研究機関誌「FOOD CULTURE No.19・20合併号」野菜の利用と江戸時代の食生活(二)村々の野菜生産と食生活

江原絢子(東京家政学院大学名誉教授)

野菜の利用と江戸時代の食生活(二)村々の野菜生産と食生活

はじめに

江戸時代、全国の村は元禄10年(1697)に6万3200余村、約140年後の天保5年(1834)でも6万3500余村と大きくは変化していないという。渡辺尚志『百姓の力』(柏書房)によれば、18〜19世紀の平均的村の石高は、400〜500石(人口約400人)であるが、村により規模も性格も異なりそれぞれが個性を持っていたという。
また、網野善彦『続・日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)によると、江戸時代までの日本の人口の約8割が農民であったという一般論に異論を唱え、「百姓」とは、農民をさすだけでなく農業以外の生業にたずさわる人々をも含んでいたと述べている。
以上のことからみると、農山村の食生活は、一口では語れず、また簡単には一般化できないといえよう。そこで、本稿では高い山に周囲を阻まれ、一見外との交流がすくなかったと思われている飛騨国(現岐阜県)の山間の村の事例を取り上げ、野菜類に関わる食生活を中心に考えてみたい。前回に続き、野菜類とは、芋や豆などとその加工品を含む植物性食品とする。

1.飛騨の村々のくらし

飛騨国は、「国中総て平陸少く山連なり・・」と『飛州志』(長谷川忠崇著)にあり、周囲を美濃(岐阜)、信濃(長野)、越中(富山)、加賀(石川)、越前(福井)の五国に囲まれていたが、いずれも高い山に阻まれ隣国に行くことも「遠国に等く・・・」といわれた地域である。この飛騨国の地誌『斐太後風土記』が完成したのは、明治6年(1873)のことで、富田禮彦により編纂された。それには飛騨3郡415村ほどの石高、戸数、人口、産物などが記され、幕末期の暮らしぶりがうかがえる。『斐太後風土記』は、何種かの写本があるようだが、内閣文庫に20巻20冊の写本がある。また、これらを翻刻して刊本とした『斐太後風土記』(雄山閣1930)があり、その後も復刻されているが、刊本には天領であった高山の産物量の記載がないことや産物量がやや異なるものもある。しかし、他はほぼ同様であるため、刊本をもとに、写本で補いながら検討することとしたい。
飛騨国の人口は弘化3年(1846)で、8万6千人、石高5万6千石と、周囲の五国に比べ格段に低く、石高は他国の十分の一程度で、一人当たりの石高は、加賀・越中の2石に対して信濃・越後1石、飛騨0.65石と際立って少ない。飛騨国に他国から買い入れられた必要品(1870年調査)をみると、食料では米が1万5千石(8万8230両)ともっとも多く、雑穀8千石(2万6660両)のほか、塩、茶、乾塩魚、飴菓子・砂糖、麺類があり、購入した食料費は、他国より買い入れる物品費の7割を占めている。山国である飛騨には米の生産に適さない地域が多く、食料を購入しなければ生活できない厳しい環境であったことがうかがえる。
いっぽう、飛騨国の産物で他国に売り出している価格をみると、糸25万5千両を筆頭に、銅3万5千両、灰吹銀1万6250両や椀木地、楮(こうぞ)などの山間の資源がいくつもあり、それらを合計すると32万3940両となり他国より買い入れる金額29万6700両より多く、飛騨国全体としてみれば、不足していた食料を補うための購買力をこれらから得ていたといえよう。飛騨の村々の生業は農業だけではなく、森林伐採などの労働力を含め非農業を中心に暮らしを立てていた村が多かったといえる。
『斐太後風土記』の村の中で、その暮らしぶりに特徴がみられるいくつかの村を紹介しながら食生活と野菜のかかわりを考えてみることにしたい。

2.米生産のない村・少ない村

飛騨国の地図に示した宮川や益田川に沿った高山周辺の村は、狭いながらも平野があり、米の生産がおこなわれていたが、それらから離れた山間の村々は、稗を作るところが多かった。しかし、そうした穀類さえほとんど生産されない村も見られる。本稿では、飛騨の村の異なる環境のなかでどのような暮らしと食生活が営まれたのか、その暮らしぶりについて触れてある、特徴ある8村についてみてみることにしよう。
取り上げた村の概要を戸数順に表にまとめた。

