研究機関誌「FOOD CULTURE No.4」ナチュラルで美味しい塩づくりを求めて

執筆:大川吉弘(ジャパンソルト株式会社 技術顧問)

ナチュラルで美味しい塩づくりを求めて

塩は、私たちが日常的にたしなむことのできる世界各地の食文化の成熟に、深く関わっているといっても過言ではありません。それぞれの国には、必ず、良い塩が採れる「名塩」と呼ばれる塩の産地があります。今、私が思い描いているテーマは、日本の塩の歴史と伝統のなかで育まれてきた塩の価値を、改めて再発見し、そこに新しい時代にふさわしい塩の価値を創造することです。それは、日本料理を支えてきた本来の塩、「こだわりの塩」への強い思いです。
塩は人が生きるのに欠かせない存在であり、貴重な地球の資源ですが、人の感性や豊かな心を満たす「味」を基軸にしたとき、これまでの工業生産的な塩ではなく、伝統の技術と手作りの塩が、豊かな食文化を創ると信じています。

日本の古代・中世の塩づくり

世界的には天日塩、岩塩が主流ですが、日本には岩塩層も塩湖も存在せず、気候的に、太陽と風の力で海水を蒸発させてつくる天日塩もできません。古代日本人は海から海水を汲んでそのまま煮つめる「直煮」により塩をとっていました。縄文時代の遺跡から、塩をつくったとみられる円錐形の製塩土器が発掘されています。
縄文後期から弥生期に農耕が発達すると、食生活の変化とともに塩の需要も増えて、藻や砂を利用する海水濃縮の技術がうまれたといわれます。
やがて6世紀飛鳥時代になると「藻塩焼き」という日本独特の製塩方法が現れます。ホンダワラやカジメなどの海藻を浜辺に積み上げ、幾度も海水をかけて天日で乾燥させて塩分を濃縮し、その海藻を焼いた灰を海水で溶いて土器の釜で煮つめて塩をとる製塩技術です。万葉集に「朝凪(なぎ)に玉藻(たまも)刈りつつ、夕凪に、藻塩(もしお)焼きつつ海少女(うみおとめ)」と詠われています。奈良時代になると、藻塩焼きは「揚げ浜式」と呼ばれる塩田に発展します。海岸の砂地をならして汲み上げた海水を散布、太陽の光で乾燥させると、塩分を濃く含んだ砂をあつめて、沼井(ぬい)という木枠でつくった抽出装置に入れ、濃い海水をつくるものです。この製塩方法は全国の浜で行われていましたが、気候と地形に恵まれた瀬戸内、東海地方に塩田が発達しました。やがて16世紀頃には、潮の干満を利用して海水を取り込む製塩法の「入浜式塩田」が登場し、江戸・大坂を中心に塩廻船による塩の流通化が進み、塩は産業に発展していきます。

入浜式塩田

塩作りは先人たちの知恵

日本の塩づくりは、海水を濃縮し、釜で煮る、煎る、焼くといった多くの工程から塩の結晶を採取します。手間と熟練の技を必要としたため、繊細な塩の精製技術が発達し、すでに奈良・平安時代には、塩の種類も、石塩、堅塩・黒塩(固形焼塩)、煎塩・白塩(鉄釜で焼いた細粒焼塩)、粗塩なども流通していたといわれます。なぜ、塩づくりにひとの繊細な神経と技が求められたかといえば、濃縮した海水(かん水)に熱を加えると、はじめに液の表面に「塩の種」が誕生し、次第に大きくなって液中にも結晶ができていくように、自在に変化するいわば「生き物」だからです。かん水の撹拌の仕方によって、形や大きさが異なった塩の結晶ができます。最初にできたものだけをすくい採って、平釜で煮てできた塩が「真塩」と呼ばれる上質な塩です。真塩は、竹のザルでにがりを切り、釜でゆっくり時間をかけて、煎塩や焼塩に仕上げられます。再度、かん水を加えて、苦汁成分と一緒に煮つめたものを「差塩(さしじお)」といいます。
江戸時代、瀬戸内に集中した入浜塩田では、真塩は江戸・大坂の都市に好まれ、安価な差塩は東北地方に売られました。播州赤穂の差塩は、塩廻船で米沢に運ばれると10倍の値段がついたといわれ、差塩の「塩角」のある辛い塩が東北地方の食材と結びついて、独特な濃い塩の味の伝統が育ったと考えられます。
日本は、フランス、イタリア、中国のように、海水から自然の結晶を採取することができないため、濃縮した海水から塩をつくるのに、絶え間ない創意工夫が重ねられ、先人たちの伝統的な身につけた知識・ノウハウが、今も脈々と引き継がれています。

