研究機関誌「FOOD CULTURE No.5」お醤油の来た道をさぐる・・・【前編】

執筆:嵐山光三郎

西双版納で発見した幻の醤油

はじめに

日本に醤油が伝わる以前の調味料は塩と酢であったから「塩梅(あんばい)」という言葉が生まれた。醤油の基本は、大豆と小麦から造った麹に塩を加えて醸成する。醤はヒシオである。醤油のもととなるのは未醤(みしょう)であり、つまりはミソである。ミソの上ずみになる溜液がタマリとなる。一般に醤油は、このタマリと、濃口醤油、淡口醤油の3種類にわけられ、それぞれの好みによって使いわけられている。
日本人の主食は米だとされているが、考え方によっては醤油が主食なのではないか、とも思えてくる。日本人の主食はじつは醤油であり、醤油の滋味を楽しむために、あるときは刺身、天ぷら、すき焼き、寿司、あるときは照り焼き、納豆、ヒヤヤッコ、海苔、玉子かけ御飯、モチ、焼き鳥、といったふうに、日本人の食は際限なくつづいていく。料理名をあげていけばきりがない。これは醤油味を楽しむために、他のつれあいを代えているだけのことである。ステーキだって、ハンバーグだって、スモークサーモンだって、フランス料理にだって醤油はあう。共通するものはじつに醤油のみであり、ここに醤油主食論が成立する。日本人にとって、醤油のない食生活は考えられない。
醤油は日本のみならず、世界の調味料となった。フランス料理のかくし味に使われたりするが、日本人から見ればかくす必要なんかぜんぜんない。まるごと醤油味がうまいのである。かつて、アメリカ在住日本人に対し、アメリカ人は「醤油くさい」と悪口を言った。しかし、いまや、アメリカ人は、オレンジジュースにまで醤油を一滴たらして飲むようになった。
醤油は味の神様である。あの一滴一滴のなかに神様のエキスがひそんでいる。このおそるべき調味料は、いったい、いつ、どこで生まれて日本へ伝わってきたのだろうか。醤油誕生の謎を求めて、アジア各国を取材したのがこの一文である。

醤油の母の源流へ

ディドロとダランベールを編集責任者とし、264人の執筆者の協力によって成立したフランス18世紀の『百科全書』(正式表題「一群の文筆家によって執筆された百科全書」)の「SOUIあるいはSOI(料理用語)」という項目に、こう記されている。
「日本人が調理に使用し、アジア人に人気の高いソースの一種である。オランダ人もまたこのソースを高く評価し、自国に持ち帰った。あらゆる種類の肉、特にヤマウズラとハムに合うエキスあるいはジュースの一種である。原材料はきのこ類の液汁、多量の塩、胡椒、生姜などで、これらをブレンドすることによって非常に強い風味を持たせ、同時にこの液が腐敗するのを防ぐことができる。きっちりと栓をした瓶では非常に長い年月保存がきき、この液体の少量を一般の他のジュースに混ぜると、それを引き立て、非常に快い風味を与えることができる。中国人もSOUIを製造するが、日本のものの方がより優れているとみなされている。ということは、中国よりも日本における肉料理の方が、はるかに美味であるということが言える。」
あの『百科全書』にあった、「日本でつくられた一種のソースで、同時にアジア各地で非常にもてはやされているものである」という一節は、どんな意味を持っているのだろう。「中国産の醤油もあるが、日本産のものがはるかに優れている」、とまで書かれている。「醤油」という字はつまり、「醤の油(液汁)」の意味で、味噌の液状の派生調味料をさす。味噌は中国から来たということは間違いないことなので、醤油もまた中国から渡って来たということが考えられないだろうか。醤油のルーツを探る旅は、まず、中国へと渡ってみよう。

