研究機関誌「FOOD CULTURE No.13」「日本型食生活の変遷」
和食文化は世界の長寿食・健康食としてさらなる変容をもたらすのか
食の安全や食料の自給率、そして食育など、食に関わる話題に事欠かない昨今ですが、元来私たち日本人が常食としてきた「日本型食生活」が、いまでは世界の国々から健康食・長寿食として採り入れられている事実にも目を向けてみたいと思います。その例証の一つとして、寿司の文化は目を見張るばかりの勢いで地球上の町々に広がりをみせているのが分かります。
このように、江戸時代の後期に芽吹いた「日本型食生活」が、いま世界の人々に健康を、そして食卓を囲む家族の喜びや幸せとなって花開くことは嬉しい限りです。しかし、その一方で肝心の私たち日本人の食生活の乱れも気になるところです。
こうした折もおり、去る10月3日、先般来『FOOD CULTURE』誌に、江戸期以降の食の変遷についてシリーズでご執筆いただいた食文化研究家・渡辺善次郎先生を講師にお招きして「キッコーマン食文化セミナー」が開催されました。お話のテーマは「日本型食生活の変遷」で、今号は先生のお話を再録いたしました。
歴史的にみて日本人は長命
今、日本人は世界で一番長生きする国民となりました。女性は85歳、男性は78歳で男女の平均は81.9歳です。世界の平均寿命は65歳ですから、日本人は15から20年長生きしていることになります。アメリカ人の平均寿命は77歳、ヨーロッパ各国の平均が79歳ぐらいです。また、日本の場合はただ長生きしているだけではなく、健康で長生きする健康寿命も、75歳で世界一だそうです。
歴史的にみても、日本人は昔から長生きだったようです。約二千年前に日本のことを書いた『魏志倭人伝』という本の中に、邪馬台国についての記述があります。そこに次のような文章があります。
「その倭人たちは海に潜って魚や貝を獲っている。稲や粟を作ってそれを食べる。冬でも夏でも(生の野菜を)食べる。酒が好きだ。そして非常に長生きで、80歳、90歳がざらにいる。百歳まで生きる人もいる。」
これが約二千年前の日本です。この邪馬台国の時代から80歳、90歳が多かったという内容から、日本人は昔から長生きだったのではないかと考えられるわけです。ただ、中国人がどのようにして調べたのかがわからないため、信憑性は低いでしょうが、とにかく長生きであるという印象をもったことは確かだと思います。
ずっと時代が下って、戦国時代にキリシタンが日本にやってきましたが、その中にフランシスコ・ザビエルという宣教師がいました。そのザビエルが祖国に宛てた手紙に、「日本人は肉をほとんど食べない、魚は食べる。だいたい米と麦だけで食事をしている。しかも食事は少食だが、野菜はたくさん食べる。それでいて不思議なほど元気で長生きだ。」と書いています。この内容から、戦国時代においても外国人は、日本人が元気で長生きな国民にみえたのでしょう。
これらのことから推察すると、昔から日本という国には長生きにふさわしい風土と食の習慣があったのだと思います。
70年代以降のアメリカの食育政策
第二次世界大戦後、特に戦争の被害を受けなかったアメリカでは、人々はそれまで以上に贅沢な物を食べるようになりました。その結果、1970年代になると、アメリカ人の間に心臓病、糖尿病、脳卒中、高脂血症などの病気が急増し、医療費も激増しました。その数字にアメリカ政府も驚き、上院に特別委員会を設置して対応策を考えました。特別委員会の委員長にはマクガバンが就任し、1977年(昭和52)に「アメリカの食事目標」という報告書を出しました。
その報告では、アメリカ人の食事は栄養が偏りすぎていると述べています。脂質が多く炭水化物が少ないため、三大栄養素である炭水化物・タンパク質・脂肪のバランスが悪いことが病気の原因だと考えられ、食事の内容を変える必要があると訴えました。
今、アメリカ人の60%が太り過ぎだそうです。『デブの帝国』などという本が出版されるほどです。そのアメリカ人が調査したところによると、日本の食事が一番よいとされています。70年代の当時は、炭水化物・タンパク質・脂肪のバランスがちょうどよかったようです。そこで、食べる量を減らし、脂質をひかえ、炭水化物をもっと摂って日本の食事を見習おうという内容の勧告を出しました。
しかし、アメリカ人に炭水化物を奨励するとパン食のため、どうしてもバターや肉類の摂取が多くなるので難しいのが現実です。そこで今も「寿司ブーム」が続いているのだと思います。
日本型の食事「和食」の成立
