研究機関誌「FOOD CULTURE No.7」世界を駆ける江戸の味―江戸の食から世界の食へ

講師:渡辺善次郎

世界を駆ける江戸の味―江戸の食から世界の食へ

「江戸時代における日欧の文化水準の比較」をテーマにした前号(No.6)は読者に少なからぬショックを生みました。“江戸時代の日本は、封建制度の下にあって圧制に苦しみ、不自由で貧しい生活を強いられていたのではないか”そんなイメージが覆されたからです。当時来日した西欧諸国の要人は、江戸時代の日本について全く逆の評価をしており、例示された彼等の様々な証言から、西欧列強に劣らない江戸時代の高度で豊かな文明社会の姿がうかがえます。今号では江戸にスタンスを置いて、当時の食文化を披露していただきます。今や世界の食へと展開してきた、江戸の食。

世界的な日本食ブーム

2000年の夏、クイーンエリザベス2世号で英国サウザンプトンからニューヨークまで1週間の船旅をした。毎食のレストランと座席は指定されているが昼食はビュッフェのヴァイキング料理を選ぶことができる。そこを覗いて驚いた。毎日かなりのスペースで握り寿司や海苔まきが並んでいた。握り寿司はマグロやサーモン、海苔まきはカッパやタクアン、それにガリも醤油も割箸もそえられている。
はじめこれは日本人乗客へのサービスかと思った。しかし乗客千人余のほとんどは欧米人で、日本人はわずか20数人にすぎない。これは一般乗客を対象とした料理で、別に日本人への特別サービスではなかった。実際欧米人たちが何の異和感もなく箸で寿司をつまんでいた。寿司はもやは世界的ファースト・フードになった。
パリのドゴール空港にも、ロンドンの高級デパートにも、ニューヨークのマンハッタンにも、いや、欧米ばかりか、アジア、豪州、南米まで、寿司が健康食品、「ハイテク日本」の象徴として進出している。寿司SUSHIはすでに世界語である。
寿司だけではない。醤油をはじめ、刺身、天ぷら、豆腐、焼鳥、ラーメン、牛丼、うな丼、カレーなど多くの日本食が世界中に広がっている。これまで日本食は生魚食などきわめて特殊なので海外では受け入れられないといわれてきたが、近年の日本食ブームはそれが間違いであり、日本食は立派に世界に通用する優れた料理であることを証明した。これらの料理はいずれも江戸以来の長い歴史のなかで生み出されてきたものである。

ロンドンにもある回転寿司・バー(まっぷるマガジン ’03-04『ロンドン』/昭文社より)

ゼロからのスタート

江戸の食文化はほとんどゼロからスタートした。
都市としての江戸のはじまりはおよそ400年前の天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入ってきてからである。当時の江戸城はすっかり荒れ果てた小城で、附近には100戸たらずの民家があっただけだったという。
それが徳川幕府の成立によって天下の総城下町となるや、全国諸大名とその家臣団をはじめ、商人、職人、人足などが集住し、18世紀のはじめには人口100万を超える世界一の巨大都市に発展した。
「江戸は諸国の人の掃き溜め」といわれるほど全国各地からさまざまな人々が集ってきた。そうした人々は当然それぞれその出身地の食文化を背負ってきた。江戸には全国の食文化がもちこまれた。それら各地の食が江戸で出合い、たがいに交流と融合を重ねながら次第に新しい江戸の食を生み出していく。江戸の食はまさに全国の食文化の集大成であった。
江戸の初期には、人口は急激に増加したが、食事は古くから進んでいた上方から見ればまったく粗野で貧しかった。まともな料理もなく、その素材もなかった。良いものはみな上方から下ってきた。たとえば酒、醤油、菓子などである。それらの高級品がいわゆる「下りもの」で、その他の地元附近で生産されたものは「下らないもの」、つまり下級品を意味した。
だがやがて江戸時代も後半に入り、経済的にも文化的にも江戸が上方を凌ぐようになると、江戸の料理も独自の味覚を確立して、上方料理を上まわるようになった。とくに江戸文化が爛熟期を迎えた19世紀初頭の文化・文政期には、「食は江戸」、「江戸の食い倒れ」といわれるような状況を生みだし、江戸料理は日本の食文化の頂点に立つに至った。
当時いろいろな人々が江戸、大坂、京都の食文化を比較している。たとえば江戸の戯作者滝沢馬琴は上方旅行の印象をその『羇旅漫録』に記しているが、京都についても、大坂についても「悪いもの3つ」のなかの1つに「料理」をあげている。
また江戸にやってきた大坂の狂言作者西沢一鳳が記した『皇都午睡』でも、3都の食ランクづけでは、江戸が1位、大坂が2位、京都が3位におかれている。上方人の目から見ても食については江戸が日本一であった。

