研究機関誌「FOOD CULTURE No.19・20合併号」麺類ではじまるわが国の粉食史(四)麺類史論の岐路
麺類ではじまるわが国の粉食史(四)麺類史論の岐路
商業活動を担う素麺(索麺)
『居家必用事類全集』(以下『居家必用』)には、油を混入する索麺(そうめん)と、油不入の索麺の二通りの索麺があった。油混入法による索麺は、油を抜くために乾燥という過程が必要であるが、その作業を経過することで、保存食として有効となる。
素麺(そうめん)の初見記録に『師守記(もろもりき)』(中原師守著)の「麦麺」を挙げたが、この素麺を持ち運ぶ者が山伏であったり、あるいは醍醐寺僧などと僧侶が素麺を持ち歩く姿が目立つ。饂飩(うどん)の初見記録に挙げた僧兵の円識房快賢は「サウメム一折敷」を褒美にもらっているが、これも法隆寺の記録である。素麺は、禅林から各宗派の僧侶たちにいち早く受け入れられ、その保存食としての効用を遺憾なく発揮しているのである。
保存がきき持ち運びも自由、そのうえ美しく美味で渡来品であることから、麺類の中で索麺(素麺)が最も早く商業活動と結びつき、普及珍重された麺なのである。
京都祇園社(八坂神社)の所領の丹波・波波伯部保(ははかべほ・現多紀郡城東町)でも素麺が作られている。
「一、丹波より素麺公事免除の間、一両年、上さず。よって素麺の儀これを沙汰す。坊人・宮仕等少々来る」
この文書によれば、八坂神社ではこの年以前から、七夕行事に使う素麺を公事として丹波から送られてくる慣わしであった。これ以前から素麺は丹波で作られていたのである。1340年(暦応3)、索麺の初見記録に挙げた時は「麦麺」あるいは「華麺」としか書けなかった中原師守も、九年後には素麺製造に着手している。
「今日は節供、この行事のみ有る。家では御粟薗の素麺を供える」
御粟薗(みあわのその)は天皇の所領であり、師守の兄・師茂(もろしげ)が宮中の大炊寮頭(おおいりょうのかみ)としてこの地を管理していた。師守は兄を補佐しながら、素麺製造に着手していたのである。
この御粟薗が山城国綴喜郡(つづきぐん)に在り、前回「弱小農民の自立」で触れた多賀神社も綴喜郡にある。偶然とは思えぬ小麦栽培と素麺製造所の一致である。
こうした素麺製造所は、鎌倉中期以後、各地に作られていたと考える。ここで作られた素麺は、消費地である京都に持ち込まれ、ふり売りする者たちの手によって販売されていたのである。
1375年(永和元)、後円融天皇は蔵人頭(くらうどのかみ)・中御門宣方(なかみかどのぶかた)に、素麺供御人(くごにん)の支配権を与え、課役を賦課する権限を認めている。
「素麺供御人課役、可令管領之由 天気候也 仍上啓如件 永和元年八月二十八日 右小弁 判 謹上 頭左中弁」
この文書から判断すると、この時期には、京都の街中には素麺をふり売りする者たちが多数存在していたということである。
それまでふり売りする者たちの難儀は、あちらこちらに存在する関所であった。ここを通行するたびに通行税を取られ、市場に持ち込めば市場銭も払わなければならなかった。公家の中御門宣方は、これに目をつけたのである。彼らを集め、素麺供御人である身分証明書(木札、短冊)を与え、通行の自由権を与えた。その代償に彼らから課役金を受け取ったのである。供御人とは、律令体制下では、品部(ともべ)とも雑供戸(ざっくこ)とも呼ばれ、天皇の供御(食事)の特殊な食事材料、魚鳥貝類などを献上する義務を負った人々で、一般農民の負担する調(ちょう・祖税)や雑徭(ぞうよう・労役)などの課役が免除され、通行の自由権も与えられていた。中御門宣方はこの特権を利用したのである。この中御門宣方の販売独占権は驚くなかれ、201年間の長期間に亘るものであった。
