研究機関誌「FOOD CULTURE No.18」麺類ではじまるわが国の粉食史(三)小麦栽培が促す弱小農民の自立
麺類ではじまるわが国の粉食史(三)小麦栽培が促す弱小農民の自立
粉食文化とは
このシリーズのはじめに、粉食の成立には、小麦栽培と挽臼(ひきうす)と食法の三要素が不可欠であることを述べ、古代の粉食は、その一要素である挽臼を欠落したために成立しなかったと述べた。
従来からの通説によると奈良、平安時代に、食法としての索餅(さくべい)、餺飥(ほうとう)があり、八種唐菓子(やくさのからかし)、餛飩(こんとん:ワンタン)もある。また元正天皇は、小麦ばかりか蕎麦の栽培も奨励している。それ以前、推古天皇の御世に、唐朝粉食の隆盛をもたらせた製粉用具の碾磑(てんがい)も作られており、古代、奈良時代に粉食は成立している、としている。
この通説が誤りであることの詳細は後述するが、ここでは粉食が成立していない、という要点のみを述べて話を進める。
まず、小麦粉で作られるはずの餺飥(ほうとう)や八種唐菓子(やくさのからかし)が、小麦粉ではなく米粉で作られていることである。また挽臼であるはずの碾磑(てんがい)は、搗(つ)き臼であった。さらに、元正天皇をはじめとする小麦栽培奨励策は、農民に苦痛を与えるのみで定着せず、失敗に帰している。つまり古代の粉食は、成立してはいなかったのである。
粉食成立に不可欠の小麦栽培、挽臼、食法の三要素は、粉食という食事形態を媒体としてのみ存在しうる。単独または二要素だけで存在することは不可能である。さらにそれらの要素は、その要素に関連する多くの人と道具類の介在によって構成されている。小麦栽培をする農民は、鉄製の犂(すき)、鍬(くわ)を所有していなければならない。挽臼(ひきうす)を作る石工の手には、石を刻む鋼鉄製の鏨(たがね)が握られていなければならない。調理人の手には刃物があり、調味料があり、鍋や釜がなければならない。これら諸道具を作る人々も存在していなければならない。
粉食は、こうしたさまざまな人と物との密接な組織体として成立している。あたかも生命体のごとくである。細胞から臓器が作られ、互いに作用しあって、これを維持しているのである。粉食をこのような生命体として認識するとき、粉食は文化として成立するのである。粉食文化とは、まさに生命体なのである。どの一部分が損傷しても、痛みを感じるし、もしその一部分が切り取られるようなことになれば、粉食文化は死滅するのである。
古代における粉食文化は、挽臼という重要な部分を欠落したことで、小麦栽培は苦悶し、食法は大きなゆがみを生じたのである。古代の粉食は、通説とは違って失敗しており、文化足りえなかったと考えられる。
小麦栽培を喚起した粉食
こうした観点から鎌倉時代の粉食を鳥瞰すると、当時のわが国には麺類という食法が存在し、挽臼である「磨(ま)」も存在する。もはや小麦栽培は必然であるが、意外にも小麦栽培に関する史料文献は、挽臼同様極めて少ない。承和7年(840)の麦作奨励策を最後に、「馬草禁止令」も「麦作栽培令」などの法令もぷっつりと途絶えている。
十世紀初頭の『延喜式巻二十三』の「交易雑物」条に、
山城国 大麦三石 小麦三十石
大和国 大麦三石 小麦十一石七升三合
和泉国 小麦二十五石
摂津国 大麦三石 小麦三十五石一斗
阿波国 小麦七十石
と、あるように、小麦栽培は、四国の阿波国は特別として、畿内に限られて存続はしている。後述するが、この小麦の用途は醤(ひしお)製造のために使用され、わずかながら索餅使用されるという状況であった。
こうした状況が、鎌倉時代に入ると一変する。五穀の内容に変化が現れている。古代の五穀は、「米、粟、黍(きび)、大豆、麦」であった。これが、前回でも触れたように、「米、大麦、小麦、緑豆、胡麻」と様変わりしている。大麦と小麦は明瞭に区分され、五穀中の二穀に数えられている。大麦と小麦の食法の違いが明確に認識され、小麦は重要穀物として独立したのである。
