研究機関誌「FOOD CULTURE No.1」しょうゆの話 醤油の歴史①

執筆:飯野亮一

醤油の歴史①

醤油は世界の調味料

日本人の食生活から醤油を取ってしまったらどうなるかと考えることがある。空気や水と同じように、あまりにも身近な存在のため、その有難さをつい忘れがちだが、我々は毎日一人約24グラムもの醤油を消費している。もう一つの代表的な調味料の味噌はその約半分の12.2グラムにすぎない(注1) 。
醤油は日本を代表する調味料であり、いまや世界の調味料となっている。醤油と日本人との付き合いは長い。しかし、その割には、その歴史をきちんとまとめたものが見受けられない。そこで、この「キッコーマン国際食文化研究センター」が創設されたのを機会に、醤油の歴史をまとめてみることにした。今回は第1回目として、日本が醤油らしき物を作りはじめた頃の様子にスポットを当ててみた。

中国における「醤」

醤油は「醤」を母体として生まれたとされている。実は、そうとも一概にはいえないのであるが、ここではまず、この「醤」とは何かを考えてみることにした。
醤の製法は中国から伝来した。中国では古くから発酵食品の醤(ショウ)がつくられ、3000年の歴史を有するといわれている。
「周礼」「醢人(かいじん)」条には、3種の動物の肉でつくる「臡(でい)」のことが見え、後漢の鄭玄(127~200)註に、「作酪及臡者 必先膊乾其肉 乃後至之 雑以梁麹及塩 漬以美酒 塗置韮中 百日則成芙」とある。つまり、「醢(かい)や臡(でい)を作るには、必ず先ずその肉を平らにのばして乾し、その後これを刻んで、梁麹と塩を雑え、美酒に漬して、カメの中に入れ泥を塗って密封して置くと、百日にして出来上がる」と、作り方が示され、臡と醢の違いは骨付きであるかないかによるとある(注2)。また「周礼」の本文には「魚醢」「七醢」の語がみえ、七醢については、鄭玄註で、肉・巻貝・ニ枚貝・アリの子・魚・兎・雁の7種の醢としている。古くは、醢とは、肉や魚介の発酵食品で、いわゆるシシビシオのことであったことがわかる。
一方、『周礼』「膳夫」条には、王の食物用として「醤用百有二十塁」とある。醤と醢の関係は、鄭玄註より少し前、1世紀末から2世紀初め頃の許慎の『説文解字』「醤、肉醤也」と、では、醸也」「醢、臨イコール醤としている。しかし、『周礼』の「菩」に関する鄭玄注では、「醤、謂醍臨也」とした後、醤百二十塁の内訳を示し、醢人(けいじん)が「醢六十甕」、醢人が「齏葅醢物六十甕」(野菜類や肉類の酢漬け60甕)を供するとしているので(注3)、古くは醤は、醢だけでなく野菜類の酢漬けなども含めた発酵食品を示すことばとして使われていた可能性がある。
いずれにせよ、鄭玄と同じ時代の崔寔の『四民月令』には、魚醤・肉醤・豆醤・清醤(注4)・楡醤(ニレの実の醤)などの醤類製造の記述が見られるので、後漢代の2世紀には、動物性と植物性の醤がつくられ、醤の種類はバラエティーに富むようになっていることがわかる。それに対し、動物性の醤だけを意味する酷の文字の方は、あまり使われなくなっていく。

