。事実、開店後3か月は知り合いの日本人が来てくれるだけで、店には閑古鳥が鳴いていた。ところが、ニューヨーカーの愛読書ともいえる『ニューヨーク・マガジン』誌に紹介されたとたん、事情は一変した。それまでは一人として来店しなかったアメリカ人客がどっと押し寄せてきたのだ。
ちょうどその頃は、アメリカ人が健康問題に悩み始めたときだった。しかし、私にとってまさに「神風」であった。
「すし」文化がどんどん進化するアメリカ
ラテンとアジアの融合
現在、ニューヨークではテイクアウトのすしが人気を集め、アメリカ人経営のスーパーやグルメストアにもすし売り場が設けられるようになった。回転ずしもでき、アメリカ人が作るアメリカ人のためのすし店まで現れている。
特に、かつては倉庫街だったトライベカ(TRIBECA=TRIangle Below CAnal street)は、今や有名レストランが軒を並べるニューヨーカーの人気スポットだ。その地名は、キャナル通りの下の三角地帯という地名の頭文字をつなげたものだが、かつてのワールドトレードセンターがあったファイナンシャル地域がすぐ南に隣接している。
ここに「ノブ」がオープンしたのは1994年である。ロサンゼルスはビバリーヒルズの有名店「松久」が満を持しての東海岸進出だった。この店の料理は、すしをはじめとする日本料理だが、「トランス・パシフィック料理」ともいわれている。太平洋をまたいでアジアと南米のフュージョン料理が多いからだ。例えば「南米風セビチェ」は、ロブスター・白身魚・タコ・イカ・ハマグリなど、すしネタを豊富に使っている。「ニュースタイル・サシミ」は、ハタの薄造りにオリーブオイル・ポン酢しょうゆをかけ、ワサビの代わりにチリぺーストを使う。
「松久」で食べた料理で忘れられない一品がある。甲羅ごと食べられるソフトシェルクラブを天ぷら風に揚げて巻きずしにした「ソフトシェル・ロール」だ。このカニの足がクモに似ていることから、今では「スパイダー・ロール」という名で全米に広がっている。これらの料理は、オーナーシェフの松久信幸氏の南米体験から生まれている。
パーク・アベニューにも、同じような南米料理とのフュージョン料理を出す「スシ・サンバ」がある。「刺し身セビチェ」という料理で評判が高い。ヒラメ・ハマチ・マグロ・サーモンの四種類の魚を、それぞれライムジュース、ユズ入りしょうゆなど異なったソースでマリネし、別々に盛った小皿をさらに大皿に一緒に盛りつけている。
にぎりずしは一般のすし店と変わりないが、巻きずしに特徴がある。例えば「インカ・ロール」の中身はパームハーツとスモークサーモン、「マヤ・ロール」はエビ・アボカド・トマト・オニオン・シラントロが入り、「ハラペーニョ」という辛い唐辛子のサルサ(調味料)で食べる。
ここの板前は全員日本人だが、オーナーは5人のユダヤ人の共同経営である。七番街にも支店があるが、そこには女性のすしシェフもいる。なお、2002年6月5日付の『ニューヨーク・タイムズ』で女性すしシェフの特集をした記事によると、当時ニューヨークに少なくとも六人の女性すしシュフがいると報告している。
美食の街アッパーブロードウェー
ブロードウェーといえば、だれもがミュージカルを思い浮かべるだろう。しかし、ミュージカルの劇場があるのはほんの一部にすぎない。そこから北にあるアッパーブロードウェーは高級住宅地として知られ、高級レストランや高級グルメショップが軒を並べている。
健康志向時代のアメリカでは、日本料理と並んで地中海料理もブームになっている。『ニューヨーク・タイムズ』が3ツ星をつけたフレンチレストラン「ピコリーン」のメニューに「はまちのカルパッチョ」がある。ハマチは英語で「yellow tail」だが、ここでは「HAMACHI」と日本語がそのまま綴られている。日本料理がいかに浸透しているかがわかる。