フランス18世紀発行『百科全書』の表紙

醤油ロード、上海-杭州-径山寺

上海は、揚子江の河口にあることから、もともと海外交流の窓口だった。港の場所こそ今とは違っていたが、唐、宋の時代から、外国との交易の拠点として栄えていた。唐、宋の時代には、日本からも数多くの修行僧たちが、この上海を足がかりにして大陸へと渡って行った。修行の間に身につけた数々の大陸文化を、日本へと持ち帰っている。「径山寺味噌」を日本へ伝えた学僧・覚心もそんなひとりである。彼もまた、この上海を経由して杭州へと向かったのだ。
上海は、「人間の街」でもある。人口1600万、街中は夥しい人間がひしめき合っている。人口密度で見ると世界一の大都市だ。そんな庶民のエネルギーのもとになっているのは、当然、「食」へのあくなき欲求だ。上海の街は食べものの街である。中国の歴史に培われた世界一の食文化、自慢の中国料理にも、根底は、醤油が欠かせぬものとなっている。上海の人は無類の醤油好きだ。ほとんどの料理にふんだんに醤油が使われている。
「吃飯了嗎?(チーハンラマ)」(食事はおすみですか?)中国人が「こんにちは」の替りに交す挨拶の言葉である。無類の食べもの好き、世界一の食文化を生み出した中国人の気質が感じられる。「吃飯了嗎?」の言葉がとび交う豫園商場(よえんしょうじょう)へと行ってみた。上海市民の暮らしを支えて来た市場で、ここに上海人の大好物、「点心」の店が並んでいる。点心とは、シューマイや春巻のような中国式スナックのこと。豫園商場の点心は、何といっても、「小籠包」(シャオロンパオ)が旨い。小籠包は小さな肉マンで、中に色々な具が入っている。小籠包の具は、エビ・魚・蟹・野菜と色々あるが、いずれも醤油をちょっとつけて食べる。
上海の伝統的な料理として、たれで煮込んだ紅焼(ホンシャオ)料理がある。肉や魚を煮込むのだが、名前の由来はその調理法から来ている。肉の場合は、紅焼肉(ホンシャオロウ)、半紅焼肉、白焼肉(パイシャオロウ)とあり、実は、この料理名のもとになっているのは、調味料として使う醤油の量から来ている。醤油の量を多く使うのが紅焼で少ないのが白焼。中国料理にとっても、醤油は、色や香りや味を引きたてる調味料として、もはや欠かせぬものとなっている。
日本の醤油の祖といわれる「径山寺味噌」の故郷を訪ねて、杭州へと向ってみた。杭州の市場で、日本に今も細々と残る「径山寺味噌」はないかと捜してみた。揚子江の流域は大豆の加工食品が盛んに作られているところだ。市場には、大豆を加工した味噌のようなものを入れた樽が沢山並んでいたが「径山寺味噌」らしきものは見あたらなかった。「甜豆豉(カントウチ)ナイカ、甜豆豉」。径山寺味噌は中国では「甜豆豉」という。「甜」は「甘い」という意味で、「豆豉」は味噌のことである。
市場の店を片っぱしから歩いて鸚鵡(おおむ)のように、カタコトの中国語を繰り返してみた。筆談で「径山寺豆豉」としつこく書いて訊いているうちにいきなり、「チャンユーテン」と、威勢の良い掛け声で客の呼び込みをやっていた市場の老人が、叫ぶように言った。チャンユーテンが、「醤油店」のことだとは気がつかなかった。確かに杭州にも「醤油」を売る店がある。「醤油店」なら「甜豆豉」もあるかも知れない。
河沿いにある大きな「醤油店」には、夥しい種類の「醤(ひしお)」が並んでいた。「醤」とは、食べ物を塩漬けにして発酵させた食品のことだ。発酵させることにより、素材とは違った独得の旨味を引き出す。味噌・醤油も、この「醤の文化」から生まれたもので、中国には、「醤」の種類が何百種とある。材料や製造の方法によってそれぞれに名前が付けられているようだが、大きく次の四つに分けられる。

●草醤(クサビシオ)
野菜を塩漬けしたもの。漬物の類。
●穀醤(コクビシオ)
大豆などの豆や穀物を原料としたもの。味噌・醤油もこの仲間に入る(豆類を「豆醤(マメビシオ)」として分けることもある)。
●魚醤(シシビシオ)
魚やエビ・カニなどを原料としたもの。魚醤や塩辛などもこの仲間に入る。
●肉醤(シシビシオ)
牛や豚、獣肉などを塩漬けして発酵させたもの。

中国の自由市場。露店に醤類が数多く並んでいる。
中国・杭州の「醤油店」。様々な醤が並んでいたが、「径山寺味噌」はついに発見できなかった。
【左上】中国の「草醤」。日本で言えば野菜の漬物で種類は豊富。
【右下】中国産の醤油。大豆の香りが強く、味は固い感じ。

