研究機関誌「FOOD CULTURE No.19・20合併号」麺類ではじまるわが国の粉食史(五) 永禄年間に定まる現代麺類
麺類ではじまるわが国の粉食史(五)永禄年間に定まる現代麺類
引き伸ばし法から切断法へ
足利三代将軍義満の造り上げた相国寺大伽藍は、応仁の乱(1467-77)で灰燼に帰した。『蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)』の空白の18年間がこれである。乱後の相国寺内の麺類の様相は一変する。索麺(そうめん)も冷麺(ひやむぎ)も、格式、伝統、形式化した点心、斎(とき)の膳から解放され独立した存在となる。
そして、索麺同様に引き伸ばし法で作られていた冷麺が、簡便、合理的な切断法へと変化する。
「三献、切冷麺、切叔破盞、三献過各帰院。」
冷麺が斎膳でなく、酒席の肴として出されている。それも切冷麺と姿を変えているのである。切断法による●帯麺(※ てったいめん)が、禅林外でも作られている。
※ ●は左側に「糸」、右側に「至」
「五郎右衛門尉具慈泉喝食来。持明樽●帯麺来。」
五郎右衛門と喝食(かつしき)の慈泉が酒と●帯麺(てったいめん:●革<ひもかわ>うどん)を持ってきたという。そして、また切冷麺(きりひやむぎ)記述である。
※ ●は左側に「糸」、右側に「至」
「院主三玄要引愚入書院。剪冷麺、羹一菓。一瓜等。盃二行。(中略)。当院衆相集。冷麺各盞両三返。愚依不喫麺之故不在座。(中略)。冷麺以前弁之。」
蔭凉軒主が、鹿苑院主(ろくおんいんしゅ)に招かれた書院で、剪(きり:切)冷麺と酒が出される。この後、鹿苑院の僧たちが集まる宴席に招かれ、また冷麺と酒となる。これもまた切冷麺である。不快をもよおした蔭凉軒主は、その冷麺に箸をもつけずに思わず席を立ち、「以前の冷麺はこんなものじゃなかった」と、嘆いた。以前の冷麺は切断されてはいなかった。索麺同様に引き伸ばして作られていた。蔭凉軒主は、そう弁じたのである。
この「切冷麺」記述は、意味深長である。従来の冷麺は、切断されてはいなかった。引き伸ばして作る油不入索麺(そうめん)であることを的確に物語っているのである。この油不入索麺が切断されるようになる。この変化に気付くか否かである。これ以降、素(索)麺屋では、引き伸ばして作る冷麺があり、切断される冷麺もある。これら呼び名も地域により、場所によって異なる名称で現れてくるのである。冷麺の実態をしっかりと把握していなければ、説明不能に陥ってしまう。
さらに、この冷麺に問題がある。『蔭凉軒日録』中に「温麺」という文字がたびたび現れる。先の7月14日条の切冷麺記述中にも、これがある。
「温麺五菓。盃二返帰。」
「人日。(中略)。温麺、水線、茶子。」
「於集龍有酒。麩吸物。次温麺、豆腐羹、食籠。種々肴共之。」
など、多々ある。本来、温麺とは温かく調理して食す麺類の総称だが、こうした温麺記録から判断して、冷麺を温麺と対照的な冷たく水洗いした麺と解釈する研究書は、本山荻舟の『飲食事典』を始め多数存在する。これは明らかな間違いである。次の記述類を読み、考えてみれば納得するであろう。
「営温冷麺。水繊。山芋羹食籠。勧湯。」
「酌、一返了温冷麺。」
「湯漬、吸物、茶子。又温冷麺、吸物酒数辺。有歌矣」
『山科家礼記』の筆者、大沢久守も、これら記録以前に禅林でいうところの温冷麺を食している。
「一、昼ぬるひやむき在之」
これらの「温冷麺」記述をみて、冷麺を「冷たく水洗いした麺」と調理法の名称と判断する解説者は、どのように説明されるであろうか。「温かく冷たくした麺」と、解説するであろうか。ここで一頓挫することは明らかである。
冷麺とは、了誉聖冏(りょうよしょうげい)が記述したように、独立した麺と理解していなければならない。冷麺とは、油不入索麺のことである。この認識を欠落していると、あらぬ麺類史論が展開されてしまう。これもまた江戸以降の解説者のおちいりやすい大きな誤りの一つである。
