研究機関誌「FOOD CULTURE No.16」麺類ではじまるわが国の粉食史 禅宗僧侶が導入した麺類
麺類ではじまるわが国の粉食史 禅宗僧侶が導入した麺類
前号までは、世界に拡がる「すしのグローバル化」をテーマに、松本紘宇氏が世界25カ国35都市のすし店を、自ら取材した現地の写真と、なまの声をお伝えしてきた。世界には寿司を扱う店がおよそ14000から18000店はある(松本氏談)との、驚くべきその拡がりの様子が克明にリポートされた。
さて、わが国の「食」は歴史的に多くの国の食文化を受容してきた経緯がある。なかでも中世期に大陸から「粉食(ふんしょく)文化」の受け入れを行ない、麺類は今では主食の米に勝るとも劣らぬ存在となっている。今号からその「麺類」をテーマに歴史的発展の過程、特に大陸から学僧らにより伝承された加工技術と日本化への道筋を、たどってみることにする。
はじめに
われわれの祖先は、古来より粟(あわ)、黍(きび)、米を粒食(りゅうしょく)してきた。その歴史を通覧すると、三度、大きな変革を経験している。それは異国の食文化との接触によるもので、いずれも粉食(ふんしょく)との出会いによって引き起こされている。
一、奈良時代、お隣りの隋、唐朝との接触による餅(べい)食品(正月用の餅ではない)の摂取。
二、平安末から鎌倉初期に始まる南宋との接触による麺類の導入。
三、昭和の敗戦によるパン食の受容。
この三度の異国の粉食文化との出会いは、わが国の食生活を大きく変容させるとともに、社会的な変革をももたらしている。
小論では、二度目の粉食との出会い、鎌倉時代に始まるわが国中世の粉食、麺類の導入による食生活の変貌と社会的変革を、様々な日記などを通して中世の麺類史を組み上げてみた。
粉食を成立させるためには、必要不可欠な3つの要素がある。小麦とこれを粉にする挽臼、そしていかにして食するか、その食法である。このうちのどの要素が欠落しても粉食は成立しない。
奈良、平安朝期の粉食導入は、天皇自ら小麦栽培を奨励することから始められ、農民もまた小麦栽培に取り組んだ。食法は唐朝(筆者は後漢代と考えているのだが)の餅(べい)食品を徹底的に模倣した。ところが、為政者は肝心な挽臼の導入を見落としていた。そしてさらに粉食にかかわる言語の混乱と、農民の苦痛のみを残して、最初の受容は失敗に終わるのであった。
挽臼と食法の渡来
中世の麺類史は、臨済宗開祖・栄西と曹洞宗開祖・道元を代表とする禅宗僧侶によって幕は開かれる。
彼らが沈滞する仏教界から離れ、新仏教を求めて渡海した先は、江南の地、浙江省である。東北域の夷狄(いてき)の国・金に圧迫された宋国は、黄河下流域の開封から、江南の浙江省杭州に遷都していた。南宋の都である。
この遷都は、江南の人々はもちろん、われわれにとっても幸運なことであった。華北で発展した粉食文化を一気に江南の稲作地帯に持ち込んでくれたからだ。
唐代の粉食を隆盛にした挽臼(磑<がい>)も江南の地にもたらされ、江南の稲作民はそれを磨と呼び替え、さらにもみスリウス「礱(ろう)」をも作り出していた。また唐代では、小麦粉を「麺」と呼んでいたのだが、江南の人々は、つるつると食べる食品そのものを「麺」と呼び替えた。呼びかえるほどに麺類は、江南の人々の味覚に適合し普及していたのである。
こうした状況の地に入れ替わり立ち替わり、百数名のわが国の僧侶たちがやって来た。その代表的な僧侶が栄西であり道元であった。
栄西は1187年(文治3)、二度目の渡宋で浙江省の天台山万年寺と天童山景徳寺で5年間禅を学び、抹茶法も合わせて習得して、帰国後『喫茶養生記(きっさようじょうき)』と茶磨(ちゃうす)で挽いた抹茶を点て、将軍実朝に献上していた。道元は1223年(貞応<じょうおう>2)に入宋(にっそう)し、浙江省天童山景徳寺で禅を学び、5年後に帰国した。『典座教訓(てんぞきょうくん)』、『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』に麺類の記述を行い、弟子の僧侶たちに麺類を食させ、その際の食事作法まで教えている。
