研究機関誌「FOOD CULTURE No.18」野菜の利用と江戸時代の食生活(一)江戸に暮らす大名の食事と野菜

江原絢子(東京家政学院大学名誉教授)

野菜の利用と江戸時代の食生活(一)江戸に暮らす大名の食事と野菜

はじめに

現在使われている野菜の多くは、各時代に海外から伝来したもので、日本を原産としているものは、うど、みつば、みょうが、ふき、やまいもなどわずかである。古代には定着して栽培されていたかぶ、大根、ねぎ、からし菜、うり類、なすなども中国大陸、朝鮮半島を経て伝来したものを栽培種としたものである。

その後、16世紀に南蛮貿易により伝来したとされるかぼちゃ、すいか、とうがらし、甘藷(かんしょ:さつま芋)などや明との貿易で伝来したとされる人参、セロリ、ほうれんそう、春菊なども日本の自然環境にあって栽培が促進された。

江戸時代には、肥料や農具の発達により、稲、麦の栽培だけではなく野菜類の大量生産がおこなわれるようになる。
享保20年(1735)から元文3年(1738)にかけて本草学者丹羽正伯が各地に調査させた農産物をみると「穀類」「菜類」「瓜類」「菓類」に分類され、各地に何種類もの品種を含めきわめて多くの名が挙げられている。大根だけでみて34か国79郡の資料に、164種類の異なる名称がみられる。
夏大根、秋大根、三月大根、四月大根などのように時期を示す名称。江戸大根、練馬大根、尾張大根、秦野大根などのように産地名を示す名称。ねずみ大根、細根大根のような形状を名称にした大根など様々な名称がみられる。なすも丸なす、長なす、ひょうたんなす、赤なす、白なす、黒なす、はりなす、きんちゃくなすなど多様である。
とくに江戸、京都、大坂の三都は大消費地であり、生鮮食品でもある野菜類の供給は、それぞれの都市の周辺地域の農村が中心となった。
江戸を含む武蔵の国の産物を記した『武江産物志』(写真)(1824)には、産物地と野菜類の関係を記している。「大根・人参」(練馬)、「秋菜」(小松川)、「つけ菜」(三河島)、「水菜・水芹(せり)・みつば芹・春菊」(千住)、「ごぼう」(岩槻)、「青芋・紫芋」(葛西)、「なす」(駒込・千住)、「とうもろこし」(内藤宿)などのほか、各種の「瓜類」「らっきょう」「にら」「みょうが」など多様な野菜がみられる。また果物も多く記載され「梅、杏子(あんず)、桃、梨、柿、枇杷(びわ)、柚、いちじく」など各種が栽培されている様子がうかがえる。四季折々に収穫できる異なった野菜類は、人々の食生活を豊かなものとしたと考えられる。本稿では、江戸時代の人々の食生活に野菜類がどのように利用されたのか、できるだけ具体的な食べ方を通して当時の食生活における野菜類の位置づけを考えてみることにしたい。
しかし江戸時代の人々と一口にいっても、階層により当然食事は異なると考えられる。上流階層の食事と庶民層の暮らしとでは使う野菜類もその料理も異なっているかもしれない。また、日常の食事と、行事や婚礼などの儀礼的食事とではまったくその内容や規模が異なるので、日常と行事などの特別食とを比較しながら、野菜類の利用の特徴を明らかにしたい。さらに、魚介類に比較して野菜類の価格は格安であったこと、野菜の加工品である漬物類の重要性、豆腐、油揚げなどの日常食に多用された安価な加工品の製造、販売などについても触れたい。

今回は江戸に暮らした隠居大名の食事内容を紹介しながら、野菜類の利用、季節性などについてみてみることにしよう。

『武江産物志』(文政7年〈1824〉岩崎常正著 東京家政学院大学附属図書館蔵 筆者撮影)

