研究機関誌「FOOD CULTURE No.5」しょうゆの話 醤油の歴史④
醤油の歴史④
醤油の産地と普及
第4回目の今回は、江戸時代における醤油の製法・普及・料理への利用などについて述べることにする。
江戸時代に入ると醤油の名産地が現れるとともに各地で醤油の生産が始まる。『雍州府志(ようしゅうふし)』〔貞享元年(1684)序〕には
「泉州堺酒家多造レ之世稱二堺醤油一為二名産一。然如レ今則京師酒店多造レ之又人家製レ之。堺醤油雖レ在二京師一不レ及レ用レ之」
とある。和泉の堺醤油が堺の酒屋で大量に作られ名産品になっているが、今は京都の酒屋でも多く作り、人家でも作っていて、堺醤油を使う必要がない、といっている。
『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』〔元禄3年(1690)刊〕にも「醤油堺を名物とす。大坂と両所に造りて諸国にいだすなり。」と、堺と大坂の製品が全国に出荷されているとある。
井原西鶴は『日本永代蔵』〔貞享5年(1688)刊〕に、醤油屋の話を2話登場させている。一話は、越前敦賀で、はじめは零細な味噌・醤油の製造販売を営んでいた商人が、才覚に富み、営業コストの軽減に努力した結果、家業が栄え、立派な店に改築したが、その立派さに恐れをなして客足が遠のき没落していく様子を、もう一話は、近江大津の醤油屋喜平次という者が、醤油の荷桶を担ぎ、市中を廻って計り売りをして生計を立てている様子を描いている。西鶴の作品には、醤油で財を成したり、醤油の担ぎ売りをする人が話題に取りあげられている。
江戸時代前期の17世紀中には、各所で醤油の生産がはじまり、市販用の醤油が出回り、また、「人家で製する」(『雍州府志』)、「醤油は近世家々で造っている」(『本朝食鑑』〔元禄8年(1695)跋〕)とあるように、各家庭での醤油作りも始まっている。
醤油の製法
醤油という名でその製法を記した最初のものは『雍州府志』で、そこには
「醤油。倭俗汁謂二醤油一。其製法煮二大豆一熬二大麦一各有二其量両種一。共合レ之為レ麹。及二其熟一則盛二大桶一合レ水加レ塩是亦有二其量一。而後毎日両三度以レ械滾二合レ之一。械竿頭横二小片木一其滾レ之也。似下以二櫓械一操上レ舟。故謂レ械。倭俗櫓棹謂レ械。又滾レ之謂レ掻。凡及二七十日余一盛二其糟於布嚢一置二石於其上一而搾二取其滴汁一。以レ是煮二諸物一而食レ之」とある。
煮た大豆と炒った大麦を併せて麹を作り、それに塩と水を加えて大樽に入れ、毎日2、3度船の棹のような竿でかき混ぜ、70余日後に、出来た糟を布の袋にいれ、その上に石を置いて、滴る汁を搾り取り、これでいろいろなものを煮て食べるとある。
ここにみられる製法は後世のものと変わりがないが、原料には小麦ではなく大麦が使われ、また圧搾して搾った汁にまだ火入れが行われていない。
大麦から小麦へ
『多聞院(たもんいん)日記』中にみられる「唐味噌」が醤油に相当し、そこでは大麦や小麦が使われていたことを前回述べた。しかし、江戸前期にみられる『雍州府志』をはじめ『日本歳時記』〔貞享4年(1687)序〕や『本朝食鑑』などの醤油の製法では、いずれも原料には大麦が使用されている。大豆とペアーをなす麦が小麦に定着するまでには時間を要したことがうかがえる。
元禄期に継ぐ宝永期の『大和本草』〔宝永5年(1708)序〕の「豆油(シャウユ)」の項には「豆油ハ大麦大豆ニテ作ル製法アリ又小麦ニテモ作ル」と、小麦でも作るとある。そして『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』〔正徳2年(1712)序〕になると
「凡市之醤油ハ皆用ル二小麦ヲ一也。用ル二大麦ヲ一者ハ味不レ佳ナラ」とあり、大体、店で売っている醤油は小麦を用いている、大麦を用いたものは味がよくない、といっている。この20年後の『萬金産業袋』〔享保17年(1732)序〕には、小麦を使った製法のみが紹介されている。そして19世紀の記録になるとほとんどが小麦を使った製法となる。『経済要録』〔文化10年(1813)序〕は「豆は…小麦麹と調和して、醤油を極上品に造り出すべし」と、小麦を原料に使うことが優れた製品を生み出すとしている。従って18世紀中には醤油の原料に小麦を使用することが一般化していたものと思える。