ほとんどの食品類がそろう高級グルメショップをのぞくと、どの店にもすしコーナーがある。スーパーをはじめ食料品店は「HMR(ホーム・ミール・リプレースメント)」に力を入れている。直訳すれば「家庭料理の代行」である。すなわち出来上がった料理を買って家庭で食べることで、日本では「中食」という言葉が使われている。冷蔵ケースにすしのパック詰めを並べて売っている店、ネタケースを置いて職人が目の前ですしを作っている店もある。グルメショップが並ぶ中に日本レストランもある。その日本レストランとグルメショップのすしの値段を比較してみた。日本レストランの並ずし1人前(にぎり八カン・細巻き1本)12〜13ドル前後に対し、グルメショップはにぎり6カン・細巻き2本で8ドル40セント、にぎり6カンで7ドル25セント、にぎり4カンで4ドル79セントなどとなっている。消費者にとっては、わざわざ日本レストランに足を運ばなくても、グルメショップで食料品や惣菜を買うついでにすしのパックを買うことができ、しかも値段が安いから便利である。
もう一つ、すしブームの中でおもしろい流れが出てきた。中国レストランですしを出す店が増えたことだ。店内の一部をすしカウンターに改装し、中国人の板前が握る。昔からニューヨークの韓国レストランでは、カウンターを設けて韓国人が握っていたが、これはかつての日本統治時代に日本人が教えた歴史があるから不思議ではない。しかし、中国にはそうした過去はない。商才に長たけた中国人がすし人気にあやかって始めたのである。
そもそも中国レストランを利用する客は、料理もさることながら値段の安さに引かれて行く。しかし日本料理、特にすしの値段は高い。「エンパイア・セッチャン・ガーメット」は、セッチャン(四川)料理とすしを出す店だが、案の定、すしを注文する客は少なかった。そこで、すしの値段を半分に下げると、すしを食べる客も出てきた。ところがこれにはいささか仕掛けがある。あらかじめ割引前の値段を高めに設定しておくのだ。さすが中国人である。
77丁目の「ルビー・フーズ」は、点心をメインにした中国料理とすしを一緒にメニューに載せている。この店でなんとも珍しいすしに出会った。「マキスシ・デザート」である。一見、鉄火巻きのように見える。だがそうではない。チョコレートを芯にして、しゃりの代わりに刻んだココナツ、のりは黒ゴマでできているのだ。しょうゆは液体のチョコレート、それにガリまでついている。ガリは若いマンゴーを薄く切り、シナモンを混ぜた砂糖液に漬けたものだ。冗談好きで甘いもの好きのアメリカ人にはぴったりだと感心した。
健康オタク向けのすし
すしは健康にいいということで人気になったが、アメリカにはベジタリアン人口も多い。そんな人たちのためのすしもある。ベニハナ系のすしレストラン「春」には、「ベジタリアン・スシ」がある。シイタケ・カイワレ・焼き豆腐・なめこ・アスパラガスなどのにぎりが七カンと、アボカド巻き1本で16ドルだ。ブロードウェーの63丁目にある「スシ・ア・ゴーゴー」でも、アロエ・エノキ・山芋・湯葉などのにぎり8カンを16ドルで出している。
さらに徹底した健康志向の人には、グリニッチビレッジにあるマクロビオティックス料理の「ソウエン」がある。マクロビオティックスとは、桜沢如一さんが提唱した一種のベジタリアン料理で、基本を日本の和食においている。桜沢さん亡き後は直弟子の久司道夫さんがその志を継いでいる。
「ソウエン」のオーナーは山口政昭さんだ。「ソウエン」は、1971年にブロードウェーの90丁目で兵頭喬さんが経営していた店で、彼が交通事故で亡くなった後、山口さんが店を引き継いだ。1981年にはビレッジに支店を出すまでになり、1988年には五番街に近い13丁目にも支店を開いた。一時は3店を経営して大忙しだったが、1989年に本店にあたるブロードウェー店を閉めた。