1977年にアメリカでマクガバン報告書が発表された後、それまで西欧に追いつけ追い越せでやってきた日本が、開国以来はじめて自分自身の国に目を向けようと、食生活の面で画期的な方向転換をしました。この日本型の食生活の中心にあるのは、私たちが「和食」と捉えているものだと思います。和食は大昔からあったものではなく、だいたい江戸時代の半ばぐらいに成立したと考えます。その基本は、「白米」、「一日三食」、「一汁一菜」です。
では、それ以前はどんな食事をしていたのでしょうか。古い時代の資料の一つに、石田三成の家来のお嬢さんが昔のことを思い出して書いた本があります。それによると、毎日、雑穀に野菜を入れた雑炊を食べていたようです。朝と晩に同じものを食べ、昼食はありませんでした。ただ、お兄さんたちが山に鉄砲を撃ちに行くときには、朝、菜飯というものを炊いて弁当に持たせたということです。その菜飯を炊くと、家族もいっしょにそれを食べられました。その著者が歳をとった江戸のはじめ頃、「最近の若者たちはおかずが何だかんだと贅沢なことを言っている、昔は昼飯などは考えたこともなかった」という話を書いています。この資料から推察すると、戦国時代から江戸の初期までは一日二食で、白米はなく、雑炊か玄米だったのではないかと想像できます。この玄米食は、元禄時代頃まで続いていたかもしれません。それを裏付けるものに、松尾芭蕉が残した「はなにうきよ わがさけしろく めしくろし」という句があります。酒が白いというのは濁酒で、飯が黒いというのはおそらく玄米か七分搗きを食べていたのでしょう。芭蕉は元禄時代の庶民の代表のような人だったので、その時代あたりまでは、少なくとも、庶民は白米を食べていないと考えられます。
その後の江戸のおかずで一番人気だったのは、沢庵漬でした。沢庵漬は、糠で漬けるので玄米を食べていては糠は出ないため、白米を食べるようになってできた食べ物です。沢庵漬が流行るということは、みんなが白米を食べるようになった時代だと考えられます。その頃になると、諸国から江戸に集った人たちがもってきた故郷の食文化が交流を重ね、その集大成として江戸独自の食が少しずつ生まれてきたと考えます。
江戸時代、和食の代表的な食べ物
江戸は早くから外食文化が盛んな都市でした。その中でいろいろな江戸らしい食べ物が作られています。なかでも、蕎麦は一番早くから外食として広まりました。蕎麦を今のように細長く切って食べるようになるのは、江戸初期の寛文年間です。それまでは蕎麦がき、蕎麦粥、蕎麦まんじゅうという形で食べていました。その蕎麦切りを街角で売るようになると爆発的に流行り、江戸末期頃には店を構えている蕎麦屋が四千軒もあったそうです。
このほか、江戸で発達した食べ物に天ぷらがあります。天ぷらはもともと西洋料理で、キリシタンが長崎に伝えた西洋料理の第一号でした。それが、江戸のはじめに京都で流行り、徳川家康の財政顧問で茶屋四郎次郎という豪商が家康に奨めました。そのときに家康が食べたのが鯛の天ぷらです。その天ぷらを食べたところ、家康はお腹をこわして死んでしまったという話が伝えられています。以後、徳川将軍家では、天ぷらはタブーとされて食べられなかったそうです。
さらに江戸で有名な食べ物にお寿司があります。「すし」は、古いもので琵琶湖の「鮒鮓」のような形で食べられてきていましたが、江戸の寿司のようにご飯を握ってネタをのせて出すスタイルは1800年頃の文政年間からだと言われています。あっという間に、ご飯と新鮮な魚、わさびという絶妙なコンビネーションで作る江戸の寿司は、すばらしい発明です。インスタント料理の世界的な傑作だと思います。
このように外食が盛んになった江戸は、「食い倒れの町」といわれるようになりました。現代では食い倒れの町といえば、大阪を連想する人が多いでしょう。ところが、江戸時代の末、活躍した大坂の歌舞伎作家の西沢一鳳という人が、当時の京都・大坂・江戸を比較して、食が一番いいのは圧倒的に江戸、大坂は二番、京都が三番と順番を付けています。
江戸とヨーロッパの食生活事情
江戸時代、食べ物に困らなくなってくると、食は遊戯化しました。飢饉などで困窮しているときは、食を楽しむゆとりはありませんが、江戸末期の裕福な時代には「初物食い」がブームになります。江戸っ子は、何でも初物を愛しました。初なすび、新茶、新蕎麦など、季節に先駆けてほかの人より先に食べることが、江戸っ子の見得でした。下の絵をご覧ください。
この絵は初鰹です。初物の中で一番評判が高かったのは、この鰹です。「目には青葉 山ほとゝぎすはつ松魚(かつを)」。ちょうど5月ぐらいに鎌倉沖あたりで獲れる鰹です。その鰹はだいたい女中さんの1年分の給金に相当する高値で売れたそうです。この絵に描かれているのは、長屋のおかみさんたちでしょう。とても1匹は買えないので少しずつ切り身を分け合っている絵です。
