研究機関誌「FOOD CULTURE No.15」魚食文化四世紀の歴史発掘 日本橋魚河岸の来歴 第2回 お江戸は魚盛り

執筆:冨岡 一成

日本橋魚河岸の来歴 第2回 お江戸は魚盛り

「士族鮮魚を嗜み、常に言ふ。〔三日肉食せざれば骨皆離る〕と。毎日幾万の水族(すいぞく)、之を荏戸人(えどじん)の腹中に葬る」江戸末期の市井風俗を漢文で活写した寺門静軒(てらかどせいけん)『江戸繁昌記』の一節です。江戸の人びとは鮮魚を3日食べなければ骨がバラバラになるというするほどの魚好き。静軒は夥(おびただ)しい魚があふれるダイナミックな市場の様子を諧謔(かいぎゃく)に満ちた筆致で描き出してみせます。幕府の御膳賄(ごぜんまかない)として誕生した魚河岸は、その発展とともに市民の魚食を隆盛にみちびきました。江戸に花開く魚食文化の流れを、魚河岸のできごとを通して俯瞰してみましょう。

家康公はサカナがお好き

摂津国(せっつのくに)から出てきた森孫右衛門一族が江戸前の海で網をひきはじめた頃、ある日のこと雪のような小魚が網にかかりました。それは今まで見たことのない魚で、細い魚体には葵の模様があらわれています。
「殿様の紋所が出ている」驚いて届け出ると、奉行安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)も「これは不思議」と首をかしげ、事の次第を家康公にお伝えしました。
ところが家康は、この魚ならよく知っているといいます。余が三河にあるときに漁師どもが食膳に供してくれたものだ。ゆくりなく江戸において漁を見たのはまこと吉兆なり、とたいそうおよろこびになったので、孫右衛門らは大いに面目を施しました。以来家康在世中はこの魚――しらうおを献上品のみに限る御止魚(おとめうお)としました。
これはしらうおの価値を高めるための後世のつくり話です。しらうおは家康の江戸入国に際して尾張から運んだといいます。どのように移植したかは不明ですが、繁殖期間を御止魚として禁漁としたのかもしれません。
家康の巷説に魚がよく登場します。彼は目刺しを好んで食べ、駿河の甘鯛をこよなく愛し、鯛の天麩羅で命を落としたと伝えられます。伝説通りに生来の魚好きであるなら、遠く摂津国から呼び寄せた森一族に命じるのは、「うまい魚を用意しろ」であったでしょう。幕府の御膳魚御用を賜った魚河岸は家康の魚好きの産物だったのかもしれません。

お魚御用は無償の奉仕

御膳魚は実際にどのように献上されたのでしょう。魚河岸の古典資料『日本橋魚市場沿革紀要』には、慶長9年(1604)7月17日「若宮様御誕生御七夜御祝いの儀、御魚御用を申し付けられ、鮮鯛(せんだい)二百枚と鰡(ぼら)、鱸(すずき)ほかの品々」を差し上げ、その褒美として「金百七十五両、銀百五十枚」を頂戴したとあります。若宮様とは後の三代将軍家光公のこと。そのお誕生祝いに祝儀魚のたいと出世魚のぼら、すずきを納めています。
それから37年後の寛永18年(1641)にも、後の四代家綱公誕生に際して「鮮鯛二百枚そのほか御魚御用品々」を相勤め「金二百九十五両、銀百五十枚」を拝領したと記されています。
いずれも魚の代価としてはたいそうな報酬ですが、これは世継誕生というイベントゆえの特別のはからいでしょう。むしろ日常の魚問屋の奉仕への埋め合わせとも思われます。というのも御魚上納は上物のたいですら「眼の下一寸永一文(四十文)」という、お話にならない値段で引き取られる、ほぼ無償に等しいものだったからです。
納魚は毎朝幕府膳所からの指令を受けた市場の月行事(がちぎょうじ・魚問屋の組合役員が交替で勤めた)が月ごとに定められた地域の魚問屋から品物を取りまとめて納入します。納魚は何を差し置いても優先されることは、寛永21年(1644)制定の魚問屋法式書でも規定され、隠し売り、脇揚げ(こっそりと魚を仕入れること)を厳禁しています。法で規制するということはそのような実態があったことを示します。納魚は後に代価が定められますが、それとて市価の十分の一程度でした。魚河岸の使命とはいえ、大きな負担を強いられるものだったのです。