日本の醤油の故郷・径山寺

中国浙江省余杭県徑山寺。学僧・覚心が修行をした寺は、西湖の西の山中にあった。杭州から小型バスに乗って半日ほど西へ向かった地点である。かつては「径山興聖万寿禅寺」として、華南の五山のひとつに数えられる名山であった。「西遊記」で名高い唐の玄奘・三蔵法師が、赤児の時にこの寺の法明和尚に拾いあげられて育てられたという、由緒正しい寺でもある。
しかし、今はその名を知る人も少なかった。わずかに、この辺の山で竹林伐採の仕事をしている徐さんという人が、寺のある場所を知っているということで、道案内を頼むことにした。徐さんは毎日この山に入って竹林伐採の仕事をしているという。さすがに健脚だ。こちらはたちまち呼吸が苦しくなって、後をついて行くのが大変だった。
徐さんの足が急に早くなった。道の端の方を指して何やら叫んでいる。「前門!(チャンメン)、前門!」徐さんは何度も同じ言葉をくり返して地面を指さしていた。ここに前門があったと言っているのだ。すでに前門は跡形もなく消えていた。ここが前門の跡なら頂上も間近であろう。元気を取り戻し、再び山道を登って行った。徐さんがまた大きな声を上げて緑の木立の方を指さした。木立の葉隠に、朱塗りの鐘楼がチラリと見えた。登山を始めて3時間後に頂上へと着いたのだ。こここそが、日本の醤油の故郷・径山寺なのだ。躍るような気持で、頂上へと駆け登った。頂上には何もなかった。
かつての名山、径山寺の寺影は、跡形もなく消え去っていた。頂上の脇に朱塗りの鐘楼がポツンと残されている。「来、来、来」徐さんは、鐘楼の脇をしきりに指さしている。そこには、かつて本堂があったと言っているらしい。その前に青銅の香炉がひとつ残っていた。
日本の味噌・醤油の文化は、中国のどの辺から日本へと伝わって来たのだろうか。「径山寺」が姿を消してしまった今となっては、すでにその手がかりを得ることも出来ない。弱りきっていると、杭州の町の「醤油店」の主人に、興味深い話を聞いた。「雲南に行くと、今でも手造りの味噌や醤油を造っているところがある……」と言うのだ。雲南といえば、日本文化の故郷とされている地である。熱心に話してくれる主人の話を唯一のたよりにして、われわれは、遥かな雲南へ向かうことにした。

昆明へ、中国大陸火車の旅

中国大陸には、縦横に航空網が敷かれているが、この広大な大陸を味わうには、火車の旅を体験してみないことには話にはならない。ことに、この成昆鉄道は、険しい山岳地帯を走り、窓の外は生きた歴史そのものだ。窓の外を歴史の風景が夢の光景となって通り過ぎて行く。全長1100キロ間にトンネルが427、鉄橋は653あった。中国13億の民のとてつもないエネルギーが感じられる鉄道だ。
成都站(えき)を出発して間もなく、服務員が夕食の注文を取りに来た。軟臥車(日本のグリーン寝台車)の食事は、朝昼晩ともセットメニューになっているが、他の料理も自由に注文することが出来る。メニューを良く見ると、パンとかオムレツとかの西洋食もあるが、値段からして中国では高級食のようだ。せっかくの中国大陸火車の旅だから、夕食は中国料理を注文することにした。
服務員が夕食の時間だと知らせに来た。食事の前に食堂車についている厨房を特別に見せてもらった。円い中国鍋を手にしたコックが汗だくになって調理をしていた。鍋の下でガスの赤い焔が踊っている。強い火力。そう、中国料理はこの火の強さが命なのだ。コックは手際よく調味料で味付けをしていく。ここでも、醤油がふんだんに使われていた。
食堂車のテーブルの菜譜(メニュー)を見るとすべて漢字で書かれているが、よく見ると、その料理がどんなものであるかおおよその見当がつく。料理名は、「材料」「切り方」「調理法」「味つけの調味料」などを組み合わせたものが多い。たとえば「牛肉絲」とあれば牛肉を細切りにしたものだし、「片肉」とあれば肉を薄く切ったもの。調理法では「炒菜」とあれば「炒めもの」。「炸菜」とあれば「揚げもの」。「蒸菜」は「蒸しもの」で、「湯菜」は「スープ」のことである。「醤」という文字を見つけて「醤油味」と早合点してはいけない。これは食べてみてわかったのだが「味噌味」だった。「醤油味」は「醤油」と書いてある。「醋」とあれば「酢」のことで、「魚醤」とあれば「魚の塩辛汁の味つけ」なのだ。このように、味噌・醤油は中国料理でも貴重な調味料となっている。