学校で習った江戸時代は、武士が威張っていて、庶民などは一生懸命に稼いでも、ほとんどが年貢として搾取されて、食うや食わずの生活を余儀なくされていた時代というイメージが強かったように思います。しかし、現実は違っていました。当時の世界の国々と比べても、一番豊かで安定した社会でした。世界史の観点からみると、260年間、一度も外国と戦争をしなかった国はほかにありません。世界史の奇跡といわれています。
では、ヨーロッパはどうだったのでしょうか。ヨーロッパは農業に向かない所です。日本の北海道からロシアのサハリンあたりの緯度と同じなので、寒くて植物が育ちにくい土地柄なのです。そこで育つ小麦は、蒔いた種の四倍ぐらいを収穫できれば平年作です。日本であれば種の約30倍の収穫が普通ですから、四倍では大不作です。しかも、ヨーロッパの中でも農業大国といわれたフランスでは、農地の4分の3は王様・貴族・教会の所有で、農民たちは残りの4分の1しか所有していませんでした。そのことを考えても、フランスの食生活の貧しさが想像できるでしょう。
下の絵は、有名なミレーの「落穂拾い」という絵です。農家のおかみさんたちが、収穫した後の畑に出て、落ちている小麦の穂を一つずつ集めている姿です。それを集めても、パン一つできません。後ろのほうで働いているのは、おかみさんたちのご亭主たちでしょう。彼らは、貴族や教会の大農場で働かされているわけです。そこには山のように穀物が積まれています。その横に目をやると、馬に乗って監督をしている人が描かれています。おそらく貴族か、教会の役人でしょう。この絵は、日本の明治維新の10年前に発表されました。
江戸時代の日本と比べて、日本人が豊かだと思っていたフランスの農村がどんな状態だったかを想像してください。日本人は、フランスがものすごく豊かだと思い込んでいましたが、「落穂拾い」を日本の農村の実情と比較する目で見ると、これがフランスの農村だったのかと改めて考えさせられます。 江戸を研究しているあるアメリカの研究者は、もしも自分が江戸時代と同時代に生まれたとすると、貴族であればイギリスがいい、庶民であれば日本がいい、といっています。欧米の歴史を熟知した人たちは、江戸時代の日本はいいと考えているようです。江戸時代について、進んだ豊かなヨーロッパ、遅れた貧しい日本という考え方はやめたほうがいいと思います。
豚を飼っていた新撰組
江戸から明治へ時代は変わり、日本は一生懸命にヨーロッパに追いつこうとしました。食文化の面では、肉を食べるようになったことが江戸時代との大きな違いです。それまで千数百年、日本人は肉食を禁じられていました。世界の中で食べるために家畜を飼っていなかった文明国は、日本以外にないと思います。
江戸時代以前、体が穢れるという考え方があって肉を食べると神社などにお参りができませんでした。その禊(みそぎ)が済むのは100日ぐらいだといわれ、その間は仏様にも手を合わせてはいけないとされていました。しかし、鹿や猪がたまに獲れたときには、その肉は食べています。江戸時代の大名の中でも一部の人たちは食べていました。井伊大老がいた彦根藩では牛の味噌漬が名物です。それを毎年、将軍家や大名たちに贈っていました。将軍家に贈るときには、その樽に「肉」とは書かず、薬の名前を書いていました。これは薬であるという名目で東海道を運んだのでしょう。
面白い話があります。幕末に活躍した新撰組は、残飯養豚のはしりだったのではないでしょうか。将軍家の医師に松本順という人が、近藤勇がいた京都に出向いて、新撰組の「屯所」を訪ねています。その松本医師は、新撰組は豪傑揃いだと思っていたところ、病人だらけだったので驚いたそうです。栄養失調で肺病を患っている人が多く、そのとき松本医師は、残飯を豚に食べさせて育て、その肉を隊員に食べさせろと指導しました。それ以降、新撰組は豚を育てて隊員に食べさせたようです。日本人が肉を食べるということはたいへんなことでした。ただ、肉を食べるようになったといっても、動物の頭から尻尾まで食べてしまう肉食の民族ではありません。
下の市場の写真をご覧ください。10月頃からヨーロッパはハンティングの季節になります。ヨーロッパ人の一番のご馳走は野生の動物です。ハンティングをして獲った動物を食べることが一番の贅沢だと考えています。この季節にフランスへ行くと、肉屋の店頭には狩りをして獲ってきた動物や鳥が吊るされています。肉食民族は、そのまま買って家で捌(さば)いて脳みそから豚の鼻、目や耳までいろいろに調理して食べます。