僧侶たちの修行中の食生活は、朝の粥、昼の強飯(こわめし)、午後からは食事を摂らない。これが仏教徒の戒律だが、達磨(だるま)大師が開いた禅宗では、僧侶にはげしい労働を課していた。作務を終えた後、間食として、心に火をともすほどのわずかな食事を与えていた。この食事には戒律に反する主食の米は食せない。その代わりに格好な精進食があった。麺類、饅頭などの小麦粉食品である。2人は修業中の5年間、禅宗教義はもとより禅林での食生活、食事作法、喫茶法をも含めた禅林文化そのものを学び、それらをそっくりわが国に持ち帰ってきたのである。
帰国後の2人は偶然にも調味について語っている。栄西は『喫茶養生記』の上巻で、健康維持のため甘・辛・酸(酢)・鹹・苦の五味を摂取せよという。
道元は六味を調味せよという。その六味とは、甘・辛・酸(酢)・鹹・苦・淡を挙げている。道元は極端な味付けを避け、中葉の淡を心がけよと教えている。
わが国で調理、調味に関心を示して記述した人は、これまでこの2人をおいてはいなかった。現代に通じる調理、調味技術は、正にこの2人に端を発するといってもいいだろう。
さて、2人は彼(か)の地のいかなる麺類を持ち帰ってきたのだろうか。これを知る格好の書物がある。宋代末から元代初期に成るという『居家必用事類全集』である。彼らが在宋中の頃の庶民食生活を活写した、今日いうところの家庭百科全書ともいえる一書であった。
この書の湿麺食品の部に多くの麺や、饅頭類の製法が書かれている。その中の代表的と思われる麺とそのいくつかの製法を示し、さらにわが国の麺類の初見記録を提示し、両麺類を見比べることによって、わが国の麺類の成り立ちが明瞭となると考えられる。
『居家必用事類全集』の中の麺
それでは具体的に『居家必用事類全集』の中の麺の作り方を見てみよう。
小麦粉に水と油と塩を混ぜ合わせてねり、棒でもむ。粘りが出たら指の太さにして水に入れて浸す。しばらくして好みの太さにのばして鍋に入れてゆでる。
良質の小麦粉を用いる。春夏秋は新しい汲水を使う。水に油を入れ、小麦粉にまぜてこねる。さらに油を加えながらねる。そして太目の箸ほどに引き伸ばす。何本も同じ長さに作る。太い細いのないようにする。1本ずつたるみのないように置き、油紙をかけておく。しばらくして、2本の箸ほどの太さの棒に、これをひねりながらからませて、さらに細く長く引き伸ばす。そして乾燥させる。或いは、油を用いずにこねる。米粉をつけながら伸ばして細くする。さらに米粉を付けて、引き伸ばすこと数度、丸く細長くしたら、不ぞろいのものを取り出し、もう一度、均一になるように伸ばす。そして乾燥する。
水と塩で小麦粉をねり、ねり棒でごく薄く伸ばし、絰帯の如くに切る(絰帯とは幅広の麻の腰ひも)。この麺は日本でキシメンともヒモカワとも誤解されて呼ばれることになる。
えびをたたき砕いて、汁を漉(こ)して澄まし、その汁を小麦粉に入れてねる。薄く伸ばして切り、煮熟する。すると麺は自然に紅色となる。
槐(えんじゅ)の若葉を搾り、小麦粉にしぼった「汁」を入れてねる。押し広めてから、ごく細く切る。味は甘く、色はもえぎ色である。麺ではないが、わが国のうどんと関係がある。
小麦粉を塩水で練り、小さな団子にし、棒で丸く押し広める。まわりをごく薄くして、中に餡(あん)を入れ、まわりに水をつけて、はり合わせる。
これら麺類を製法の違いで分類すると、
引き伸ばし法=水滑麺(すいかめん)、索麺(そうめん)
切断法=絰帯麺(てったいめん)、翠縷麺(すいるめん)、紅絲麺(こうしめん)