鯛と鯉の御用役

納魚が負担だった理由に、魚種が限られていたことがあります。たい、こい、ひらめ、しらうおといった高級魚が中心。さんまやいわし、こはだなど多獲魚は除外されます。落語『目黒のサンマ』では家光公が生まれて初めてのさんまの味に驚きますが、誇張はあれ、お上は下魚を食べませんでした。
流通量の少ない白身の魚ですから、将軍家、大奥から大名、旗本にいたる需要を満たすには魚河岸の集荷能力向上は不可欠です。とりわけ祝事にも日頃の食膳にも欠くことのできないたいの安定確保は重要で、魚河岸でも鯛御用役といえば格別の役柄でした。
大和桜井から出てきた大和屋助五郎(やまとやすけごろう)が寛永5年年(1628)に始めた活鯛事業は流通のしくみを変えました。かれは生産地に多額の仕入金を与えて浜の魚をすべて押さえます。そして活鯛船(いけだいせん)という生簀(いけす)を備えた船を建造、満載したたいを江戸へ送ります。それは大きな資力と技術を要する大事業でした。漁業や運搬の設備と共に、俗に「針する」と称するたいの体内に針を刺して人工的に水圧を調整させるといった畜養技術までもがそこに含まれます。多くの困難を克服した助五郎は鯛御用役を代々勤め、巨万の富を得ます。そして後年には魚河岸の対岸、四日市町の一画に「活鯛屋敷」を拝領する栄誉にあずかりました。
たいが海の魚の代表なら川魚の王者はこいでした。正月料理はじめ武家の食膳にはこいは欠かせません。鯉御用役には孫右衛門らと共に摂津国からきた井上与市兵衛が任命されます。与市兵衛は鯉屋という商号を名のり、深川辺に大きな活洲(いけす)を囲います。毎朝そこから船で日本橋へ搬送し、市場内に設けた活船に貯蔵して御用に備えました。
鯉役もまた大変に重要な役目でしたので、そこには格段の権限が与えられました。たとえば臨時の需要の際や、水害などで活洲に被害があって御用を果たせないときには、江戸市中どの家の池からでもこいを獲って良いという特権がありました。家の者がこれを拒んで魚を隠したりすると、夜中に鯉屋の者が屋敷の外でじっと耳を澄ましていて、池でこいのはねる音がきこえると『御用だ』と押し入った、などというまことしやかな逸話があります。こいは常に需要が高く、鯉屋は大変に儲かりました。与市兵衛の孫にあたるのが俳人松尾芭蕉の高弟として名高い杉山杉風(さんぷう)です。若き日に芭蕉は日本橋魚河岸に草鞋を脱いだといいます。その際に杉風は師を献身的に庇護しています。それを可能にしたのも鯉屋の経済力でした。芭蕉庵は深川にあった活洲の番小屋をつくり替えたもので、茂っていた芭蕉からその名が取られたといいます。”古池や蛙とびこむ水の音“の有名な句はこいの畜養場の情景を詠んだものです。
大和屋助五郎も井上与市兵衛も魚河岸の礎を築いた事業家です。かれらは新天地江戸において魚ビジネスを興しました。それに続く日本橋の魚問屋たちもまた、その出自は漁師でなく、まぎれもない商人であったのです。かれらは納魚に苦しみつつも、幕府のお墨付きを楯に産地を独占していきます。御膳賄の建前は遵守する必要があり、すべからく幕府御用の威光は魚河岸の商売に欠かせないものでした。