元仁2年(1225)5月4日、現在の岡山県備中新見庄で、麦の課税問題で争いが起きている(『備中国新見庄史料一「造東大寺養得奉書案」』)。
後鳥羽上皇の建てた寺、最勝光院の所領に、鎌倉幕府の下級役人、管符生(がんふしょう)が田所名の麦畠を検注しようとしたところ、名主の忠国は「麦畑は検注有らざるべき也」と断固拒否し、抵抗している。それでは田に作る麦には課税するというと、「畠地の麦に課税がなく、米を作り終えた乾田に作る麦にのみ課税するのは違法だ」とこれもまた拒否している。奈良平安時代の麦作奨励策の遺功であろうか。慣例として畠地の麦に課税することはなかった。忠国はこの慣例を盾に抵抗したのであろう。
奈良、平安時代の度重なる麦作奨励策も無視し続けていた農民が、鎌倉時代に入ると麦栽培を自発的に行い、さらに荘園領主、あるいは守護、地頭などの管理者と課税問題さえ引き起こしている。
曖昧に「麦」と書かれてはいるが、禅林のみならず旧仏教寺院にいち早く普及していく麺類、饅頭(まんとう)などの原材料の「小麦」を指していると考えていい。畿内、あるいは僧院に浸透する粉食が小麦の需要を喚起したのである。こうした領主と農民との課税争いは、各地で頻繁に多発していたはずである。
挽臼の存在を示す『力王丸田畠家財譲状』(前回出)は、1261年の文書だが、奇しくもその3年後、備後、備前の幕府の御家人に対して一通の命令書が通達されている。
『関東御教書』文永元年(1264)4月26日の条である。
「諸国の百姓が、稲を刈り取った後に麦を作り田麦と称しているが、この田麦に課税すること、以後、禁止する。田麦は百姓の収入とせよ。この旨を備後、備前両国の御家人等に下命せよ」
と、いうもので、執権北条長時と連署北条政村による裁定書である。
この文書によれば、備中のみならず諸国の農民が稲の刈り取り後の田に麦を栽培していることがわかる。前述の新見庄名主忠国のように、荘園領主や守護との課税問題で、頻繁に争いが起きていることをも示している。そして、幕府の裁定は、「田に作る麦に課税してはならぬ」というものであった。当然、畑地の麦も無税という結論である。
この文書は、栄西、道元の導入した挽臼と食法が、小麦栽培を喚起し、粉食は文化として成立したことを証するに余りある貴重な文書なのである。
社会変動を引き起こす粉食
一文化が誕生するということは、大なり小なりの社会変動を引き起こすものである。粉食文化の成立は、新たな食料の誕生である。決して小さな問題ではなく、大きな問題である。社会問題となることは歴然としている。
中世史研究家は鎌倉時代中頃から、畿内の農村部に前代とは明らかに異なる変化が起きていることを認識している。その変化を黒田俊雄氏は『日本の歴史8』(中央公論社)の中で、詳細に述べておられる。
「鎌倉中期ごろまでは、多くの荘園では下層農民は年貢の正式な負担者としてまともに領主の台帳に記載されなかったが、鎌倉中期から南北朝時代にかけてのころ、多くの荘園では、いままで文書や帳簿に姿を見せなかった下層の弱小農民が、あるいは年貢の負担者として、あるいは村の農民の連署状(連名で署名した文書)にぞくぞくと名前をあらわすようになる。とくにそれは、畿内やその周辺のような社会・経済の先進地帯に顕著である。これは当然なんらかの社会的変動があったものと考えざるをえないのである」
それまで領主からの課税は、田を所有する富裕な名主に課され、田を持たぬ弱小農民への課税は名主の裁量に任されていた。生殺与奪の権を名主が握っていたのである。中世史研究家は、この弱小農民層の変化を見ているのである。氏はこの弱小農民の変化を、さらに詳細に述べておられる。現京都府宇治市の南、木津川の東岸にある綴喜郡(つづきぐん)多賀という村落での出来事である。