『斉民要術』の醤

北魏代(6世紀)の『斉民要術』には、醸造に関する具体的な記述が見られるが、そこには、「作醤法」(醤の作り方)が収録されていて、大豆を主原料とした豆醤の製法が示されている。その他の醤類の作り方も紹介されているが、それらは「肉醤法」「魚醤法」「食経作麦醤法」などと主原料の名前を付してその製法が述べられている。従ってこの頃には、ただ醤といえば、主として「豆醤」を意味するようになっていたことがうかがえる。後から加わった植物性の製品が醤類の主役に出世したことになる。またここには、その製法については明確記述はないが、この「豆醤」から製せられたと思える液体の醤の「醤清」「豆醤清」の名が見られる。
『斉民要術』には、豆醤の作り方が詳しく載っているが、その内容を要約すると、「蒸した黒大豆と白塩(あわしお)、黄蒸(こなこうじ)、麦麹、香草とを混ぜてカメにつけこみ、十分に麹が着生したところで、黄蒸をまぜた塩水を注ぎいれ、30日まで毎日櫂(かい)で攪拌する。この後20日で食べられるようになるが、100日を過ぎないと熟成しない」
というものである。製麹後に薄粥状になるまで塩水を加えて仕込むが、30日間はカメの口を開けたままで(日乾しの状態で)攪拌し、その後熟成させている。大豆は粒状で使用していることと考え併せると、製品は水気の少ないモロミ状であったと思える。
そして、この醤から「醤清(上澄液)」もつくられたが「醤の利用は殆んど渾食(モロミごと直食)が大部分で、醤清として調味料に用いる例は甚だ少ない」状態にあったようだ(注5)。
中国では、『四民月令』の時代から醤の液体利用は行われてきたが『斉民要術』の時代にはまだその利用は限られた段階にあった。そして、醤の液体利用はその後もあまり進展せず、13世紀には醤油の名が中国に現れるが、その名が多く見られるようになるのは明代であるという(注6)。

日本における醤の製造

醤の製法は日本に伝えられ「ヒシホ」と読まれた。藤原京(694~710)出土木簡には「醤」の名が見られるから少なくともそれ以前には伝来していたといえる。
「万葉集」には、「醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふわれにな見せそ水葱の羮」の歌が入っている。醤と酢に蒜をつきこんであえたものと、鯛を食べたいと願っている私に、ナギの羮など見せてほしくない。という意味だが、ここには醤が調味料として登場している。
また「養老令」「大膳職」条には「主醤二人。掌。造雑醤鼓未醤等事」とある。醤・鼓・未醤はみな調味料と考えられ、朝廷での会食を担当する大膳職という役所で「主醤」による醤や未醤などの調味料づくりが行われていた。すでに、奈良時代には醤は、主として調味料としての役割を果たし(注7)、かなり日本人の中に定着し(注8)、市場でも売られるようになっていた(注9)。平安時代になると、この「主醤」は、大膳別院の「醤院」として独立し、醤の製造に当たることになる。需要の増加によるもので、『延喜式』には醤の使用例や支給例が非常に多く見られ、生活必需品になっている。

日本の醤は大豆製品

では、この醤の実態はどのようなものであったろうか。奈良・平安期の史料には次のようにある。

①「大膳職 大夫一人。掌。諸国調雑物。及造ニ庶膳羞一。醢。葅。醤。鼓。未醤。肴。菓。雑餅。食料。」(『養老令』)
②「醤 子匠反、以豆作之・・・・和名比之保」(『本草和名』)
③「醤 四声字苑云醤 即亮反和名比之保別有窓醤豆酷也」(『和名抄』)
④「醢 楊玄操音海是魚宍醤也」(『本草和名』)
⑤「醢 爾雅注云醢乎改反興海同和名之々比之保肉醤也。陶隠居本草注云肉醤魚醤皆呼為醢不入薬用」(『和名抄

①から、奈良時代には、大膳職で「醢」「醤」「未醤」がそれぞれ別の食品として作られていたことが、②③からは、「醤」は「ヒシホ」と読み、大豆から造られた発酵食品であることが、④⑤からは、「醢」は「シシビシホ」と読み、肉醤や魚醤のことであることがわかる。
日本では、早くから「醤」は、味噌とは別の大豆製品を指し(注10)、肉類の醢とも区別されていた(注11)。そして、この醤の製法を知る手がかりになるのは、唯一『延喜式』「大膳下」の「造雑物法」中の一文で、そこには、「供御醤料。大豆三石。米一斗五升。藁料 糯米四升三合三勺二撮。小麦。酒各一斗五升。塩一石五斗。得石五斗。用薪三百斤。但雑給料除糯米。添醤料。醤滓一石。塩三斗五升。得六斗五升。用薪六十斤。」とある。これによって、醤の原料は大豆・米麹・モチ米・小麦・酒・塩(雑給料はモチ米を除く)であることや、これらの原料の配合割合は知ることが出来るが、作り方については不明である。