「奈良索麺ふり売りの事、孫四郎種々懇望申す間、この十五日まではおうしやう申し候ふ。天正四・七・一 中御門家 雑掌 久家 花押」
かねてから奈良の素麺売りの孫四郎は、京の街で素麺を売らせてほしいと中御門家に懇願していたのであろう。中御門宣方の子孫の宣教はこの素麺販売独占権を放棄することを認めたのである。
奈良の素麺座を束ねる興福寺の圧力によるものか、安土城に移り住んでいた織田信長の楽市楽座方針によるものなのか、いずれにしても中御門宣教はこの素麺販売独占権を放棄したのである。
栄西、道元が禅宗教義を実践するために無意識に導入した粉食は、南北朝時代(1331〜92年)、素麺製造という産業を引き起こし、これを販売する商人をも生み出し、文化として着実に成長し深みを増していたのである。
麺類記録の宝庫、臨済宗・万年山相国寺
1378年(永和4)に「花の御所」と呼ばれる広大華麗な「室町第」を構えた足利三代将軍義満は、南北朝に分かれて紛争をくりかえす朝廷を統一するために、臨済宗の夢想礎石を介在させてこの問題を解決している。権力と結びついた禅宗はさらなる発展普及を見せた。義満は、この臨済宗禅院の力を統御するために、まず「五山・十刹(じっせつ)・諸山」の三段階の位を定め、これら寺院を管理統括する僧禄司(そうろくず)を置いた。僧禄司に、これら寺院住持の任免権、僧階決定権、寺領の与奪権を与え、僧禄司を介して、間接的な禅院管理統制組織を作り上げたのである。
夢想礎石の弟子であり、義満の戒師(かいし)となった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を初代僧禄司に任命し、花の御所に隣接する相国寺住持とし、鹿苑院(ろくおんいん)に住まわせ、副僧禄司を鹿苑院内の蔭凉軒(おんりょうけん)主に命じた。
この僧禄正副司歴代の院主、軒主が、日々の記録を書き続けていた。後に『鹿苑日録』、『蔭凉軒日録』として編纂されたのである。『蔭凉軒日録』は、1435年(永享7)から66年(文正元)までを季瓊真蘂(きけいしんずい)、1484年(文明16)から93年(明応2)までを亀泉集証(きせんしゅうしょう)が筆録している。
『鹿苑日録』は、1487年(長享元)から1651年(慶安4)におよび、歴代鹿苑院主の日記を編纂したものである。この両記録は幕府の管理下にあるため、公用性を帯びた日記ともいえる。蔭凉軒および鹿苑院には訪問客も多く、僧侶の会席も頻繁にある。その席に出される「斎(とき)」(昼食)と「点心」(間食)に、中国渡来の新食品の餅麺(ぺいめん)類が盛んに使われるのである。
この二書を餅麺類発信元の記録とすると、これら餅麺類の情報を禅林から庶民へと伝達する役割を果たしたと思える記録者もいる。『山科家礼記(やましなけらいき)』(1412-92年)を書き続けた大沢久守と大沢重胤(しげたね)らである。
山科家は中世以降、家名の地となった宇治郡山科郷を所領とし、供御人を統括し、毎月の天皇への供御を収める任務を持たされていた。主な筆録者の二人は山科家の雑掌として実務に携わり、さまざまな商品を介して庶民と接触し、宮中、禅宗寺院とも密接なかかわりを持っていたのである。
いま著者が書き続けているこの論述は、第三者の麺類解説を避け、こうした日記を主軸とし、実際に食べた、見た、聞いたという筆録者自身の生の記録から麺類の歴史を構築しようと試みているのである。
製麺所と製粉所を備える相国寺
鎌倉時代中期、道元が「餅麺等類」と記述した以後の麺類記録は空白である。本シリーズの第二回目に、この空白を了誉聖冏が書き記した禅宗批判書『禅林小歌(ぜりんこうた)』(1370年頃)で補った。彼の挙げた麺類の内、索麺、饂飩、冷麺が引き伸ばし法によって作られる麺類であることは同じく第二回で触れ、切断法によって作られる雑麺(ざつめん)についても述べた。そして、これら麺類が鎌倉時代の禅林に存在していた麺類であろうとも書いた。