「文永9年(1272)の事、古びた高神社を改築し、完成を祝って、京都から呼び寄せた猿楽師一座の愉快な演技を村人一同が楽しんだ。このときの改築費、神事と猿楽師に支払われた費用は、ほぼ39貫文であったが、殿原と呼ばれる名主たちが27人で20貫文を出し、里人132人が19貫文を出している。さらに、正安3年(1301)、村の禅定寺の鐘が壊れたために、新しい鐘を造りなおしているのだが、このときの費用は、僧侶達が35貫文、零細な村人からは3貫文が集められ、この銅銭をそのまま鋳込んで釣鐘を完成している。
鎌倉初期までの農民は、鉄製品や塩以外は、すべて自給自足のはずが、一体、何を売って貨幣を手に入れたのか。自給自足の農民、それも零細な、田を持たぬ農民が、名主と肩を並べて銭を出している。この金を彼らはどこから手に入れたのか」
と、黒田俊雄氏は考え込むのである。そして、「水田の開発が容易ではなく、また買い取る力もない弱小農民にとって、与えられた唯一の活路はわずかずつでも荒地を畑に開墾すること、ないしは田に麦などの裏作をする事であったと思われる。(略)畑作物を作り、これを市場で売り、金銭を得るしかないのだが、これほどの金銭に換えうる作物があるのだろうか」と、さらに首をひねるのである。
中世史研究家の問題とする変化とは、これまで、名主に完全隷属してきた田を持たぬ弱小農民が、鎌倉中期以降、金銭収入を確保し、その隷属から独立をはたしつつある状況と考えるべきか否か、という問題である。
粉食史という観点から私見を述べれば、こうした社会変動は予想内のできごとであり、氏の推察どおり、弱小農民の貨幣収入源は、荒地の開墾畑と田の裏作に作る小麦にあったのである。しかし粉食の出現は、米に変わる新たな食料の出現という大きな問題である。
今日に例をとれば、粉食の普及は米食をしのぐ勢いである。そのために減反を強いられる農民の苦痛は、鎌倉中期の弱小農民が小麦栽培から得る収入の喜びと好対照なのである。麺類の普及は、小麦の新たな大きな需要を引き起こし、払底するほどの市場価値を持ったのである。
『中世の商業』(吉川弘文館)の著者の佐々木銀弥氏は、「貨幣経済は、鎌倉時代の中ごろから、都市のみならず農村にも波及し、荘園内にも市が立つようになる。」と指摘し、建長2年(1250)頃から急速に各地農村で増加していく状況を年表で示されている。これもまた、挽臼の普及を示す『力王丸田畠家財譲状』の年代と符合するのである。
田を持たぬ弱小農民の自立
鎌倉幕府は、田に作る小麦も、畑に作る小麦も無税とした。その結果、田を持たぬ弱小農民は刈入れ後の田に小麦を蒔き、あるいは山林に入り、麦畑をどんどん開墾しはじめる。さらに彼らを喜ばせたのは、小麦が春と秋の二度の収穫があったことである。この小麦を市場に持っていけば、いい値で売ることもできた。これまで、手付かずの山林の開墾は、隣村の農民も同様に進めている。その結果、隣村の開墾地とぶつかり合う。必然的な争いとなり、境相論(さかいそうろん:境界争い)が頻発するのも鎌倉中期ころからである。
黒田俊雄氏は、前述した禅定寺の村民が隣村の曾束荘(現滋賀県大津市大石曾束町)との境界争い(嘉元元年〈1303〉)で、小山田というところへなぐりこみをかけているという。こうした争いは、田を持たぬ弱小農民唯一の収入源を賭けた争いであった。村人は一味同心し、共同団結してこの争いに対したのである。
これまで、領地問題は領主同士が争うものであったのが、このたびは、農民自らが主役となる初めての争いでもあった。これは注目すべき問題である。領主や管理者を無視したこれまでにない行動であり、農民の意識の変革である。
田を持たぬ弱小農民は、この段階で、名主の隷属から経済的にも意識的にも完全に独立する端緒となり、独自の判断で行動するという規範を習得したのである。
一致団結の妙味と銭を手にした農民の中からは、武器を持つ地侍と呼ばれる者たちも現れる。彼らは隣村と連携をはかり、地頭や領主に対し課税減免運動へと誘導するようになる。鎌倉末から室町時代にかけての世相が利益優先、伝統無視と力(武力)による支配者層との相克へと発展する。下克上である。幕府の麦作非課税の裁定は、幕府崩壊のまさに蟻の一穴であったといわざるをえないのである。
