研究機関誌「FOOD CULTURE No.28」北陸のしょうゆ造り−江戸時代から昭和にかけて−

フードコーディネーター、調理文化研究家 福留 奈美

北陸のしょうゆ造り−江戸時代から昭和にかけて−

北陸三県のしょうゆ造りを時代ごとにみていく。古い時代で注目すべきは、江戸時代における加賀前田家の御膝元で栄えた金沢・大野醤油の歴史と、越前松平家による福井のしょうゆの発展である。明治時代になるとしょうゆ造りの近代化が進み、全国的にしょうゆの生産量は増加傾向にある中で、しょうゆ醸造業者の数は日露戦争直後の明治40年頃をピークに減少し始める(図1、2)。大正から昭和にかけて自家醸造しょうゆの普及が一時的に進み、北陸でも農山村におけるしょうゆの自家醸造が一般化した。しょうゆ醸造業者は生き残りをかけて、味と品質の向上に凌ぎを削った。
「九州と北陸のしょうゆは甘い」「海沿いのしょうゆは甘い」とよくいわれるが、どうしてだろうか。大正期から昭和にかけてのしょうゆ醸造技術書には甘味料の割合に関する記述がみられ、この頃、甘味づけをして塩角をとった口当たりのよいしょうゆが各地で造られていたことが考えられる。また戦後、富山の港町から移出されたしょうゆは特に甘さが強調された甘口タイプで、「北陸のしょうゆは甘い」といわれるきっかけになったことが考えられる。時代ごとに、北陸のしょうゆが果たした役割とその歴史をたどってみる。

図1 しょうゆ醸造家軒数の変化(左) 図2 醸造石数の変化(右)

<図1,2は天野雅敏(1987)「幕末・明治期における醤油醸造業の展開に関する一考察」『和歌山地方史の研究』安藤精一先生退官記念会、pp.432-433をもとに作成>


金沢・大野醤油 -藩政期のしょうゆ醸造業のはじまり-

北陸のしょうゆといえば金沢市大野町で造られる大野醤油が知られるところである。元和年間(1615~1623)に直江屋伊兵衛が加賀藩主の命により紀州湯浅で技術習得したといい伝えられているが、銚子・野田との諸説もあり確固たる資料はない。弘化(1844~1847)、嘉永(1848~1853)の頃、大野醤油は最大で醸造業者60軒、年間数万石を製造し、安政3年(1856)には江戸の金沢藩邸に正式にしょうゆを納める事が決まり、様々な文書がやりとりされているという※1)。記録から見る限り、大野のしょうゆ醸造業が確立したのは主には19世紀に入ってからと考えられ、江戸後期のしょうゆ産地として全国に知られるところとなった。ちなみに同時代、他の産地としてはたまりしょうゆ(尾張・美濃)、濃口しょうゆ(銚子・野田・小豆島)、淡口しょうゆ(播州龍野)があった。
なぜ大野醤油が栄えたのか。自然的条件としては、大野近辺から能登にかけて小麦の作付けが盛んで、水田の畔には大豆を大量に植えていた他、北海道、新潟から大野港に運ばれる海運を利用して大豆が調達できた。湧水が至るところにあり、食塩は加賀前田家の領地である能登産の貯蔵品が出回り入手しやすかった。経済圏としては、何より尾山城下(現、金沢城下)の一大消費地を抱えていたことが大きい。藩政地域内での消費に加えて他地方への移出も積極的になされ、遠く北海道までも運んでいた。
人的条件としては、能登からの労働力の移入があったことと、江戸後期、隣接する宮腰町(現、金石町)との外港争奪戦に負け大野港の外交機能が衰微した後は、船主や船頭がしょうゆ醸造に多く参入したことがあげられる。これは、明治期の鉄道開通により、海運業に携っていた者が醸造業に転入したことにも通じる話で、時代の情勢からしょうゆ醸造業に他の生業から転じたという話は各地で聞くことである。 
大野醤油の場合、昭和40年時点での調べでは※1)、全36業者のうち、かつて廻船問屋やその雇用人から転業したのは4軒、帆船(船主)やその船人から7軒、男衆から11軒で、創立年月は文正、宝暦に2軒、明治期に11軒、大正期に18軒となっている。転業し参入する人が多かったのは、その時代の気運として“儲かる匂い”がしたのであろう。
幕末の石川県では、大野に隣接する他地域でもかなりのしょうゆ醸造業者が頭角をあらわし生産石数を伸ばしており、特に大野の北に位置する栗崎のしょうゆ醸造業の存在は大きくなっていた。幕末から明治にかけて、大野醤油は藩の保護を失い、廃藩置県の統廃合としょうゆ税制の流動的な施行・撤廃の繰返しにより翻弄される。明治期から大正期にかけては、全国的にも新しいしょうゆ醸造業者が生まれるとともに廃業する業者も多い、参入と淘汰が繰り返される時代であった。
よく北陸のしょうゆは甘いといわれるが、はたして大野醤油は甘かったのであろうか。『大野町史』※2)の中に、幕末の史料中に砂糖を用いたことを示すものが記されている。「白下砂糖例年之値段とハ莫大之高値弐三斤弐匁七分八厘迄取〆候へとも、迚も醤油味合二持申義算当二不及哉と居合衆一統被申候事二御座候」(大野町今井勝嘉所蔵)を引用し、「醤油味合」に砂糖が使われていたことは明らかだとある。一方、同じ『大野町史』に記されている米麹を諸味に加える古い製法を参考にして、大野醤油醸造協業組合が共同で復刻させた天然醸造の「大野紫」についていえば、色は濃く、決して甘い味とはいえない。発酵技術面から考察しても、諸味中で米麹は分解され「甘い」と感じるほどの甘味は残らなかったと考えられる。江戸後期には国産の砂糖製造が始まっていたとはいえ、砂糖は貴重であった。防腐のために食塩が18%近く入っていた当時のしょうゆに砂糖を加える目的は、甘くするというよりも塩角をとってまろやかな口当たりにするという意味での“甘い”しょうゆだったのではないかと考えられる。