元和(1615-24)の頃に魚を入れる盤台がつくられる。次第に取引が盛んになってきた(東京魚市場卸協同組合所蔵)

銭の水に魚が泳ぐ

元禄の頃(1688~1704)には江戸の経済は急速に発展しました。物価高騰(インフレ)も結果的に金銀の幅を利かす世を助長していきます。「商いに暇なく銭は水の如く流れ、白銀は雪の如し」と井原西鶴が『世間胸算用』のなかで謳った活況の主役は町人でした。幕府財政から失われた金銀は結果的に町人層に流れていったのです。身分では武家に到底敵わない町人が財力で対抗していく風潮が生まれます。
町人の生活は華美になり、とりわけ衣食には銭をつかいます。お歴々の食膳に上がるような高級魚を食すことをよろこび、走りもの(初物)の魚に法外な金額を出して見栄を競う傾向はすでに寛文の頃(1661~73)から目立っていました。幕府は寛文5年(1665)に走りもの禁止令を出して魚、野菜の出回る時期を定めています。魚では、ますは正月、あゆ・かつおは4月、さけ・なまこは8月末、生たら.あんこう・まては11月、しらうおは12月などと規制を加えました。しかし、これがきちんと守られることはなかったようです。町人の大名気分はなかなか収まりません。
とくに威勢を張ったものに初鰹の値段があります。およそ天明期(1781~89)にピークに達した初鰹の値段は1本が3両にもはね上がったといいます。相州などに揚がったかつおは八丁艪の押送舟(おしょくり)や猪牙舟(ちょき)など当時の高速船と、馬による陸送とが、海と陸で競争するように夜の魚河岸に届きます。先を争うように取引され、大急ぎで市中に売り出されました。初鰹売りはたいそう鼻息が荒く、値切る客には「私は売りたいが魚がイヤだというのでね」などと断ったといいます。初鰹の狂騒的な話題には事欠きませんが、この時代に大分限となった豪商紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)のエピソードは特に有名です。
あるとき紀文が吉原の大店を仕切る重兵衛という者に、今年は初鰹をぜひ吉原で食いたいから、何とか江戸に1本も入らないうちに料理して食わせるようにしてくれ、と頼みました。重兵衛はすべての魚問屋に前金を打ち、かつおの荷を全部押さえます。やがて紀文が大勢をひき連れて吉原へやってくると、たった1本のかつおを料理して出しました。何しろ大勢なので、あっという間に食べてしまいます。もっとないかと催促するけれども重兵衛は出しません。紀文が何故次を出さないのかというと、重兵衛は大きな箱のフタを取り、かつおはこんなにありますが、初鰹は1本のみです。残りはあとで皆にやってしまいますといいました。これを聞いた紀文はとてもよろこび、50両を褒美に与えました。
太平の世に勢いを失っていく武家。それと対照的に財力によって台頭する町人層。いかに軽薄な消費景気でも、かれらは魚河岸には良いお客でした。低廉な納魚よりも、町方に高く売りつけるに如くはありません。魚河岸は幕府御用の名誉と既得権益は手放さず、表向き納魚第一としながら、市中売りの儲けに血道を上げていきます。

男たちのかけ声も勇ましい八丁艪は当時最も船足が速く頑丈とされた。しかし大時化となればひとたまりもなく転覆し、男たちの命もはかなく消え、女だけが残される。別名「後家船」と呼ばれた(東京魚市場卸協同組合所蔵)