中国の醤油工場。独得のカメに入れて8か月ほど寝かせてつくる。
中国・福建で見かけた醤油工場。

西双版納(シーサンバンナ)で発見した幻の醤油

醤油のルーツである〝原始の醤油〞を捜しはじめると、旅は果てしなく迷路をさまようことになった。これからは辺境の地・西双版納へむかうのだ。果たして、日本の醤油の祖先とめぐり逢うことが出来るだろうかという不安がうずまくが、こうなれば、エーイ、行きつくところまで行くしかないのだった。
プロペラ機はバタバタと飛びいつのまにか思茅空港へと到着した。雲南省の最南端。ここは亜熱帯地方の真只中なのだ。思茅から西双版納の中心の街・景洪までは、長途汽車(長距離バス)に乗って行く。およそ11時間だ。
西双版納への山道は、どこもかしこも緑に輝く照葉樹林に包まれていた。カシとかツバキのように、葉が広く、明るい陽光にチカチカと光ってみえる常緑広葉樹の樹林帯。民族学者のなかには、この樹林帯には共通した生活様式が見られ、これを「照葉樹林文化」と呼ぶ人もいる。照葉樹林帯は、ヒマラヤの方から中国の揚子江流域へと広がり、さらに江南地方へと伸びて、日本の西半分もこの樹林帯へ入っている。東南アジアから東アジアへ、亜熱帯から温帯へとかけて広範囲に広がっている照葉樹林帯では、食生活においても共通した特徴が見られる。たとえば納豆がそうである。純日本風な食べものと思える納豆も、中国の雲南ではどこでも見られ、タイの山岳地帯やインドネシアにも同じような食べものがあった。「照葉樹林文化」として、この地域に共通して見られる食生活の特徴をあげてみよう。

①麹を使って酒をつくる技術。
②お茶の葉を飲料に使ったり食べたりする。
③粘っこい食物を好んで食べる。(納豆、餅がその例。)
④魚醤を食べる。(魚介類に塩を加えて腐敗を防ぎ発酵させた塩辛の類。これを濾(こ)すと秋田のショッツルのような「魚醤油」となる。)
⑤馴れずしを食べる。(魚とご飯を塩で漬けた発酵食品。)