※1)吉本政昭(2007)『大野醤油の歴史』p.8
※2)『金沢市大野町史』(大野町今井勝嘉所蔵)pp.147-151

福井のしょうゆ -藩政期のしょうゆ醸造業の発展-

日本最古のしょうゆ蔵といわれる醸造元が福井市にある。創業者の室屋儀右衛門は、天生元年(1573)に酒・しょうゆ・味噌・糀業を始め、4代目室屋次左衛門が1689年、しょうゆ業で独立・開業した。開業前には、この頃既に確立されていたとされる「濃口しょうゆ」の醸造法を紀州湯浅に学びに行き、その製法により安く効率よく造ることができるようになったため、一般庶民もしょうゆを使うことができるようになったと伝えられている。
江戸時代、越前福井藩の城下町にある室屋次左衛門の広い敷地内には醸造蔵が立ち並び、桶樽職人をはじめとする多くの職人を抱えてしょうゆ造りが営まれた。ここに丁稚で入った職人がのれん分けして、福井県の各地でしょうゆ造りを広めたとされる。江戸時代のしょうゆ1升は酒よりも高かったというから、その技術を持ち帰り故郷でしょうゆ醸造業を創業することは、誉れ高き時代の最先端のことだっただろう。
4代目室屋次左衛門の弟、惣右衛門は三国(みくに)に分家し、息子の2代目惣右衛門が廻船業を始め豪商として知られる内田家となる。江戸時代には、三都(江戸、京都、大坂)をはじめ全国各地の城下町や港町に多くの豪商が生まれた。福井藩と関わりの深い豪商として、福井城下の金屋家・駒屋家、外港三国湊の内田家・三国家、藩領外では木屋家・鴻池家・矢嶋家があげられる※3)。幕末、松平春嶽公の命を受けた由利公正は、安政五年(1858)に長崎に赴き、土地を購入して越前蔵屋敷を建て、出島に出入りするオランダ商館と生糸・しょうゆ等の販売を特約して官貿易のきっかけをつくった。北前船の貿易で巨万の富を築いた豪商たちがこの一大ビジネスに加担したことは明らかであり、内田家もまたしょうゆの輸出に大きく関わったという。当時内田家が扱ったしょうゆのブランドに「幾久志やうゆ」・「菊醤油」がある。明治5年、岩倉具視、由利公正らの使節団がオランダで菊醤油を確認したともいわれている。

「菊醤油」の看板(みくに龍翔館所蔵)(写真提供:室次醤油)