江戸前のファストフード

元禄16年(1703)11月23日未明、房総南岸沖を震源として発生した元禄大地震と直後の大火により江戸は大被害を受けます。その焼け跡に多数の田楽売りが出ました。1串3文は罹災民にありがたく、普段は買食いの風習のない武士までが口にします。災害が契機となり江戸に外食産業が生まれました。
明暦の大火(1657年)のときにも浅草に奈良茶飯を売る店が現れています。茶飯といっしょに豆腐汁や煮しめ、煮豆などセットメニューを出して評判をとりました。これが飲食店のはじまりといわれます。この手の店は次第に手のこんだ料理を提供するようになります。食器、調度まで贅をつくした料理屋、料亭へと高級化していき、武家や商人の接待、商談や文人墨客らの食通に供するところとなりました。
一方、庶民には振売りや簡易な屋台売りの食べものを楽しむ風情が広がります。江戸の庶民の多くは職人など、身体が資本の仕事をしていますから、食べるものには銭を惜しみません。財を蓄えるなど生涯縁のない、一種刹那的な気持ちもあいまって、食べることは何よりの楽しみとなります。手軽に食べられ、安価だがうまくて精がつくものを求めました。蕎麦、鰻、天ぷら、寿司など和食の多くは、江戸庶民の要求にかなうファストフードとして生まれたものです。とりわけ江戸前の海の豊富な魚貝は、かれらの胃袋を満たす主要な食材でした。
江戸前というと連想されるのは寿司ですが、最初にキャッチコピー的に江戸前をうたったのは鰻屋でした。うなぎはその土地で獲れたものに限る、他の場所から運んできたものは「旅鰻(たびうなぎ)」といって嫌われました。だから地のものであるという意味でうなぎを江戸前と呼んだ時代があります。江戸前鰻は素焼きにしたあとで蒸し、タレをつけて再び焼き上げます。こうすることで余分な脂が抜けてふっくら仕上がります。関西の鰻料理と一線を画すところは江戸前の面目躍如でしょう。
うなぎはなかなか難しい食べ物で、地の物に限る、店で食べなければいけない、冷めたらいけない、ご飯をいっしょに出さない、などの習慣がありました。しかしそれではとても不自由です。そこで、たとえば人にうなぎをご馳走するときには先に鰻屋に代金を払い、その受け取りを相手に渡して好きなときに食べてもらう「うなぎ切手」は現代の商品券にも通じます。箱のなかに熱くしたおからを詰めてその上にうなぎを乗せて持ち帰れるようにする。これはテイクアウトの最初でしょう。人形町の芝居小屋の支配人だった大久保今助の発案といわれる「うな丼」は丼物の元祖。「土用丑の日」に食べるものと定着させたのは平賀源内が仕掛けた商品コピーの先駆けによるものです。また、うなぎを食べやすくするように「割り箸」が普及します。鰻料理を楽しむための工夫からさまざまな外食文化の様式が生まれました。

くるまえび、あなご、きす、いか、ぎんぽ、貝柱(ばかがい)。江戸前の魚貝をふんだんに使った天ぷらも屋台店ではじまり、ひとつ4文という値段の安さとうまさでたちまち流行しました。その起源は大坂からきた利助という者が江戸には魚の揚げ物がないのでこれを辻売りしたことに遡ります。利助がこの売り物の名前を知人の山東京伝(さんとうきょうでん)に相談したところ「天麩羅」と書いてよこします。どういう意味か、とたずねると京伝は「お前は天竺浪人でふらりと江戸に来たから天ふらだ。麩は小麦粉、羅は薄ものよ」と答えます。もっともこの話は眉ツバらしく、天ぷらは安土桃山時代に南蛮船によって伝えられた西洋料理のようです。ただ、最初の天ぷらはコチコチに固いフライのようなもので、魚貝のジューシーさを残すサクサクの天ぷらは江戸後期になって現れました。
寿司の原形は「なれずし」といわれます。飯の発酵で魚を熟成させる保存食で、「鮓(すし)」といわれる由縁です。飯を取りのぞいて食べますが、これをいっしょに食べてしまおうという飯鮓(いいずし)が後に生まれました。さらに飯に酢を加えることで発酵を待たずに食べられるようにした「早鮨(はやずし)」が登場します。これは一夜でつくれるため、手早いことを好む江戸ではもっぱら「早鮨」の担い売り、屋台売りが流行しました。しかし、およそ化政期(1804~30)に出現した「にぎり寿司」は、それまでの鮨の常識を大きく変えるものでした。発酵をさせない、保存食でもない、江戸前魚の新鮮味を生かす即製料理に変わったのです。
「にぎり寿司」の創始者については花屋与兵衛の「与兵衛寿司」とも堺屋松五郎の「松が寿司」ともいわれますが、はじめてにぎり寿司を見た人びとは、寿司をにぎる手つきを手品のようだと面白がりました。
魚貝を中心とする江戸前料理の発展には食材とともに調味料の発達は見逃せません。濃口タイプの醤油の出現は画期的なものでした。それまで刺身は煎り酒(鰹のだし汁と酒を煮詰め塩、酢で調製する)や辛子酢などで食べていたのが、江戸中期以降、野田や銚子で改良された地廻り醤油の普及により、味わいも調理法も広がります。鰻も天ぷらも寿司も醤油なくしては語れません。魚は最強の調味料との出会いによって「三日食べなければ骨がバラバラになる」というほど、江戸人の貴重なたんぱく源として定着していたのです。