1.史料『御膳日記』について

庶民層はもとより上流階層の食事記録についても、儀礼食などについては残されることも多いが、日常の食事については残ることはまれである。
本稿で用いた中心史料である『御膳日記』は、寛政12年(1800)11月から翌年享和元年(1801)9月までの約10か月、ほぼ毎日の食事内容を記録した史料である。この史料は国文学研究資料館に所蔵されているが、最初は誰の食事記録か不明であった。
記録の中にわずかに記される「御前様」、「大殿様誕生ニ付」などを手掛かりに調査したところ、その史料は、信州松代藩の六代藩主真田幸弘の隠居後の食事記録で、幸弘とその夫人に用意された食事を4名の御膳番によって交代で記録されたものであるとわかった。それが判明する経緯については、紙幅の関係で省略するが、謎解きのようなワクワク感を味わった。真田家の系譜によれば、幸弘は元文5年(1740)1月21日に生まれ、宝暦2年(1752)、父信安が39歳で死去したために、13歳の若さで父の後を継ぎ藩主となり、寛政10年(1798)59歳で隠居している。文化12年(1815)、当時としては長寿といえる76歳で死去した。これからみると『御膳日記』の記録は、幸弘が隠居して2年から3年後にかけてのものといえる。
また真田家の江戸屋敷についてみると、上屋敷は溜池に、中屋敷が赤坂南部坂に、下屋敷が深川にあり、幸弘は隠居後、赤坂中屋敷に住んでいたことが別の日記類からわかる。
この屋敷跡は六本木に程近く、石垣と屋敷跡の前に現存する氷川坂の途中にある氷川神社が当時を物語る。
幸弘は氷川神社によく参詣し、その先の真田家菩提寺の一つ盛徳寺にも出かけていたが、現在、寺は伊勢原市に移転し、今はない。屋敷の横にある南部坂は現在も残っているが、この坂はむしろ「忠臣蔵」で大石内蔵助が浅野内匠頭夫人瑶泉院を訪ねた「南部坂雪の別れ」で知られている。南部坂の解説書などもそのことには触れているが、ここに真田家中屋敷があり、幸弘がかつて上り下りしたことなど今では誰も知る由もない。

幸弘が暮らした松代藩江戸中屋敷跡と当時の面影を残す石垣。その西を通る氷川坂の途中に幸弘がよく参詣した氷川神社と、その境内奥に真田家の菩提寺「盛徳寺」があった。
『江戸切絵図と東京名所絵 29増補改正・赤坂繪圖』(白石つとむ編 株式会社小学館より転載。嘉永三年〈1850〉頃の作成図)

2.日記に見る日常食と儀礼・行事食の割合

『御膳日記』に記載されている毎日の食事記録「寛政12年11月から翌享和元年8月(1800〜01)」をみると、ほぼ一日3回ごとの食事が毎日記録されている。それは「御朝」「御夕」「御夜食」のように区分されている。
夕食の時間を真田家の同時代の日記である『家老日記』の該当記事でみてみると、1月11日、幸弘が上屋敷に夕食に出かけたのが四つ半刻(どき)であり、また1月23日に盛徳寺にでかけて食事を振る舞われたのが、やはり四つ半刻とある。この時刻は午前10時半から11時頃になるであろうか。
ほかに九つ刻(4月15日)、九つ半刻(1月28日)と記されたものもあり、これは正午から午後1時頃になる。