三代広重 大日本物産圖會『播磨國赤穂塩濱之図』
能登の揚浜塩田 沼井(ぬい)作業

塩の長期貯蔵と焼塩

昔は町の大店をはじめ、村の裕福な農家には塩倉があり、塩は、藁で編んだかますの袋に入れて保管されていました。塩は外の湿気を吸って、水分が塩の表面の苦汁を洗い、下に置かれた苦汁箱に溜まっていきます。これを「塩を枯らす」といい、2年、3年と年月を経ることによって、熟成した、まろやかな枯れた塩になっていきます。もう一方で、塩を焼くことによって、苦味成分が変化し、吸湿しにくいドライな塩に仕上げて、塩の長期貯蔵を可能にしています。
中世の貴族・官僚・社寺は税として徴収する塩は、通常焼き塩が用いられていたとされ、当時の食膳には「手塩皿」が描かれているように、塩の商品化を発展させたと考えられます。今でも、伊勢神宮では御塩浜で採れた粗塩を三角錐形の土器に詰めて、釜に入れて焼く行事が行われています。
近年、江戸時代の城や大名屋敷、大店の屋敷跡から、湯のみ茶碗ほどの大きさの素焼きでできた焼塩壷が発掘されています。それは、細かくひいた塩を壷に入れて、もう一度、釜で焼く手法です。松の木で焚き、壷の中の化学反応によって、繊細な味の塩ができあがります。安土桃山時代に堺から伝えられ、長崎では、豪商の屋敷跡、オランダ商館の出島からも出土、ここでは船の塩が不足したらしく、壷焼塩を購入した記録も残されています。
上流階級では、宴会で塩焼きの鯛を食べるとき、身の厚い鯛は食べ進むと塩味がなくなるので、食膳に壷焼塩を出しておくといわれています。安政元年(1854年)の瓦版に、幕府が黒船ペリーを接待した宴会の二の膳に、鯛と焼塩壷が描かれています。一般家庭では、ホウラクで粗塩を煎って、手塩皿に盛られて、調味料として使われました。まさに焼塩は食卓塩のルーツといえます。

藻塩焼神事
高瀬川『淀川両岸一覧』

塩の道と食文化

塩浜から内陸部への塩の流通が盛んになるにつれ、嵩の高い塩を一度に大量に運ぶことができる舟運が物資輸送の幹線に成長し、山岳地帯では、牛や馬で運ぶ塩の行商人が販売を担っていました。川舟は高瀬舟と呼ばれ、一般的には、内陸部の住民が臨海地域と交易を行うために所有したもので、交通の拠点は内陸部におかれるのが普通でした。
上り荷は、塩、塩干魚、などの海産物、下り荷は、米、雑穀、薪炭などを主としながらも、紅花、麻、木材、たばこなど、地域の特産品の物流を促進し、「塩の道」は、食文化の道であり、産業の道でもあったともいえます。
京都は、高瀬川と淀川で瀬戸内海に、宇治川、大津街道、琵琶湖舟運で日本海に通じ、塩の道の代表的な拠点です。京都には日本中のさまざまな食材が集まり、洗練された京料理がうまれたといえます。927年「延喜式」には、京の貴族たちが税として貢納させていた美味な魚介類を挙げています。
代表例には、干鮭、氷頭(ひず:鮭の頭部軟骨の塩漬け)、酢鮎(なれ鮨)、塩塗鮎、鮭内子(筋子)、海鼠腸(このわた:ナマコの腸の塩辛)、アワビ、背腸(鮭の背骨のメフンの塩辛)ほかに猪の干し肉、スルメ等々、塩で味つけた酒の肴が多いのが目立ちます。日本の食文化のなかで、塩蔵(食材の塩漬け)の存在は、鮒寿し、塩辛、魚醤、野菜の漬物、味噌や醤油の醸造など、さまざまな伝統的な保存食品を生み出した源泉だったといえます。