麺類史の流れを見極める
麺類製法に変化が現れる15世紀末、世はまさに下克上の横溢する戦国の只中である。山城国では大規模な一揆が起こり、加賀の国では一向一揆によって守護の富樫政親は敗死し、百姓の統治する国が生まれている。8代将軍足利義政は、東山銀閣に引きこもり、為すすべもなく力なく傍観するのみである。
こうした混乱期に麺類界にも大きな変化が起きている。都会を離れた山科郷に、素麺屋が現れるのである。
「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文計候也」
山科家は素(索)麺業者を供御人(くごにん)として統括しているはずである。ところが、山科家を無視するように庶民の中から、素麺を製造販売する素麺屋が現れている。山科家はこれを黙視している。ただ課役(税)としての素麺を受け取るのみである。
京の街では、山科郷よりも早く多数の素麺師が現れ、販売独占権を持つ中御門家が、彼らの作る素麺の販売管理をしているはずである。だが、これも統制力を失っている。朝廷権力の代行者である中御門家に属さぬ一庶民の自由意志による独立した素麺屋が、やはり存在しているのである。
「自素麺屋麺節一蓋来。為入麺賞翫。」
鹿苑院に素麺屋から箱に入れた「素麺の節」が送り届けられている。「節」とは、素麺を乾燥する際に、竹に掛かる曲がった部分、商品にならないものである。これを送られた鹿苑院では、ありがたく「入麺(にゅうめん)」にして賞玩している。かつての相国寺の権勢からは考えられぬ凋落ぶりである。
もはや麺類の指導権は、禅林から庶民・大衆の手に渡っている。麺屋は需要者の意向、要望に忠実に対応して、はじめて存在しうる商人である。麺類史という流れの、いわば本流に位置して流れ下る存在である。その麺屋が、時代の流れとともに変化をみせている。これを高所から眺めることによって、麺類史という流れが明瞭に見えてくる。
①素(索)麺屋が現れる。
②素麺屋が切麺(きりむぎ<切断法の饂飩>)を売る。
③切麺屋が現れる。
④饂飩(うどん)屋が現れ、蕎麦切も売る。
これが1463年(寛正4)から1622年(元和8)に至る麺類史の俯瞰図である。この160年間の流れを一望し得た者のみに、史料にある麺類記録は精彩を放ってくれる。
『山科家礼記』(1463年〈寛正4〉7月5日条)
「一、さうめん屋よりさうめん出候、百文計候也」
『鹿苑日録』(1537年〈天文6〉7月7日条)
「自索麺屋切麺一盆来。」
『言経卿記(ときつねきょうき)』(1588年〈天正16〉6月8日条)
「一、キリムキヤヨリ小児洩瀉云々」
山科言経(ときつね)はこの当時、大坂石山本願寺の寺内町に住み、薬を売って生計を立てている。この大坂に切麺屋が存在している。
6年後、京に帰った言経は、1596年(慶長元)7月5日条で
「一、香ジュ散賦之衆、(中略)、キリムキヤ云々」
と、言経が薬を配布する京都の顧客中に切麦屋がいる。そして、
『松屋会記』(松屋久好)(1622年〈元和8〉12月4日条)
「ヒノウトン(京都油小路下立売南、日野屋ノウトン)、又ソハキリ 肴色々 菓子モチクリ コホウ 郡山奥平金弥殿ヘ、右之衆五人」
江戸幕府開設早々の元和年間、京都には饂飩屋が存在し、蕎麦切も売っている。さらに、この俯瞰図を一望すると、麺屋は引き伸ばし法から切断法へ、乾麺から生麺へと流れを変えていく様子が判る。需要があって供給がおこる。これが経済原則である。麺屋の流れを先導するのは、もはや誰でもない庶民であり大衆である。これまで不鮮明であった個々人の記述変化が明瞭に見えてくる。
麺屋に先行する個々人記録
②では1537年(天文6)、素麺屋が切麺を始めている。