これらのことからみると、日記に記された「御夕」の献立は、現在でいう昼食にあたるものと考えてよいであろう。また「夜食」は、七つ刻(午後4時頃)というのもあれば、夜四つ(10時頃)というのもあり、かなりの幅があると思われるが、今の夕食か夜食ということになろう。三田村鳶魚(えんぎょ)の『江戸の食生活』をみても、江戸時代の夕食の時間は時と場合とにより、かなりの幅があり、早いものでは午前10時もあり午後2時、午後5時など、史料によりさまざまであったことがうかがえる。「朝・夕・夜食」の記載は、武士が二度食であった名残と思われるものの、すでに実質は三度食となっているといえよう。
朝食の時間については、『御膳日記』には明確に示されていないが、真田家の『御側御納戸(おそばおなんど)日記』をみると、朝の目覚めが五つから六つ刻頃(午前5時から7時頃)なので、朝食はその後、7時から8時頃であろう。
これらの食事は、ある一定の決まった形式をとっている。その形式は、大きく分ければ2つに分けられる。その一つは飯、汁、菜が1種から2種類と香の物(漬物)が組み合わせられた食事で、一汁一菜から一汁二菜程度の簡素なもので、通常、酒やその酒肴を伴わない食事である。
もう一つは、酒の儀礼や酒宴などに伴って本膳料理が供される場合で、本膳料理は、その規模によっても異なるが、通常2から3膳が供され、『御膳日記』でも一汁三菜から三汁七菜まで供され、これに加えて酒の酒肴が加えられる。前者の形式をとる場合を日常食として考え、本膳料理や酒・酒肴が供されるものを儀礼・行事の食ととらえ、それぞれの特徴をみてみることにしたい。
まず、日常食と儀礼・行事食(外出先で食事をとった日を含む)の割合をみるために、10か月間の食事記録を3食に分け、その中を日常と行事等の食事に分けて、それぞれの回数をまとめてみると、10か月294日のうち、日常食は朝食が290日分、夕食は259日分、夜食は264日と圧倒的に日常食が多い。ざっといえば、一週に一度くらいは日常とは異なった食事や酒が供された、と推察できるであろう。
記録を見る限り幸弘の外出の機会は少なかったようにみえるが、『家老日記』をみると幸弘は比較的よく外出しており、『御膳日記』に記された食事は実際は食べていない場合もあり、陰膳(かげぜん)として準備されたものも含まれるか、夫人のみの場合もあったと思われるが、この点はさらなる調査が必要であろう。

『御膳日記』寛政13年1月(1801)(八田家文書)(国文学研究資料館蔵 筆者撮影)

3.使用食材のなかの野菜

10か月間の日常の食事記録から野菜類の利用についてみてみることにしたい。ここで野菜類とは、植物性食品全体としてとらえ、豆、芋、果物などもこれらに含めて考えることにする。野菜の食事中の位置づけをみるためには、魚介類など他の食品についてもみてみる必要があるため、まず日常食の具体的な一日の食事献立をみることにしたい。
一日3食とも儀礼や行事のない日の1月と6月の献立を一つずつあげてみると下のとおりである。

寛政13年1月18日

●御朝
御飯、汁(うど)、平皿(百合根・青菜・平鰹)、濃焦(<こくしょう>豆腐・おとし玉子)、香物

●御夕
御飯、汁(かぶ菜)、平皿(縮緬麩・小口里芋・榎茸・薄葛引)、石がれい色附焼、香物

●御夜食
御飯、汁(大根 せん(注1:大根千切りのこと))、平皿(さわさわ豆腐・松茸)、香物

寛政13年6月5日

●御朝
御飯、汁(糸瓜)、平皿(茄子 割あらめ)、煎り豆腐(切りくるみ  せん生姜あんかけ)、香物

●御夕
御飯、汁(豆腐・平鰹)、平皿(櫛形茄子・みょうが・漬初茸)、焼物(蒸し小鯛・ごま塩かけ)、香物

●御夜食
御飯、汁(冬瓜・平鰹)、平皿(八盃豆腐・平鰹)、香物

この例にあげたような献立がほぼ毎日続いている。この例には「石がれい」や「小鯛」の焼き物などがみられるが、これは毎日ではなくむしろ魚介類が使用されることは少ない。1月は「大根、かぶ、うど、榎茸」などの野菜が見え、6月の献立には「茄子、みょうが、冬瓜(とうがん)」などがみられ、季節に応じた野菜が使われている。平皿はほとんど野菜、茸(きのこ)、芋類の煮物であるが、例にあげた献立の野菜の煮物、「八盃豆腐」にそえられた「平鰹」は、鰹節を薄く削ったものをかけたもので、幸弘の食事にはきわめて多く使われている。また2つの献立からも想像できるように1年を通して、豆腐はほぼ毎日の献立に登場しているといってよいほど多用されている。

そこで10か月間の日常食に使用された食品の種類を調査し、1か月あたりの平均の使用数を多い順に並べてみると、図1のグラフに示すとおり豆腐はもっとも多く、月平均65回使われている。日常食は1か月平均80回ほどであるため、豆腐はほとんど毎日複数回使われていることになり、事例のように朝、夕、夜食のいずれにも豆腐が使われることも珍しくないといえる。