※3)企画展『福井藩と豪商-時代を彩った豪商たち』福井市立郷土歴史博物館(2006)

福井は、敦賀以南の若狭等を含む嶺南と北部の嶺北の二つの文化圏に分かれる。嶺南は関西文化圏に近く、ことばさえも京都に近いといわれる。一方、嶺北は内陸部の越前大野市を含み、北は加賀に続く前田藩の領土に隣接する。嶺南は敦賀湊、嶺北は三国湊という二大港を有し、北前船の寄港地として重要な役割を担った。特に三国湊は、内陸部につながる九頭竜川の本流とその支流につながる河口であり、海運と陸路に続く川をつなぐ嶺北の物流拠点であった。三国湊から移入された物資は、九頭竜川の水路を利用して福井市、宿布あたりまで運ばれ陸路で搬送された。
北陸の小京都と呼ばれる越前大野市の城下町は、奥深く内陸に入った所にある。冬は豪雪地帯となる場所で湧水の宝庫である。弱軟水の豊かな水源に支えられ、大野藩の城下町ということもあり醸造業が盛んな土地柄であった。今でも街中に5軒のしょうゆ蔵の他、酒蔵、酢の醸造元がある。天然醸造しょうゆを造り続けている二軒の内一軒は、しょうゆ醸造業としては明治はじめの創業で、江戸時代は桶屋をしていた。城下町の旦那衆として桶屋は商売になるよい家業だったらしいが、しょうゆの方が儲かる時代になって転業したという。
幕末、越前大野藩は武士経営の産物会所の出張店として「大野屋」を出店しはじめる。安政年間に大坂に初めて開店したのを皮切りに函館や関東にも支店を持ち、最盛期には30店余りに増加したという※4)。安政4年(1858)に完成した藩所有の廻船「大野丸」は、三国湊、敦賀湊をまわり金銀銅や味噌・しょうゆ等を積み込み、北海道との交易でニシン・昆布等を仕入れて大きな利潤を生みだした。明治4年の廃藩後も繁昌し、藩の借金返済に大いに貢献したという。特に函館の大野屋は、藩の物産に限らず砂糖・食塩・織物等関西からの物産と昆布・干魚等の蝦夷の海産物との交易所として巨利を収めたといわれる。
現代、アンテナショップをはじめとする地方の物産館や物産展は大変な人気である。江戸の時代も同様に人々は 地方の名物話で盛り上がったというが、福井のしょうゆは関東の濃口しょうゆとどれほどの違いがあっただろうか。江戸時代後半には、同じ湯浅醤油の流れをくむといわれるしょうゆ産地が千葉、小豆島にもあった。気候風土、水や製法の違いによって地域特性の違いはどれほどのものだったのか。今では想像するしかないのだが興味深い。
越前大野でしょうゆ味の料理の味付けについて聞いてみた。煮物はやや甘めで、しょうゆ色が淡いものも、濃い色の料理も両方がある。越前大野は里芋の産地で、甘辛く煮た煮っころがしが濃い部類に入る料理の代表格である。しょうゆとだしが表面にしっかりとしみ込んだ里芋は、ごはんのおかずとしても酒のアテにしてもたくさん食べられる、程よい濃さである。しょうゆがあってよかったと思う懐かしい味がした。
今は全県あげての名物として売り出している「越前そば」は、もともとは武生が発祥の地とされる。冷たい太めのそばにしょうゆ味のだし汁を“ぶっかけスタイル”にして、大根おろしと花かつお、青ネギを混ぜて食べる。つゆの色は明るく、それほど濃くはない。しょうゆが強い関東のつゆに比べ、しょうゆは主張しすぎない名わき役の感がある。