江戸日本橋・魚市(『江戸名所図会』)

江戸は食の大衆消費都市

江戸の食文化をそれまで発展させた最大の基盤は、食に対する江戸人のきわめて強い消費性向である。
江戸の人口100万の半分は、もっぱら農民から徴収した年貢によって生活する完全な消費者としての武士階級であった。吝嗇(りんしょく)や蓄財を軽蔑し、こまかい銭勘定を嫌って、見栄や意地を張る武士の風儀が、自然と町人たちにまで広がっていた。
幕府や諸藩の要人たち、それにとりいる御用商人や請負業者などの間では、金に糸目をつけない派手な社交、接待がさかんに行われた。その下で働く職人たちも「宵越しの銭はもたない」といった江戸っ子気質を誇りにしていた。たしかに残るほどの収入はなくても毎日食べていけるぐらいの銭はいつでも稼げる条件はあった。
それは「江戸の華」とまでいわれた火事の多さである。江戸の町は2、3年に一度は大火に見舞われている。江戸のおよそ270年間に「江戸大火」と称される火災だけでも約100回に達している。火災多発都市江戸には、その復旧工事がほとんどいつでもあった。そのため大工、左官、鳶などをはじめとする諸職人や土方、人足たちは働きさえすれば、とくに貯えなどしなくともあまり生活には困らなかった。
商人ならば元手を貯めて商売の拡大を図るかも知れないが、身体だけが元手の職人や土方、人足たちにとってはまず食べることが第一で、それがまた最高の楽しみでもあった。まして保険も銀行もなかった当時では、一度火事にでもなればすべて灰燼に帰してしまうから、家具や衣類よりむしろ飲食に銭を使ったのである。
こうして江戸では、武士の公用族や町人の社用族、成金、復興ブームに乗る職人たちなどさまざまな人間がいりまじって、きわめて食に対する消費性向の強い都市社会が形成された。封建的な身分社会のなかでも、ここでは銭さえ出せばだれでも美味な食が楽しめた。食の世界では自由に身分の枠を越えることができたのである。
また江戸は異常なほど男子人口の多い都市であったことも重要である。18世紀の享保年間には男子人口は女子人口の2倍にも達していた。単身赴任の大名家臣団、男ばかりの江戸店。江戸で一旗あげようと集まってきた男たち。出稼人や無宿人など、とかく独身男が多かった。こうした男社会が江戸の遊里や外食文化を発展させた大きな要因となっていた。
このようないろいろな要因が重なって、江戸はきわめて食に対する消費傾向の強い都市として発展してきたのである。

