研究機関誌「FOOD CULTURE No.28」しょうゆの地域性と形成要因の調査に関連して

東京家政学院大学名誉教授 江原 絢子

しょうゆの地域性と形成要因の調査に関連して

多様な地域性

現在のしょうゆが「こいくち、うすくち、たまり、さいしこみ、しろ」に分類されていることやそれらのしょうゆの大枠の分布については知られており、九州のしょうゆは甘く、淡口しょうゆは濃口しょうゆより塩分が多い等も周知のことであろう。
しかし、このたび日本の各地域でしょうゆの歴史や製造等の実態について聞き書調査を実施し、議論を重ねてみると、しょうゆの地域性は一般に考えられているよりもっと多様で、しかも各地域のしょうゆの嗜好性の形成過程も一様ではないようだということもわかってきた。今回は、調査した地域の一部について報告されているが、地域性の形成過程についてはさらに詳細に見ていく必要があると気づかされる。
しょうゆ製造とその流通の歴史をたどると、各地に定着したしょうゆへの嗜好性の背景がわかるのではないかと予想したが、それほど単純ではなかった。製造法は、同時代でも地域による差があり、どのしょうゆがどこに伝わり、また伝わった先で製造法の改良や発展がどう変化するか等も考慮しなければならないからである。さらに、各地に残る史料は多くはなく、史料を繋ぎ合わせて推察することも必要となる。今回の報告もそうした難しさを抱えている。

江戸時代のしょうゆの地域性

山城の風土記『雍州府志』(1686年刊)では、大豆・大麦を材料に、もろみを布袋に入れて絞っている。同書には、みその汁をとるたまりも紹介しており、しょうゆに比べ「味わい甘し」と記している。大麦を材料としたしょうゆは、うま味が少なかったと想像される。これら2つは、「堺醤油」として堺の酒家で製造していると記しており、2つが並存していたと考えられる。
同時期、京都で出された『合類日用料理抄』(1689年刊)では、大豆(1斗)、大麦(1斗)と小麦(3升)を混合したしょうゆがみられる。50日して粥(白米1升・水8升)を混ぜるとしている。また、同書のたまりは、大豆と大麦に小麦を炒り粉にして混ぜ、60日程度して赤みそ、糀を入れるとある。
さらに江戸に住んだ人見必大の『本朝食鑑』(1670)では、大豆、大麦各1斗を材料として竹の簀をたてて汲みとる方法や大豆1升、大麦1斗による製法を「甘醤油」といい「甘美」であるとしている等各種しょうゆを紹介している。
いっぽう、淡口しょうゆは、寛文6年(1666)に確立されたとされるが、かなり後の龍野しょうゆの史料「醤油仕込之控」(1822)で見ると、大豆と小麦各同量に、大豆を煮た際の汁「あめ」を仕込み時に入れ、もろみを絞る前に粥や甘酒を入れる方法を紹介している。また、大坂で刊行された料理書『新撰庖丁梯』(1803)では、大豆と小麦を用い、絞る前に酒粕、あめ等を入れると甘美だが、カビが生じやすいため、米麹を入れて絞る方法を記しており、前記淡口しょうゆに類似している。
このように、同時代でもしょうゆの製造は一様ではなく、常により良いおいしさを求めて変化を続けていた様子がうかがえる。

江戸時代のしょうゆの流通

野田や銚子のしょうゆが江戸で主流となる江戸後期まで、京坂(現京阪)から運ばれる下りしょうゆが主流だった。キッコーマン国際食文化研究センターでは、『萬金産業袋』(1732年刊)のしょうゆ製造を復元し、下りしょうゆに近いしょうゆの特徴を検証した(「淡口しょうゆの誕生と近畿のしょうゆ」FOOD CULTURE No.11,2005)。その結果、澄んだタイプの下りしょうゆは、熟成期間が短く、色がうすく深みとコクも少なく、江戸人の要望に応えられなかったと推察している。
同書には、堺のしょうゆは、風味が良く多くは売用で、備前、大坂(現大阪)のものは、良質のたまりしょうゆ、名古屋、信州植田(上田)も、「江戸へいづる売用しょうゆ」とあり、同じ時期の龍野でも江戸へのしょうゆ出荷を示す史料が残されており(長谷川彰:「兵庫史学」1980)、下りしょうゆも一様ではなかったのかもしれない。
幕末の『経済要録』(1859年刊)になると、近来、関東の造家も皆良いしょうゆを出すと説明し、関東の地廻りしょうゆが主流となって行く様子を伝えている。天保13年(1842)の「物価書上」では、1両あたり下り極上しょうゆ4樽8分、地廻り上しょうゆ5樽2分、中しょうゆ7樽、下しょうゆ13樽とあり、地廻りが安価で、濃口しょうゆが江戸に広まっていく様子がうかがえる。