この記録の60年ほど前に、山科郷では、引き伸ばし法から切断法への変化がおこっている。この変化は、『山科家礼記』のウドン、きりむぎ、ひやむぎ記述を並べて一覧することからこれを読み取ることができるのである。
「一、今夕三郎兵衛ウトンクレ候て賞翫也。」
「一、略。ひるゆをたく、各ひやむき、さけ、今日三郎兵衛しんるいのせちとて、あさいゝ、はんけいきりむき、さけくれ候也」
この文明12年のウドン・ひやむぎ・きりむぎ記録を最後に、『山科家礼記』から「きりむぎ」記述が消滅し、「ウドン」「ひやむぎ」記述のみとなる。
一庶民の三郎兵衛さえ七夕の節会に、気軽にきりむぎを作っている。太くも細くも自由自在、誰でも短時間で、簡単に生麺が作れる。太く切断した「きりむぎ」を従来どおり「うどん」と呼び、細く切断した「きりむぎ」を「ひやむぎ」と呼んだ。その結果、「きりむぎ」の名称は不要となる。きりむぎ記録は消滅するのである。
山科郷ばかりではない。包丁で切断する簡便な「きりむぎ」製法、つまり切断法は、挽臼と対となり、自給自足の農民の食生活に不可欠な一要素として各地に浸透していくのである。素麺屋もこれに対応せざるを得ない。乾麺のみでなく、簡便な切断法を取り入れ、生麺の需要に応じざるを得なくなる。
③では消費の旺盛な都市部ではこの麺屋の変化は、よりいっそう顕著であり速度も速い。
1588年(天正16)6月8日の『言経卿記』に、京坂の都市部に「キリムキ屋」が現れるが、これも個人記録から事前に読み取ることができる。
奈良・転害郷(てがいごう)の富商・松屋家は、塗師として東大寺若宮の神人でもある。この松屋家当主の久政・久好・久重の三代が、1533年(天文2)から1650年(慶安3)にいたる期間、京坂地区の豪商たちとの茶会記を書きつづけている。『松屋会記』である。
この『松屋会記』では、「ヒヤムギ」「キリムギ」の併用記録が次の記述で終わっている。
「中段スイセン、貝蛤、肴クリ後段ヒヤムキ、足打二、引ソヘコチ公饗奈良ノ餅飯殿(モチドノ)源五郎へ」
「後段キリムキ、スイセン、マセテ」
この永禄2年4月の記述以降、「ヒヤムギ」記録は消滅し、「キリムギ」と「ウドン」記録のみとなる。
饂飩はすでに太く切断される生麺として定着している。乾麺の「ヒヤムギ」が、細く切断される「キリムギ」と入れ代るのである。その結果、「ヒヤムギ」の名は消える。
京坂地区では、山科郷とは反対に「ヒヤムギ」の名を捨てて「キリムギ」の名を残したのである。永禄2年といえば、翌3年(1560)5月19日に織田信長が今川義元を田楽狭間に奇襲し、これを打ち破っている。その1年前のことである。
永禄年間(1558-70)から元亀年間(1570-73)を経て天正に至るのだが、筆者はかねてより都市部におけるこの16年間を引き伸ばし法から切断法へ、乾麺から生麺へ、素麺屋から切麺屋へと入れ代る急変期と推察している。1987年5月20日刊の自著『つるつる物語』では、こうした情況を踏まえて、こう書き述べた。
「天正年間には、つるつると食べるそばが、そば切とよばれて庶民の間に広まっていた」
この推察は、5年後の定勝寺文書の次なる文書の発見で見事に立証されたのである。
「作事之振舞同音信衆。徳利一ツ、ソハフクロ一ツ、千淡内振舞ソハキリ 金永」
この推論の根拠は、前述の永禄年間のキリムギ屋の存在想定であった。京坂ではこれが多数存在し、うどんもそばも店頭で打って食べさせる。この様子を見た人々が各地に持ち帰る。そのように推察、推論したのである。
その後の調査で、この推測も的中しているようである。次ページ図、桃山期の『築城図屏風』(名古屋市立博物館蔵)を見ていただきたい。キリムギ屋が客にうどんを食べさせているではないか。こうした麺屋が、キリムギ屋と呼ばれて、永禄年間には出現している。そのように考えて間違いのないところなのである。