見立番付:文久元年(1861)版『会席献立料理通』

先進的な外食文化

江戸の外食文化は国際的に見てもかなり進んでいた。たとえばレストラン=飲食店の出現でも、ヨーロッパではだいたい18世紀後期のフランス革命(1789)前後であったのに対し、江戸では100年も早い明暦3年(1657)といわれている。
はじめの頃はわずかなお菜で茶飯などを食べさせていたにすぎない料理店のなかから、次第に高級化し、山海の珍味をそろえ、食器、家具、調度をはじめ、座敷や庭まで贅をつくした料亭が生まれてきた。そこには大名や有名な文人墨客、各藩の留守居役、有力商人などが常連客として出入りした。
幕末になると飲食店はますます増加し、大衆化した。蜀山人は『一語一言』のなかで、江戸市中は「5歩に1楼10歩に1閣、皆飲食の店ならずといふことなし」と記し、西沢一鳳も『皇都午睡』で「一町内に半分の余は食物屋なり。予が三都の見立てに、食の第一に見立てしが、中々に食物是程に自在なる所は見ぬ。唐土にもあるまじく思はる也」と驚嘆している。
こうして大小さまざまな飲食店が普及してくるにつれて、それらの案内書や評判記、見立番付などがさかんに出版され、市民の話題を賑わすようになった。
田沼時代最盛期の安永6年(1777)に刊行された3都の名物評判記『富貴地座居』では、江戸の料理屋31軒のランクづけが記されており、嘉永元年(1848)の『江戸名所酒飯手引』には約600軒にものぼる各種飲食店が紹介されている。
ヨーロッパでレストランの案内書といえばミシュランのガイドブックが有名であるが、それが出版されはじめたのは明治33年(1900)からである。
文化元年(1804)、江戸町奉行所の調査によると、江戸市中には6165軒の飲食店があった。これには一定の店舗をかまえているものだけが数えられていて、店をもたない行商などは含まれていない。とてもそこまでは把握しきれなかった。
その頃の『世事見聞録』は、裏店住いの女房たちまでが、物見遊山の途中、「近来、料理茶屋、水茶屋の類、たくさんに出来た故、これ等の所へ立入、または二階などへ上り、金銀を費してゆるゆる休息し」ていると嘆いている。
また町人たちの間では、「奢りに往く」と称して、月に1、2度、家族を連れて料理屋へ行くことも流行した。「料理切手」、「うなぎ切手」などといった一種の商品券も生まれ、贈答用に使われていたことも興味深い。
料亭や料理屋が主に中流以上の市民たちの世界であったとすれば、江戸人の大半を占めていた裏店住まいの人々の外食世界は、街頭の屋台や辻売り、振売りであった。新開都市であった江戸では当初から食物の振売りがみられ、幕府は元禄以前から、うどん、そば、煮しめ、まんじゅう、酒など、火を持ち歩いて商売することを幾度も禁じているが、禁令が繰り返し出されていることは、それがなかなか守られなかったことを物語っている。
1770年代の安永年間には屋台店も登場してくる。屋台店は次第にその種類と数を増し、天明頃(1780年代)には道路の両側にずらりと並ぶほどになったという。
煮しめ、天ぷら、うなぎの蒲焼、すし、麦飯、おでん、焼団子、ぼた餅、大福、するめ、四文屋、等々。
これら種々さまざまの食物屋が街頭に並び、また、たくさんの食物行商が独特の売り声をあげながら市中を売り歩いた。振売りは町の隅々まで入り込み、何でも客の注文に応じた。魚屋は魚を注文通りさばいてくれたし、豆腐屋も豆腐をさまざまに切ってくれた。味噌に刻みネギやいろいろな薬味を入れて丸めた味噌玉というのもあった。これに湯を注げばたちまち味噌汁が出来た。また「三角に切り、豆腐、菜まで細かに切りて、直に煮立るばかりに作り、薬味まで取り揃え、1人前8文づつ」で売った「たたき納豆」もあった。
江戸の人々はこれら各種の外食を利用することによって、自分で3度の食事をつくらなくても、きわめて便利にやっていけた。江戸に多かった独身者や小家族なら、高い薪を買っていちいち煮炊きをするより、外食をした方が手間もかからず、経済的でもあった。
多くの需要者が生れれば、売手もますます増加し、たがいに味や品質も競いあい、技術やサービスを向上させていった。そうした外食産業のなかから今日に伝わるさまざまな江戸前料理が生みだされてきたのである。

料理茶屋(「江戸名所図会」)
恵比寿講の酒宴(「東都歳時記」)