その本店には、家が近かったこともあり、ジョン・レノンがしばしば訪れたそうだ。ビレッジ店にはブルック・シールズが、13丁目店にはメリル・ストリープなども来るという。やはり、音楽家や芸術家の自然食志向の人たちに人気があるというわけだ。
この店を代表するすしメニューは「セイタン・ロール」だろう。ちなみに、マクロビオティックスは玄米を基本としているため、しゃりは玄米だけだ。「セイタン」とは、小麦粉のグルテンから作られた肉の代替品で、味や歯ごたえが肉そっくりに作られている。このほか、マグロ・エビ・サーモンなどの魚を使ったもの、ニンジン・アボカド・梅しそ・キュウリなど野菜ものもある。
すしとお茶
すしにはお茶がつきものである。2001年にはお茶のメーカーである伊藤園がニューヨークにオフィスを構え、翌年には高級店が並ぶマジソン街の69丁目に海外初の直営店をオープンさせた。
1階のティー・ショップの壁面にガラス瓶に入ったお茶のサンプルが並び、その隣に床から天井までの大型冷蔵庫がある。冷蔵庫の中には販売用のお茶が低温で保管されている。現在、日本をはじめ中国、台湾、インド、スリランカ産の緑茶や紅茶を75種類も扱っている。その中で日本茶は、日本から冷蔵船で運ばれ、荷揚げされると冷蔵倉庫で保管されている。なかでも新茶は特別で、これだけは航空便で運ばれてくる。
2階は「会」という日本レストランになっている。ランチとディナーの間はアフタヌーンティータイムになっていて、ポットのお茶が6〜8ドルで飲める。ランチタイムは、緑茶入り手打ちそばをはじめ、六種類の料理があり、この中にすしの盛り合わせもある。すしには粉茶が特別に付いてくる。ディナータイムは会席料理がメインで、席に着くとまずジャスミン茶が出され、最後に冷たいそばとほうじ茶で締めくくられる。
さまざまな階層の人たちがひしめくニューヨークでは、すしはどんどん進化し、すしになくてはならないお茶までも本格的なものを飲めるようになった。そのすしの進化は、人種の坩堝といわれるニューヨークならではのバラエティ豊かな味にあり、予算に応じて安価なものも手に入るようになった市場にある。
「メキシコ」には屋台のすしもある
アメリカとメキシコは政治・経済の面で密接な関係にある。それは、料理の世界でも例外ではない。アメリカではメキシコの影響を受けて「テックスメックス料理」が誕生し、メキシコにはアメリカで大流行したすしがいち早く伝わった。そのすしを出す店は、2001年当時、メキシコ市にピンからキリまで100店舗あった。このうちピンに属する「サントリー」を訪ねた。「サントリー」はメキシコだけでも3店舗あり、これをまとめて統括しているのが加瀬容子さんだ。その中のデルパジェ店へ行った。料理長は和食経験22年という武藤雅彦さんで、すしカウンターでは4人のメキシコ人が握っている。彼らは日本から派遣された板前たちにすしを習ったが、日本へも実地研修に行き、その腕前はたいしたものである。
「盛り合わせスペシャル」を注文すると、ハマチ・サーモン・カニコ・イクラ・チョコラタ(メキシコ産の貝)の10カンと、鉄火巻き1本が出てきた。値段は、取材当時のレートで換算すると、3500円でニューヨークよりも高い。これにはわけがある。魚のほとんどをアメリカから輸入しているためである。すし種は、メニューに「輸入」と「国産」の表示があり、にぎり1カンずつの値段も書かれている。
さて、キリに属する屋台にも行ってみた。そもそもにぎりずしは江戸時代に屋台から始まったのだから、屋台はすし屋の原点である。なのに格が下がるのは、現代では店を持たないと認められないからしかたない。