したがって、④での饂飩屋が現れ、蕎麦切も販売するという1622年(元和8)12月4日『松屋会記』の記述は、庶民がキリムギ屋の名称を、端的な呼び方のうどん屋と変えたに過ぎない。実質的には、キリムギ屋は生麺を売る傍らで、店頭でうどんもそばも食べさせていたのである。
推定や想像だけを述べるわけにはいかない。これを裏付ける事実がある。
「一、下間大弐妻(中略)、キウトン一船送給了」
言経が下間大弐の妻からキウトン一舟を送られている。この「キウトン一船」とは何か、である。
キウトンの「キ」とは「生」、なまうどんである。今日、関東のそば屋では、打ったそばを入れる木箱を「船」と呼んでいる。言経は「ウドン一船」と記している。これは麺屋のみに通じる隠語的な呼び名である。「船」を使ううどん屋が天正年間には存在しているのである。永禄年間から天正にかけて、手打ちうどんもそば切もある。禅林でいう冷麺(ひやむぎ)も生麺の手打ちとなる。しかも、これをその場で茹ゆでて食べさせてもいる。これが都市部におけるキリムギ屋の営業形態である。乾麺を主力商品とする都市部の素麺屋は、この切麺屋に圧倒され、衰退の一途をたどることになるのである。
永禄、元亀を経て天正に至る期間、織田信長の畿内制圧の戦乱のさなかに、現代が引き継ぐ麺類製法のすべてが整えられたのである。
京之甚兵衛が持ち込む稲庭うどん
1602年(慶長7)5月8日、徳川家康は、佐竹義宣を常陸54万5800石から出羽秋田20万5000石に転封している。その10年後、佐竹藩家老の梅津政景の日記である。
「味噌町、けいせい町、炭焼沢町、下川原町やけ屋所知らせ候、(中略)同切麦や二間、同餅や一間、同湯や一間御座候、云々」
梅津政景が火事による被害届を受け取っている。このなかに切麦屋が2軒ある。50万石から20万石への秋田領での財政困窮は必至である。佐竹義宣は銀山、金山発掘事業に活路を求めた。各地から集めた人夫たちに食わせる米が不足している。これを切麦屋の導入で切り抜けた。そのように考えるのである。火事場という範囲内に2軒の切麦屋がある。ここばかりでなく、他にもまだ切麦屋は多数存在していたはずである。佐竹義宣は、この切麦屋から税金をも徴収しているのである。
「梅津主馬様
麺類役
正月より六月晦日まて、高壱貫百五拾目也、京之甚兵衛」
家老の梅津政景は、この6月までに分納された麺類役(税金)の報告書を受けとっている。その納税責任者名は京之甚兵衛とある。佐竹義宣は移封にさいし、京都から麺屋の甚兵衛を連れていった。京坂地区でうどん屋と呼びかえられる前である。彼に京坂地区の多数の切麦屋、素麺屋を呼び寄せ移植させ、その管理を任せたのである。佐竹氏は、新羅三郎義光の流をくむ鎌倉時代からの伝統ある武家である。秋田久保田城における元日の祝膳にそれが現れている。
「御城ニテ御祝之事、昆布、梅干と山椒三方ニテ御膳ニすわり、御茶被召上、其後餅之御膳七ツ、御飯御力飯、御めんを被召上、云々」
江戸在府の元日の祝膳にも「めん」が出されている。
「一、朝、御祝餅、御飯、めんす、御力飯過て御召出有、云々」
麺を「めんす」と書いている。元日の祝膳に必ず麺が添えられている、この風習は平安朝からの公家の風習である。これを佐竹氏は受け継いでいる。歴史のある島津氏も元日蕎麦、武田氏も元日蕎麦としてこの風習を残している。政景は麺類に精通している。米の取れぬ領内に集まる銀山発掘人夫の食事を、この切麦屋の作るうどんで賄うことに着目していた。そう考えてもよいであろう。京坂地区では素麺屋の作るうどんと、切麺屋の作るうどんの混在期である。麺屋の「京之甚兵衛」が連れてきた中に、引き伸ばし法を得意とする素麺屋もいたことであろうし、京之甚兵衛自身が引き伸ばし法によるうどん製法を行っていたかもしれない。かれらが今日の稲庭うどんを残した人々なのである。
複雑化する油不入素麺