了誉聖冏(りょうよしょうげい)の麺類記録からほぼ70年後、『蔭凉軒日録』の麺類記録との出会いとなるわけである。了誉聖冏は、饅頭、麺類を禅僧みずからが作っていると記述しているが、相国寺内にも饂飩と冷麺製造所が存在し、水車動力による製粉所も備えていたのである。
冷麺は雲頂院(うんちょういん)が担当している。
「雲頂院御成、御斎、冷麺自今日始調之」
「今晨於雲頂院 始調冷麺也。蓋恒例也」
雲頂院(うんちょういん)では毎年4月14日から暑い夏に向かい、冷たくして食す冷麺(ひやむぎ)を製造し始めている。
そして饂飩の製造は相国寺雲沢軒(うんたくけん)が担当している。
「雲頂院御成、毎年松茸之御成也。雲沢軒調饂飩」
ところが、索麺の製造所が見当たらない。索麺製造には、技術の習熟と、広い場所を必要とする。すでに各地で素麺が作られていることから判断して、索麺の製造は、禅林から町方の専門業者の手に委ねられていたと考える。そして、製粉は相国寺内の水車で行われている。1425年(応永32)、相国寺が大火災となったとき京の都ではこんな歌が歌われた(ルビ引用者)。
水車(みずくるま)火の車にこそなりにける 池の魚(うお)をばほしうをにして
1382年(永徳2)、三代将軍足利義満が相国寺を建立したとき、すでにこの水車は造られ、これを動力源として米を搗き、小麦製粉が行われていたのである。その後、製粉所の移動があったようだ。
「当寺南面公方御倉、被移于上御所、則如元水車可造立」
相国寺内には、麺類を日常食とするに足る態勢は、すべて整っていたのである。
相国寺内の麺類の様相
了誉聖冏(りょうよしょうげい)が『禅林小歌』で記述した点心記録から70年後の『蔭凉軒日録』は、公用性を帯びた日記であることを意識してか、禅僧たちの日常食としての麺類記述はなく、きわめて堅苦しい形式、定式化した麺類の使用法となっている。来客用、接待用の「斎(とき)」(昼食)には冷麺、「点心」(間食)には索麺である。昼食の斎は、
「御斎計之時可献冷麺并干飯之由被仰出也」
「蔭凉軒御成、御斎并冷麺」
と、必ず冷麺(ひやむぎ)が使われる。寒ければ温かい饂飩(うどん)を出せばと思うのだがこれをしない。斎に出す麺は冷麺、と前例を崩さないのである。したがって、客のほうから断りが入ることになる。
「鹿苑寺御成。(中略)。凉気至故。有可略冷麺之命」
「勝定院御成。御斎。新凉入郊墟之故。冷麺可略之由被命」
寒さがきついので昼食の際の冷麺は取りやめてほしいと、客の方が要望しているのである。
点心も同様である。
「御点心之様子。一番集香湯、三峰膳、砂糖、羊羹、驢腸羹、饅頭、索麺、茶子七種、御茶」
足利義政が室町第で点心を食したときのこの形式が典型で、集香湯(しゅうこうとう)が出され、羹(あつもの)が出る。そして饅頭、索麺、菓子、抹茶となる。点心は索麺、これ以外の麺を使う例はまったくないのである。
『蔭凉軒日録』中に、ひんぱんに「先規」「前例」という記述がでる。前例が絶対で、まさに硬直した状態なのである。かつて了誉聖冏が記述した点心記録から受けた躍動感は、まるで失われているのである。
こうした堅苦しい点心や斎の記録から開放され、ほっとするように蕎麦記録が現れる。
「松茸折一合。●麦折一合、賜林光院(※)」
※ ●は左側に「麦」、右側に「喬」
「合」とは蓋つきの折のことで、相国寺内の林光院より松茸一折と●麦(蕎麦)一折を蔭凉軒主が頂いたとある。これが蕎麦記録の初見である。了誉聖冏が、かつて三雑麺と記述した雑穀で作る麺のうちの蕎麦が、独立した麺として登場する。蔭凉軒軒主が客殿において「五度入り」の土器の「間物(あいのもの)」で饂飩を食している。