火入れと二番醤油
一方、醤油に火入れをすることも行われるようになる。『和漢三才図会』には
「これ(諸味)を搾(しぼ)って油を取る。油の色は浅く味はよくない。一沸かし煮立ててから桶に収め、一夜すると色は深黒で味もよくなる。その渣(かす)を再び塩水にまぜて攪(か)きまぜ油を搾る。これを二番醤油という。味は大へん劣る(注1)」〔()内は筆者。以下同じ〕
とある。搾った油を煮立てると色も味もよくなるとあり、18世紀の初めには火入れの効果が知られていた。また、ここには二番醤油についても言及されている。二番醤油については、すでに『多聞院日記』に「唐ミソ二番」の名で二番醤油作りが行われているが(注2)、『本朝食鑑』にも「二番醤油」の作り方が詳しく載っている。醤油作りが始まるとその搾り滓を再利用した二番醤油作りも行われるようになっている。
生醤油と増量剤の添加
二番醤油が作られる一方で、諸味に増量剤を添加した醤油も作られていた。
西鶴の『好色一代女』〔貞享3年(1686)刊〕には「当座漬けの茄子(なすび)に、生(き)醤油を掛けて」と「生醤油」の名がみえる。近松門左衛門の世話物初作『曽根崎心中』〔元禄16年(1703)初演〕の主人公徳兵衛は醤油屋平野屋の手代で、徳兵衛が丁稚に「生醤油」の樽を持たせて得意先回りをする場面が出てくる。
ここにみられる生醤油は、生一本と同じく、純粋でまじりけのない醤油のことと思える。この生醤油に対して生でない醤油も作られていた。
先の『萬金産業袋』に「是(搾り取った醤油)を此まゝにてつかふ時は、生(き)しやうゆにて風味よくかろく何程に暑気の時も、少も醭(かび)出ず、よろしけれ共、今当代のねだんにては中々売当にあはねば、中古よりもどしといふ事を仕出す。酒屋のふんごみ粕三貫目に、水壱斗塩三升いれ、よく煮立てればどびろくのことくなる。それをよくさまし置、しやうゆ壱斗の中へ、右のもとし四升か四升五合の割を以て●(もろみ:※●は左側に「酉」、右側に「离」)の中へいれ、袋にいれしめ木にてしぼる」とある。生醤油は風味もよく、日持ちもするが、価格の点でなかなか商売になりにくいので、諸味1斗に対し4升〜4升合の割合で「もどし」を加えてつくるとある。
享和3年(1803)刊の『新撰庖丁梯(しんせんほうちょうかけはし)』「日用醤油の法」にも「もどきとてしぼる五六日前に酒糟豆液(さけかすあめ)なとを入和して絞る時は、甚甘美(かんび)也といへと夏月(なつ)は勿論秋冬といへと日久しくなりては白黴(かび)出または蛆(むし)などを生じ易く、殊にだしに和調(てうがう)すれは酸気(すけ)を出して大いに佳味(かみ)を失(うしなふ)するに到る也。家醸(てづくり)のごときは極めて酒粕の類を用うることなかれ」とある。「もどき」を加えると日持ちがしなく、カビやウジが生じやすく、出汁に加えると酸味が生じ味を損じるので、家庭で作るものにはもどきを加えてはいけない、といっている。逆に、市販品の醤油にはこのような増量剤を加えたものが売られていたことになる。それには醤油の値段が高価であったことに原因がありそうだ。『江戸物価事典』(小野武雄編著)には宝暦7年(1757)から明和9年(1772)までの、江戸における下り醤油と下り酒各1石当りの値段表が載っている。その値段を比較すると、醤油は酒の1.16倍から0.62倍の範囲にある。醤油の値段が酒を上回っている時もあり、そうでない時でも酒の値の62%にとどまっている。江戸中期頃までは、醤油は酒に匹敵するほどの値がしていた。
豆を炒るところから出来上がった醤油を汲み取るところまでの製造工程が描かれている。
『広益国産考』天保15年(1844年)より

生産の中心が関東へ