魚河岸の木戸口 開市時には人の行き交うのも難しいほど雑踏をきわめた。入口付近にすし屋の屋台が見える(東京魚市場卸協同組合所蔵)
天明(1781-89)の頃 魚を並べた戸板を「板船」というようになった。図は、安政年間(1954-60)の頃で、左下では仲買がセリを行い、通路を行く地方商人の姿も見える(東京魚市場卸協同組合所蔵)

小田原町の繁昌

天保3年(1832)寺門静軒(てらかどせいけん)によって書かれた『江戸繁昌記(えどはんじょうき)』に「日本橋魚市」と題する小章があり、市場の情景が戯画的に描かれています。ここで、かなりの意訳を試みながら静軒の見た魚河岸の魚を追ってみましょう。

「春の空にはかれいが口から水気を大いに吐き、秋風の頃はすずきが溌剌としている」

かれいは種類が多く、時期もうまい食べ方もさまざまです。春には江戸前のほしがれいが河岸に並んだことでしょう。刺身に脂を求めない、軽やかな味わいがかつては愛されました。秋風が吹くとこいの洗いはすずきにとって代わられます。薄く切り冷水にさらされた身は純白で清らか。口中に広がるはかなくも淡い風味は隋(ずい)の煬帝(ようだい)をして天下一品といわしめたといいます。

「夜中に運ばれるかつおはホトトギスと飛ぶことをくらべ、夕河岸(ゆうがし)のあじは茄子と時をくらべる」

初鰹は八丁艪(はっちょうろ)のかけ声も勇ましく、飛ぶ鳥と競争する勢いで真夜中に市場に到着します。あじは江戸前魚の代表。享保20年(1735)の『続江戸砂子(ぞくえどすなご)』に「江戸前鯵 中ぶくらと云う、随一の名産也」とあり、これが江戸前の語が登場する最初と思われます。夏枯れの魚市場があじの入荷でにわかに色めきます。夕河岸は夏の夕方に立つ江戸前魚の特売市。もうひと仕事と棒手振(ぼてふり)らも活気づきます。

「生簀のぼら、雪詰めのふぐ、あんこうの腹は寒く、ひらめの眼は冷ややかだ」

ぼらは生簀に入って、冬のふぐは雪詰めで送られてきます。出世魚のぼらは幼魚おぼこ、2歳いな、3歳すばしり、4歳ぼらと成長し、10歳を経てとどと名を変えて「とどのつまり」となります。大江戸の台所のあまり水が海川に流れ出て、江戸前の海は五穀滋味(ごこくうまみ)に満たされます。その水をたっぷりと飲んだ若魚は稲魚(いな)と呼ばれました。
冬の味覚ふぐは「てっぽう」といい、当たると恐い魚です。しかし精度の低い当時の鉄砲ゆえ「滅多に当たらない」の例えでもありました。別の通り名「とみ」も庶民に大流行の富くじが「まず当たらない」からついたもの。江戸ではチリではなくふぐ汁を吸います。‟鮟鱇(あんこう)は唇ばかり残るなり”と江戸川柳に詠まれたように捨てるところのない魚。俗にあんこうの7つ道具とは、肝(肝臓)、とも(ひれ)、柳(頬肉)、ぬの(卵巣)、水袋(胃袋)、えら、皮。魚を食べつくす工夫にこそ魚食の奥行きを感じます。「左ひらめ右かれい」は眼の位置から両者を見分ける方法ですが、その区別はさほど明確ではありません。江戸では大きいものをひらめとしたようです。赤身のまぐろに白身のひらめ、季節には紅白の造り合わせをよろこびました。