12時30分頃、「スシ・モービル」の板前のファン・クルスさんが、すしネタが入ったクーラーボックスとすし飯が入ったボックスを持って現れた。1時少し前頃から客が続々とやってくる。近くのオフィスで働くメキシコ人ばかりで、持ち帰りやデリバリーを頼む人が多く、みんな常連のようだった。メキシコ生まれのクルスさんは、日本レストランで働いていたとき、すしを日本人の板前から習い、この屋台を開いた。
メキシコ市は海抜2240メートルという高地にあるため、飯に関しては一苦労ある。なにしろ普通の釜では炊けないので、圧力釜で炊くのだが、調節が難しいという。気圧が低く空気が薄い点では、また別の心配もある。例えば、高地に慣れていない日本人客がレストランに来て、普通のペースで酒を飲んでいて突然気分が悪くなる人がいるそうだ。「サントリー」では、そんな客のために酸素ボンベを常備し、10分以内に救急車を店に手配してくれる病院とも契約している。ところ変われば、いろいろな問題があるものだ。
楽園・カリブ海に浮かぶ島のすし
日本食のすしブームが世界的な広がりを見せる中、カリブ海に浮かぶ島も例外ではない。ハイチとドミニカ共和国が共存するエスパニョラ島と、その隣にある米国準州プエルトリコ島へ行った。隣り合った島同士でどんな形態ですしが食べられているのか、興味深い。
エスパニョラ島には、第二次大戦後に日本から移民した家族がいまも多く残っている。「サムライ」を経営する立山秀樹さんの奥さんである和子さんも移民家族の中で育った。2人の出会いはニューヨークの「初音」だった。秀樹さんは板前修業をしていて、和子さんはウエートレスとして働いていた。2人が結婚を決めたとき、和子さんは1人娘ということで立山家に婿養子になることで結婚が許されたという。
ここでも1人前の盛り合わせを頼むと、タイ・カンパチ・エビ・イカ・卵が1カンずつと、マグロが2カン、カリフォルニア巻きが1本という内容で約1300円だった。魚はすべて地元で獲れたものだという。だが、地元産だけでは種類が少ないため、例えばアメリカから輸入したサーモン・スモークサーモン・イクラ・ウナギなどを使ったデラックス盛り合わせであれば約1870円になる。ノリやワサビなどの日本食品、冷凍魚も2か月に一度の割合でマイアミから航空便で送ってもらう。米もカリフォルニア米を使っている。
アメリカの自治州になっているプエルトルコ島にも、3軒の店をもつ「ユキユ」という日本レストランがある。ここでは、すべてお好みでということで1枚の紙を渡された。そこにはすしダネの名前と1カンずつの値段が印刷され、客が好みのものにチェックする欄がある。そのチェックしたものが盛り合わされて出てくる。
ここのオーナーはアルゼンチン人だが、板前は全員日本人である。注文したものは、マグロ・ハマチ・サーモン・サバ・イカ・タコ・エビの7カンに、鉄火巻きが1本だ。ネタのすべてはボストンから空輸されている。それで「サムライ」のデラックス盛り合わせとほぼ同じ値段になる。この店にどんな客が来るのかというと、プエルトリコ人の金持ちがほとんどで、観光客はめったに来ないという。
カリブ海に浮かぶ2つの島は、かたや日本人経営者が孤軍奮闘しているのに対し、もう一方では外国人経営者が何軒もの日本レストランをもっている。また使っている魚も、カリブ海産とボストン産という大きな違いがあり、実に対照的であった。
海のないパラグアイで移民のすし
パラグアイへの日本人移民は1936年以後、41年まで続き、ラ・コルメラには約900人が入植した。その後、移民は戦争で一時中断されたが、53年に再開され、南部のエンカルナシオン市近郊のチャベス、フラム、ラパス、フジなどの名前がついた移住地に入った。日本レストラン「ニュー・トーキョー」の滝本巌さんは、55年にフラムに移住してきた。
滝本さんの本業はスーパーの経営だが、独学で料理を学び、趣味でレストラン経営をしている。その腕前は立派なものだ。メニューを見ると、すしの一人前はマグロ・サーモン・白身のにぎりが四カンずつの計12カン、このほか太巻き、細巻き、いなりもある。