醤は液体状かモロミ状か

日本の古代における醤がどんな製品であったかつかみにくい。そのためこの醤は液体状なのかモロミ状なのかについても両方の見解がある。
関根真隆氏はその著『奈良朝食生活の研究』において、『正倉院文書』の「醤四斗二升新造「以醤大豆五斗渇作汁」」に「渇作汁」とあることから、「これによって当時の醤が液体状であったことは明白である」とし、さらに前述の『延喜式』「供御醤料」のところを引用した上で、
「醸造した醤の量は各種原料の総合豆よりずっと少量であり、また添醤料によれば醤滓の名があるから、造醤の際、汁液を絞り取り、滓を残す過程が存したと考えられる。そして薪を用いたのは汁液に火を入れたのであろう(注12)」と液体説を唱えている(注13)。
平安時代、大饗などの饗宴では、料理と一緒に調味料セットが並べられている。この調味料セットは酢・塩・酒・醤の4種が一般的で、「四種」「四種器」といわれた。小さく切って盛り付けられている料理を、食べる人が自分で味付けして食べるための調味料である。この場合の醤も、酢や酒と同じく、液体状と考えた方が妥当である。

漬物用としての醤

日本では、早くから液体状の醤が造られていた可能性があるが、醤はすべて液体状であった、とは考えにくい。
長屋王家跡より出土した木簡に、「加須津毛瓜 加須津韓奈須比 四 進物 醤津毛瓜 右種物 九月十九日 醤津名我」と、粕漬けのウリ・ナス、醤漬けのウリ・ミョウガが進物にされている木簡が見つかっている(注14)。ここでは、醤は漬物用として使われている。
『延喜式』内膳司の「漬萩菜料」にも、「醤漬瓜九斗。料塩。醤。滓醤各一斗九升八合。」「醤漬冬瓜四斗。料塩八升八合。醤。滓醤。未醤各一斗六升八合。」「醤菁根三斗。料塩五升四合。滓醤二斗五升。」「醤茄 子六斗。料塩一斗二升。汁滓。味醤。滓醤各一斗八升。」
とあって、醤や滓醤が漬物用として使用され、ウリ、トウガン、カブラ、ナスの醤漬けがつくられている(注15)。この他、『延喜式』には「醤錢」「醤鮒」「醤小鰯」など魚介類の醤漬けと思える食品の名も見え、多種の醤漬物がつくられている。

醤はモロミ状でも利用

このような加工用の調味料として使われた醤や滓醤は、液体状ではなく、モロミ状であったと考えたい。ドロドロしたモロミ状のものを漉すか液を抽出すれば液体が得られる。その技術そのものはそれほど難しいことではないが、原料の利用効率は悪くなる。先の「供御醤料」の例では、原料に対して得られた液体の醤の量は3分の1にも満たない。『延喜式』「大膳」や「内膳」をみると、醤は、多種類の漬物用に利用されているばかりではなく、支給品・給食用・宴会用などに多量に使用されている。これらの醤が、すべて、手間をかけ、歩留まりの悪い液体調味料であったとは考えにくい。絞りカスを利用するにしても、味、質の問題がある(注16)。
日本の古代において、液体調味料の醤を始めからつくることを目的とした製造や、必要に応じて醤から液体を得ることは行われていたに違いない。しかし、それは醤を直接そのまま液体調味料として利用する場合などの、特定の場合に限られ、中国と同じように、醤はモロミ状の状態で利用されることが多く、液体状の醤は貴重品で、その時代はこの後もしばらく続く、と考えたい。この点については、次回でさらに煮詰めてみるつもりである。