図1 食材の月平均使用回数(日常食)

この図をみるとわかるとおり、動物性食品は鰹節を削った「平鰹」と卵のみである。この図にのせた食品はごくわずかであるために、魚介類が全く出ていないが、使用されていないわけではない。鯛・小鯛、かれいなどは比較的使われてはいるが、それでも月平均では、3から5回で、あとは10か月に1から5回程度すずき、かます、きす、あじ、かまぼこなどが使われている。これをみるだけでも、幸弘の日常食は植物性食品が中心であったことがわかる。
3番目に多く使用されているのは、「茄子」であるが、その使用月を図2でみると4月から8月までに集中して使われ、他の月にはまったく使用がみられない。とくに5月から7月は各月50回使用されており2回に1回以上の食事に使われていることになる。前記の事例でも、朝食、夕食のいずれにも「茄子」が使われている。また、図1の4番目に多い「焼き豆腐」については、説明が必要であろう。江戸の豆腐は、1丁が現在の標準的豆腐の5から6倍の大きさで、55から60文であり、1丁が大きいために2分の1丁、4分の1丁売りもあった。当時のそば1杯の値段が16文であることを考えれば、豆腐は庶民的な食品であった。
いっぽう、焼き豆腐の大きさは現在では豆腐との違いはほとんどないが、江戸の焼き豆腐は豆腐1丁を12等分して作られていたために、1つ5文ほどであった。隠居大名とはいえ、十万石の真田家で金銭的な問題はなかったはずであろうから、豆腐、焼き豆腐が多用されたのは日常食を簡素にする習慣であったか、幸弘の好みが影響したのかもしれない。図2のグラフには比較的よく使用された野菜類の使用月と回数を示したが、「茄子」は先に述べたとおりで夏に集中しており「榎茸」「百合根(ゆりね)」は冬、「うど」は冬から春にかけて多用され、「大根」は6、7月を除き年間使われている。大根ははじめにも述べたとおり、各種の品種を時期を変えて栽培することで、年間を通して使えるよう工夫がおこなわれている。幸弘の食事には料理への大根の使用は多くはないが、実際には香の物の多くは大根であったことが推察される。幸弘の食事記録には、香の物の食材については記載がないために、その内容は不明であるが、江戸時代、上層下層を問わず、また日常、儀礼食のいずれにも大根の浅漬け、たくあんが広く普及していたからである。
図で示した以外にも野菜、芋類、果物類は数多く使われている。それらを挙げてみると「ごぼう」「みょうが」「貝割り菜」「みつば」「ささげ」「いんげん」「唐茄子(とうなす)」(かぼちゃ)「冬瓜」「糸瓜」「つる菜」「ふき」「ぜんまい」「わらび」「夕顔」「藤豆」「せり」「しそ」「しょうが」「ごま」「さんしょう」「わさび」「筍(たけのこ)」「さつま芋」「長いも」「自然薯」「くり」「岩茸」「松茸」「のり」「ひじき」「昆布」「氷(こうや)豆腐」「こんにゃく」「麩」など多様である。見落としもあるかもしれないが、ねぎやにんにく、にら、あさつき、らっきょうなどいわゆる五辛類がみられないのは、大名であるためであろうか。さらに調査してみたいと思っている。

図2 野菜の使用回数と季節(茄子・榎茸)
図2 野菜の使用回数と季節(百合根・うど)
図2 野菜の使用回数と季節(干し大根・大根)