こう見てみると、「照葉樹林文化」は、豊かな発酵食品を生み出していることがわかる。発酵食品は、元来は、生活の知恵として生まれた保存食品だった。照葉樹林帯にバラエティに富んだ発酵食品が誕生したのは、その気候風土に関係がある。「醤」などの味を深めるには寒い風土が適しているともいわれるが、照葉樹林帯の高温多湿の気候風土は、保存食品の発酵を助けるもとになっていたはずである。
醤油の原料として決定的な役割を果す大豆は、中国の東北地方が原産地とされている。ソ連の植物地理学者バビロフの説によるものだが、にわかには信じがたい。栽培植物は、まず原産地で料理法や加工法が発明されると考えるのが自然である。大豆の料理や加工法が中国のなかで最も豊富で、しかも集中的に分布しているのは、東北地方ではなく、南部、おもに揚子江流域の照葉樹林帯および華南の福建・広東省というのが正しい。
どちらが原産地であるのか、確かなところはわからないが、照葉樹林帯では大豆の加工食品が盛んにつくられており、「醤」などの発酵食品との縁が深い。味噌・醤油の誕生の秘密に迫る鍵が隠されているという思いを強くした。
西双版納は、雲南省の最南端、ビルマ、ラオスの国境近くにある族自治州。傣(タイ)族をはじめ、ハニ族、イ族、チーノ族、ミヤオ族などの少数民族が住んでいる。街を行き交う、青や赤や黄と色とりどりの民族衣裳の女性たち。鮮やかな色に包まれた景洪の町は、これまで旅した中国の風物とはすべてが違う。ビルマとラオスの国境沿いに位置するこの地は亜熱帯で、タイの地方都市に近い。
少数民族たちは、この景洪の町の周辺に、それぞれ集落をつくって住んでいる。特にメコン川流域には、そんな集落が数多く点在し、奥へ行けば行くほど昔ながらの暮しを守った村がある。日本の味噌・醤油の元祖ともいえる、原始の手づくり醤油に出逢うことが出来るかも知れないという期待がふくらんだ。まずメコン川の渡し舟に乗って、「水傣(スイタイ)族」の村に行ってみることにした。
族の女性たちはとても働きものが多い。朝から夕暮れまで、コツコツと働き続けている。農閑期を迎えても、女性たちの仕事はいろいろと多い。開門節は、穫り入れた収穫物を使って様々な保存食品をつくる季節でもあるのだ。水傣族の村の、気のいい小母さんに、いくつかの保存食品のつくり方を見せてもらった。高床式の家の中まで招き入れてくれ、小母さんは黙々とつくって見せてくれた。驚いたことに、小母さんがつくったものはほとんどが、「醤」の技術を使ったものだった。西双版納の山奥には、長い間培ってきた「醤の文化」が今もなお脈々と息づいていた。
日本の味噌・醤油の元祖といえる、大豆を加工した「醤」はないのかと小母さんに聞いてみた。水傣族の人たちも、確かに味噌・醤油を調味料として使っていた。小母さんのお祖母ちゃんの代ぐらいまでは、手づくり味噌・手づくり醤油をつくっていたが、今では、景洪の町に様々な産物を売りに行った帰りにビンづめを買ってくるという。手づくり醤油は西双版納の集落からも姿を消していた。
小母さんは「アイニイ族の村に行けば大豆を加工した〝醤〞をつくっているかも知れない」と言う。味噌、醤油とは違う大豆の「醤」とは、いったいどんなものだろう。水傣族の村からメコン川に沿って、更に南へおよそ30キロ。ビルマとの国境近くにあるアイニイ族の村へと行ってみた。
通訳と案内を頼んだ西双版納自治州の役人が、村中の家々を尋ね歩き、大豆の「醤」のある家を捜して来てくれた。家の中に入ると、ここでもまた、気のよさそうな小母さんが囲炉裏の前へと招き入れてくれた。小母さんは、囲炉裏の上のカゴから、まるい煎餅のようなものを取り出した。これが、大豆の「醤」なのだろうか。ニオイをかいでみると、確かに大豆の香りがする。「これは、このまま食べるのか?」と、尋ねると、小母さんは、「食べてみるか」という具合に、ニッコリと笑って料理をはじめた。大豆の煎餅のようなものを、長いハシを使って囲炉裏の火であぶる。わずかに、こうばしい香りが漂った。小母さんは、それを小さな臼に入れ、塩と細かく切った唐辛子と、香料のような草を混ぜてつく。つき上ったものをお碗に入れ、熱い湯をさしておもむろに眼の前に突き出した。ひと口すすってみる。飲んでみて、「味噌汁だ」と、日本語で叫んでしまった。まぎれもなく、味噌汁だった。納豆汁のような味がした。とすると、あの煎餅のようなものは豆豉に違いない。豆豉とは納豆を団子状に固めたものである。これも照葉樹林文化特有の発酵食品なのだ。アイニイ族の小母さんは、これを「豆豉餅」と言っていた。熱湯にとかして食べたり、料理の味付に使ったりするという。これまた、保存食品であり調味料ではないか。小母さんは身振り手振りを混えて、「豆豉餅」のつくり方を細かく教えてくれた。
ひと昔前までは、日本の農家でもよくつくっていた味噌玉の造り方と似ている。これこそ、日本の味噌の元祖というものである。自然の恵を生かしたこの見事な加工技術はどのように誕生したのだろうか。西双版納の人々の生活の知恵の豊かさには、計り知れない奥の深さがある。
西双版納の山奥で、偶然「味噌汁」に出会った。「味噌汁」は、日本固有の味と思っていたが、そんなことはない。この味噌汁は、唐辛子が少量混ざっていて日本のものに比して辛いが、塩味は薄い。発酵が十分でないため大豆の生の味が濃い。納豆汁と大豆汁の中間の味で、素朴な香りがあった。ただし、湯をそう多く入れないため、日本の味噌汁よりも濃く、ドロリとしていた。こうなると、〝幻の手づくり醤油〞が、この西双版納に残されているはずだという確信がわいてくる。メコン川沿いに点在する小数民族の村々を、ひとつひとつ訪ね歩いてみることにした。

西双版納の人たちも味噌・醤油を盛んに使っている。
水傣族の村で発見した「蟹醤」。沢蟹をつぶしてつくる。
西双版納へと向かう道。人々は自然と共にのどかな暮らしを続けていて、遠い昔を思い出す。
西双版納の中心・景洪の町でも様々な醤が売られている。計り売りの醤を包むのはバナナの葉。
旱傣(カンタイ)族の村。かつての日本の農村を偲ばせ、遊ぶ子供の表情は日本の子供たちにそっくり。
魚や肉を藁で包んで煮焼きする。
根菜の漬物。これも「草醤」の一種。
西双版納、旱傣族のモミ干し。稲作と醤文化は無縁ではない。