江戸前料理の登場

江戸の4大料理といえばソバ、うなぎの蒲焼、天ぷら、にぎりずしがあげられる。ソバは元来、主に山村で多く栽培された作物で、ソバがき、かゆ、餅、団子のような形で食べられていた。それからうどんを真似たソバ切がつくられるようになったのは江戸の初頭といわれている。
ソバ切は他の食べ方よりはるかに美味しいが作るのに手間がかかるため、晴れ食でしか食べられなかった。その山村の晴れ食が江戸の外食として売られるようになり、爆発的な人気を呼んだ。故郷では晴れの日にしか食べられなかったご馳走が江戸では街頭で安く食べられたのだから当然であろう。
ソバ切の振売りは17世紀の中頃から登場している。「けんどんそばきりというものができて、下々買い食う。貴人には食うものなし。これも近年、歴々の衆も食う」と、享保17年(1732)の新見正朝『昔昔物語』に記されているように、はじめはもっぱら下層の人々の食物であったものが、次第に上流階級にも普及し、ついには大奥にまで愛好されるようになった。
ソバは江戸っ子のもっとも好んだ食物で、万延元年(1860)には、市中に3763軒のソバ屋があったという。今日、東京の人口は1200万人で都内のソバ屋は約5000軒、江戸は100万人で約4000軒もあった。しかもこれには夜鷹ソバのような振売りは含まれていない。
しかし柳亭種彦の『用捨箱』(天保12年)によると、江戸でもうどんを売る「けんどん屋」というのは17世紀半ばの寛文年間からあったが、ソバ屋というのは享保(1716〜1736)頃までなかったという。昔はうどんのかたわらソバを売っていたが、後にはソバのかたわらうどんを売るようになった。
江戸もはじめの頃には西国からやってきた者が多く、うどんが愛好されていたが、後になると次第に東国の者が江戸に集まるようになり、自然とソバの方が好まれるようになったのであろう。上方の薄す味の醤油から関東の濃口醤油への転換もそうした動きに照応している。
いま、もっぱら握り寿司に使われている「江戸前」という言葉は、元来うなぎの産地として用いられていたものである。美味しいうなぎは江戸前に限り、その他地方からくるものは「旅うなぎ」とか「江戸後(うしろ)」とか呼んでまずい安ものを意味した。
江戸っ子は江戸前のうなぎの蒲焼を日本一だと自慢し、「大蒲焼」と呼んだ。しかし蒲焼は元禄頃に京都で生れた料理で、18世紀のはじめに江戸に伝えられたものである。
上方の蒲焼はうなぎを腹からさき、切身を金串に刺し、素焼きしたものをタレにつけて焼き上げる。江戸でもはじめの頃はその方法をとっていた。だがそのやり方だと脂肪が強くて肉も硬いため、江戸では新たに「蒸し」の技術を加えた。つまり一度素焼きしたうなぎを一度蒸してからタレにつけ、再び火にかけて焼き上げる。それによって余分な脂肪もとれて、やわらかくなるのである。
関東の流れがゆるやかな河川で育つうなぎは、流れの速い関西のうなぎよりも、川魚特有の泥臭味が強い。だが蒸しをかけることによってその臭味も抜ける。その土地でとれるうなぎの性質に応じて、よりよい美味を引き出そうとする料理人の知恵である。
蒸しを入れるためには少くとも、3、4本の串を打つ必要がある。また串を刺すには背中から開く方がよい。関西の腹開き、1本串から江戸の背開き、4本串への変化は蒸しの技術に伴って必然化された。蒸しの技術が考え出されたのは文政頃といわれる。それによって江戸の蒲焼は完成した。
タレもそれまでは醤油に酒をあしらったものであったが、そのころから味醂を加えるようになった。ちょうど江戸に関東の濃口醤油や味醂が普及した時期である。味醂を加えることで蒲焼の味や香りや照りが格段によくなった。新しい江戸前の味が生まれたのである。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習や、うな丼なども江戸ではじめられた。割箸の普及も、江戸のうなぎ屋からであり、その養殖にはじめて成功したのも明治12年の深川である。
いま日本を代表する料理の1つとなった天ぷらは、16世紀にいわゆる南蛮船によって長崎に伝えられた西洋料理第1号である。
徳川初期にそれが京都に伝わり、鯛の天ぷらが流行した。その話をきいた家康がそれを試食したあと胃をこわして死去したと伝えられている。
大坂でも魚肉の胡麻あげを「つけあげ」と称して辻売りしていた。それが18世紀の末頃に江戸に伝わり、天ぷらと称して街頭料理の花形となった。
天ぷらは「たね7分に腕3分」といわれるように、たねがきめてとなる。高価な鯛などではなく、車えび、あなご、はぜ、きす、白魚、馬鹿貝など、安くて新鮮な江戸前の小魚貝が絶好のたねとなった。
美味いばかりか栄養に富み、しかもきわめて安価なこの街頭料理に江戸庶民は群った。天ぷらは揚げたてを串にさして立食いする大衆的な料理であった。お座敷天ぷらが登場するのは大正に入ってからのことである。
うなぎの蒲焼から生れた「江戸前」の名称はいまではもっぱら握り寿司に受けつがれている。寿司の原型は飯の発酵作用を利用した魚の保存法である。それは「なれ鮨」としていまも残っているが、江戸の初期頃には米の発酵を待たず、飯に酢を加え、魚をのせて重石をかけるだけで、一晩ほどで出来る「早鮨」がつくられた。上方の「押し鮨」である。
江戸には17世紀の末頃京都から伝えられ、屋台や振売りでさかんに売られた。すしの世界に革命が起ったのは19世紀初頭の文化年間であった。握りずしの出現である。創始者は本所のすし屋花屋与兵ヱといわれている。
ひとたび握りずしが登場するとそれまでの押し鮨はたちまち江戸から駆逐されてしまった。すしの生命は材料の質である。すしめしでは多摩川稲田堤の幸蔵米が最高とされ、江州米、庄内米も好評であった。酢は尾張の半田もの、種は江戸前の海でとれる新鮮な小魚貝と名物浅草海苔である。
「江戸はすし店が多く、各町内に1、2軒はあった」と『守貞漫稿』は伝えている。天保の末には稲荷ずしが名古屋から伝わり大いに流行した。「おいなりさーん」という振売りの声はよく子供たちに真似された。
きわめて簡単な手法で、米と魚貝の絶妙なコンビネーションをつくり出し、日本原産のワサビを加えた江戸の握りずしは、日本料理の一大傑作として、いま世界中に広がっている。
江戸名物としてもてはやされた佃煮は、大坂から移住してきた佃島の漁民たちの保存食であった。漁民たちが市場で売物にならない雑魚介を煮つめて保存食にしていたものを幕末になって、目先のきいた商人が改良し、「佃煮」と称して商品化したのである。佃煮は美味で、安く、保存がきくことから、江戸庶民に歓迎され、家庭の常備菜として普及した。また参勤交代で帰国する諸大名の家臣たちも、江戸の良い土産として持ち帰ったため、全国に広まったという。いま全国各地にそれぞれの土地の素材を用いた独得の佃煮がつくられている。