里芋の煮っころがし
越前おろしそば

※4)坂田玉子(1977)『藩店「大野屋」の研究』


しょうゆの変遷 −「醬」から澄んだしょうゆができるまで−

しょうゆの起源とされる醬(ひしお)から現代のように澄んだしょうゆができるまでの変遷をたどってみる。現在の濃口しょうゆは、江戸後期に銚子・野田で大量生産・大量流通されるようになり浸透したことが知られる。「効率よく大量に」造るように、時代によってしょうゆの形態が大きく変化し刷新されてきた。
その変化は、まず、平安時代に唐から伝わった醬(ひしお)や未醬(味噌の前身)から豆油(たまり)や豉汁(くきしる)といった液体をとることから始まった。次の変化は、味噌にたまった液体をとる「味噌溜り」。続いて、液体をとることに主眼をおいた「たまりしょうゆ」の誕生である。
しょうゆの起源は、湯浅名物金山寺味噌だとよくいわれる。これは、今から750年以上前、由良興国寺の開山法燈国師が留学先の中国から経山寺味噌の製法を持ち帰り金山寺味噌が作られ始め、その味噌桶の底にたまった液体が煮物に適していることからしょうゆができたという話である。金山寺味噌には茄子、胡瓜、生姜等の夏野菜が入るため液体も出やすかったことだろう。味噌桶にたまった液体なので、味噌溜りの段階である。この他、味噌からとるしょうゆ様の調味料としては、みそを溶いて上澄みをこしとった「すまし、垂れ味噌」の部類が、古くからの郷土料理や家庭料理の中にみられる。以上のように、味噌の副産物として液体をとるのに対し、液体をとることを主目的とした「たまりしょうゆ」を造る技術は、尾張・美濃のたまりしょうゆ文化圏で発達し定着したとされる。
次にしょうゆの形態を大きく変えたのは、室町末期から江戸時代はじめにかけて広まった、大豆と小麦を混合して造るしょうゆ麹と多量の食塩水を用いる濃口しょうゆの製法である。水分の多い諸味を仕込むことで効率よく液体を得られるようになった。この濃口しょうゆもはじめは、木桶に仕込んだ諸味に簀(竹かご)を沈め、浸み出した液体を汲み出して搾る簡素な方法であったと考えられる。できたしょうゆは少し濁っていて品質的にも安定しないものだったのではないだろうか。江戸初期から中期にかけて珍重された下りしょうゆには、堺溜と呼ばれる大坂からのたまりしょうゆと、龍野、小豆島、湯浅辺りで造られた淡口しょうゆ、濃口しょうゆが混在していたと考えられる。下りしょうゆが上質であるのに対し、関東の地回りしょうゆは品質的に劣っていたというのは、この搾りの工程と濁りをとる製法の違いによるのではないかと思う。
しょうゆの近代工業化の歴史を技術面から解説した書※5)によると、T.N(全窒素量)が3.0%に近い伝統的なたまりは昔から火入れをしないことが原則だったが、T.Nが半分近い濃口しょうゆでは適切な温度と時間で火入れすることで香味、色沢、透明度、防黴性等すべての点で品質が良くなることがわかっているという。ただ、火入れの温度や方法は地域や時代によっても違いがあり、品質向上のための試行錯誤は、江戸時代から昭和の技術革新が進む時代まで、ずっと繰り返されてきたことだと考えられる。
古くから紀州湯浅に伝わる製法に、大桶(おおこが)で諸味を仕込み、簀を沈めて汲み出した液体を木桶で寝かし、その後火入れをしてからさらに寝かして清澄させ、澄んだ深い色のしょうゆを造るという方法がある※6)。「遠くまで運んでも劣化しないおいしい濃口しょうゆを造る技術は湯浅ではじまった」と現地のヒアリングで聞いたのも、4代目室屋次左衛門が持ち帰ったという湯浅の醸造法も、火入れの技術を含めたしょうゆ造りの技法を指しているものと考えられる。
1700年頃には湯浅の隣村である広村出身の浜口儀兵衛が銚子において、また湯浅でも久保家等がしょうゆ醸造業を始めて頭角をあらわしていく。今でも伝統的な製法を守る湯浅や御坊にあるしょうゆ醸造元は、赤松等をくべて鉄の三州釜で直火炊きにする火入れ法がとられている。明治後期の記録によると、千葉でも直火法が一般的であったが、野田では上等のしょうゆについては大釜に湯を沸かししょうゆの入った小釜を入れる湯煎法がとられていたとある※7)。地域によって違いはあるとしても、このように火入れをして清澄させる技術が確立されたことで、濃口しょうゆの工業的な大量生産の基礎ができあがったと考えられる。

※5)横塚保(2004)『日本の醤油 その源流と近代化の研究』ライフリサーチプレス、pp.138-149
※6)テレビ和歌山編(1976)『紀州路をゆく』帯伊書店、pp.146-148
※7)小栗朋之(2010)「醤油製造技術の系統化調査」醤油の研究と技術、36(5)、pp.301-316