〝幻の手づくり醤油〞

「テヅクリショーユ、アリマシタ!」通訳兼ガイドをお願いしていた西双版納自治州の役人が、走って来て叫ぶように言った。景洪からメコン川に沿って40キロ、旱傣(カンタイ)族の村。広場で待っているようにと言い置いて、しばらく姿を消していたが、彼は一軒一軒尋ね歩いて来たらしい。「村イチバンノ、ビジンノ奥サンガ、作ッテ見セテクレルト、言ッテイル」
確かに、〝幻の手づくり醤油〞はあった。奥さんに教えてもらったその造り方は、神秘的とも思えるような方法だった。奥さんはまず、台所にある小さな瓶のフタを開けて見せてくれた。黒褐色の液体が入っている。指でなめてみると大豆の香りがする。まさしく醤油だ。日本のものよりも大豆の香りが強く、味も固い感じがするものの醤油であることは間違いない。まだ、30歳を過ぎたばかりと思われる、美人の奥さんが自分で造ったものだという。今すぐ造る過程を全部は見せられないが、今は、この醤油のもとを造るところなので、それを見せてくれると言ってくれた。美人の奥さんは、早速、醤油造りにとりかかった。
手づくり醤油の原料の造り方は、アイニイ族の「豆豉餅」に似ていた。大豆の加工品のおおもとは一緒なのだろうか。次は、この原料を使っての醤油造りだ。
何と複雑な手法だろう。〝手づくり醤油〞は、長い時間をかけ、神秘的な発酵を促して造るらしい。それにしても、一体いつ頃、誰がこんな神秘的な手法を考えついたのだろうか。
中国には、紀元450年頃著わされたという「斉民要術」という農業技術書がある。魏の国の賈思勰(かしきょう)という役人が書いたものと伝えられているが、農業のやり方から、醤の造り方、豉の造り方など、様々な醸造技術に至るまで細かく記されている。その技術の優秀さもさることながら、こうしたことを書きまとめておく、当時の中国の文化水準がいかに高度に発達していたかを示す名著ともいわれている。
西双版納の手づくり醤油の手法は、この「斉民要術」にも劣らぬ優れた技術を伝えていると言える。瓶につめて保存されている〝手づくり醤油〞が、にわかに輝いて見えた。
西双版納で〝幻の手づくり醤油〞を発見した。西双版納の山々は、遥かにビルマ、ラオスへと続き、その昔、傣族のひとたちは、メコン川に沿って山を越え、タイの国へと南下して行ったという。こうした〝手づくり醤油〞の手法は、タイにも伝えられているのだろうか。ぼくらの心はすでにタイの山岳地帯に飛んでいる。しかし、その前に「醤の由来」を求めて韓国を訪ねることとなった。

韓国は、大陸文化のかけ橋

日本の歴史上初めて「醤」の文字が登場するのは、文武天皇の大宝元年(701年)に藤原不比等らによって制定された「大宝律令」である。これは、原始封建国家の職制を確立したもので、中国の「周礼(しゅらい)」に学んだものといわれている。「周礼」には「醤用百二十甕(かめ)」の記述があったが、「大宝律令」では「醤院(ひしおのつかさ)」の制があり、租税として米の代りに醤を貢納させ、役人の給料とした。その後、奈良時代の木簡には「醤」の文字が盛んに現われ、すでに一般大衆の生活の中にも「醤」はかなり普及していたものと思われる。「大宝律令」の制定は、「周礼」に遅れること1300年の後世となる。しかし、日本でもそれ以前から「醤」の文字を目にしていた人がかなりいるはずだ。応神天皇の367年、朝鮮半島の国、百済の使者王仁が、日本の朝廷に論語十巻と千字文を献上している。
論語には、孔子の言葉、「不得其醤不食」(その醤を得ざれば食わず)の一節がある。『味噌醤油百科』を著わした川村渉氏の説によると、王仁を学問の師と仰いだ皇子宇治若郎子(うじのわきいらつこ)らは、王仁から醤の講釈を聞いており、王仁は秦の皇族の末裔だとも伝えられ、当然、「周礼」の「醤百二十甕」も知っていたと思われる。応神天皇の時代は、大和朝廷が国家を統一した時ともいわれている。日本に古代国家が成立したころ、すでに「醤」の文化も日本へと伝えられていたのかもしれない。
飛鳥、白鳳の時代を経て、奈良時代へ入ると、記録や木簡、文書などに「醤」の文字が賑やかに現われ、その中に「未醤」という文字が見られる。天平勝宝8年(756年)、東大寺に完成した校倉造りの宝物殿、正倉院に収められている聖武天皇の遺物の古文書の中には、「味醤」という文字が書かれている。
平安時代に入ると、「未醤」という文字が見られ、これらは全て「みしょう」と呼ばれていた。平安時代には、「未醤」は「高麗醤」(こまびしお)とも呼ばれていたという。「高麗」とは、朝鮮半島に住んでいた人たちのこと。これは、「醤」の文化が日本へと伝えられた道筋を暗示してはいないだろうか。弥生時代に日本へ渡来したといわれる水稲耕作などの大陸文化は、北方から来たという説と南方からとの二説ある。
黄河の流域で栄えた文化が中国の東北地方から朝鮮半島へ伝えられ日本へ入って来たとする説と、中国の華南から海へ出て黒潮に乗って西の方から九州方面へ伝えられたという説である。どちらが有力とはっきりは言えないが、「未醤」に関する限り、「高麗醤」とも呼んでいたところから朝鮮半島と深い関係を持っていたことは容易に想像できる。