「江戸っ子」と江戸味覚の成立

「江戸っ子」という呼び方が一般的になったのは19世紀初頭の文化年間といわれる。それまでは「東っ子」といわれていた。江戸っ子の成立は江戸の味覚の確立でもあった。江戸の経済力が上方をしのぎ、文化の中心が上方から江戸に移ってくる時代になると、江戸の食文化も上方の影響を離れて独自の味覚をつくり出すようになった。
そうした過程をもっとも端的に示しているのは基本的調味料の醤油の歴史である。
醤油は戦国時代に上方で生まれ、江戸初期に関東に進出してきた紀州の漁民が銚子に伝えたといわれている。
それが利根川流域、とくに銚子や野田で発達し、元禄頃から江戸に進出するようになった。しかし享保頃までは江戸の醤油市場の7〜8割はまだ上方からの下り醤油によって占められていた。江戸もはじめの頃は上方や東海など西国からの移民者が多かったが、その後、関東、甲信越、東北など東国からの移住者が次第に増加し、江戸の味覚も西国の薄す味から東国の濃口に変ってくる。
上方の色を淡く仕上げかつ薄す味の醤油に対し、関東醤油は小麦を多用した香り高い濃口醤油である。江戸の味覚は次第に濃口醤油に移ってきた。
文政4年(1821)には江戸に移入された醤油125万樽のうち、上方からの下り醤油はわずか2万樽で、その他はすべて関東醤油が占めている。さらに幕末になると江戸の醤油はほとんど関東の濃口醤油が独占するにいたった。
江戸で発達した調味料には濃口醤油とならんで味醂がある。化政時代から流山を産地とする関東白味醂「流山味淋酒」が江戸川の水運によって江戸に進出してきた。 『守貞漫稿』は鰹節だしに味醂酒を加えるのが、上方に対する江戸の調味の特徴だと記している。材料の肉質を緊密にして仕上りの光沢を増す味醂の活用は江戸調理技術の発展を示すものといわれている。蒲焼のタレにも佃煮にも味醂は不可欠の素材となった。
うどんからそばへ、押し鮨から握りずしへ、薄い味の醤油から濃口醤油へ等々、江戸前料理と歩調をあわせて江戸の味覚が成立してくるのはやはり江戸の後期のことである。