しかし、19世紀に入る頃までには良質な醤油が大量に生産されるようになり、特に江戸という大消費地を抱えた関東において著しかった。18世紀末には「うどんやの汁つきをもって醤油を6文」〔『辰巳婦言(たつみふげん)』寛政10年(1798)序〕買いに行く、といった記述がみられ、醤油が身近で安価な調味料として利用されるようになっている。『経済要録』〔文化10年(1813)序〕には
「近来は関東造家も、皆能く精好なる醤油を作り、年々江府に出る所、二百四十五萬樽に及ぶことなりと雖ども、絶て餘れる説のなきを見れば、此亦頗る大なる物産なり」とある。19世紀の初め頃には関東の醸造家が上質な醤油を大量に生産し、江戸の需要を賄うようになっていた。幕末期の『守貞謾稿』〔嘉永6年(1853)頃〕も
「江戸ハ、大坂ヨリモ買漕シ、又、近国ニテモ製シ出ス。下総ノ野田町、常陸土浦等ヨリ出ル物上製也」と、相変わらず上方の製品が江戸に回漕されてはいるが、野田や土浦では上方に劣らない上等な製品を生産し、大消費地江戸に出荷している様子を伝えている。
『江戸商売図絵』三谷一馬著(中公文庫)より
オランダへの輸出
日本の醤油は海外でも評価され輸出された。長崎のオランダ商館から醤油が輸出されている様子は寛文8年(1668)からみられるが(注3)、安永4年(1775)に来日したスエーデンの植物学者・ツンベルグは日本での旅行記に次のように記している。「茶を商売するのはこの国の僻偶にある国々のみである。茶の輸出は少ない。それは支那茶に比して非常に劣るからである。
その代り非常に上質の醤油を作る。これは支那の醤油に比しはるかに上質である。多量の醤油樽がバタヴィア、印度及び欧羅巴に運ばれる。互いに劣らず上質の醤油を作る国々がある。和蘭人は醤油に暑気の影響をうけしめず、又その醗酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して、壜詰とし、その栓に瀝青を塗る。かくの如くにすれば、醤油はよくその力を保ち、あらゆるソースに交ぜることが出来る(注4)」
茶は中国に劣るが、醤油は中国産に比べはるかに上質で、この上質な醤油が大量に日本の諸国で作られていて、バタヴィア(ジャカルタ)・インド・ヨーロッパに運ばれている、オランダ人は醤油の品質を落とさずに輸送する方法を発見し、あらゆるソースに交ぜて使われる、とある。
世界の醤油のさきがけをなす土台がすでに江戸時代に築かれていた。
醤油の別称
醤油が、比較的早い時期に、日本人の基本的な調味料として認識されるようになっていたことは、醤油を「おしたじ」と呼ぶことが始まったことで分かる。
「おしたじ」とは漢字で書けば「御下地」で、「下地」とは物事の基礎となるもの・土台を意味することばである。室町時代には煮出し汁を表すことばとしても使われていた。煮出し汁は味付けの基礎をなすからである。これが醤油を指すことばとしても使われるようになる。
『女重宝記』〔元禄5年(1692)刊〕に「しやうゆはおしたし」と出てくるのを早い例として、「早く帰(けへ)ってお節の支度をせにやアならねへ。おめへン所(とこ)は味噌(おむし)の雑煮(ざうに)か。うんにや、やつぱり醤油(したじ)のお雑煮(ざうに)さ」〔『浮世風呂』三編文化8年(1811)刊〕、「醤油がすこしあらば、どうぞかしておくんなませい」〔『東海道中膝栗毛』文化11年(1814)刊〕といったように使われていく。そして『皇都午睡』〔嘉永3年(1850)〕の「食品の異名」に「醤油を下地」とあるように、「おしたじ」は醤油の別称として定着した。
煮物・吸物と醤油
醤油は基本的な調味料として各種料理に使われるようになる。
料理への使用例としては煮物が早く、前回紹介したように『鹿苑日録』の慶長4年(1599)には松茸の醤油煮がみられる。そして吸物やすまし汁にも使用されていく。『日葡(にっぽ)辞書』〔慶長8年(1603)刊〕に、吸物は「酒を飲ませるために、あるいは、歓待するために供する肴であって、汁と一緒に煮たもの」、すましは「水に溶けて、おりや沈殿物が沈んでしまった後の澄んだ味噌〔汁〕」とある。