韓国・河回村。藁葺きや瓦屋根の家々が肩を寄せ合うように集落をつくり、昔ながらの生活を続けている。
韓国の11月・12月はキムチを漬けるシーズンで「キムジャン」という。河回村の小母さんたちは、その準備で忙しい。

韓国料理の味噌・醤油

ところで、韓国の人たちは味噌・醤油をどんな風にして使っているのだろう。ソウル市民のエネルギーの源ともいわれる「南大門市場」へ行ってみた。あるある。キムチの材料から様々な塩辛類、味噌類。そして、ビン詰めの醤油があった。韓国独特の味噌だまりから造った「カンジャン」、つまり、日本の「たまり醤油」のようなものである。
韓国料理の味つけといえば、すぐにニンニクと唐辛子と思いがちだが、実は、味つけの中心は醤油(カンジャン)と唐辛子味噌(コチジャン|唐辛子粉を入れた辛い味噌)なのだ。料理の種類によっては、ニンニク(マヌル)、ゴマ油(チャンギムル)、唐辛子粉(コチュカル)、しょうが(センガン)なども使うが、これに必ずといっていいほど醤油と味噌が加わる。醤油(カンジャン)をちょっと舐めてみた。大豆の香りがしてコクがあるが日本の醤油のような繊細な味とはちょっと違う。塩気が多く、熟成の期間が短いのかまだ若い醤油という感じがする。
韓国では醤油(カンジャン)をこのまま単体で調味料に使うことは少ない。醤油に味噌、ニンニク、コチジャン、ねぎ、唐辛子などを入れて、特製醤油「薬念醤(ヤンニョムジャン)」を造って使う。この「薬念」が万能調味料となるのだ。
古くから「豆醤(まめびしお)」の伝統を持っている韓国では、調味料としての醤油の位置はかなり高い。韓国における祭祀の食物には、醤油とゴマ油以外の調味料は一切使われないという。韓国料理に欠かせぬ唐辛子やニンニク、しょうが、塩辛などは絶対に使わないのだそうだ。
では、こうした調味料をどのように使っているのだろうか。大衆食堂へ行ってみた。韓国料理といえば、まず、何といっても「焼肉」だ。ひと口に焼肉といっても種類は色々ある。日本でもお馴染みの「カルビ焼」「ロース焼」「ホルモン焼」などの網焼や鉄板焼もあるが、ここは伝統的な「プルコギ」を味わってみた。「プル」は、「火」、「コギ」は「肉」という意味で、やや高級焼肉だが大衆食堂にもある。
まず、タレで味つけされた牛肉が運ばれて来た。肉は細かく切ってよくたたいてある。味つけに使われているのが、例の「薬念」、醤油と味噌に様々な調味料を加えて造った特製醤油だ。その店その店によって秘伝の味がある。ねぎとニンニクを薬味として効かせている。これを真中に穴のあいたジンギスカン鍋の上にタレと一緒に入れ、野菜や春雨と一緒にあぶり煮して食べる。焼肉というより、いわば韓国風のすき焼だ。肉がやわらかく野菜の味がしみて旨いが、ちょっとタレの甘いのが気になる。そんな時はテーブルの上に置いてある唐辛子味噌(コチジャン)を使って自分で味を調節することも出来るのだ。頼めば醤油(カンジャン)も持って来てくれる。最後に、鍋の周囲にたまった肉汁にサリというソバを入れて煮込んで食べる。この時、唐辛子味噌を混ぜて食べると、辛味とコクが出てまた一段と旨くなる。
こうして、醤油と味噌は、韓国料理にとっても欠かせぬものとなっている。地方の農村に行くと今でも醤油や味噌を自分の家でつくっているという。韓国にも〝手づくり醤油〞があったのだ。さらに北へ、江原道の農村へと向かうことにした。