四代勝文斎作『野田醤油醸造之図』(野田市郷土博物館蔵)

西洋料理の流入と変容

牛鍋に代表される肉食は文明開化の象徴であった。だがそれが日本に受容されたときには伝統的な日本の調理法により、その素材の入れ替えの形をとった。牛鍋、牛肉の刺身、塩焼、佃煮などはすべて昔からの和食の食法である。牛めしも深川めしの貝を牛肉に変えただけ。牛鍋はやがて日本の代表的料理としてのスキ焼となる。
文明開化でいろいろな西洋料理が入ってきたが、実際にそれをつくるには、まずそのための素材がなければならなかった。牛肉は和牛でもよかったが、牛乳は乳牛を輸入しなければならず、豚肉も養豚からはじめる必要があった。野菜にしても、キャベツ、玉ネギ、ジャガイモ、トマトなど新しい西洋野菜が栽培され一般に出廻るようになったのは明治も後半になってからである。
食材ばかりでなく、フライパンも天火もない当時、西洋料理をつくろうとすればどうしても日本の条件にあわせた変形を加えざるをえなかった。
たとえばなかなか日本人の味覚にあわなかったパンが普及しはじめたのは、「和魂洋才の精華」と絶賛された「アンパン」からである。明治7年(1874)、銀座木村屋が試みた、伝統のアンを入れて西洋のパンを食べる工夫が庶民の味覚と好奇心にマッチして爆発的なブームを呼んだ。
他にも和洋混合の珍食、奇食が続々と現われた。たとえばカレーの味噌汁、里いもフライ、どじょうのトマトシチュー、冷奴にウスターソース、刺身にマヨネーズ、チョコレートおこし、ジャム最中、等々。
こうした試行錯誤のなかからやがて日本の食事に欠くことの出来ない各種の「洋食」を生み出していった。とくにライスカレー、トンカツ、コロッケは3大洋食といわれる。
ライスカレーは明治のはじめから紹介されていたが、広く普及しはじめるのは即席カレーが登場した明治末期からである。カレーは米飯に格好の料理で、しかもスプーンだけで気軽に食べられる洋食として圧倒的な庶民の人気を博した。
西洋料理の「ポークカツレツ」にキャベツのせん切りを添えて売り出したのは銀座煉瓦亭で、明治27年(1894)といわれている。西洋のカツレツは薄くのばした肉を少量の油をひいて焼きあげるものであるが、昭和初頭の東京では分厚い豚肉を天ぷらのように大量の油のなかで揚げたものを「トンカツ」と称して売り出した。
それまでのポークカツレツはナイフとフォークで食べたが、トンカツははじめから適当に切ってあり、箸で食べられる気軽な洋食として広く普及した。
コロッケの原型は「クロケット」である。日本でははじめ挽肉器がなく、肉を庖丁でたたいて細かくしたり、パン粉もないのでいちいちパンを砕いてつくっていたが、明治の末頃になって挽肉器もパン粉も現われ、ジャガイモも増産されるようになって、日本独特のイモコロッケが出来上った。さらに伝統的な醤油技術によって日本人の味覚にあったソースもつくられるようになり、そのにおいとともにコロッケは最も安い洋食として急速に広がっていった。
これらの洋食には1つの共通点がある。まず米飯によくあうこと。そしてスプーンや箸だけで気軽に食べられることである。あくまで米飯中心の食体系のなかに、西洋の料理が和風にアレンジされてとり入れられたのである。西洋料理は「洋食」という日本独自の新しい料理となって発展した。
また支那ソバ、ワンタンなどの中華料理も大正末頃から急速に普及してきた。こうして大正末の東京の食事は、全国の食の集大成であった江戸以来の和食に、洋食、中華などの外来料理を加えた混合食として成立してきた。