三州釜で直火炊きして火入れする(三ツ星醤油、御坊)

大野醤油を取り巻く状況 -明治期から大正にかけて-

次に、明治期以降の大野醤油の変遷をみていく。まず、明治4年の免許税と醸造税の設置により、当時30戸あった大野醤油のしょうゆ醸造業者が明治10年には10戸にまで減少し、危機的状況になる。『大野町史』によると、この時期、品質を落とした多売が評判をさらに低下させたとある。廻船業等他の業種との兼業者が多かったため、しょうゆ醸造を休止して乗り切った者も多い。そして1900年代に入るとしょうゆ業者戸数が増加する。これは、鉄道網の整備により、廻船業者がしょうゆ業に転入したためである。こうした交通網の変化は、雇用だけでなく流通面でも、しょうゆ醸造業に大きな影響を与えた。
大野醤油を取り巻く交通機関の発達は大きく3段階ある。一つ目は1884年、大野新道の開通により、それまで天秤棒の前後に2斗樽をかついで運んでいたのが荷車の使用が可能になったことである。大正末期には自転車、リヤカーが導入され、一部オート三輪による輸送も始まった。二つ目は1923年、金石電気鉄道(通称金石電車)が金石~大野港間で延伸開業したことで、大野町から直接、大野港~金石駅~金沢駅を経由して国鉄で東北・北陸方面への輸送ができるようになったことである。金沢までは、主に女性の担ぎ手が金石電車で運んでいたという。この時代、直接金沢に配達する「地回り品」と遠隔地向けがあり、後者のうち能登・北陸近県の近場へは中小醸造元が、東北・北海道へは大手醸造元が出荷先を開拓し、販路のすみわけができていた。一方、三つ目の段階にあげられる自動車による輸送については、自動車そのものは昭和初期にも普及していたが、道路事情が悪く本格的になったのは第二次世界大戦後である。
販売面では大野醤油を取り扱う「醤油請売商」の役割が大きい。醤油請売商とは、しょうゆ醸造元に奉公に入った者が販売を請け負い、地回りの小売と遠隔地への問屋機能の両方を担ったものである。大野の醤油請売商の力が強く、金沢にはしょうゆの問屋がなかったという。醤油請売商は醸造元の予備軍的存在でもあり、資本を投入して醸造業に参入する会社もあった。戦前から大野町では、しょうゆ醸造の危機的状況を乗り越えるため、また醤油請売商と醸造元が協力する人間関係から組合的なつながりが強かった。その関係性の強さが、戦後、協業化が進む中で大野醤油が組合を通して発展していく素地となったと考えられている。

中小醸造元を取り巻く厳しい状況 -大正期から昭和にかけて-

一方、その頃の福井、富山のしょうゆ業界はどのような様相を呈していただろうか。
明治後期から昭和初期にかけて、全国の中小のしょうゆ醸造元にとって厳しい時代背景があった。しょうゆの醸造技術は、明治中期までは江戸時代の古くからの方法を踏襲していたが、明治中期以降、醸造技術の近代化が急速に進んだ。また鉄道の開通による交通網の整備が進み、大手しょうゆ醸造元の安定した品質のしょうゆが出回ることになった。合わせて、醤油税の賦課が中小企業を苦しめた。
醤油税の変遷を表1に示す。江戸時代よりしょうゆ醸造に対しては、酒同様に冥加金(営業免許税)がかけられていた。明治政府は醤油税として、明治4年に免許税と醸造税を課税するが明治8年に一旦廃止。軍備予算の増大を背景に明治18年に復活し、税率を変えながら大正15年まで続く。そして昭和に入り醤油税が廃止されても中小企業の経営は安定しなかった。
福井県では、大正15年醤油税廃税当時の醸造石数は約2万5千石(450万ℓ)弱であったが、10年後の昭和9年には1万3千石(約230万ℓ)弱に減産している(図3)。その背景には、毎年数軒の醸造元が廃業し平均製造量も微減する中で、自家醸造のしょうゆ造りが増加したといわれる※8)。都市域や町をターゲットに県外の野田・銚子方面からと、石川県、滋賀県からも移入しょうゆがあり、醸造元の製造、自家醸造、移入品の石数が拮抗するような時代であった。
富山県においては、昭和10年に富山県醤油醸造組合総合会が設立される。県下各地から15名の代表が集まり組合設立について協議し、同じく原料高騰による値上げの件や自家用しょうゆ醸造に対する件について話し合われた。この頃、地方に点在する中小醸造元が、いかに原料高騰と自家醸造の脅威にさらされていたかが窺い知れる。