「於客殿間物饂飩有之」
杯には「三度入り」「五度入り」「七度入り」と大きくなる。この中間の「五度入り」を「間物」という。饂飩の容器としてこれがしばしば使われている。
そしておかしな饂飩記録も現れる。
「蔭凉軒御成。間物(あいのもの)。優曇御茶子。(中略)。優曇改作飩●(※)」
※ ●は「蝕」の左側を左に、右側に「曇」
『蔭凉軒日録』に代筆者がいるのだろうか。蔭凉軒主がお出でになり間物で饂飩を召し上がった、とある。そして、この代筆者は「饂飩」の文字が書けない。「優飩」と書き、これを訂正するとしながら「飩●」というおかしな文字を書いている。
季瓊真蘂(きけいしんずい)はすでに正確に「饂飩」と書いているのだから、間違えるはずはない。代筆者がいるのだろうか。不思議な記述である。
饂飩の製造所としての雲沢軒がありながら、饂飩記録が少ないのも不思議である。六代将軍足利義教から饂飩の注文を受けると、いとも容易にこれを引き受けている。
「勝定院御成。(中略)。来二十五日御斎之後。可有饂飩之由被命」
相国寺内では、斎に饂飩を出す記述は一例もない。義教は斎に饂飩を所望している。規則や前例に硬直化しているのは、禅林特有のことのように思われる。
今日、臨済宗派では、身の回りの整理整頓の日を「4.9日」といって、毎月、4と9の付く日と、栄西の命日前夜の「御逮夜(みたいや)」には、全国の全僧侶が必ず饂飩を食すという慣わしが継続して行われているという。
公用という『蔭凉軒日録』のもつ性格からの制約が麺類記述に現れている、とそのように理解せざるを得ないのである。
こうした硬直した情況が、応仁の大乱(1467~77年)後、あたかも伝統格式前例というものから開放されたかのごとく、さまざまな麺類が『蔭凉軒日録』上に現れてくるのである。点心からは集香湯(しゅうこうとう)がはずされ、羹も除かれ、中国禅林色は一掃されて日本的で今日的な膳組に変容するのである。
「御点心、饅頭、麺、再進両度菓子五種、茶如恒」
「御点心、饅頭、麺、御前各五枚積也。再進各両度、先汁後麺」
「点心、饅頭、索麺、再進両二度、先汁後麺、茶、菓子」
「御点心、饅麺茶菓如恒」
とあるように、きわめて簡略化されている。簡略化された代わりに、「再進」とあるように、索麺が何度も追加され、あるいは何枚も積み重ねて出されるようになる。饅頭を除けば、今日の麺の食べ方に通じる様式に変化しているのである。
さらに大きな変化を見せるのが斎膳である。驚くべきことだが、禁断の酒が付き、盛んに飲まれるようになる。
「冷麺如恒、先規無酒」
「斎」に酒が出されている。前例にないことだと反省しながらも、こんな情況が現出する。
「勤行中者一向可禁酒。愚云。尤可然。堅御禁法為宗門大幸也云々」
勤行中は酒を禁ずる。蔭凉軒軒主が命じるほどに酒が飲まれている。反省はするのだが飲酒は止まらない。
「冷麺并般若湯二献、先規無之」
「有斎。二汁六菜。般若湯数返。愚喫蕎麦便々二菓。茶了帰」
般若湯とは、酒の隠語である。禁酒せよという軒主自らが蕎麦を肴に酒を飲んでいるのだ。こうした情況を知り朝廷が動いた。
「近年京中禅院諸件一、倹約、点心一麺一羹茶子并菓子各三種、菜六或五、追善汁菜共三種細飯一切止之。二、大小院不許酒入門中。右件々皆依官府命大小院一変而守之」
点心は一麺一羹(いちめんいっかん)とし、茶菓子は三種まで、寺院門中に酒を持ち込んではならぬ、という達しである。乱後の文明年間を経て長享年間に入ると、
「斎無冷麺奇怪々々」
「斎」に冷麺(ひやむぎ)が付かないとは奇怪なことだと蔭凉軒主が驚いている。