上荷船『和漢船用集』

微妙な塩加減

イタリア料理の心得として、「オリーブ・オイルは気前のいい、大らかな性格の人間に、バルサミコ(酢)は用心深く、もったいなさそうに使う“しぶちん”にまかせなさい。しかし、塩だけは“賢い人間”に使わせなさい。」と言い伝えられています。これは食材の美味しさを活かす微妙な塩加減のむづかしさを表現したものです。一瞬の手加減で料理の味を引き立てます。日本の板前も、店に入ってくる客の顔を見て「この客はゴルフ帰りで汗をかいている。」と直感すれば、濃い味にするといわれています。
この絶妙な板前の塩加減の感覚を科学的に分析してみると、美味しいと感じる塩分の濃度は0.9%、1.1%では濃く、0.7%では水っぽく感じられて、塩を扱うことができる人間の感覚は、まさにアートだといえます。また、加工食品においても、ハム・ソーセージ、かまぼこなどは、肉・魚の水溶性タンパクを凝固させる性格、漬物では、塩がもっている水を引き出す浸透圧や素材の色を鮮やかに残す効果を利用します。いずれも塩加減が味覚や食感の決め手となります。
昔の平釜でつくっていた時代の美味しい塩―真塩は、今の真空式の釜でできた塩に比べると、同量で約2倍のボリュームがありました。つまり、デリケートな味の調整がでる、使い勝手の良い塩だったのです。今の塩は「かさ比重」の大きい重い塩のために、少しの量でも味が大きく変化します。塩の美味しいと感じる「濃度」の幅が大変狭いため、料理の味つけがむづかしい塩といえます。料理人の感性に近く、微量な塩加減を勘で正確に使い分けられるような「同じ容量で塩分が2分の1の軽い塩が作れないか」これが、私の塩へのこだわりの第一歩です。

軽い塩を求めた旅

昭和48年に米国ヒューストンで開かれた塩の国際シンポジュ―ムに出席した。この機会に米国の塩事情を見聞したいと各地の岩塩鉱や塩湖を視察していたおり、デトロイト郊外のセントクレアで、液表で結晶をつくるアルバーガー・ソルトというフレーク塩を発見しました。これまでの真空式蒸発缶でできるサイコロ状の正六面体の結晶とは違う、同じ容量で重量が約半分という塩の結晶と出会ったときの驚きが、軽い塩づくりのきっかけとなりました。
その後、フランス、イタリア、スペイン、ギリシャと、軽い塩の系譜を求めた旅が続きましたが、5年後にロンドン郊外のオックスフォードの食料品店で、ふたたび胸がときめくような「かるーい塩」に出会いました。ろう紙に包まれ、10センチ角の長さ20センチほどの塩の塊、「カットランプソルト」です。岩塩を溶かして平釜で煮詰め、木箱に入れて乾燥させたもので、まるで軽石のような塩です。自然の岩塩のなかには、灰色に濁った泥や重金属類など、身体に害を及ぼす不純物が混ざったものがあります。このカットランプソルトには、溶解・再結晶によって、安全な塩をつくるというひとの知恵が強く感じられます。

フランスの名塩、フルール・ド・セル(塩の華)