※8)町田誠宏(1936)『日本酒類醤油大鑑』醸界新聞社、pp.240-265

表1 醤油税の変遷
明治4年 清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則(免許税と醸造税の課税)
明治9年 醤油税廃止(醤油は日用必需品のため)
明治18年 醤油税則発布(軍備拡張のための財源として醤油税を復活)
 営業税(製造場1カ所につき年5円)
 製成醤油税(製造商1石につき年1円)
 自家醸造(営業人以外で、年1斗5升を超えないもの)は無税
明治21年 製成量を基準とするのは煩雑だったことから、製成醤油税を諸味課税に変更
 造石税(諸味1石につき年1円)
 自家醸造の定義の変更(売り渡し不可に。石高の上限規制は撤廃)
明治32年 日露戦争への準備のため増税
 造石税(諸味1石につき2円) ※明治30年頃の初任給が8〜9円の時代
自家醸造への軽減課税
 諸味仕込高または溜製成高1石以下は免許を受けなくてよい
 造石税1石2円のところ、自家用のみ製造する者は半額の1円とする
明治33年 自家用醤油税法施行
 年5石以下を製造するものは免許を受けた上で以下の税率を課す。
 製造量 (年率)
 1石未満(金50銭)  2石未満(金 1円)  3石未満(金 2円)
 4石未満(金 3円)   5石以下(金 4円)
明治37年 日ロ戦争開戦に伴い増税
 造石税(2円50銭に)
明治39年 日露終戦後、減税
 造石税(1円75銭に)
大正15年 醤油税廃止(日常必需品への課税は廃止すべきであるとの理由から)

1)永木暁三郎(1921)『實地醤油製成法』今野商店出版部
2)岡村秀太郎(1916)『京都醤油史蹟』小田金壽堂
3)国税庁HP税務大学校「調味料への課税 -生活必需品の課税をめぐって-」
 http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/quiz/1112/index.htm(2018年3月10日)
 1-3)をもとに作表

図3 昭和初期における北陸3県のタイプ別しょうゆ消費割合
<図3は※8)をもとに作成>

自家醸造のしょうゆ

自家醸造のしょうゆについては、昭和30~40年代まで造っていたという話を各地で聞いた。特に農山村では、味噌同様にしょうゆを昭和50年代まで造っていたところもある。大正から昭和初期の食生活を記録した『日本の食生活全集』には、各地のしょうゆ造りの記録が収められている。どこでも同じような造り方で、ムシロで被ってコウジカビをはやしたしょうゆ麹と食塩水を桶に仕込み、1年たったころに縦長の細長い簀(竹かご)をさしこみ、浸みだしてきた液体をすくう。それを布袋で搾った一番搾りのしょうゆは貴重で、普段使いのものは搾りかすに食塩水を仕込んでもう一度搾った二番しょうゆや、三番しょうゆまで造ったという記録もある。大豆がとれる秋に仕込み、便所の前に置いて行く度にかき混ぜてカビが生えない様に発酵させ、夏になる頃に搾る。しょうゆ屋が巡回して道具一式を持ち込んで搾ってくれたという話もある。しょうゆは麹造りも諸味の世話も手間がかかって難しいので、段々と買うようになってきたという記述も見られる。  
明治時代より農村での自家醸造は行われていたが、大正15年、日常の必需品への課税廃止という理由で醤油税は廃止され、農村では昭和恐慌後の深刻な農村不況の対策で実施した「農山漁村経済厚生運動」により、組合が中心となって自家醸造のしょうゆ造りが積極的に推進された。このことが、全国的に同じような自家醸造法が広まった原因のひとつだと考えられる。不況から脱する昭和6、7年を境に大豆・小麦価格は上昇し始め、自家醸造でも中小のしょうゆ醸造元でも原料高騰に困窮するようになる。市場には、粗悪品が出回った時期でもあった。そして、戦時体制化が進む中で統制が行われ、農山村では細々と自家醸造のしょうゆを造っていたが、戦時下では配給に頼るようになる。戦後、物資が出回るようになり自家醸造しょうゆが復活し、高度経済成長期に湧く中でも、農村地域ではしばらくその習慣が続いたものと考えられる。
『食生活全集』を見ると、地域によって原料と配合に違いがあるのも面白い。多くは、大豆と小麦をほぼ同量使う濃口タイプであるが、淡路では小麦を多めの6割にして1年熟成させず梅雨のころに搾ることで澄んだ色の淡口しょうゆを造る。また大麦の産地である愛媛では大麦・裸麦を6割以上にして大豆と合わせ、高知や丹後海岸では大豆の代わりに空豆を使い小麦主体で造る地域がある。奥出雲では搾る1週間程前にもち米をやわらかくかゆのように煮た「すまし」を加えるという。三重県紀伊山間の例では、大豆は全く使わずに押し麦や挽き割りにした大麦・裸麦に丸麦の小麦を合わせて造る色がとてもうすいしょうゆ様の調味料で、煮もの等によく合うとある。これは、今でいう白しょうゆに近いものだったのかもしれない。