マグロ・スズキ・ブリ・チリ産サーモンなどの魚は、1週間に1回、17〜18時間かけてサンパウロからスーパーの保冷車で運んでくる。米はイグアス移民地で日本人が作っている「農林22号」を使っている。この米は滝本さんのスーパーでも売られていた。なお滝本さんは本業のスーパーにいるより、もうけを度外視したレストランにいる時間のほうが長いようだ。
偶然、カンビオ(両替所)で出会った村上節夫さんの案内で「ニュー・トーキョー」を訪ねた翌日、イグアス移住地40周年の式典へ出かけた。ここにパラグアイの農牧大臣が駆けつけ、祝辞をのべた。わざわざ農牧大臣が出席するということは、それだけここの日本人移民のパラグアイ農業に対する貢献を重視しているからだ。
式典が終わると、会場内にテーブルが運び込まれて祝宴会場となった。イグアス移住地の婦人会が数日前から準備した料理の数々がテーブルに並ぶ。こうしたときに巻きずしやいなりずしは定番だが、にぎりずしまであった。魚はブラジルのフォス・ド・イグアスの市場まで行って仕入れたという。滝本さんのスーパーでは独自のルートをもっているが、一般人のための魚は週1回、サンパウロからのバス便で運ばれてくるそうだ。
肉食の国アルゼンチンにもすしブーム
アルゼンチンは肉食の最たる国である。その中ですしブームが起こり、4年前、すしを出す店は約70店あると聞いた。このうち日本人が経営しているのは20店足らずだそうだ。3万人の日系人がすしを広めたのは当然だが、このブームはブラジルからの影響のほうが大きかったようだ。肉食よりもすしのほうが健康によいということで、ブラジルでは早くからすしブームが始まっていたところ、その評判がアルゼンチンにも伝わったのだ。
日本人が経営する数少ないレストラン「北山」を訪ねた。すし一人前は、並ずしがマグロ1カン・サーモン2カン・白身5カン・ツナマヨネーズの軍艦1カン・鉄火巻き1本で1920円だ。特上ずしは、マグロ2カン・サーモン2カン・白身3カン・イクラ1カン・エビ1カン・鉄火巻き1本で2560円になる。ここの客の半数がアルゼンチン人である。ニューヨーク並みの値段だが、アルゼンチンの人は裕福なのだろう。
それにしても、パラグアイに比べるとネタが新鮮だ。ブエノスアイレス港にタイ・ヒラメ・カツオ・アジ・ブリ・チェルニア(クエに似た魚)などが揚がり、チリからサーモン・イクラが、ブラジルやウルグアイからマグロが入ってくる。米は中粒のアルゼンチン米で、粘りもあってカリフォルニア米によく似ている。
タンゴの発祥地で有名なボカは昔、マグロ船の基地だった。そこにマグロがたくさん揚がったので、1960年代はじめ、「カサ・デ・アトゥン(まぐろ家)」という料理店があったという。同じ頃、イカ船に乗っていたコック長のカネトさんという人が「遊亀」を開いた。こちらは現在でも息子さんが引き継いで営業している。どちらも、すしを常時出していたかどうかはわからないが、昔のブエノスアイレスの光景が垣間見えるような話である。
(文中の写真すべては筆者撮影)

1942年東京生まれ。東京大学農学部卒業。サッポロビール入社。1969年に退社後、ニューヨークへ渡る。レストラン「日本」の仕入れ係の仕事がきっかけで、魚卸商に従事。1975年、ニューヨークで最初の寿司専門店「竹寿司」を開店。現在、「ベルギー竹寿司」経営のかたわら食文化研究家として世界各地を取材。著書に『お寿司、地球を廻る』(光文社)、『おいしいアメリカ見つけた』(筑摩書房)、『ニューヨーク竹寿司物語』(朝日新聞社)、『サムライ使節団 欧羅巴を食す』(現代書館)、『ニューヨーク変わりゆく街の食文化』(明石書店)などがある





