今年5月、南フランス、北イタリア、シチリア島の塩の旅で、強く印象に刻まれたことは、有名レストラン、高級食材店のキッチン、テーブルソルトが、すべて自然海水塩であったことです。今、その地域の有機栽培された食材と自然海水塩を使った料理がブームになっています。
フランスの人気シェフ「アランデュカス氏」の経営する店のひとつ、モナコのホテルドパリにあるレストラン「ルイ15世」では、甘いムースと塩味のバニラアイスのデザートに、「甘さとソルトテーストの味のハーモニーをお楽しみ下さい」と一言添えられています。
フランスの高級食材店、フォーションの売場では、ゲランド地方の「フルール・ド・セル(塩の華)」が主流で、フランスの多くのシェフ達から支持されています。またイタリア、ミラノのペッグでは、南イタリアの自然海水塩が売られています。
塩の華は、毎年4月から7月にかけて、急激に気温が上昇するときに塩田の表面に浮かび上がる、白い花のような塩の結晶です。これを塩職人のパルディエが手作業で採取し、熟練の伝統製法でつくり上げます。ほのかな甘味を含んだまろやかな塩味が、新しいフランス料理の味を支えています。

モナコの有名レストランで出逢った、塩の新しい魅力

「ナチュラル・シーソルト」の時代

今の日本の塩には、「美味い・不味い」という味の物差しが存在していません。多彩な加工食品が大量に市場に登場する現代、加工食品のニーズに応えた、高純度、低コスト、量産化を目的とした均質な工業生産の塩が主流で、あくまで塩化ナトリウムの純度が塩の品質の基準になっています。
日本の自然塩は、国内のイオン交換膜法でつくる高純度の塩や輸入天日塩を原材料に苦汁を加え、ミネラル・バランスを組成したものが主流となっています。消費者の食生活の豊さと自然食志向が高まるにつれ、これまでの工業生産的な塩から、手作りの美味しい、個性的な塩へ、今後、多くの消費者の支持を受け、自然海水塩の市場が拡大していくと考えています。
“塩屋”として誇れるような塩を探し求めるうちに、気がつくと700アイテムを超える塩を扱うようになりましたが、新しい時代の塩の価値を創造していくために、これらの塩を「ナチュラル・シーソルト」というコンセプトを軸にして、もう一度見直したいと考えています。安全できれいな海水から、美味しい・軽い・使い勝手のいい、伝統的な手作りの塩を開発することが、キッチン・ソルト、テーブル・ソルトの新しい可能性を秘めていると確信します。

平成14年4月から塩は完全自由化になりましたが、塩専売の百年の歴史は、高品質、低価格、安定供給を課題とした塩の産業革新でした。経済性や機能性を求めた塩の近代化です。これらについてはほぼ完全に達成されました。
そして今、時代が塩に求める新たなテーマは、均一な工業生産的な塩ではなく、消費者の視点から発想したナチュラルで、美味しい塩です。今こそ、多様化した食文化に最適な塩を提供するプロの知識とノウハウが求められています。
消費者の多様なニーズにいかに的確に応えていくか、幅広い角度から塩の可能性を追求し、こだわりの塩を企画提案していくこと、それが塩に携わる者の喜びと誇りです。

出典

『たべもの日本史総覧』『日本名産辞典』

写真・図版協力|たばこと塩の博物館



大川吉弘
1939年生まれ。塩問屋栃木塩業の三代目社長を継ぐ。
平成9年 専売塩元売のグループ会社「協業組合日本塩商」理事長就任。
平成11年 永年塩業界に貢献し、黄綬褒章を授与される。
平成13年 関東の塩元売を合同、日本塩商(株)に組織変更 社長就任。
平成14年 塩の完全自由化(4月)に伴い、塩のリーディングカンパニーをめざし、ジャパンソルト(株)に社名変更。
監修/大野正之
ジャパンソルト株式会社 技術顧問