「かながしら、ほうぼうは交錯し尾をひるがえして火原に燃え、まぐろとはもが枕を並べる」

金頭(かながしら)と当てる語呂から、兜をかぶった武者を連想するほうぼうの姿から、共に縁起の良い魚とされてきました。市場では祝魚ばかり並べる「赤物屋」というのがあります。めでたい魚の赤い色を火が原に燃えるようだと表現しています。
一方、縁起の良くない魚はまぐろです。昔はしびといいました。正確には大きいものがしび、中くらいがまぐろですが、このしびという言葉が「死日」につながるとして武家は決して口にしなかったのです。また、江戸近海ではまぐろは獲れません。氷もない時代のこと、遠方から運ばれるまぐろは鮮度が落ちて黒ずんでしまいます。下魚扱いのまぐろは町人でも食べるのを恥じる、とまで酷評されました。ところが天保3年(1832)、伊豆、相模など近海で大漁をみる椿事が起きます。蕎麦1杯16文のときに3、4人前のまぐろが24文。それでもさばけないほどだったので、目先の利く者が寿司種に使ったのがまぐろブームの始まりです。にぎり寿司の元祖花屋与兵衛が醤油にまぐろを漬けた「づけ」を握ったのがきっかけともいいます。よく食はむ(噛みつく)というはもは、とくに京都では祇園祭に欠かせない魚として珍重されています。「骨切り」の技も鮮やかな高級魚。江戸では蒲焼にするとうなぎよりも上品だといわれました。

「たこは施餓鬼(せがき)の僧より多く、へいけがにの脚は宿無しの虱(しらみ)より多く、こちは牛町の牛の角より多く、さわらは四谷の馬糞より多く、いしもちの首は賽(さい)の河原の石より多く、えいの背は地獄の釜の蓋よりも大きい」

ずらりと並ぶたこを坊主の頭に見立てますが、頭と思うのは実はたこの胴体。足ではなく腕で、その付け根に本当の頭があります。
臓物(わた)を取ってぶつ切りで酒と味醂で煮込む桜煮は関西に多く、江戸ではもっぱら酢だこが好まれました。江戸前のたこは小豆色だった、と市場の蛸師にきいたことがあります。
おどろおどろしい兵士の表情を甲羅に浮かべるへいけがに。壇の浦産と思いきや関東でも獲れたといいます。でも本当に市場で売られていたのでしょうか。堅いこちの頭は芝高輪の牛舎の牛の角にたとえます。そのなかに柔らかく美味な頬肉がかくされていることを昔の人は知っていました。
四谷大木戸の駄馬の落し物にされてはさわらも全くの形無しです。刺身に煮物に焼物に楽しめますが、繊細な魚で身くずれしやすいのが難物。江戸の昔も現代も市場ではさわらを押し頂くように細やかな手つきで扱います。河原の石のように積まれたいしもちも幅広のえいも蒲鉾の材料にうってつけ。魚河岸が仕舞いにかかる時分、蒲鉾屋からは「とんとこ」と大包丁で魚の身を叩く音がリズミカルに響きました。

「なまこの砂で猪肉屋の壁を塗り、いかの墨で焼きイモ屋の看板を書けばいい」

なまことは生の「こ」のこと。煎ってイリコ、「こ」の腸(わた)でコノワタ、卵巣を干したからコノコ(この子)です。いかは江戸前のものが市場にあがりますが、昔は決して刺身では食べなかったといいます。