  1. 1農林水産大臣官房調査課編『食料毎給表』(平成九年度)
  2. 2鄭玄註に「有骨為臡无骨曰醢」とある。
  3. 3「醢人」条にも「齏葅醤属」とする鄭玄註がある。
  4. 4「四民月令」(平凡社東洋文庫)の訳注には、「清醤」に関して「清醤は醤清とも称され、豆醤の上澄液のことで、いわゆる「たまり」に相当しよう」とある。『斉民要術』の「醤清」「豆醤清」に相当する。
  5. 5「校定訳註斉民要術」(熊代幸雄・西山武一訳)下「通篇譯註」及び「論孜」より引用。
  6. 6「中国の食譜」(平凡社東洋文庫)「中餞録」解題
  7. 7「延喜式」「大膳下」の「仁王経斎会供養料条」には仁王経斎会の際、僧一人当たりに支給される供養料の種類・分量・用途が示されているが、その中の一つに醤が入っていて「醤三合 生薬料三勺。薄餅料三勺。好物料四勺。茹菜料二勺。海菜料一勺。漬菜料一合二勺。汁物料二勺。羹料一勺。索餅料二勺。」とある。用途の不明なものもあるが、野菜・海藻・汁・吸い物などの調味料や漬物用として使われている。索餅料にしても、原料に醤は使われないので(「大膳下 造雑物法」)、索餅を食べるときの調味料と思える。
  8. 8『正倉院文書』には各種醤類の名前が見られ、平城京出土木簡にも備前国からの醤の貢進荷札がある。
  9. 9「正倉院文書」に「市醤」の名が見られる。平安京には、東市の店の中に醤を売る店が設けられている(「延喜式」「東西市司」)。
  10. 10先の「主醤二人」の職掌に「雑醤」とあるが「令集解」大膳職の注解では、これらは三等級の醤のことであるとし、唐の律令書『開元式』の「供奉醤」「上醤」「次醤」の原料とその配合割合を紹介しているが、いずれも豆醤である。
  11. 11日本でも、醢の文字はあまり見られなくなり、『延喜式』を見ると「釈奠」用の「鹿醢」「兎醢」「魚醢」など一部を除いては、「鯖醤」「鯛醤」「醤鰒」「醤鮒」などと醤の字が使われている。
  12. 12以上の引用文は『奈良朝食生活の研究』「第五章奈良時代の調味料 醤類」による。
  13. 13鍬方貞亮氏も『日本古代穀物史の研究』「大豆」において同様の立場を取り、添醤は近世の二番醤油によく似ている、としている。
  14. 14「平城宮発掘調査出土木簡概報(21)」
  15. 15滓醤は、カスの多少交ざった醤か、醤を作る際、酒の代わりに酒滓を用いて作られた醤ではないかとの見解があるが(『奈良朝食生活の研究』「醤類」)、この問題については次回で取り挙げたい。
  16. 16「奈良朝食生活の研究』「醤類」で、醤滓は「添醤料」へ利用されるほか、雇夫、役夫など下層者に支給される場合が多い、としている。
参考文献
  1. 1熊代幸雄・西山武一、1959、「校定訳註 斉民要術」(農林省農業総合研究所)
  2. 2渡部武訳注、1996、「四民月令」(平凡社東洋文庫)
  3. 3中村商編訳、1995、「中国の食譜」(平凡社東洋文庫)
  4. 4篠田、1976、「中国食物史」(柴田書店)
  5. 5田中静一、1986、「中国の発酵調味料」「発酵と食の文化」(ドメス出版)
  6. 6石毛直道、1985、「塩辛・魚醤油・ナレズシ」 石毛直道編 「論集 東アジアの食事文化』(平凡社)
  7. 7奈良国立文化財研究所、1975、「平城京木簡二 解説」
  8. 8奈良国立文化財研究所、1989、「平城宮発掘調査出土木簡概報(21)」
  9. 9関根真隆、1974、「奈良朝食生活の研究」(吉川弘文館)
  10. 10鍬方貞亮、1977、「日本古代穀物史の研究」(吉川弘文館)
  11. 11廣野卓、1998、「食の万葉集」(中公新書)

飯野亮
1938年東京生まれ。早稲田大学英文学専攻課程、明治大学史学地理学科卒業。食物史家。服部栄養専門学校講師(食物史担当)。食生活史懇話会世話人、食生活史研究会世話人、日本風俗史学会会員。「米は日本人の主食であったか」「蘇の実験的考察」「『多聞院日記』にみる醤油と唐味噌」など研究発表多数。