酒種酵母菌による「桜あんぱん」提供:銀座木村屋

日本型食生活と海外進出

伝統的和食に洋食、華食をとり入れた日本の食形態を柳田国男は「世界無類の多様な食」と呼んだ。
たしかに日本の食は多種多様である。たとえば南極越冬の食料でも欧米隊ではせいぜい300種程だが、日本隊では750種類にものぼるという。料理法だけでなく食材が豊富なのである。
「飛ぶものは飛行機以外は何でも、4足は机以外なら何でも食べる」といわれるほど食材の多さを誇る中華料理でも、その食材は約800種類といわれているのに対し、日本の食材は約1400種にも達するという。
日本食の特徴はそうした多様な素材になるべく手を加えず、素材そのものの味を生かすところにある。素材の味を生かすには新鮮な素材がなければならない。
近年空輸をはじめとする交通運輸や真空、冷凍などの保存技術の発達が新鮮素材の広域流通を可能にした。成田空港には生魚や生鮮野菜などが世界中から飛んでくる。刺身から大根おろしまで真空パックでやってくる。築地市場の魚も海外まで運ばれる時代である。築地で仕入れた高級魚を手荷物として預け、バンコックに飛んで寿司屋に卸す「かつぎ屋」も現われた。
そうした各種の技術革新が生鮮素材を活かす日本食の海外進出の背景をなしている。そして世界的な食の健康志向がそれを助長している。欧米人から見ると日本人は煙草をたくさん吸い、夜遅くまで酒を飲み、ろくにスポーツもしないくせに、肥満も少なく寿命も長い、それは食事が良いからだ、ということになるらしい。栄養過多による病気の増大に悩む欧米では和食を基本として栄養バランスのとれた日本食が理想的な食形態とされている。
「理想的な」食事をしている日本人はその高度な技術力によって世界の経済大国に発展してきた。経済力ばかりか、さまざまな分野で日本の文化が注目されつつある。「日本人は頭がよい。それは魚を食べるからだ」という欧米人によく出会う。
技術革新、健康志向、経済発展――それらの諸条件が重なって、寿司をはじめとする日本食が海外に進出しはじめた。中華料理は大衆食だが、日本食は高級食で一種のステータス・シンボルとされており、比較的高学歴で経済的にも恵まれている若年層が主な顧客である。
しかし本来の日本食がそのままの形で受け入れられているわけではない。寿司にしてもアボカドとカニカマを巻く「カリフォルニアロール」をはじめ、天ぷら巻き、クロワッサンに寿司めしをはさんだもの、フォアグラの寿司など、日本人がびっくりするような奇食珍食が続出している。
食べ方も変っている。たとえばフランス人は回転寿司屋で、まず前菜にワカメの酢のものをとり、赤ワインで寿司をつまみ、レタスのサラダ、チーズ、パンなどをとり、アイスクリーム、デザートと、コーヒーで締めるといった具合だという。
いわば自国の伝統的な食体系のなかに日本食をアレンジして取り入れているのである。これは文明開化の日本で西洋料理を和風洋食に変形させて受け入れていたのと同じだ。
アメリカでは日本料理を中心に、いろいろな国の料理を融合させる「フュージョン・レストラン」が人気を呼んでいるという。そもそも食文化とは、そうしたさまざまな異なった食が交流し融合しあいながら発達するものなのであろう。
ちょうど江戸の食が諸国の郷土料理の集大成として発達し、それに西洋・中国などの料理が和風に変形されて日本食に組みこまれ、今日の日本型の食生活が出来上ってきたように。そして日本食としての江戸の味がいま世界に広がりつつある。

ニューヨーカーに評判のベジタブル・スシ・コンポ(るるぶ『ニューヨーク』’04/JTBより)
スイス・バーゼルのスーパーで買ったパック寿司(筆者撮影)

渡辺善次郎(わたなべ ぜんじろう)
1932年 東京に生まれる。1956年早稲田大学卒業
1961年 同大学院商学研究科博士課程修了。同年国立国会図書館に入り、調査立法考査局農林課長、海外事情課長を経て、専門調査員
1991年 退職。商学博士。現在、都市農村関係史研究所主宰。
主著『都市と農村の間ー都市近郊農業史論』(1983年 論創社)、『聞き書・東京の食事』(編著・1987年 農文協)、『巨大都市江戸が和食をつくった』(1988年 農文協)、『農のあるまちづくり』(編著・1989年 学陽書房)、『東京に農地があってなぜ悪い』(共著・1991年 学陽書房)、『近代日本都市近郊農業史』(1991年 論創社)