図1・図2のグラフは、『御膳日記』内で食事に使用された食材から筆者が算出してグラフを作成した。図2の「月」は、旧暦で表示している。

4.野菜類とその加工品の調理

日常食の野菜類の多くは、汁の実か煮物として使われている。調味料などは記されていないのではっきりしないが、味噌か醤油をベースとしたものであろう。
この時代には、煮物に砂糖など甘味をつける習慣はほとんどないので、甘味はなかったと考えられる。
しかし、幸弘の食事記録が書かれた時代以降になると、料理屋の料理に甘味をつけるところもあり、高級料理屋で有名な八百善主人が刊行した『江戸流行料理通』などでは、みりんで甘く味付けする料理を多数紹介している。
幕末の『守貞謾稿』でも江戸のかば焼きは、みりんと醤油を用いるとし、料理屋の料理は、京・大坂では鰹節のだしに酒と醤油で味をつけるのに対し、江戸では鰹節だしにみりん酒や砂糖と醤油で味をつけ、口に甘いが食品の味を損なうものの、すでに習慣になっていると述べている。
江戸を中心とした料理に甘味をつける習慣は、明治になると一般化し、煮物や和え物、魚の照り焼きなどにも使われるようになる。幸弘が多用した豆腐は、どのような料理が多かったのであろうか。もっとも多いのは特に名称のない汁に入れる場合であるが、料理名らしいものとしては、「崩し豆腐」がもっとも多く、次が「湯豆腐」でいずれも朝食に供されているものが多い。とくに「湯豆腐」はそのほとんどが朝食に出されており、今日の習慣とは異なっているといえよう。
そのほか「ちまき豆腐」「煮抜き豆腐」「すり豆腐」「つと豆腐」「八盃豆腐」「ふわふわ豆腐」などがみられる。
献立の例にもある「八盃豆腐」は、江戸時代の百珍物として有名な『豆腐百珍』(1782)によれば、絹ごし豆腐を細長く切り、水6杯、酒1杯、醤油1杯の煮汁で煮た料理で、大根おろしをおくとある。これは、当時の本草学に大根おろしが豆腐の毒を除くとあることにも由来しているのであろう。
「つと豆腐」は、豆腐をよく搾り、甘酒をすり混ぜ竹簀(す)に巻いて蒸した後、小口切りにしたもの。「ふわふわ豆腐」は、卵と豆腐を半分ずつ加えてふわふわの煎(い)り豆腐をつくり胡椒をふる、と同じく『豆腐百珍』に説明がある。
同様の書に「煮抜き豆腐」もあり、鰹だしに一日煮込んで鬆(す)をたてたものとある。このように、ほとんどの料理が料理書にあり、当時の幸弘の料理人も豆腐料理に変化をつけるために、当時流行した『豆腐百珍』を利用したのかもしれないと想像することもできよう。
献立上の他の野菜類の多くは、豆腐ほど料理名が判明できるものは少なく、「煎菜ふわふわ」などは珍しいものであろう。煎菜は、江戸時代の料理書『料理網目調味抄』(1730)によると、水菜の中側の柔らかく細いところばかりを切り、これをゆでてから、調味した煮汁で煮るとあるから、そこから推察してみると「煎菜ふわふわ」は、水菜の卵とじのようなものであろうか。

5.儀礼・行事食における野菜類

食事記録にみられる儀礼・行事食は、12月から1月にかけてもっとも多く、12月21日のすす払い、同月29日の歳暮祝儀、元旦の歳改祝儀は三の膳まで出される豪華な食事と酒の儀礼、本膳料理のあとに続く酒宴に酒肴が出されている。またそのほかでは、1月2、3日、1月21日の幸弘の誕生祝いなどに二の膳つきの食事と酒・酒肴が供され、花見、初午(はつうま)、上巳(じょうし)、端午(たんご)、七夕の節句、仏事、月見などでは一汁三菜の本膳料理と酒や菓子がふるまわれている。
幸弘の誕生日祝いから宴席の流れをみると以下にある献立表のようになっている。

酒の儀礼

田作り 梅干、吸物(鯛・ひれ)
臓煮 (餅・串貝・里芋・大根・朧豆腐・青菜・青昆布・平鰹)(後略)
胡麻塩御赤飯


本膳料理

本膳
御飯、汁(つみ入れ・榎茸・嫁菜)、鱠(鯛造り・赤貝・くり・しょうが・青のり・金かん)、坪(小鴨・松露・粟麩)
二の膳
汁(鱸・青昆布)、平皿(車海老・生椎茸)、猪口(みつば・うど・つくし)、焼物(小鯛)
酒肴
硯蓋(かまぼこ・あわび・きす・蒸しくわい・くねんぼ・酢漬しょうが・さがらめ)
刺身(ひらめ・貝割り菜・うど)
台物(小鯛・ひじき・みつば)