飛騨の村を示す地図

幕府の直轄地(天領)高山は一之町村から三之町村まであったが、これをいっしょにして高山町村(高山)として扱う。また、各村のおよその位置を地図に番号で示した。表を見ると、高山に近い三福寺村、古川町方村以外は、米の生産量はきわめて少ないか、まったくない地域である。そこで、まず米の生産量がないか少ない村の様子を見てみよう。

①平湯村は、戸数14戸、人口70人の小さな村で、すべての家が湯治客を扱う旅宿を経営している。米の記載はなく稗が38石、そばが23石と比較的多い。ほかに、わさび、大豆、小豆を生産している。極寒地のため、桑や麻は育たないが、ささげ、仙台芋などを畑に作り、うど、わらび、ぜんまい、ふき、せり、筍を採り、岩魚、鳩、小鳥などを食用としている。温泉客が年々増加し、米、麦、みそ、醤油、油、菓子、ろうそくなどを仕入れて浴客に売り利益を得ており、そのため石高が10石から19石となったとも記している。この村の生業は、明らかに商売が中心となっている。
②鳩ヶ谷村は、白川郷の村のひとつで米生産量は多くないが、くず粉のほか大根、蕪菁(かぶら)、人参、ごぼう、なす、ねぎ、かぼちゃ、いも、豆類など野菜の栽培が盛んである。大正期の聞き取り書『聞き書岐阜の食事』(農山漁村文化協会)によると、白川村の日常食は稗飯の主食にみそ汁、ささげ、山菜の煮物や焼茄子、漬物が一般的であった。幕末期も類似した食生活であったと思われる。しかし、ほんこさま(報恩講)などの特別の食事には、白米飯、豆腐のみそ汁、ちゃつ(焼き豆腐、人参、ごぼう、ぎぼし〈山菜の一種〉の白和え、よめ菜の油和え、ぜんまいの盛りあわせ)、猪口(ささげの煮物)、坪(じゃがいも、人参、焼き豆腐の煮しめ)に勝栗、炒り豆、かやの実の茶の子(仏事の供物から転じ、現在の茶菓子)が並ぶなどごちそうが用意されている。しかし、これらも野菜類がほとんどである。そしてぜんまい、よめ菜、大根、大根葉などは乾燥して保存し、いつでも使える工夫をしている。よめ菜の煮つけは、乾燥させたよめ菜を茹でて一日水につけてアクを抜きこれをたまりで煮るかあぶらえ(えごま)で和えている。また、かぼちゃ、大根などは、家の二階か三階に貯え寒さから守ったという。鳩ヶ谷村では、楮(こうぞ)、桑、麻、煙草(たばこ)を生産し、まゆ、布を製造することで生計をたてていた。
また、④池ケ洞村は阿多野郷の山間の村で、米の生産量は記載されていないが、稗は年間23石生産され、そば、大豆、小豆のほか、馬、猪、山鳥、雉(きじ)、岩魚(いわな)などの食料生産に加え、大繭(まゆ)、小繭を産物としている。しかし、ここで注目されるのは、わらび粉の生産である。池ケ洞村だけでなく、阿多野郷の村々や米が栽培できない山間の地域では、貴重な換金製品であった。春は、雪解けから稗を植えるまでの3、40日、秋は、収穫後雪が降り積もる頃まで女たちが奥山の小屋に寝泊まりし、昼はわらびの根を掘り、石の上でその根を打ち砕き、何度も水さらしをして、乾燥させてわらび粉とする。
この方法は、縄文時代から木の実のアク抜き法として伝承されてきた技術である。村人にとって厳しい労働ではあったが、荒い粉は自家用として食料となった。また精密なものは、5斗(約90リットル)ずつかます(わらむしろを二つ折にした袋)に詰めて、牛にのせて他国に売っていた。食用には、そば粉や小麦のかすなどを混ぜ、水で練り、鍋で焼き、適当に切り、きな粉、塩をつけて食べるという。また男たちはわらび屑で縄をない、越中から来る商人に売り、米や塩に換えたとある。わらび粉は、食用にもされたが、主な用途は和傘や提灯の糊として重用されたため、1石5両と比較的高価に取引された。池ケ洞村の生産量は、7石8斗で39両を得ている。これは米なら6石6斗、雑穀なら11石7斗にあたり重要な収入源であった。この間男たちは、官材伐採によって賃金を得ていた。
⑥牧ケ洞村は、刊本には産物の記載がないが、戸数109戸、人口570人と、飛騨国では比較的大きな村である。写本の産物にも米、稗ともに記載がないが、桑畑のほかは山林である。産物として繭、楮、菜種、薪のほか食料としては、野菜、筍、茸があり、ほかに白木綿、布などがみられることから、山で採れるものを中心に、白木綿、布を織りこれを高山に出荷して生計を立てていたようである。とくに、筍は、篠筍と称し立夏の頃に深山に生じるものを掘りとって高山に売り、羹(あつもの:汁もの)や煮物などにするという。また、塩漬けにしたものも孟宗竹(もうそうちく)や呉竹(くれたけ)より美味で評判がよかったと記している。