このころから麺類は、形式、定式化した「点心」「斎」から独立した存在となるのである。こうした情況を伝統格式の崩壊とも禅林の堕落ともいうが、これが麺類にとっては幸いであった。これまで姿を見せなかった麺類が、あふれるように『蔭凉軒日録』上に出てくるのである。
『居家必用』に記載されていた絰帯麺(てったいめん)が現れ、水滑麺(すいかめん)が出てくる。
「永徳院春陽対面、勝定院桃源老亦有宴。絰帯麺也」
この絰帯麺(注1)はよもぎの灰汁(あく)を入れてねり、押し広めて幅広のひも状に切断するものであるが、宴席にこれが出ている。江戸期にはこれを「ひもかわうどん」と呼び、「絰革温飩」と書かれて流布するのである。
注1= 絰帯麺(てったいめん)について、中国食物史家の篠田統氏をはじめ多数の研究者が、これを「経帯麺(けいたいめん)」としているが、これは誤りである。原本は「絰帯麺」である。わが国の内閣文庫が所蔵する『居家必用事類全集』と、中国北京図書館所蔵本とは同板であることから、「経帯麺」の誤りは明瞭である。
「功叔雪渓子玉来。留之有宴。見調水滑麺。盃三行了各帰」
「終一百句、喫蕎麦酌竹葉。一時小風流也」
漢詩を詠み終えて、蕎麦を肴に酒を飲み、風流なものだと感じ入っている。
麺類は「点心」「斎」から開放されて宴席の酒の肴の地位を得ているのである。
京をはなれた堺の海会寺住職・季弘大叔(りこうたいしゅく)は、入麺(にゅうめん)を食し、切麺(きりむぎ)も食している。
「点心、々々者熟麺也」
「点心」に索麺(そうめん)ではなく入麺(にゅうめん)である。
入麺とは汁に索麺を入れて煮たもので、これまでのつけ汁につけて食べる索麺との食方の違いを見せている。
「晴。(中略)。此日喫切麺、心快然」
この切麺(きりむぎ)が相国寺にも姿を見せる。
「其息光音喝食在座頭。切麺為肴。三献了帰」
堺に住む季弘大叔が「入麺」も「切麺」も食している。相国寺記録にない麺を季弘大叔は、すでに知っていたのである。季弘大叔は京都の東福寺に住していたこともある。禅僧達はみな、こうした麺類も調理法も知っていた。記録されなかっただけなのである。たとえば、
「山上僧作麺留予」
「午後蔭凉来過。作麺」
このように、山上の僧侶が鹿苑院主・景徐周麟(けいじょしゅうりん)の帰るのを留めて麺を作ったり、鹿苑院に来た蔭凉軒主に麺を作ったりもしている。了誉聖冏の指摘したとおり、禅僧達は皆麺類を作ることも調理することも知っていたのである。
禅林でこれほど日常食として普及している麺類を、禅林外の人々はどのようにして受け入れていたであろうか。
禅林から発進する麺類
山科教言(やましなのりとき)は、その日記『教言卿記(のりとききょうき)』に、次のような麺類記録を残している。
「一、内方ヨリウトン、酒賜之」
「一、源西堂来臨、勧冷麺」
「一、(略)。点心、キシメン」
「一、今日ハ倉部、庵主イキ御タマ、麺以下酒与之」
饂飩があり冷麺があり、禅林記録になかったキシメンもある。「点心」とあるのだから、山科教言がこれらの麺を禅林から伝授されていたことは明瞭である。麺食を模倣しながら形式にとらわれず、自由に麺類を食している。
キシメンは「碁子麺」と書き碁石のような麺である。竹筒の内側を削り、皮部分を刃のようにして3、4本を握って、押し広めたドウ(小麦粉を練ったもの)を丸く押し抜いたものである。が、これも禅林から出た麺である。禅林記録にはないが、禅僧達の日常生活ではさかんに作られ食されているという事実の裏付け以外の、何物でもないのである。
「イキ御タマ」とは「生御魂」と書き、日ごろ世話になっている年長者に、お盆に入る十日前後にお礼としてご馳走したり素麺を贈ったりする風習である。すでにこのころから麺類は風俗習慣にまで溶け込んでいるのである。