御重詰め

菓子類

酒宴

吸物
大平、丼鉢、煎鳥、大梅盆
(内容略)

内容を略してあるがかなりの食事と酒肴が用意されたことがうかがえ、日常食と儀礼食がいかに異なるものであるかもわかる。「臓煮」とは、雑煮のことで現在は正月に用意されるが、酒の儀礼として代表的なものである。日常食には少なかった魚介類やその加工品が使われていることが特徴で鯛、すずき、ひらめなどをはじめ、あわび、串貝、するめ、数の子、からすみ、つみ入れなどがあるが、野菜類も必ず使われている。
うど、大根、椎茸、里芋、せり、みょうが、くねんぼなどが多く、これらは日常食にも使われているが、くわい、梅干しは日常食にはみられなかった。しかし香の物に梅干しが供されていた可能性はある。また儀礼食にはみられなかった野菜類としては、さつま芋、かんぴょう、なすなどがあったが、これらの野菜が儀礼食に用いられないものとはいえないであろう。

まとめ

今回検討した史料は、一人の元大名の食事記録である。魚介類を日常にそれほど頻繁には食べなかったのは、幸弘の食習慣との関係によるとも考えられる。
そこで、幕末の慶応2年(1866)の食事記録のある岡部藩藩主(後に三河半原藩主)安部信発(のぶおき)の江戸屋敷の食事をみると、同じく豆腐はもっとも使用回数が多く、幸弘の記録にはみられなかった油揚げも多くみられる。魚介類より野菜類の使用が多いという点では、ほぼ共通し、大根、ごぼう、里芋、さつま芋、百合根、にんじんなどが多くみられるが、なすは比較的少ない。信発(のぶおき)の好みで卵が多いこと、一日の食事に魚介類とその加工品であるちくわやはんぺんなどが比較的多い点なども違いといえよう。

例えば、幸弘でみたと同じ月の6月の日常献立をみると、朝食は汁(はんぺん)、氷(こおり)こんにゃく(おそらく煮物)、昼食は、あじの塩焼き、厚焼き玉子にワサビをつけて酒が供され、夜食にはゆば、ごぼうの煮物で汁なしと幸弘に比べて皿数が少ないが、刺身などは比較的多く登場し、鮪の刺身など江戸後期以降に評価されるようになった魚も登場し、この時代になると、「御昼」が使われている。
また、信発は酒が好きだったようで、夜食に汁はないものの、刺身、うなぎ、あわびの酢貝など酒肴が多いのが特徴である。しかし興味深いのは、夫人は酢貝が好みではなかったようで「奥方様 水貝」とあり、時々信発とは異なるものが供されている。日常食だからできたことだったのかもしれないが、淡々と記録された食事記録からも当時の人々の好みがうかがえて興味深い。

このように時代の違いもあるが、それぞれの食習慣の違いもあり、日常食の野菜と儀礼・行事の野菜にも違いがある。しかし大名クラスの食事といえども、日常食には野菜類を中心に一汁一から二菜の比較的簡素な食事を摂っていたといえよう。
ただ豆腐料理でもみたように、単純な料理ばかりではなく、いろいろな料理を工夫しようとした点では、料理人がいたからこその幸弘の食事だったともいえよう。幸弘の食事を精査することで、上流階層の日常食の一端をみることができる。
これらを通してみると、江戸には季節ごとにきわめて多種類の野菜類が供給され、日々の食卓を豊かにしていたことを改めてうかがうことができる。

※文中にある『御膳日記』などの「月」は、旧暦で表示しています。

参考文献
  1. 1『武江産物志』(岩崎常正著、1824年)
  2. 2『日本食物史』(江原絢子・石川尚子・東四柳祥子共著、吉川弘文館、2009年)
  3. 3『近世風俗志』(喜田川守貞著、岩波書店、1996年)
  4. 4『調味料理栞』(木津三辰著、1928年)
  5. 5『全集 日本の食文化 第十巻 日常の食』(芳賀登・石川寛子監修、雄山閣出版、1997年)