「このしろ、いわし、こはだ、さばは塵のように積もり、しじみ、はまぐりは計る価値もないほどだ。これほど捕り尽くして泥砂のように扱うとは何事だ、と龍神様がおっしゃるだろう」

煮ても焼いても喰えない、しかも「この城」に通じると武士に忌み嫌われたこのしろ。しかし塩をして酢〆にするとこれが実にうまい。
‟坊主騙して還俗(げんぞく)させてこはだの寿司でも売らせたい”と謳われた粋な江戸前魚となりました。‟いわしの頭も信心から”や‟さばの活腐(いきぐさ)れ”などの言葉に見るように、江戸の人は大衆的な青魚こそ身近に感じ、決して無駄にはしません。龍神様もきっと目をつむるはずです。これら多獲魚を魚河岸では「計(はか)り手組」、「あかとり」と称する青魚業者が「ダンベイ」と呼ばれる桶に魚をため、ざるですくい売りをしました。

「さめといえば、ねこざめ、のこぎりざめ、けんざめ、しゅもくざめ。えびなら、かまくらえび、しばえび、のろまえび、てながえび、くるまえび、あみえび」

さめは叩いて蒲鉾、はんぺんに。ふかひれは乾あわび、いりこと共に中国に輸出される、いわゆる俵物(たわらもの)。さめの身は臭みがあるので湯がいた後で刺身にします。七色づくりといいました。魚河岸に入るいせえびは鎌倉産なのでかまくらえび。芝発祥のしばえびは天ぷら、寿司玉子に欠かせませんが、今は失われた江戸前です。のろま、てながは川えび、茹でると赤いくるまえびが祝膳にうってつけなのは江戸の昔から。あみえびは佃煮に利用します。

「くじら、さけ、たら等大小の魚、塩物、干物、塩辛、遠隔地のものまで波路はるかに集ってくる」

江戸の鯨料理といえば鯨汁。くじらの皮を入れた味噌汁で、12月13日の煤払いに食べる習わしがありました。この日は5、6頭のくじらが江戸人の腹におさまる、などといいます。松前のさけが定期的に江戸に運ばれるようになったのは寛政の頃(1789~1801)で、それまでは利根川で獲れたものが少しだけ出回る程度。貴重品なので、秋の初鮭は初鰹に劣らないほど高価だったといいます。江戸に初雪が降るとかならず市場にあらわれるのがたら。文字通りたらふく食うこの魚、腹を裂くと百種類もの魚介を呑んでいた話もあります。大変に生命力が強い長命魚としても知られ、寒い晩にちり鍋で身体を温めながら、江戸の人たちは長寿を願ったことでしょう。

鮪を出刃包丁で切りおろす。江戸時代、鮪は東北の牝鹿半島や九州の五島などから数日かけて運ばれた。熟成の遅い魚でも鮮度は落ちてしまう(東京魚市場卸協同組合所蔵)

生命を商う

江戸の昔、威勢の良い者といえば小田原町の魚河岸連中と相場がきまっていました。目まぐるしい商いは魚の鮮度と競争するように、何事も手早く行なう。言葉づかいも自然荒くもなる。そんな風情が独特の江戸っ子気質を育んだと見る向きもあります。
魚は自然の産物です。どこからくるかもよく分からないし、明日獲れるのかだってあてになりません。海から湧いてくるほどの大漁もあれば、まったく網にかからない日もあります。ままならない自然の気まぐれでしょう。その自然を相手に魚河岸は400年もの長きにわたって商売を続けてきました。
多分それは無理をしなかったからできたことです。魚の性質をよく知り、それに逆らわない商売だからこそ残ったのだといえます。江戸に開いた魚食文化に魚河岸の果たした功績は大きいのですが、それは煎じつめると、いつも魚に合わせてきた、というただ一点に集約されると思います。
かれらの威勢の良さも、生命そのものである魚を手売りするところから生じるバイタリティにちがいありません。