図4 桶の大きさに合わせてつくられたかき混ぜ棒
図5 しょうゆの諸味に簀を沈めた桶
※桶は6斗(108ℓ)から1石(180ℓ)くらいの大きさで、竹の箍(たが)3本で締められている。
図6 しょうゆの搾り方
※木綿袋に入れて醤油箱に並べ重石をかけて搾ると「生揚げ」ができる。それを沸かして火入れして甕に入れて保管した。
※桶に沈める竹かごは、一般的に「醤油かご」、「簀(す)」と呼ばれるが、愛媛では「すたて」、高知や岡山では「つと」、沖 縄で は「すたでーぬふぁー」と呼び名が違う。

参考文献
1)林玲子(1990)『醤油醸造業史の研究』p.396、pp.430-459
2)吉本政昭(2007)『大野醤油の歴史』pp.40-41
図4-6は、福井県農林水産部総合農政課編(1984)『むらのくらし』福井県生活改善実行グループ連絡研究会を参考に作図


北海道と北陸をつなぐ海運 −昆布としょうゆの接点−

昭和になって鉄道や自動車による交通網が整備される前は、物資や人の移送は海運・水運に頼るところが大きかった。しょうゆや酒の醸造元は、原料と製品の移出入がしやすい海沿いや川つたいに立地しているところが多い。北陸のしょうゆの移出に関連して、江戸時代の北前船と明治以降の出稼者の移動という視点で北陸と北海道との海運を見てみる。

(1)北前船による物資の移送 −江戸中期~明治にかけて-
室町時代から部分的に海運はなされていたが、1672年河村瑞賢による蝦夷-大阪航路の開拓によって、函館から日本海側を廻り福岡から大阪、紀伊半島を江戸に抜ける西廻り航路が確立した。北前船と呼ばれる廻船が、函館からは昆布・ニシン等を、日本海側の港町からは米・しょうゆ等を積み込み各地に運んだ。同じころ、函館から太平洋側を宮城、江戸に寄りながら抜けていく東廻り航路も開拓されたが、江戸中期頃までは安全面でも困難が多く、それに見合うだけの利益を得られなかったため、西廻り航路ほどは栄えなかった。しょうゆについても下りものが珍重された時代であった。
昆布ロードと呼ばれる航路を示す(図7)。三津七湊と呼ばれる大きな寄港地の他にも、特に新潟、北陸に集中してたくさんの寄港地があった。昆布は福井・敦賀で荷下ろしされる他、長崎経由や、幕末にかけては薩摩藩の密貿易によって大阪・鹿児島・琉球経由で中国に運ばれたという。中国では漢方の生薬が積み込まれ、薩摩藩と富山藩のつながりから「越中富山の薬売り」の薬の原料として供給された話も知られている。