麺類製法の3方法のうち、押し出し法がないだけである。押し出し法の麺には、韓国の冷麺やイタリアのスパゲティがある。
古文献に見るわが国の麺類関係語の初見記録
わが国の麺類に関する言葉の初見記録と思われるものを、順次書き出して見る。
『典座教訓(てんぞきょうくん)』(道元1237年・嘉禎<かてい>3)
「明日は大衆に供養する日なので“麺汁”を作ろうと思う。あいにくその出汁に使う倭椹(しいたけ)がない。日本船に来たのは、その倭椹を買うためだ」
1223年(貞応<じょうおう>2)、道元が入宋したとき、船内で上陸を待っていた。そのとき、宋の老典座と語り合ったときの記録が同書に残されている。(注1)
これは道元自身の言葉ではなく、現地の老典座の言葉を記録したものではあるが、わが国の文献での「麺」の初出と考えられる。
(注1):「倭椹(しいたけ)」は、原本では「倭椹」とのみ書かれている。「椹」は元来「桑の実」を意味するが、前後の文章と、篠原寿雄氏の『典座教訓―禅心の生活―』(大蔵出版)により、「倭椹」(しいたけ)」とした。
『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』(道元1246年・寛元4)
「飯椀から飯を取り出す方法は、右手の親指と人差し指とで7粒ほどを取り出し鉢刷柄(はつせっぺい)の上に置く。餅や麺の類は、半銭ほどの大きさでよい」
『赴粥飯法』では、禅林で修行する者の守るべき規則や作法を述べている。「鉢刷柄(はつせっぺい)」というのは、鉢を洗うときに使う板切れのことである。食事が飯でなく、餅(ぺい)や麺類のときは小さく半銭(小銭)ほどにちぎって行なうように、という意味である。
道元は永平寺で麺類を日常生活に取り入れている。この「餅(ぺい)」は、他の記録に「唐餅」という文字のあることから、わが国の正月の餅ではなく、彼の地の「ピン=餅」饅頭類の可能性が考えられる。さらに奈良・平安朝では麺とは小麦粉を指す言葉であったが、これを今日意味するように変えたのも、道元であった。
『師守記(もろもりき)』(大外記 中原師守<もろもり>)(1340年〈暦応3〉正月4日条)
「例年通り今日風呂初メ幸甚ゝゞ 山伏一瓶麦麺等持参 云々」
京に住む師守の家に山伏が訪れ、土産を置いていった。山伏がいうには、小麦の粉で作る麺というのものだという。師守は初めて目にするもので、名称が判らぬまま「麦麺」と記した。
さらに翌2月10日に醍醐寺の僧が風呂番に来た際、この「麦麺」を持参したが、彼も名前は知らないという。師守はこの日の日記には「醍醐寺僧当番華麺以下茶等持参ス」と記している。師守は多分「麦麺」と書くつもりを「華麺」と書いてしまったのだろう。
しかしその後の記録から判断して、「麦麺」も「華麺」も「素麺(そうめん)」であることが判った。そこでこの「麦麺]が、「素麺」の初見であると考えられる。
『居家必用事類全集』の「索麺」がソウメンの正字で、「素麺」は誤字となるが、以後の小論では状況に応じ、両表記を使い分けることにする。
『嘉元記(かげんき)』(1347年〈貞和3〉7月7日条)
「円識房快賢去年合戦ニ副フ 恩賞中臈ノ悦酒 三経院ニオイテコレアリ 三肴毛立タカンナ ウトム フ サウメム一折敷数六 アメ一杯 ワリコ ヒワ一フサ 白瓜切少々」
『嘉元記』は、1305年(嘉元3)から1364年(貞治3)までの60年間の法隆寺の記録で、この記述は南北朝の戦に僧兵快賢が手柄をたて、恩賞を受けたときの記録である。
毛立(けだち)というのは、湯気の立っていることである。酒の肴が3種類出た。タカンナ(筍)とウトン(うどん)、フ(麩)である。
