キッコーマン食文化講座

「ー堀切家文書目録完成ー万上みりん史研究の現在地」

日程 2026年8月1日
場所 流山市白みりんミュージアム
講師 キッコーマン国際食文化研究センター 川根 正教
共催 キッコーマン国際食文化研究センター、株式会社流山ツーリズムデザイン
完成した「堀切家文書目録」
講座の様子
講座の様子

膨大な史料が語る真実:『堀切家文書目録』の内容

キッコーマン国際食文化研究センターでは、千葉県流山において「万上(マンジョウ)」印のみりんを醸造・販売してきた堀切紋次郎家に代々伝わる史料群の寄贈を受け、10年以上にわたり調査・解明を進めてきました。2026年3月、それが『堀切家文書目録(ほりきりけもんじょもくろく)』として結実しました。 堀切家から寄贈された史料は、古書市場から収集したもの等もあわせて総数1万1,598点という規模を誇り、劣化防止処置を施した上で保管されています。その中から、歴史的価値の高い5,574点を抽出し、学術的な活用を可能にする目録を作成しました。
分類は10に分け、一番多いものが「商業」です。年代幅は安永3(1774)年から昭和27(1952)年までの159年間ですが、近代史料が多数を占めています。



項目別点数
「商業」が40%を占める
年代別点数
年代別点数
「近代」が78%を占める

主な堀切家文書の紹介:北斎の描いた樽の絵と江戸の会計帳簿

目録化の過程で再発見された、歴史的にも特に重要な史料を3つ紹介します。

  • 商業の中核「店勘定調帳(たなかんじょうしらべちょう)」
    文化10(1813)年から大正期まで続く、経営実態を解き明かす最重要史料です。原材料の買入額から販売収入、取引先への支払額までが詳細に記録されています。
  • 物流の記録「荷物判取帳(にもつはんとりちょう)」
    万上みりんを江戸へ搬送した「庄兵衛船」などの船便ごとに作成された帳簿です。荷物を受領した問屋が、署名と押印と共に「右正ニ受取申候也」と記しており、当時の水運物流が生々しく息づいています。
  • 葛飾北斎による「万上みりん樽と凧と町の絵」
    天保12(1841)年、82歳の葛飾北斎(画狂老人卍)が描いた刷り物です。江戸川の対岸から見た流山の街並みと共に、「万上」の文字を冠したみりん樽が描かれています。すみだ北斎美術館の鑑定により真筆と裏付けられました。
店勘定調帳 慶応3(1867)年
荷物判取帳
荷物判取帳 明治40(1907)年
万上みりん樽と凧と町の絵 天保12(1841)年 
「画狂老人卍」の署名

万上みりん史研究の現在地:酒造から「白みりん」への進化

  • 1760年代:酒造業の開始
    明和3(1766)年、初代堀切紋次郎が武蔵国番匠免(現在の埼玉県三郷市)から流山へ移住し、本家と同じ「相模屋(さがみや)」の屋号で酒造を開始。蔵印(くらじるし)には「カネカ」の印が用いられました。
  • 1810年代:みりん醸造への進出 
    文化11(1814)年、2代紋次郎が白みりんの試醸・販売を開始。この年は現在、流山白みりんの「定説」としての創業年となっています。
  • 1830年代:商標「万上」の誕生 
    天保年間(1830-1844)にはみりん醸造に使用する米の量が、酒造に使用する米の量を上回ります。流山のみりんが広く知れ渡り、宮中にも用いられるようになったことから、2代紋次郎が詠んだ和歌「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味淋醸すさがみや」から、商標「万上」が誕生しました。「一力」を「万」に、そして「上なき」から「上」を採り、最高級の証として「万上」と名付けられたのです。「棚勘定元帳」(堀切家文書18-4)の天保5(1834)年の項には「万上印味淋五太」とあり、「万上」の初出となっています。
  • 1840年代:江戸を席巻する「流山みりん」 
    天保年間、料理文化の成熟と共に、みりんは「飲用」から「調味料」へと劇的にシフトしました。以下に、料理本などにみる「みりん」の調味料としての活用変遷をまとめています。

「カネカ」の印が入った瓦
心得覚 「文化11年より造り初メ」とある
棚勘定元帳
天保5(1834)年の項に「万上印味淋五太」とあり「万上」の初出
手製 酒味淋本直志印鏡

料理本などにみる「みりん」の調味料としての活用変遷

年代(西暦)

書名

みりんの使用法・特徴

寛永20年 (1643)

『料理物語』

みりんについての記述なし(この時期は未登場)

享保15年 (1730)

『料理綱目調味抄』

「飲用」として記述

天明2、3年 (1782、1783)