管理者である幕府も領主も稲田の管理にのみ目を奪われ、畑作物の小麦の重要性を見落としていた。課税対象の米に係わる文書記録は数多く残存するが、非課税の小麦記録は極めて少ない。
同様のことが中世研究の分野に対しても言えそうである。米の研究は広く深く行われ、多くの業績が残されているのは、周知のとおりである。しかし、米同様の重要な小麦や粉食についての研究はほとんど目にしない。これは鎌倉幕府同様の大きな「目こぼし」と言わざるをえないであろう。
『日本書紀』の碾磑記録は誤った
さてここで、改めてわが国の粉食文化の成立について、話をもどす。
奈良時代にわが国の粉食は成立しているという通説の論拠は、挽臼(ひきうす)の存在を示す『日本書紀』の記述である。すなわち、
「推古天皇18年(610年)高麗(こま)の王、僧曇徴(どんちょう)、法定を貢上(みつぎあげ)る。曇徴は五経を知れり。またよく彩色及び紙墨を作る。あわせて碾磑(てんがい)を作る。碾磑を作るのはこの時に始まる」
碾(てん)とは穀物を脱穀、精白する臼(うす)のこと。磑(がい)とは、精白した穀物を粉末にする挽臼(ひきうす)である。この碾磑は、隋代から唐代にかけて、水車を動力源とする大量製粉を可能にし、低価格の小麦粉が提供され、唐代の粉食全盛期を現出させたのである。この碾磑を高麗(こま)の僧・曇徴が、わが国で作り上げたという。『養老令』(757年)の官撰注釈書『令義解 巻一』(833年)には、
「主税寮頭一人。倉庫。出納。諸国の田租。舂米。碾磑を掌る」
と、碾磑を管理する役人も存在している。
さらに『令義解 巻十』の雑令の「取水灌田」条には、碾磑を設置する際には下流から行え、と灌漑用水確保のための注意事項まで定めている。碾磑はかなりの数で作られている状況である。
こうした記録から、通説は唐朝の碾磑を想定し、水車動力による挽臼が作られ、稼動していたと判断してきたのである。しかし、この判断と異なる碾磑記述がいま一つある。私撰注釈書の『令集解(りょうのしゅうげ)巻四』(859〜77年)(注1)の「職員令」には、
「碾磑 水碓(すいたい:みずうす)を謂う也。米を作るを碾といい、石を以って碓(たい:うす)と為し、木を以って杵(きね)と為す。麺(むぎこ)を作るを磑といい、臼杵共に石を以って作る也」
とある。
碾磑とは、水碓(みずうす)のことで、円運動をする挽臼(ひきうす)ではなく、上下動する搗臼(つきうす)だというのである。通説はこの記録を見落としていると考えられる。
碓(たい)とは、杵を手に持つかわりに、テコの原理を利用して、足で踏みつけ、杵(きね)を上下させる搗臼(つきうす)である。『和名抄』は、これを「賀良宇須(からうす)」と読み、韓臼、辛碓と書いている。
水碓(すいたい:みずうす)とは、足で踏みつける代わりに水の重みを利用する。足で踏みつける部分に水槽を取り付け、水の重みで杵を上下させるのである。これを
槽碓(そうたい:そうず)ともいう。「ししおどし」を想い描けばいい。この「ししおどし」の名称は古来より「僧都(そうず)」と書いている。
曇徴は、円運動をする挽臼の碾も磑も作ってはいなかった。動力源の水車も作ってはいない。上下動する水碓(みずうす)を碾磑(てんがい)と誤解して、これを作り、奈良朝人に披露していたのだろう。推古朝の時代は挽臼(ひきうす)はなく、水車も作られていなかったと考えるべきである。
この挽臼の欠落が小麦栽培の失敗へと導いて行くと考えられるのである。

1938年 東京向島に生まれる
1963年 慶応義塾大学商学部卒業
現在、寺方そば「長浦」の二代目当主。
「寺方そば」とは、尾張一宮の妙興寺に伝わる覚書をもとに復元したそば料理のことである。著書に、『つるつる物語』(築地書館刊)がある。
先代の収集した全国各地の名刹に残されている史料や日記等から、近世日本の「食」のあり様を研究。本業のかたわら、その事実解明をライフワークとしている。
愛知県妙興寺に三笠宮様がご臨席された際に、自らが練った妙興寺そばを献上した経験がある。