現在、日本の家庭では、魚より肉を買う金額が増えています。それでも、ヨーロッパ人のような食べ方はできませんから、本当の意味で肉食人種だとはいえないでしょう。
日本風にアレンジした西洋料理の普及
文明開化以後、肉を中心にして西洋の料理がたくさん入ってきました。しかし、日本人はそのまま食べることができずに、日本的に作り直しました。それが三大洋食と言われている「ライスカレー」「トンカツ」「コロッケ」です。トンカツはポーク・カツレツのことですが、ポーク・カツレツはナイフとフォークで自分で切って食べますが、トンカツははじめから切って出されるので箸で食べます。コロッケは、本来の中身はクリームなのですが、日本風にアレンジして安いジャガイモを使いました。
そして中華料理も、関東大震災後に日本の家庭で食べられるようになりました。関東大震災後ぐらいから、和風にアレンジされた西洋料理と、日本的に調理した中華料理が一般に普及します。今ではどの家庭でも、西洋と中国と日本の食事を違和感なく摂っています。こんな国は世界にありません。日本独特の文化です。私たちは意識しないで、すべてが日本料理だと思って食べています。
またどんな食事も、箸かスプーンで食べられるものしか、庶民の食卓ではなかなか受け入れられません。そのために日本風にアレンジしたのが、明治以来の食文化です。ヨーロッパでもナイフとフォークで食事をする人はほとんどいませんでした。下の絵をご覧ください。明治時代のイタリアのスパゲティ屋です。みんな手づかみで食べています。売るほうも、食べるほうもスパゲティは手づかみです。
ロシア革命のとき、クレムリン宮殿に突入した農民軍がいろいろな物を略奪しました。そのときにフォークを見て、「これはどう使うのか」と不思議に思っていたそうです。肉をナイフとフォークで食べるというのは、ほんの一部のブルジョアだけでした。それが、江戸時代の日本とヨーロッパの違いです。
食材の多さが日本人の味覚を育んだ
昭和の初年になると、昔からある和食も、洋食も、中華も食べていました。柳田国男は、「世界無類の多様な食」と表現しています。その食材の多さも世界に類を見ません。
食の大国といわれるフランスは、「カエル」「ハト」「カタツムリ」まで食べますが、それでも約700種類くらいしか食べていません。食材が多いと言われている中国でさえ、約800種類くらいです。日本は約1400種類あります。なかでも海産物を多く食べています。
南極で越冬する南極探検隊は、日本を出港する際に1年分の食糧を持って行きます。外国の隊は約300種類くらいの食材しか持っていないそうですが、日本隊は750種類も持って行くので日本隊は羨ましがられているそうです。
いろいろな物を食べるということは、味覚を育てる源泉になります。舌は「千」に「口」と書き、千種類の物を食べなければ鍛えられません。ヨーロッパには味がわからない人が非常に多くいます。フランス、イタリア、スペインなどのラテン系はそうでもありませんが、イギリス、アメリカなどのアングロサクソン系の人たちに多いといわれています。
アメリカ人の研究者が調べたところによると、味がわからない「味盲」というハンデをもつ比率は、アメリカ人で25%、イギリス人では12%いるそうです。日本人は3%で世界でもっとも味覚が優れた民族だといわれています。それは、昔からいろいろな種類の食べ物を食べていたおかげではないでしょうか。ワインのソムリエ・コンクールで田崎真也さんが優勝したことで世界的にも証明されたと思います。
日本人の味覚の基本は米です。ご飯は非常にすばらしい主食なのです。ご飯を食べていれば、おかずでタンパク質を摂らなくても、一日約5合で必要なタンパク質が摂れるそうです。しかし、白米食には欠陥があります。白米だけを食べているとビタミンB1が不足して脚気になってしまいます。
江戸時代、江戸に出てきた若者たちが次々と脚気になったといいます。故郷にいたときにはめったに食べられなかった白米食をたらふく食べて脚気になってしまったというわけです。それを「江戸患い」といいますが、将軍も脚気で死んでいます。14代将軍の家茂は、長州征伐のときに大坂城で脚気によって亡くなっています。
脚気は、明治時代まで日本の国民病でした。日清戦争のとき、日本軍の戦死者は1000人ですが、脚気で死んだ兵隊は4000人いました。それほど脚気は恐ろしい病気です。
乱れた戦後の食生活
