キッコーマン食文化講座

江戸っ子と浪花っ子 ~食文化からみる二大都市の違い~

日程 2016年5月21日
場所 東京本社
講師 北原進先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

柳亭種彦の三都(京坂江)の贅沢倒れの比較では、大坂の「食い倒れ」、江戸の「呑み倒れ」となっている。江戸は建設期から江戸城や大名邸宅、一般武士・町人らの住宅のため、土木・建築職人が多く集住し、商人は武家御用を勤める衣料・金融関係の御用達商人が多かった。その点、大坂は商業取引を中心にしており、武家御用も全国の諸大名の貢租(米穀、特産物類)の取引きを中心とし、大坂と全国の領地を結ぶ商業が多かった。いわば国内諸大名の領地を結ぶ貿易を中心としていた。

江戸の人口構成は特徴的で、町人が約50万人以上、その60%が男性、40%が女性であり、参勤交代で毎年入れ替わる武家が単身赴任した男性ばかり。120万人と想定される総人口の80%近くは男性であったと想定される。従って、江戸には男性向けの商店(一膳飯屋、呑み屋、既製服屋、遊郭など)が多く、女性目当ての呉服類は京坂に本店を構える大店が、武家御用を兼ねて高級店舗を設けていた。

大坂や京都は、武家人口がほとんど無く、終始30~40万人ほどであった。上方の都市では、早くから手工業が発達し、土木関係から衣料・食品・化粧品などにいたるまで、加工製作された多様なものが商品化されていた。大坂と江戸との廻船による大量輸送の流通経済が発達してくると、下り物(上方から江戸への商品)といえば、手の込んだ加工品、高級技術製品という意味であった。だから上方から江戸に下ってこない商品は「下らない」安物という意味になった。江戸近郊の武蔵野は、薪炭の大量生産地であり、「下らない」商品の江戸への生産基地であった。

急速に武蔵野東部に拓かれた江戸は、飲料水にも苦労し、早くより神田上水や玉川上水を“水道”として利用したが、高燥な武蔵野を空掘りで届く水は、夏などは生暖かく、大雨で濁っていることが多かった。こうした“あまり美味しくない水道”が、逆に江戸っ子の心情、負けん気などを育てた。「俺は水道の水で産湯を浴びた。」という心意気である。一方でそれは隅田川下流の鯉、うなぎ、どじょう、なまず、江戸前の新鮮な魚介類に対する情熱的な好みを育て、それが江戸風の料理を育てたと言えるであろう。

野田や銚子の関東産濃口しょうゆが、関西の淡口しょうゆを圧倒的に排除してしまうのは、ゆえなしとしない。隅田川の河口で獲れた大うなぎは、関東産濃口しょうゆと安くなった砂糖で味付けされ、江戸名物「大かば焼き」となった。特に幕末近く、災害、火災などが多くなると、建築職人たちが景気の良さもあって濃い味を好み、京菜を改良した小松川の小松菜、練馬の大根、川越の芋などが商品化され、江戸好みをさらに伸ばしていったと考えられる。