一方、1574年1574年(天正2)のそば記録の発見で、そば切り発祥地と騒がれた臨済宗定勝寺(じょうじょうじ)であるが、その古文書の中にそば記録より150年ほど前の麺類記録も残されている。
禅僧の記述だけに、そうめんを索麺と正確に書いている。
「是月、木曽定勝寺僧正心、同寺ノ(中略)。百文正月二日点心索麺代物。二十文 豆腐五ケ正月菜」
素麺売りが木曽の山中にまで入り込んでいる。さらに、定勝寺では蒸麦(むしむぎ)も行われている。
「是月、木曽定勝寺住持正心、同寺領並ニソノ常什物ノ校割ヲ注ス。一、麦麺甑子 六重 同大小中蓋二ケ 三具アリ」
住持の正心が、蒸麺に使う甑器の存在を確認しているのである。
宮中にも麺類は浸透している。宮中の女房言葉は隠語が多くて当時の人々も閉口したようで、解説書とも言うべき『大上﨟御名之事(だいじょうろうおんなのこと)』(1450年〈宝徳2〉)に、麺類の女房言葉が解説されている。
そば あをい
そばのかゆ うすゞみ
さうめん ぞろ
ひやむぎ つめたいぞろ
きりむぎ きりぞろ
「そばのかゆ」とは「そばがき」ではなく、もっとゆるく、ずるずると飲めるほどのものである。蕎麦があり、索麺、冷麺、切麺がある。どうしたことか、饂飩がないだけで、麺類は宮中にも普及しているのである。宮中に対し、庶民と密接なかかわりを持つ山科家の領地である山科郷の状況はどうであろうか。
『山科家礼記(やましなけらいき)』の1463年(寛正4)の記述から麺類記録を並べてみる。これを一覧すれば、説明するまでもなく粉食がしっかりと庶民生活の中に定着していることが理解できるであろう。
「一、庵主をこなたへよび申候、むしむき、さけちゃのこ、あふき一本三本也、小かみ十帖進上」
「一、まんちう五十出候、十五御所へまいる。一、御所はうちまつり代三百文、米一斗五升出候、そはまいる」
「一、河内よりむきのこ袋二上候」
「一、河内より麦二駄上候」
「一、うとんにてくすし僧、敞待者もてなす也」
「一、かわちのかわり上候、さうめん折上候」
「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文計候也」
「一、うとんのこ、あんらく寺よりかり候、にんそくニ下候」
「一、そば上候、道きん、えもん、さえもん、一か御所へまいる」
「一、くわしょうし下、庵主そはをかられ候」
「一、本所へ北殿、御庵皆々御出、天心にてさけあり」
「一、(略)。本所より御出候、折二合、柳一か、うとん、さかな、二こんにてさけ(後略)」
蒸麦があり、饅頭が作られ御所へも供御として運ばれている。小麦粉を「うどんこ」と呼ぶほど饂飩が盛んに食されている。所領の河内からは人夫の交代用人が素麺を土産に持参し、蕎麦の実が御所へも運ばれている。山科郷では粉食(麺類)は、しっかりと定着しているのである。
さらに、応仁の乱の最中にも、『山科家礼記』に麺類記録は絶えない。
「一、予越州同道、慈尊院ニテ御酒在之、引出物扇一本、報恩院ニテ入ムキ酒色々アリ」
と、索麺を煮たものを禅林では入麺と書くが、これを「入ムキ」と書いている。
「一、ヒヤシル在之、昼折酒、水花メンムキ御肴色々大御酒也」
『居家必用』に記載される「水滑麺(すいかめん)」が「水花メンムキ」と当て字され、必要のない「麦」までつけて食されている。
「そばがき」も登場している。
「一、宿兵衛、予、将監方そはかゆもちい沙汰也」
大沢久守は、このころ流行の会席に饂飩と酒を出して代金を受け取り、商売にもしている。
「一、今夜江州宮卿うとんさけ沙汰也、代六百五十文入也」
「一、御坊の御人数南殿まてうとんにてさかなにて酒をまいらせ候、うとん六百文」