従来から「うどん」は、奈良時代に渡来した唐菓子の一種の、「混沌(こんとん)」を「餛飩(こんとん)」と字を改め、熱く煮て食べることから「温飩(うんどん)」「饂飩(うんどん)」と変化し「うどん」になった、という説が定説とされてきた。しかし『言継卿記(ときつぐきょうき)』や『蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)』などの記述から「饂飩(うんどん)」と「餛飩(こんとん)」は別の食べ物で、両食品はともに室町時代に存在していたことが判る。そうした意味で、現在のところ「饂飩」の初出は『嘉元記』(貞和3年7月7日条)ということになる。
『教言卿記(のりとききょうき)』(山科教言<やましなのりとき>)(1405年〈応永12〉6月19日条)
「一源西堂来臨 勧冷麺 高橋参会」
山科教言の日記。「冷麺」と書いて「ひやむぎ」と読む。「冷麦」は後世の当て字と考えられる。小論では以降「ひやむぎ」は「冷麺」を用いる。
一方「冷麦」については、『禅林小歌』(1394〜1420年)についても触れておきたい。筆者は浄土宗の僧・了誉聖冏(りょうよせいけい:1394〜1420年)で、当時の禅宗の隆盛を揶揄した一文のなかで、
「先點心ノ次第ハ 水晶包子―茶麻菓 饅頭 巻餅 盡餅温餅 饂飩 螺結柳葉麺 桐皮麺 絰帯麺 打麺 三雑麺 素麺 薤葉麺 冷麦 更互誣之」とある。
禅僧たちが互いにその麺づくりの腕をそしり合っている、と茶化してるのだが、ここに「冷麦」とある。これがいつ書かれたのかは不明のため、了誉聖冏が死んだ1420年と考えて、参考にしておきたい。
『蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)』(1438年〈永享10〉10月12日条)
「松茸折一合 ●(※)麦折一合 賜林光院」
※ ●は左側に「麦」、右側に「喬」
『蔭凉軒日録』は、相国寺の塔頭鹿苑院(たっちゅうろくおんいん)の僧録司の公用日記で、1435〜1466年は季瓊真蘂(きけいしんずい)、1484〜1493年までは亀泉集証(きせんしゅうしょう)が筆録している。
この日は、相国寺の林光院から蓋付きの折箱に入った松茸と●麦をいただいた、という。「●麦」は「蕎麦」の書き間違いであると思われるので、初出とするものである。(※ ●は左側に「麦」、右側に「喬」)
『大上臈御名之事(だいじょうろうおんなのこと)』(1450年・宝徳2)
「そば あをい そばのかゆ うすゞみ さうめん ぞろ ひやむぎ つめたいぞろ きりむぎ きりぞろ」
この文献は、御所の女房が使う特殊な言葉、「女房詞(にょうぼうことば)」が解説されているが、麺類に関する言葉を拾ってみた。
禅林では「きりむぎ」を「切麺」と書き、この頃出現したものであろう。この「切麺」は、今日の手打製麺法にあたるもので、すでに奈良時代の索餅(さくべい)作りに行われていたものが、ふたたび禅林で復活したものである。その名の通り、小麦をねり包丁で切断するものである。今日のうどんと作り方は違いはない。通説によるとうどんと切麦の違いは、うどんは小麦粉から、切麦は大麦粉から作るのだというが、その根拠はない。
筆者は種々の文献から考えて、冷麺(ひやむぎ)もうどんも最初の頃は引き延し法で作られていたが、この頃になって切断法で作られるようになった。そのため名称も「切麦」とか、「切冷麺(きりそうめん)」という言い方で文献に登場するようになったと考えている。
『山科家礼記(やましなけらいき)(大沢久守、重胤<しげたね>ほか)(1468年〈応仁2〉2月24日条)
「ヒヤシル在之 南西院御前サイ七汁三在之 昼折酒 又水花メンムキ御肴 色ゝ大御酒也 云々」
大沢家は山科家の雑掌(荘園の管理にあたる執事)である。1412〜92年(うち50年分欠)までの日記で、応仁2年分は重胤の筆である。おそらく重胤は、『居家必用事類全集』にある「水滑麺」の文字が分からず、「水花メンムキ」と書いたのであろう。いずれにしても「水滑麺」の初出である。