飛騨の村の規模と食料生産 緑色の行=米が少ない村(高山町村を除く)
注:記述がなかったものは0とした
村名 戸数 人口 石高(石) 米生産(石) 戸当量 稗生産 戸当量 野菜類生産 野菜類以外の生産
平湯村 14 70 19.6 0 0 38 2.7 わらび、ぜんまい、筍、わさび、大豆、小豆 みそ、醤油、油、菓子などを湯治客に販売
鳩ケ谷村 18 100 114.2 51 2.8 43 2.4 くず粉、大根、蕪菁、人参、ごぼう、なす、葱、畑芋、白芋、大豆、小豆、えんどう、大角豆、きうり、南瓜 いわな、どじょう
中呂村 35 217 174.4 110 3.1 80.4 2.3 梅、柿、銀杏、栗、大豆 きじ、山鳥、はえ
池ケ洞村 36 186 13.4 0 0 23 0.6 大豆、わらび、せんまい、うど、うるい、山ごぼう、わらび粉 猪、山鳥、雉、いわな
三福寺村 108 510 737.2 830 7.7 112 1.1 ごま、荏、茶、大豆、小豆、茎立菜、西瓜、百合、梅、李、梨、栗、柿、胡桃 鴨、小鳥、鱒、はえ、うぐい、どじょう、たにし、青貝
牧ヶ洞村 109 570 319.1 0 0 0 0 筍、茸、野菜、荏 記述なし
古川町方村 775 3550 1218.5 1008 1.3 74 0.1 古川梨、蓴菜、蜜柑、きざみ昆布、胡麻、銀杏 うぐい、うなぎ、鮒、あじめ、どじょう、酒
高山町村 1672 11180 502 54 0.03 0 0 大豆、小豆、大根、蕪菁、なす、かぼちゃ、きうり、冬葱、えんどう、菜疏 酒、醤油、みそ、油
温泉宿の村 平湯村は14戸の小さな村であるがすべてが温泉宿を経営し、米、みそ、菓子などを湯治客に売り暮しをたてていた
籠渡し 鳩ヶ谷村と川の対岸萩町村との間に渡された籠渡し。白川郷の村にはこのような籠渡しが数か所設けられていた
わらび粉採り 池ヶ洞村をはじめ奥山の村では、農閑期、わらび小屋に女性たちが寝泊まりし、わらびの根を水にさらしてわらび粉を採り、高山や富山の商人に売り暮しをたてた
山畑の夜守 山中の焼畑では、猪などの害から作物を守るために夜を徹して鳴子を引き、猪笛を吹くなどして畑を守った
篠筍(ささのこ) 牧ヶ洞村では立夏の深山に生える筍を採り、高山に売り出す。これは汁物や塩漬けにして使う

3.天領高山のくらしと周辺の村々

⑧高山町村(以下高山とする)は、四方を山に囲まれながら元禄時代に高山代官所が置かれ幕府の直轄地(天領)となった。飛騨国最大の消費地でもあり、役人や商工業者が多く、高山周辺の村々に生活財の多くを依存していた。さらに、高山は各地の産物の集散地でもあり、産物の多くがここに集められて加工製造された。刊本にはない高山の産物をみると、最も多いものは、糸類である。さらに、春慶塗の会席膳、吸物膳、盆類、名産の一位の木でつくる箸、楊枝(ようじ)、下駄などのほか、わりご弁当、各種桶、傘、紙類がある。
食品としては、清酒、みそ、醤油、菜種油(灯油に使われることが多い)、荏油(えのゆ)、大根、蕪菁(かぶら)、なす、かぼちゃ、冬葱などの野菜がある。これらは、高山で消費されるほか、他国にも売り出した。高山の米生産は54石であり、1672戸、人口1万1180人からみると、きわめて少なく、周辺の村々に依存していたといえる。