「キリムギヤ」の麺類は、すべて切断される麺である。生麺で売ったり、店頭で食べさせもする。複雑さを見せるのが引き伸ばし屋の素麺屋である。山科言経(ときつね)が大坂西成(現在の北区)の中島に移住していた時期の日記に、「キサウメン」が出てくる。
「西御坊之内ヤトリ木生索麺一盆持来了」
「小大夫ヨリ双瓶、キサウメン送了」
そして1591年(天正19)、言経は6年ぶりに京都に帰る。京都での記述にも、この生索麺がでてくる。
「中務ヨリキサウメン五把送給了」
「昨夕、北向ヨリキサウメン、柿被遣之」
1591年、言経のいうキウドンはナマウドンであった。しかし、この「キサウメン」とは何か、である。
これら記述をよく見ると「生索麺一盆」とあり、「キサウメン五把」とある。盆に乗った「生索麺」は「ナマ」麺である。五把と記述される「キソウメン」は乾麺である。ナマでも乾でも食用できる索麺といえば、油不入索麺しかない。山科言経(ときつね)は、この「キ」を「純粋」「混じりけのない」素麺という意味で使った。いや、言経がいうのではない、京坂地区の素麺屋が油入りと油不入の両素麺を区別するために、油不入麺に「キ」をつけて呼んでいたのである。さらに素麺が切断されている。
「一、長橋殿ヨリサウメンキリ・双瓶被給了」
油混入索麺を切断して乾燥せずに生で食用することはない。素麺屋のいう「キサウメン」は、禅林でいう冷麺(ひやむぎ)、油不入索麺のことなのである。
「入暮、彦西堂来訊、油不入之素麺相伴、点濃茶也。」
この記述には驚いた。かつて自著『つるつる物語』では、索麺に二種類があり、その二麺をわかりやすく説明するために、便宜上、油混入索麺、油不入索麺と区別した。鳳林承章は、冷麺が油不入素麺であることをずばりと記述したのである。
これがまさしく引き伸ばし法による禅林で言うところの「冷麺」、素麺師のいう「フトサウメン」、言経の記述する「キサウメン」なのである。
キリムギ屋に圧倒されながらも素麺屋は油不入素麺を作り続けている。そればかりではない。
「斎了、(中略)、共入浴之後、干温飩共喫之者也。」
と、温飩を乾麺にもしている。素麺屋が油不入索麺を作り、干温飩も作り、営業努力をしているのだが、時代の趨勢は切断法による生麺に流れている。都市部のキリムギ屋は、生麺を売るよりも店内でこれを食べさせることが主力となっていく。庶民の人気はうどんである。キリムギ屋からうどん屋と呼びかえられるのも必然的な結果なのである。
雲呑・うんどん(温飩)あらわる
永禄、天正年間に曲がりなりにも製麺法が定まろうとしているその矢先に、突然「うんどん」なるものが現れる。江戸期から現代にいたるまで、これほど麺類解説者を悩ましつづけている食物はない。これまでこの「うんどん」を説明しきった研究者はおられない。
今回は、この「うんどん」とは何かを正確明瞭に解説してみたい。
「温飩於行者寮喫之。」
行者寮で「温飩(うんどん)」を食したと相国寺鹿苑院主・景徐周麟(けいじょしゅうりん)は、その日記『日用三昧』に書いている。これが「温飩」の初見記録である。
景徐周麟は、この年の9月25日に「饂飩(うどん)」と正字を書きながら10月5日には「烏飩(うどん)」と書き誤っている。10月27日のこの「温飩」も誤字とみて見逃していた。ところが、『鹿苑日録・有節瑞保日次記』の1591年(天正19)8月27日条に
「非時後会。ウントン 酒数行」
と、ある。
この記述を見てあわてた。これが問題の「温飩(うんどん)」と気付いたからである。
『鹿苑日録』の「温飩」記述は、天文の初見記録以降、天正、文禄とつづく。しかし、その実態がわからない。慶長年間(1596-1615)に入ると、さらにこの温飩記述はおびただしくなる。
秀吉死後、家康の外交顧問をつとめる相国寺住持・鹿苑院主の西笑承兌(さいしょうしょうたい)が、この「温飩(うんどん)」の正体を明かしてくれるのである。
「午時饂飩」
と、まず饂飩(うどん)を食している。この2日後の3月29日