近代におけるしょうゆの呼称の定着と用途

「うすくち」の表現は、『日本家事調理法』(1904)が初出とある(「淡口しょうゆの誕生と近畿のしょうゆ」FOOD CULTURE No.28)。それ以前は、「色薄き醤油」「うすしょうゆ」の表現も使われ、江戸時代の料理書にも「淡(うす)」、「薄(うす)」、「稀(うす)」等の表記があり、揚げ鯛を「淡醤油」で煮る等の料理が紹介されている。
『簡易速成和洋料理法』(1909)では、しょうゆの種類は、「たまり、色無ししょうゆ、普通のしょうゆ」の3種だけとし、たまりはどろりとして甘く非常にうまく、刺身や掛しょうゆによく、色無しは色のつかないような煮物をする場合やなますに用いるとある。
これからみると、たまりは甘い味に、淡口しょうゆは色の淡さに特徴があり、それ以外を普通のしょうゆと分類し、濃口しょうゆは普通のしょうゆと認識されていたのではないかとも考えられる。

地域しょうゆの嗜好性の変化
自家製しょうゆから購入しょうゆへ

本文のなかでもふれている(「北陸のしょうゆ」内、「自家醸造のしょうゆ」FOOD CULTURE No.11,2005)大正から昭和初期の聞き書資料で福井県の自家製しょうゆの例を見ると、多くが自家製という坂井町では、大豆(2斗)小麦(1斗)にしょうゆ屋から購入したしょうゆ用種麹を混ぜ、1年後木綿袋で絞り、火入れ後ザラメを加えて一番搾りとする。これは刺身やおひたしに使うという。越前海岸では、大豆(1斗)と大麦(2斗)に購入したしょうゆ麹を加えて作る。10日ほどで絞るようで、岩のりを入れた吸物は「醤油で薄口に味付けし」とあり、色は淡かったようだ。若狭の中山間部では、大豆(1斗)と小麦(1斗)に「醤油種麹」を加えて仕込む。5、6カ月でとる一番しょうゆは、色がうすく、大変おいしいが、よほどの時でない限り使わないという。同じ福井県でも材料の比率や製造期間が異なるため、その色・味も違ったといえよう。
また、富山では、しょうゆはぜいたく品とされ、報恩講の料理等に使うため購入する程度とする地域がある一方で、大豆、米糀、小麦でつくる自家製しょうゆは毎日欠かせないとする氷見灘浦海岸の例もある。これらから、自家製しょうゆが地域の嗜好性に与えた影響も考える必要があろう。
1941年の全国の村々での食生活調査により、しょうゆを主に自家製にしているか、購入しているかをみると(表1)、自家製しょうゆを製造している地域が東日本に比較的多くみられる。岡山県では、以前は自家製だったが次第に購入するよう変化し、再び自家製になったとある。岐阜・島根県では、昭和初期に県が補助金を出して自家製しょうゆを奨励したとあり、同様のことは福井県(「北陸のしょうゆ」FOOD CULTURE No.11,2005))にもみられる。しょうゆが切符配給制になるのは1942年のこと。各種自家製しょうゆが、この時期増加したとも考えられ、嗜好形成にも影響を与えたといえよう。近代では、しょうゆはぜいたく品で客用やハレ食に使うという地域も多く、日常では、みそ造りの際、大豆の煮汁を多く入れてみそとともにたまりを利用していた暮らしもうかがえる。
近代以降、しょうゆ製造技術を科学的に研究する動きが盛んになり、製麹に関する研究の向上とともに、製麹、原料処理、仕込み、火入れ、圧搾等の設備改良が進み、品質が向上・安定することで、しょうゆを比較的安価に入手することが可能となり、次第に自家製しょうゆは購入しょうゆへと移行していったと思われる。
全国的に購入しょうゆが一般化し、日常に利用されるのは、第二次世界大戦後、社会が安定する1950年以降のことと思われる。そこから各地域の新たなしょうゆへの嗜好性が加味され、現在に継承されていくと考えられるので、引き続き調査を続けたい。

表1 しょうゆの地域性(1941年秋~42年春調査)
地方 主に自家製しょうゆ 主に購入しょうゆ
東北・北海道・関東・中部 北海道、岩手①、宮城②、山形①、山形②、秋田、東京、新潟①、新潟②、富山、山梨、長野①、長野②、長野③、長野④、長野⑤、静岡、愛知①、愛知⑤ 岩手②、宮城①、福島、群馬、岐阜①、岐阜②、愛知②、愛知③、愛知④
近畿・中国・四国・九州・沖縄 京都①、京都②、奈良②、島根①、岡山①、岡山②、岡山③、徳島、長崎② 滋賀、奈良①、奈良③、鳥取、島根②、香川、長崎①、熊本、沖縄
大日本物産図会 下総国醤油製造之図 明治10年(1877)東京家政学院大学図書館