⑤三福寺村は、戸当たりの米の生産量が7.7石と多く、高山に米を供給したと思われるが、それだけでなく春の茎立菜(くきたちな)を女児が摘み高山の町に売り出した。また高山を流れる宮川では、家々の娘、乳母、使用人などすべての女性が毎年10月、宮川の河原に集まり、大根や蕪菁を洗い、集まる人数が多ければその家に福があるとされた。その絵から賑やかな女たちの行事がうかがえる。ほとんどは漬物にしたと思われる。
飛騨の生活を調査した江馬三枝子は、飛騨の漬物として「酸菜漬(すなづけ)」を紹介している。10月亥の日(現在の11月)過ぎ頃に蕪などの野菜類を洗い、温かい湯にひたし、桶に詰めて塩を入れずに重石をしておくと、乳酸発酵して酸味を生じると記している。寒中には凍っているので、これを茹でて汁の実や和え物にして食するという。同様に、大根や蕪の葉の切漬はくもじと呼ばれ、朴葉(ほうば)に盛り上げて金網にのせ、みそといっしょに焼いて食べるという。また、漬物を漬ける時に重しをすると塩水が上がるが、これで芋を煮るなどに利用したという。野菜類のいろいろな漬物は、日々欠かすことのできないおかずの一つであった。

高山の北に位置する⑦古川町方村は、高山同様天領となり高山に次いで人口が多い。「古川梨」と評判となった梨の生産があり、高山に売りに出された。また、旧暦の12月22日、27日の歳暮市には、越中、高山、古川の商人が集まり、蜜柑(みかん)、刻昆布(きざみこんぶ)、魚卵、魚類などが売買された。酒の生産も高山に次ぎ高い。

以上、いくつかの村をみると日常の食事は雑穀飯に煮物と漬物など野菜類を中心としたおかずであったと思われる。人々は、雪に閉ざされる冬に備えて、春にはぜんまい、わらびなどの山菜だけでなく、よめな、ふじの花なども湯を通して干した。筆者もぜんまいを取り、茹でてから何日ももみながら干す作業を手伝ったことがある。干したぜんまいを時間をかけて戻して煮しめたものは、驚くほどおいしかった。また、食料生産に適さない地域では、伐採による労働、木製品づくり、糸、布の製造などさまざまな仕事で食料購入の道を見出していたといえよう。

木地師のくらし トチ、ブナなどを伐採し椀型をおこし、小屋で椀を作り、これを高山、古川などの仕入れ商人に売りさばきくらしを立てていた
宮川菜洗い 毎年10月、高山市中の家々の女性が宮川に集まり、大根や蕪を洗い、その人数が多いと福があるとされる風習があった(この図は、公文書館の写本では省略されている)
川舟渡し 宮川上流では、丸木を割ってつくった丸木舟で村から村に渡った