味噌玉からつくる醤油

ソウルから東へ約200キロ。海辺の優雅な都市、江陵市(カンヌンシ)へと着く。江陵から北へ10キロほど行った「船橋村」は、藁葺屋根の静かな農村。この村では、今でも手づくりの味噌と醤油を造っているという。案内役を頼んだソウルの大学生・柳さんが、丁度いま、味噌と醤油の原料を造っているという家を捜して来てくれた。
韓国の味噌・醤油の原料は「味噌玉」(メジュ)である。小柄な奥さんが、土間の竈へと招き入れてくれた。竈には、釡と大きな鍋がかかっていた。
奥さんは、煮上った大豆をボールに取って庭へ運び、臼に入れて細い棒のような杵で大豆を粘り気が出るぐらいまでつくと、再びボールに取って縁側へと運ぶ。縁側には白い布と油紙を重ねて広げ、一辺が30センチぐらいの升の底をくり抜いたような木枠についた大豆を入れる。布で包んで踏みつけ、木枠の型にしっかりと押し込めた。木枠を引き抜いてメジュの原型の出来上り。
これを藁でしっかりと縛り、家の中の天井などにつるして2、3週間がかりで発酵させるのだ。後は納屋の中に作ったメジュ棚で約1か月、乾燥、熟成させるとメジュが出来上る。
韓国では、このメジュから、味噌(テンジャン)と醤油(カンジャン)を造る。醤油はどうやって造るのかと聞くと、奥さんは、納屋のメジュ棚からレンガのようなものを取り出して来た。メジュを切って寝かせておいたものらしい。カラカラに乾き、黒いカビが生えている。この天然のカビこそ醤油や味噌の味の決め手となるものなのだ。奥さんは、メジュを水に入れ、表面をタワシでこすってカビをきれいに洗い落した。洗ったメジュをチャントク台のところに持って行く。チャントク台とは、醤類を貯蔵する大・中・小の様々な瓶を並べて置くところ。
瓶のフタを開き、底にメジュを井桁に並べ、用意しておいた塩水を注いで瓶いっぱいにする。その中にナツメと唐辛子と消し炭を入れてフタをした。奥さんは「味つけと毒消しのため」だという。
3日目から、毎日朝早くにフタをとり新鮮な空気と太陽にさらしてかきまぜる。昼間はフタをして2か月ほど熟成させると出来上り。液体を取り出して濾し、一度沸騰させてこれをさませばカンジャンとなる。瓶に貯蔵しておいて少しずつ使うのだという。
この造り方は、中国、辺境の地、雲南で発見した手づくり醤油とそっくりだった。毎日、朝露にさらしてかき混ぜる方法まで寸分の狂いがない。〝幻の手づくり醤油〞は、韓国の農村にもあったのだ。中国大陸から朝鮮半島を通って日本へと入って来た「醤油の来た道」が、にわかに現実のものとなって思われて来た。

庭に並べられた醤類を貯蔵するためのカメ。

木浦の海・多島海

全羅南道・木浦市。朝鮮半島の先端にある港町だ。木浦は全羅南道の一大漁業基地でもあり、韓国の人たちの食生活には欠かすことが出来ない塩辛の本場でもある。 韓国の塩辛の種類は実に多い。この全羅南道だけでも80種に及ぶという。この種類の多さは、原料となる魚の名前の他に、同じ魚でも魚肉や内臓、魚卵など、使う場所によって違った呼び方をするためらしい。
韓国の塩辛は、そのまま食べるだけではなく、キムチを漬ける時や煮物などの調味料としての役目も持っている。塩辛の出し汁を魚の煮物の味つけなどにも使うという。塩辛の液を濾すと魚醤油となる。つまり、醤油と同じような調味料としても使われているのだ。
韓国には魚醤油はないのかと聞くと、韓国では醤油は豆醤を使って造り、魚醤油はないという。塩辛は、副食品と調味料とを兼ねた魚醤までにとどまっているようだ。 木浦の西の海は黄海。その先には中国大陸がある。中国の沿岸部にも魚醤や魚醤油の産地がある。そして、沿岸部を更に先へ進むと、魚醤や魚醤油の本場、東南アジアの国々がある。韓国の魚醤文化は東南アジアの国々の魚醤文化と、深い関係があるのだろうか。

韓国・木浦の海に漁に向かう取材班。エビ獲りの最盛期。

『特集お醤油の来た道をさぐる・・・』の後編は次号に掲載する予定です。どうぞご期待ください。※執筆のための参考文献も、後編に一括して記載いたします。

【写真提供】
『お醤油の来た道』嵐山光三郎・鈴木克夫著(徳間書店刊)より転載いたしました。


嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)
昭和17年東京生れ。元平凡社「太陽」編集長。
作品は多岐にわたり「ピッキーとポッキー」(童話)から「チューサン階級ノトモ」「新随想フツーの血祭り」「男」「世間」などのエッセイ、「口笛の歌が聴こえる」「恋横町恋暦」「兼好殺人秘抄」などの小説と、他にも縦横無尽の活躍をしている。食物料理本の名著「素人包丁記」で第4回講談社エッセイ賞を受賞している。