日常生活では、やはり饂飩が圧倒的な人気である。
そして『山科家礼記』に、初めて「切麺(きりむぎ)」も出てくる。
「一、坊母方へよひ候てきりむき候也。本所へもまいらせ候也」
「一、今朝ゆかけにてかちのはに、和歌如例七首、北向さうめん七すち、かちのかわにてまくあけよう如例、ひるゆをたく、各ひやむき、さけ、今日三郎兵衛しんるいのせちとて、あさいゝ、はんけいきりむき、さけくれ候也」
七夕の節句に、久守のみならず、親類の三郎兵衛も「きりむぎ」を作り、これを久守の家に届けている。久守は昼にひやむぎを食べ、晩にはきりむぎを食べ、麺類漬けの一日である。
「一、西林院樽壱、くろしほ(黒絞りの油か)、そはせんそう出、一ほん持行、干飯後うとん、すいせん酒也」(カッコ内引用者)
西林院に酒と油、そして禅僧が作ってくれた蕎麦を一盆持って行き、干飯の後に饂飩、葛切を肴に酒を飲んだという。
「一、西林庵たる壱、そは一いかき給候也、各よいて賞玩也」
西林庵で酒とざるに盛られた蕎麦をいただき皆酔い賞玩した、とある。この「いかき」とは関西では「ざる」のことで、今日流にいえば「ざる蕎麦」というところである。応仁の乱のさなかに、『山科家礼記』に現れた餅麺類は、饅頭、饂飩、索麺、水滑麺、切麺、冷麺、蕎麦、そばがきである。今日の麺類の元となるものが山科郷には存在していたのである。
注意すべきことは、このように庶民へと麺類が伝えられる際に、「点心」を「天心」と書き誤り、「水滑麺」を「水花メンムキ」などと間違えて伝えられることが多々ある。こうした誤解、誤伝が起こることを念頭に置いておく必要がある。今日、江戸期の麺類を解説する者が混乱するのは、こうした誤解、誤伝に気付かぬからである。
索麺と同類異質な冷麺、饂飩
油混入法による索麺(そうめん)は油を抜くために必ず乾燥を伴うのだが、もう一つの製法である油不入法による索麺は乾麺にしてもよし、生麺としてそのまますぐに食用することもできる。
二つの麺の違いは、その太さにある。
油を入れずに引き伸ばすと水分蒸発が早く、油を入れたものより太い段階で切れる。その直前に引き伸ばしを止めたものを禅僧達は「ひやむぎ」とよび「冷麺」と書いた。冷麺よりさらに太い段階で引き伸ばしを止めたものを、「饂飩」と書き「うどん」とよんだ。禅僧による造字、造名である。
饂飩は温かくして食するのに対し、冷麺は暑い夏に向かって冷たくして食用する意図で作られ、命名された好対照の二麺なのである。禅僧が考案した両文字は的確にその意図を示している。ともに製麺後すぐに食すことを目的としていた。
ところが禅林で「ひやむぎ」とよび「冷麺」と書いたのも禅林内でのことで、町方の索麺師達の関知するところではなかった。本シリーズの第一回目の文中に『七十一番歌合(しちじゅういちばんうたあわせ)』の索麺売りの姿の図を挿入したが、この絵の上に、こう書かれている。
「索麺うり これハふと ざうめむにし たる」
索麺売が、「ふとざうめむ」とよぶものが「油不入索麺」、禅林でいう「冷麺」なのである。
町方では油を入れずに作る素麺を「太素麺」とよび、油入りの素麺を「細素麺」ともよび、両素麺を区別したのである。つまり索麺という同一の呼び名のもとに、異質な二麺が町方には存在していたのである。
これを商品として販売するには乾燥する必要がある。ところが太い饂飩を乾麺にすると茹だらない。後にこれを麺棒で平たく押し広めて薄くする工夫をして流通食品とするのだが、禅林はもとより、自家製の饂飩、冷麺は乾燥させず生麺で食するつど製麺するのが原則であった。油混入法で作られる索麺は、後に、塩を入れる工夫がなされる以外にその製法を変化させることなく今日に至るのだが、油不入法で作られる饂飩と冷麺は、より簡便な製麺法、すなわち切断法による類似麺に取って代わられる。