4.日常食とは大きく異なる儀礼食

高山からやや南に位置する③中呂村は、益田川に沿って平地があるために米の生産は、飛騨の中では比較的多い。中呂村の戸数は、寛政12年(1800)から明治初期までほとんど変わらず35戸ほどである。ここではこの村で代々肝煎(庄屋)を務めてきた大前家の儀礼食を取り上げたい。
大前家の江戸期の婚礼記録は、天保13、14年(1842、43)、嘉永6年(1853)、安政4年(1857)のものが残されているが食事の形はほとんど変わっていない。簡単に流れを説明すると、まず祝盃が行われ、酒を酌み交わすたびに酒の肴(酒肴)が出され、その後本膳料理が用意される。飯、汁、鱠(なます)、坪(つぼ)、猪口(ちょく)、平(ひら)、炙(あぶり)物などが出されるが、その内容は50年後もほとんど変化はない。さらに、本膳のあとに、酒宴が始まる。酒肴は吸物をはじめとし、鉢、丼、大平、硯蓋などと器の名称で呼ばれる各種の料理が用意された。
婚礼など祝いの儀礼食の中心は、なんといっても魚介類である。中呂村は海からは遠い村であったが、海魚類が数多く使われていることに驚かされる。鯛、さわら、すずき、たら、さば、いわし、いか、えびなど十余種類のほか、数の子、田作り(かたくち鰯の幼魚の乾燥品)、きんこ(干しなまこ)、蒸し貝、干しいか、ちくわ、くずし(魚介類のすり身)などの加工品が使われている。また、鴫(しぎ)、小鳥などの野鳥類、卵など動物性食品が多いことが特徴である。
いっぽう、祝いの膳の野菜類をみると、魚介類の添えとして出されることが多い。たとえば、なます(田作り、大根)、汁(たら、昆布、ねぎ)、平(くずし、ごぼう、焼豆腐)、吸物(海老、結昆布)、丼(するめ、いか、にんじん、ねぎ、ごぼう)などで、そのほか山芋、里芋、百合、しょうが、蓮根、せり、きくらげ、くりなどが使われている。なかでもごぼうは色々な料理の添えとして使われている。
これに対し、葬儀や仏事の献立では、植物性食品のみで構成される精進料理が供され、本膳料理形式で出されることが多い。たとえば、文政5年(1822)の当主の百回忌でみると、うどんの薬味としてごま、からし、梅干し、大根、ちんぴが添えられている。またご飯に汁が供されているが、汁の実は、煎り菜、椎茸とあり、続いて酒と酒肴が出されている。吸物はみそ汁で、いも、豆腐の実、硯蓋(すずりぶた)には焼きいも、しその実、なし、しめ豆腐、香茸などが使われ、丼には揚げ物、青菜、大根が盛られ、鉢には巻きすし、木の芽田楽など豆腐料理、野菜の煮物、揚げ物などが中心となっていた。植物性食品ばかりではあるが、何種類もの料理が並び、日常とは異なる食事となっている。
仏事では白米、酒、大豆、小麦粉などの購入が行われ、大豆から豆腐を大量に作っていることがうかがえる。小麦粉はうどんの材料である。そのほか、湯葉、椎茸、昆布、のり、きくらげ、くるみ、松茸なども使われた。
大前家では葬送前後に150人余りへの振舞いをおこない、翌日の斎(とき)には約50人に食事を用意し、婚礼にも60〜70人を接待しており、この村の規模からみると盛大な儀礼であった。婚礼などでの日常に食べない魚介類は、主に越中富山から高山を経て中呂村に運ばれたとみられる。多くの食料を購入する財力とそれを山間部の村に運ぶ流通経路が確立されていたということでもある。また、正月の必需品とされたぶりも越中から高山に運ばれ、その多くが信州の商人によって「飛騨鰤」と称して野麦峠を越えて信州の人々の正月用品となるなど山に囲まれた飛騨国は、案外他国とのつながりが強かったといえよう。

飛騨中呂村の法事献立(1856) うどん、茸類、ぎんなん、ごま、ゆり、ゆば、やまいもなど植物性食品で構成された献立であるが、酒の酒肴が何種類も用意されており、日常食とは大きく異なっている
今村峠 高山と越中を結ぶ最短ルート。菜の花、卯の花、桃の花でも知られ、正月の儀礼食に必要な鰤を運ぶ道でもあった。