吸物やすましは江戸初期までは主に味噌仕立であったが、やがて醤油仕立も現れる。『料理塩梅(あんばい)集』天の巻〔寛文8年(1668)序〕には醤油を使った「澄(すまし)の吸物」や「すまし汁」の作り方が紹介されている。
江戸時代には、吸物は酒に添える飲み物、汁は飯に添える飲み物、といった一応の区別がなされていたが、いずれにせよ、吸物や汁のすまし仕立には醤油を使用することが多くなっていく。そして、『皇都午睡』に「すましはおしたじ」、『守貞謾稿』に「今制、汁ニ二品アリ。味噌汁トスマシ汁也。味噌汁ハ、味曾勿論也。味曾ニ数品アリ。別ニ云。スマシハ、醤油制ヲ云也」とあるように、幕末頃にはすましといえば醤油仕立と相場が決まる。
焼物と醤油
焼物への使用例は、同じく『料理塩梅集』に「醤油かけて焼(く)」「醤油つけ焼(く)」「醤油焼」などの語がみられる。また同じ頃の『江戸料理集』〔延宝3年(1674)〕には
「萬(よろず)色付(いろつけ)とは、たまりに、醤油、酒を加えて、喰塩に三わり程からくして、下やきを常のごとくにして、出しざまに、色のよく付くように、四へん、三べんかけやき出す事なり」
と、醤油に酒などを加えた付け汁を何回も掛けて焼く「色付」という焼き方が紹介され、その一種に焼鳥の名がみえる。以後「付やき」や「色つけやき」にして食べる方法は頻繁にみられるようになる。
付焼きといえばその代表格に蒲焼がある。蒲焼の名は『大草家料理書』にみられ「宇治丸かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也」とある。『大草家料理書』は、成立年が不確かではあるが、江戸初期頃まで成立していたと思われ(注5)、『料理塩梅集』にも「うなぎも成ほどよく焼大骨取こがりと醤油つけ焼」とあるので、江戸初期には蒲焼に醤油が使われるようになっていたと思える。
因みに蒲焼は、当初は丸焼きにしていたようであるが、やがて現在のように割いて焼くようになる。『料理塩梅集』に大骨を取る、とあるので割いて焼いていた可能性もあるが、このことがはっきり記されているのは少し後の『茶湯献立指南』巻4〔元禄9年(1696)刊〕になる。そこには「鰻かば焼うなぎは大なるにあく事はなし背よりたちひらき二処串にさしあふるべし醤油をかけル」と、背開きにして醤油を掛けて焼く方法が紹介されている。
刺身と醤油
一番遅れるのが刺身への使用で、料理書でみる限りでは『黒白精味集(こくびゃくせいみしゅう)』〔延享3年(1736)序〕あたりからになる。しかし同書での刺身に対する醤油の使用例は少なく、煎酒(いりざけ)や酢・味噌(生姜酢、生姜酢味噌、山升みそ酢、辛子酢みそ、山葵(わさび)みそ酢、けし酢など)が主に用いられている。この傾向は幕末まで続き、魚の種類により煎酒、酢、醤油などの調味料を使い分けているが、次第に醤油の比率が増えていく。
醤油を漬物などに掛けて使う方法は先に紹介したように西鶴の『好色一代女』に漬物に醤油を掛ける場面が出ている。こうみてきて、幕末までには醤油は煮物・吸物・焼物などの各料理に、また付け汁や掛け汁としても使われるようになっており、江戸時代にすでにオールパーパスな調味料としての役割を果していたことがわかる。
- ※1平凡社東洋文庫の『和漢三才図会』の訳文を使用。
- ※2天文17年正月30日条をはじめ数か所にみられる。
- ※3オランダ・ハーグ文書館文書。『野田の醤油経営史料集成』(野田市郷土博物館発行)所収。
- ※4『ツンベルグ日本紀行』(山田珠樹訳注奥川書房)
- ※5『料理文献解題』(川上行蔵編芝田書店)で、川上行蔵氏はこの書の成立を推定1573〜1643年としている。
![]() |
飯野亮
1938年東京生まれ。早稲田大学英文学専攻課程、明治大学史学地理学科卒業。食物史家。服部栄養専門学校講師(食物史担当)。食生活史懇話会世話人、食生活史研究会世話人、日本風俗史学会会員。「米は日本人の主食であったか」「蘇の実験的考察」「『多聞院日記』にみる醤油と唐味噌」など研究発表多数。 |