いわし、こはだ、さば、あじなどは樽や籠でいくら、と、はかり売りをしていた(東京魚市場卸協同組合所蔵)
最も売れ口の良い5月節句。天に鯉のぼり、地には鮮魚。上下に魚が躍る壮観さを見せる。この日は魚河岸の塩物問屋から干鱈、干河豚が御城に献上される習わしがあった。(東京魚市場卸協同組合所蔵)
挿絵画家森火山について

森火山(本名森薫三郎)は明治13年(1880)、日本橋魚河岸で魚問屋を営む森源兵衛(五世)の三男として東京・日本橋区本船町に生まれる。火山も同業の西長(本小田原町)で働くかたわら、独学で絵画を学ぶ。その後毎夕新聞、時事新聞に籍を置き、大正5年結成の東京漫画会に所属する。父親の薫陶を受け、本人自ら「日本橋魚河岸研究画家」を名乗り、多年の歳月を費やして江戸初期から大正時代に及ぶ「日本橋魚河岸の人と暮らしと商い」を絵筆により活写、克明かつ史料的価値が高い膨大な労作を今日に残している。昭和19年(1944)10月、東京・港区白金にて没。

日本橋魚河岸のハテナ?コラム
日本橋魚河岸の創始者とその時代的背景について

日本橋魚河岸の開祖となる人物は、現在の大阪湾北部に位置する摂津西成郡佃村の名主森孫右衛門。
孫右衛門は徳川家康公との奇縁な出会いの後、天正18年8年(1590)秀吉の小田原城攻めの際に家康軍の一支隊が江戸城を奪取した俗に言う「家康の江戸入府」に孫右衛門等も家康公に従い、江戸へと入ったことが古文書に垣間見ることができる。これは江戸城攻撃軍の進駐を意味するものだが、孫右衛門一族にとっての江戸進出の第一歩でもあった。家康公と孫右衛門の関わりには謎めいた諸説があるが、孫右衛門は家康公が伏見在城の折には御膳魚の調達に仕えたり、「本能寺の変」では、伊勢から三河までの舟行きで、家康の逃避行を手助けする隠密めいたことも行なっていた。
また慶長19年(1614)の大坂冬の陣や翌元和元年の夏の陣では、軍船を漁船に偽装して海上偵察や敵情収集を行ない家康の陣営に報告し仕えていた。戦時に功を上げるほどの彼らは、単なる漁師団ではなく、実力を備えた水軍のような存在だったことは想像に難くない。
広く江戸湾の漁業権を得て江戸城へ御膳魚を奉納する特権を得ていたこと、また佃島という居住地まで賜るのは、家康公からの孫右衛門一族への論功行賞でもあったのだろう。慶長11年(1606)幕府により、日本橋本小田原町に魚市場が許可されるが、その数年前から森孫右衛門の倅九左衛門が、最初の江戸の城下町が成立した道三堀河岸界隈に、記念すべき初の魚問屋を始めたことが判明している。
●以上は『フードカルチャー』誌既刊号(第14号)で詳しくお伝えしています。

参考文献
  1. 1魚河岸百年編纂委員会『魚河岸百年』(1968年)
  2. 2岡本信男・木戸憲成著『日本橋魚市場の歴史』(水産社・1985年)
  3. 3寺門静軒著 朝倉治彦・安藤菊二校注『江戸繁昌記・一』(東洋文庫・1974年)
  4. 4三田村鳶魚著 朝倉治彦編『娯楽の江戸 江戸の食生活 鳶魚江戸文庫』(中公文庫・1997年)
  5. 5渡辺善次郎著『巨大都市江戸が和食をつくった』(農文協・1988年)
  6. 6武井周作著『魚鑑』(八坂書房・1978年)
  7. 7末広恭雄著『魚の博物事典』(講談社学術文庫・1989年)
  8. 8本山荻舟著『飲食事典』(平凡社・1985年)