『山科家礼記』(大沢久守、重胤ほか)(1468年〈応仁2〉3月8日条)
「一 宿兵衛 予 将監方ソハカユモチイ沙汰也」
「そばかゆもち」というのは、現代の「そばかき」のことである。
宿兵衛と筆者の大沢重胤は近衛府の判官に「そばかき」を作るよう指示されると、この条にある。
前述の『大上臈御名之事』に「うすゞみ」とある「そばのかゆ」は、蕎麦の粉を湯の中に溶かし込み、煮たもので、水分の多いドロドロとした、いわゆるスープ状のものをいっていたようだ。通説では、これを「そばかき」というが、「そばかき」はこの「そばのかゆ」にさらに蕎麦粉を加え、餅状に固めたもので、「そばかゆもちい」が正しい名称である。
御所の中でも、庶民の間でも、当初はこの「そばのかゆ」か「そばかゆもちい」が、蕎麦の唯一の食べ方だった。
『蔭凉日録』(1489年〈延徳元〉12月2日条)
「有斎 二汁六菜 般若数遍 愚喫蕎餅 更々二果 茶了帰」
禅林の点心(てんじん:来客用の間食)が各層に普及していくと同時に、麺類が世間に広められていった。この点心と同じ働きをした食事形態がある。「斎(とき)」といわれる食事で、僧侶のためのものではなく、信徒や来客に出される昼食である。12月2日に「斎」があり、2汁6菜と般若(<はんにゃ>酒)が出た。自分は蕎麦餅を食べ、更に二つの菓子、茶を飲んで帰った」という意味である。
「蕎麦餅」というのは、蕎麦粥よりも硬めに蕎麦をねって丸めたもので、蕎麦団子の形に近い。中に菜を入れることもある。今日の正月餅と同じものと考えられる。
『定勝寺文書(じょうしょうじもんじょ)』(1574年〈天正2〉2月10日条)
「木曽定勝寺 同寺仏殿ノ修理ヲ始ム・・・・・・振舞ソハキリ 金永」
従来より「蕎麦切」の語は、『慈性<じしょう>日記』の江戸期に入ってからの条に出てくるのが初出とされてきた。しかし筆者は既に、1989年(平成元)5月末に長年に亘る研究から確信を得たものを仮説として、『つるつる物語』(築地書館刊)の中で、天正期にはつるつるの蕎麦が「蕎麦切」と呼ばれ、庶民の間にも拡がっていたことを述べた。奇しくも出版から5年後(平成4年)の新聞記事により筆者の仮説が真説であったことが判明したのである。筆者自身の研究が裏付けされたと、万感胸に迫るものを感じた。
平成4年12月13日付信濃毎日新聞によれば、「日本最古の史料木曽に、蕎麦切信州の味は戦国時代から」との大見出しで新史料発見を報じる記事が掲載されていた。
わが国の麺類に関する言葉の初見記録を見れば、ほぼ総べての言葉が江戸期以前の中世に出揃っていることが分かる。そして『居家必用事類全集』の麺類と見比べれば、麺類が南宋から伝わったことも明瞭である。しかし、その中にあって「饂飩」「冷麦」「雑麺」「切麦」「蕎麦」の五種の麺が日本産なのである。
- 1『つるつる物語』(伊藤汎著・築地書館刊)
- 2『居家必用事類全集』(京都松柏堂刻本)
- 3『高僧伝六栄西明日を創る』(平田精耕著・集英社刊)
- 4『典座教訓ー禅心の生活ー』(篠原寿雄著・大倉出版刊)
- 5『信濃毎日新聞』(平成4年12月13日)

1938年 東京向島に生まれる
1963年 慶応義塾大学商学部卒業
現在、寺方そば「長浦」の二代目当主。
「寺方そば」とは、尾張一宮の妙興寺に伝わる覚書をもとに復元したそば料理のことである。
著書に、『つるつる物語』(築地書館刊)がある。
先代の収集した全国各地の名刹に残されている史料や日記等から、近世日本の「食」のあり様を研究。本業のかたわら、その事実解明をライフワークとしている。
愛知県妙興寺に三笠宮様がご臨席された際に、自らが練った妙興寺そばを献上した経験がある。