戦後、特に1970年代、家庭にいたお母さん方が働きに出るようになって、食事の手抜きを始め、子どもたちの食生活が非常に乱れました。その当時、「おかあさんやすめ」という言葉がよく使われていました。「お」はオムレツ、「か」はカレー、「サン」はサンドイッチ、「や」は焼そば、「す」はスパゲティ、「め」は目玉焼きです。要するに、お母さんが作るものはオムレツ・カレー・サンドイッチ・焼そば・スパゲティ・目玉焼きだということです。1980年代に入ると、「ははきとく」になりました。「は」はハンバーグとハムエッグ、「き」は餃子、「と」はトースト、「く」はクリームシチューです。「おかあさんやすめ」と「ははきとく」が、戦後の子どもたちの食生活を象徴している言葉でした。一時期、まな板のない家庭があることに驚いていました。今は、それどころではありません。台所がない家が出てきたのです。新聞の記事を読むと、女子学生が借りるワンルームマンションにキッチンはいらないと書いていました。そこから発展して、家庭でも台所はいらないというのです。コンビニやデパ地下で家族がそれぞれ好きなものを買って、一人ずつ適当な時間に食事をするという時代になってきたのではないか、ということでした。もっと深刻なのは、和食の基本である箸が持てない子どもが多いことです。服部栄養専門学校が調べたところによると、小学生の約90%は箸を持てないそうです。また、教師の40%がちゃんと持てていない状況を考えると、仕方ないのかもしれません。しかし、こうした傾向はとても残念です。その中で日本人は長生きだと威張っていても、その足元ではどんどん「長生き神話」が崩れていっています。これまで沖縄県は、全国一の長寿県でしたが、2000年の国勢調査では26位に下がっています。世界で一番長生きした泉重千代さん(120歳)は徳之島出身です。今でも徳之島の75歳以上の死亡率はとても低いのですが、30歳代の死亡率は全国平均の3倍、肥満率は2倍にものぼっているそうです。長生きの風土に生まれても、食生活が変わってしまえば、短命になってしまうことの証でしょう。このことを考えても、食は非常に大きな問題です。
僧侶の食生活の不思議
私は、少食で長生きする僧侶の食生活に驚きます。福井県に永平寺という名刹がありますが、そこの僧侶たちは「雲水」と呼ばれ、200人の雲水がいます。彼らが食べているものは、朝食に「五分がゆ」「ごま塩」「漬物(1〜2切)」、昼食には「麦飯」「野菜の和え物」、夕食は「麦飯」「煮物」です。魚や肉は食べません。この食事が1200年続いています。ある栄養学者がその食事を調べたところ、熱量が1200kcalだったそうです。敗戦直後の日本は餓死者が出るほど食糧難でしたが、そのときでも平均1400kcalを摂取していました。雲水たちは、戦後の食糧難のときよりも少ない熱量で厳しい修業をしながら元気に過ごしています。
雲水になると約2か月で痩せて、足がむくんでくるそうです。ところが、3か月目からはだんだん太ってきて、肌の色艶がよくなってきます。なぜそうなるのか、栄養学者が調べてもわからないそうです。近代栄養学では解明できません。永平寺の管長は104歳ですが、毎週、人を集めて講演をし健康です。
比叡山では、僧侶が1000日間、山と京都の町を走り回る1000日回峰行があります。その人たちが何を食べているかというと、塩で茹でたジャガイモ2個、豆腐半丁、うどん半皿を1日に2回食べるだけだそうです。だいたい1日に30〜80kmを走るのですが、信じられない食事です。
この行は、織田信長が比叡山を焼き討ちした年から始められ、まだ50人しか達成した人がいません。私も、回峰の大阿闍梨という人に会ったことがあります。ぷっくりしたお爺さんです。その人もあの粗食で回峰行をしたのかと不思議に思いました。
そんな僧侶たちの食事をみると、和食のよさとは何だろう、栄養学とは何だろうと思います。栄養学的な分析だけでよいのでしょうか。今、日本も短命化が始まっています。食事のあり方を改めて考え直すときがきたのではないかと思います。

1932年 東京に生れる。
1956年 早稲田大学卒業。
1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員
1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。
主著『都市と農村の間ー都市近郊農業史論』(1983年 論創社)、『聞き書・東京の食事』(編著・1987年 農文協)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 農文協)、『農のあるまちづくり』(編著・1989年学陽書房)、『東京に農地があってなぜ悪い』(共著・1991年 学陽書房)、『近代日本都市近郊農業史』(1991年 論創社)