名前は冷麺でありながら引き伸ばしではなく、切断された冷麺となる。饂飩もしかり。饂飩に似せた切麺に、「饂飩」という名も取られてしまうのである。
ここがポイントである。この変化に気付かずにいると、饂飩、冷麺、切麺の歴史論は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界となる。さまざまな状況下で出てくる文献記録を、合理的に説明しかねることとなる。まさに麺類史論の正誤の別れ道となるキーポイントなのである。
※資料引用文中の太文字は引用者の指示によるもので、参考文献の原文にはない。
- 1『日本めん食文化の1300年』(奥村彪生著、農文協、2009年)
- 2『つるつる物語日本麺類誕生記』(伊藤汎著、築地書館、1989年)
- 3『祇園執行日記』(祇園社執行法印顕詮他筆録、『八坂神社記録上巻』、大正12年)
- 4『東山御文庫記録甲六十八』(『国史大辞典』、吉川弘文館、1990年)
- 5『山科家礼記』(大沢久守・重胤他筆録、『山科家礼記第三』、群書類従完成会版、2003年)
- 6『蔭凉軒日録』(李瓊真蘂・亀泉集証筆録、英徳社内史籍刊行会版、1953年)
- 7『鹿苑日録』(景徐周鱗他筆録、横川景三編、東大史料編纂所、1934〜7年)
- 8『和漢三才圖會』(寺島良安著、島田勇雄他訳注、平凡社、1985〜91年)
- 9『蔗軒日録』(李弘大叔著、英徳社内史籍刊行会版、1953年)
- 10『宣教卿記』(中御門宣教著、『素麺史料集』、朧谷寿・五島邦治編、三輪そうめん山本昭和60年)
- 11『教言卿記』(山科教言著、小森正明校訂、史料纂集古記録編、八木書店、2000年)
- 12『大桑村の歴史と民話』(志波英夫著、山下生六編、地名研究会、1978年)
- 13『一休』(武田鏡村著、新人物往来社、1994年)
- 14『大上﨟御名之事』(『古事類苑飲食部(六)(七)』、神宮司庁蔵版、吉川弘文館、昭和59年)
- 15『七十一番職人歌合』(『新日本古典文学大系61』、岩崎佳枝他編、岩崎書店、1993年)
- 16『飲食事典』(本山荻舟著、平凡社、昭和33年)
- 17『日用三昧』(『続群書類従第一巻鹿苑日録』景徐周鱗著、続群書類従完成会、1961年刊)
- 18『日次記』(『続群書類従第三巻鹿苑日録』有節瑞保著、続群書類従完成会、1961年刊)
- 19『条々聞書貞丈抄』(『続々群書類従第七』、国書刊行会、1984年)
- 20『大日本古記録梅津政景日記』(東京大学史料編纂所、昭和28年)
- 21『隔蓂記』(鳳林承章著、赤松俊秀校註、鹿苑寺刊、昭和33年)
- 22『茶道古典全集松屋会記』(千宗室著、淡交新社、1957年)
- 23『日葡辞書』(土井忠生・森田武・長南実編訳、岩波書店、1980年刊)
- 24『書言字考節用集享保二年版』(前田書店出版部、昭和50年刊)
- 25『長野郷土史研究会機関誌長野』(第167号「信州そば史雑考」関保男著、第168号「天正2年のソバキリの記事」小林計一郎著)

1938年 東京向島に生まれる
1963年 慶応義塾大学商学部卒業
現在、寺方そば「長浦」の二代目当主。
「寺方そば」とは、尾張一宮の妙興寺に伝わる覚書をもとに復元したそば料理のことである。著書に、『つるつる物語』(築地書館刊)がある。
先代の収集した全国各地の名刹に残されている史料や日記等から、近世日本の「食」のあり様を研究。本業のかたわら、その事実解明をライフワークとしている。
愛知県妙興寺に三笠宮様がご臨席された際に、自らが練った妙興寺そばを献上した経験がある。