『豆腐百珍』

田楽のタレ(麹・みりん・醤油を等分)に使用

天明5年(1785)

『万宝料理秘密箱』

赤貝和煮(やわらか煮)に使用。みりんだけで先に煮ることでやわらかく仕上げている

享和元年 (1801)

『料理早指南』

ごまめの「てり」を出すための蜜に使用

享和3年 (1803)

『素人包丁』

焼き物など20カ所以上に登場、調理法が発達

享和3年(1803)

佐原の小堀屋

佐原にある老舗そば屋「小堀屋」に残る文書の「そばつゆ」に使用

文政5年 (1822)

『江戸流行料理通』

飛竜丸煮(鯉の煮物)に、みりんとだしを多用

天保8年 (1837)

『守貞漫稿』

鰻屋が醤油にみりんを加えて焼く「蒲焼」に使用

参考:大江隆子「江戸期におけるみりんの料理への応用」


近代化への挑戦:ウィーン万博と蒸気汽缶の導入


明治時代、万上みりんはいち早くグローバルな展開と技術革新に踏み出しました。

  • 世界への飛躍
    明治6(1873)年、ウィーン万国博覧会に出品し「有功賞(ゆうこうしょう)」を受賞。その後も、国内外のさまざまな博覧会に出品し、名声を高めていきました。
  • 技術革新
    明治28(1895)年、業界に先駆けて「汽缶汽機(きかんきき=ボイラー・蒸気機関)」を導入。これは主に精米工程の近代化を目的としたものでした。動力を人力から蒸気機関へとシフトしたことで、精米の質が向上し、品質の安定と量産体制の確立を可能にしました。この先進性は、碧南の九重味淋が視察に訪れるほど、業界全体の近代化を牽引するものでした。
明治期主要博覧会への出品一覧表
年代 博覧会等名 出品物名 賞・賞牌 授与者名 備考 資料
明治6(1873)年 墺国ウィーン万国博覧会 流山味醂酒 有功賞 ー ラベルデザインに使用
明治10(1877)年 第1回内国勧業博覧会 白味淋 花紋賞 内務卿従三位 大久保利通
明治14(1881)年 第2回内国勧業博覧会 白味淋 有功賞 総裁二品勲一等 能久親王 ラベルデザインに使用
明治23(1890)年 第3回内国勧業博覧会 味淋 三等有功賞 総裁大勲位 貞愛親王
明治28(1895)年 第4回内国勧業博覧会 (味淋) 一等賞 ー
明治36(1903)年 第5回内国勧業博覧会 万上(味啉酒) 二等賞 審査部長従四位 中澤岩太
審査総長正三位 大島圭介
総裁大勲位功四級 載仁親王
賞状
賞牌
明治39(1906)年 府県連合共進会 (味淋) 弐等賞銀牌 (農商務省) 賞牌
明治40(1907)年 東京勧業博覧会 (味淋万上) 弐等賞 審査総長従二位 曽祢荒助
東京府知事正三位 千家尊福
賞牌
明治42(1909)年 アラスカ・ユーコン太平洋博覧会 (味淋) 金牌 ー 賞牌
明治43(1910)年 日英博覧会 (味淋) 金牌 ー 賞牌


「白味淋」という名の登場
年代 白みりん
嘉永5(1852)年 万上のラベル見本帳には「秘製上味淋」とある
明治5(1872)年 秋元三左衛門が印旛県役所へ提出した書類に「色白く頓て清酒同様之色、すミ候則白味淋と唱ひ」とある
明治6(1873)年 ウィーン万国博覧会に秋元三左衛門が味淋、堀切紋次郎が流山味淋酒を出品
明治7(1874)年 明治7年府県物産表に下総国醸造物類、味淋酒736.8石
明治10(1877)年 第1回内国勧業博覧会に堀切紋次郎が白味淋、秋元三左衛門が味淋を出品
明治14(1881)年 第2回内国勧業博覧会の秋元三左衛門の賞状に「白味淋」と記載される

結び:継承される「流山白みりん」のアイデンティティ

令和4年度のデータによると、千葉県のみりん生産量は全国シェアの41%を占め、全国1位の座を堅持しています。流山は単なる「発祥の地」に留まらず、今なお日本のみりん文化を牽引する中心地であるといえます。
『堀切家文書目録』の完成により、流山白みりんの歴史を詳細に追跡することが可能になりました。今後はさらに、兵庫や愛知などの他産地との比較検討や工業化プロセスの解明、流山が高い生産量を維持し続けている歴史的・構造的要因の解明などの研究を進めていきたいと考えています。完成した目録は、流山市内の図書館やキッコーマン国際食文化研究センターで公開されています。より多くの方がこの史料を活用し、今後の食文化研究の新たな地平を切り拓くことを願っています。