まとめ

飛騨国の日常と儀礼食の事例を中心に野菜類とその他の食品の扱いのちがいをみてきたが、他の地域はどうであったのだろうか。筆者らが長年調査している飛騨国に近い三河国稲橋村(現愛知県豊田市稲武町)の庄屋であった古橋家も、信州と岡崎を結ぶ街道沿にあり、海からは遠く離れている。ここにも婚礼の献立が文化4年(1807)以降、江戸時代だけで20件近く残されている。そこでも海魚は多く使われ、婚礼に使用された魚介類の4割が海魚であった。鯛が最も多く、海老、なよし(ぼら)・すずき・せいご、ひらめ、ぶり、いかなどのほか、加工品として田作り、巻きするめ、かまぼこ、つみれが使われている。
いっぽう、野菜類について天保6年(1835)の例でみると、生盛(せり、大根、人参、みしま、なよし、岩茸、おご)、汁(いちょう豆腐、大根、とり貝)、坪(きくらげ、里芋、竹輪、こんにゃく、人参、こも豆腐)、猪口(うど白みそ和え)、平(ぶり、わらび、ごぼう)などとなっており、魚介類の添えもの的な存在でもあるが、なくてはならないものでもあった。そのほか、ねぎ、青菜、ふき、よめ菜、くり、百合、筍などがみられる。本膳料理形式で供されている点、儀礼食には魚介類が中心となることなどは大前家と共通で、家の最大の儀礼として多くの費用を払ってでも「ごちそう」を用意していたことがうかがえる。
また、長岡藩(現新潟県)の庄屋に残された『農家年中行事』(大平与兵衛著)(1839)の記録には、小作人への振舞いや行事と村人の様子が記されている。1月2日に「謡(うたい)ぞめ」「節饗(せちぎょう)」などとして、小作人に野菜料理と酒食を振舞い、7日の七草の朝は、大根、ごぼう、人参、昆布、するめ、里芋、こんにゃくなどを入れた雑煮を食べ、当日の仕事は休みとなる。さらに11日朝、雑煮餅を食し、「大寄合」と称して各家の主人が庄屋の家に集まり、宗門帳に書き加え一年の心得を聞き、この日も休む。また、同日は「蔵開き」「船祝い」と称し、蔵持ち、船持ちは祝い酒をだす。殿様が在城の年には長岡城本丸に庄屋、組頭が招かれ能見物をし、冷酒、赤飯、煮しめが振舞われると記しており、船を持ち商売をしていた百姓がいたことがうかがわれる。
また15日には、裕福な家の門前に貧しい人が集まり、切り餅または米と銭が与えられた。朝には小豆粥を食し、一家の主人は庄屋、役人、地主、知り合いなどにあいさつに回り、昼は食べず早めの夕食には季節の野菜料理に塩鮭か塩鱒の焼いたものを「節」といって食べるという。15から16日は、「鍋釜休み」と称して老若男女が集まってくじ引き、かるた合わせなどをするという。このように日常は質素な食事でも、さまざまな行事をたびたび行い楽しみを加えていたことがうかがえるが、野菜、芋、豆類はそうしたなかでも重要な食材であった。
また、明和年間(1764ー72)に書かれた『家業考』は、安芸国(現広島県吉田町)の地主吉川家の家業経営を記したものであるが、使用人に与えた食物が比較的具体的に書かれている。1月2日をみると、家来に雑煮(ごぼう、大根、魚少々)を振る舞い、また昼には「米の飯、つけもの」、夕飯「米の飯になます、だいこんのおかず、はまぐり、みそ汁にもはまぐり少し」とある。また、15日には、使用人を休ませ、正月と藪入(やぶいり)のため白米の土産を持たせるとある。これらの記述を通して気づくのは、野菜類の中でも大根がしばしば記録されていることである。7月には、なすび、きゅうり、11月には豆腐、油揚げ、こんにゃく、ごぼうもあるが、大根の使用はほぼ年間を通して見られる。以上のように、各地域の食生活は、地域差がみられるものの、日常食と儀礼食とは規模、内容ともに大きく異なり、婚礼など祝いの食では魚介類が主役となり野菜類はわき役となりつつも、全体でみれば、野菜類を中心とした生活が主流であったといえよう。それぞれの地域の環境に応じて、自然の恵みを利用しながら、加工、保存法を工夫し、村人の食材を増やしていっただけでなく、それを他国に売り、別の食材の購入にあてるなど村人たちのしたたかな生き方が見える。また、いっぽうで、一か月のうちにも行事を何日も設定し、日常とは異なる食事を村人が共に楽しむ機会をつくっていた様子もうかがえる。

儀礼食の膳と食器 三河国(愛知県)古橋家の五十・百年祭の膳と器(近代以降)

※『斐太後風土記』の村の絵図は、「宮川菜洗いの図」(『斐太後風土記』、雄山閣、1930年)を除きすべて独立行政法人国立公文書館所蔵です。

参考文献
  1. 1『斐太後風土記上・下』(蘆田伊人編、雄山閣、1930年)
  2. 2『山の民の民俗と文化』(芳賀登編、雄山閣、1991年)
  3. 3『日本食物史』(江原絢子・石川尚子・東四柳祥子共著、吉川弘文館、2009年)
  4. 4「婚礼献立にみる山間地域の食事形態の変遷―江戸期から大正期の家文書の分析を通して―」(増田真祐美・江原絢子著、日本調理科学会誌38巻4号、2005年所収)