「津八兵衛亦来。先温飩、小漬。」
と、温飩(うんどん)を食している。西笑承兌の誤字でないことは明瞭である。その西笑承兌が温飩を食べる様子を記述している。
「蔭涼軒会席巳刻。先温飩。妙味不淺。人々或ハ六ヶ或ハ七ヶ受用。温飩之口吸物根若。酒五返。菓子円柿栢。茶別儀。各々吸之。云々」
蔭凉軒で会席があり、まず温飩(うんどん)が出される。西笑承兌は、妙味浅からずと感心し、皆「六ヶ」あるいは「七ヶ」を椀に受けて賞味している。これが「温飩」の正体である。饂飩(うどん)ではない。「ワンタン」なのである。
麺類を導入した南宋時代、華北で餛飩(こんとん)とよばれるものが、華南に入るとワンタンとよびかえられ、その文字を「雲呑」と書いた。ルビがなければ、読者はこれをなんと読むか。多分「ウンドン」であろう。「温飩」である。禅僧らしい機知に富んだ創作文字なのである。
ところが困ったことに、この「温飩(うんどん)」が、「饂飩(うどん)」になってしまうのである。そもそも「饂飩」の文字も禅僧の創作文字である。庶民に書ける文字ではない。これがどう伝わったのか「饂飩」を「温飩」と書き、「うんどん」と庶民は読んだのである。これが、まさにいうところの誤伝なのである。
江戸期の浮世絵に、「うんどん」と行灯に書き、商売する姿を描いたものが多々ある。こうしたことから、この誤伝は江戸以降と考えがちであるがそれは違う。江戸開府以前の文禄慶長年間にすでにこの誤伝はおこっている。
1603年(慶長8)に長崎で発刊された『日葡辞書(にっぽじしょ)』に、
Vdon ウドン
Vndon ウンドン
と「ウドン」と「ウンドン」がともにこの辞書にある。江戸開府以前にウンドンの呼び名は通用しており、幕末に至るもこの呼び名と文字は使われているのである。この呼び名の間違いを指摘したのが元禄期の故実家・伊勢貞丈である。
「餛飩を一本に温飩とあり、こんとんの一名うんどんと云也。(中略)。今時小麦の粉をねりうすくのして細く切り、湯煮したるを、うんどんと云は、となへあやまりなり。それはきりむぎといひし物也。麺類なり。」
この「一本」とは、元和年間(1615-23)に発刊された『書言字考節用集』を指している。ここには、「餛飩 温飩ウンドン和俗所用」とある。
これを論拠にして、「うんどん」というものは「餛飩(こんとん)」(ワンタン)である。庶民大衆が「きりむぎ」を「うんどん」というのは間違いであると説明しているのである。
この貞丈の解説文を間違いとする現代の研究者がままおられる。しかし伊勢貞丈の解説には何らの誤りもない。正しいのである。惜しむらくは「きりむぎ」としたことである。この時代、太く切断するうどんも、細く切断する冷麦(ひやむぎ)も、ともにきりむぎではあるが、太い、細いの違いがある。この解説文の最後を「それはうどんといひし物也。麺類也」と、締めくくれば完璧であったろう。
これまで、非難され続けた伊勢貞丈が、これを聴けば、肩をたたいて喜んでくれるのは間違いのないところである。
約束のページを使い切ってしまい、饅頭、蕎麦切を書き残してしまったが、さらなる調査と検証を重ねていく。今回の『麺類ではじまるわが国の粉食史』はここで締めくくることにした。
※資料引用文中の太文字は引用者の指示によるもので、参考文献の原文にはない

1938年 東京向島に生まれる
1963年 慶応義塾大学商学部卒業
現在、寺方そば「長浦」の二代目当主。
「寺方そば」とは、尾張一宮の妙興寺に伝わる覚書をもとに復元したそば料理のことである。著書に、『つるつる物語』(築地書館刊)がある。
先代の収集した全国各地の名刹に残されている史料や日記等から、近世日本の「食」のあり様を研究。本業のかたわら、その事実解明をライフワークとしている。
愛知県妙興寺に三笠宮様がご臨席された際に、自らが練った妙興寺そばを献上した経験がある。