図7 北前船の寄港地および「昆布ロード」

(1)北陸・新潟からの出稼ぎ・移住者の移動 -明治から昭和にかけて-
昆布の産地といえば北海道であるが、場所によって採れる昆布の種類は異なる(図8)。函館は北前船の拠点となり、明治初頭には根室・函館間の航路も開発され、早くから真昆布や日高昆布の取引がなされていたと考えられる。富山県は江戸時代から北前船を介して北海道との交易があり、生地(いくじ)地区からは蝦夷地への出漁があった。明治時代に入ると、北洋漁業の出稼者が北陸・新潟から数多く北海道に渡ったが、特に「越中衆、生地衆」と呼ばれる富山(生地は黒部市の港町)からの出稼者も多かった。利尻島、礼文島に移り住んで北洋漁業や昆布漁で財を成した富山出身者が中心となり、未開拓だった道東の漁場が開拓され、昆布漁が盛んに行われるようになった。サケマス漁をはじめ1960年代まで続く北洋漁業の活況は、北海道産しょうゆの発展に寄与したわけだが(p3-5)、故郷の味を懐かしむ出稼者や移住者の需要によって北陸のしょうゆが北海道に届けられるきっかけにもなった。

図8 北海道の昆布産地と北陸・新潟からの出稼ぎ・移住者

参考文献
1)塩照夫(1993)『昆布を運んだ北前船』北國新聞社、p.79、p.199
2)深井甚三(2009)『近世日本海海運史の研究-北前船と抜荷』東京堂出版、第八章pp.189-228
3)日本昆布協会ホームページ「こんぶネット」 http://www.kombu.or.jp/(2018年3月10日)
図7、8は1-3)を参考に作図

沿岸部のしょうゆはなぜ甘いのか?

塩角をとる程度のまろやかな「甘いしょうゆ」と、甘味をしっかり感じるほどにまで「甘いしょうゆ」。言葉だけでは混同されがちであるが、その甘さのレベルには明確な違いがあると考えられる。しっかり甘いしょうゆを好むエリアといえば「九州、北陸、沿岸部」というキーワードがあげられるだろう。
漁業が盛んな能登においても、また上越でも「山間に比べて海沿いで造られるしょうゆは甘い。それは、潮風にあたる漁師が魚を食べるのに甘い味を好んだから。」という話をきいた。海沿いというならば、千葉の房総や紀伊半島、高知県沿岸部等太平洋側でも、また瀬戸内でも甘いしょうゆの話が出てもよいのに、あまり聞かない。沿岸部のしょうゆは甘いという話を聞くのは、中国地方の北側、北陸・上越あたりまでの日本海側の沿岸部が主ではなかろうか。
「北陸のしょうゆは甘い」とわざわざいい始めたのは誰だったのだろうか。地域で日常使うしょうゆについては、特に甘いとかからいとか意識しないだろう。他所で味わうしょうゆが食べ慣れた味と随分違うことに気づき、故郷のしょうゆを懐かしんでいうようなことではないだろうか。北陸の甘いしょうゆがどこに運ばれ、故郷の味として消費されたのか、海運を通じて行き来が盛んだった富山県の沿岸部と北海道との接点を探ってみた。

生地から花咲へ

新潟との県境、糸魚川に近い富山県東部の沿岸に生地(いくじ)地区がある。この地は江戸時代から漁業が栄え、北前船を通じて蝦夷地との交流が盛んな場所であった。富山は「昆布食い」の県としても有名で、最近まで昆布消費量全国一位の座を長く守ってきた。特に知床の羅臼昆布の消費が多く、北海道の中でも知床は黒部市生地からの移住者によって開拓された歴史があり親交が深いことがわかる。
生地地区と北方・北海道を結ぶ漁業の歴史は大きく3つの時期に分けられる。明治期から戦前までの北海道(利尻島・礼文島から未開拓の漁場を求めて根室・釧路・北方四島まで)への出漁と出稼ぎ、戦後から1950年代前半までの利尻島方面へのニシン・タラ漁の出稼ぎ、1950〜1960年代前半にかけての根室花咲を中心とする北洋サケマス漁業への出稼ぎである。特に戦後から1960年代前半までにピークを迎えた北海道への出漁、出稼ぎによって、生地周辺のしょうゆの味が日本の北部に伝わったのではないかと考えるに至る話を聞いた。
富山県黒部市で味噌・しょうゆ製造業を営む会社は、代々女系の嫁・娘が家業を支えている。今年90歳になる先代の女社長の話を聞いた。昭和4年生まれの彼女は、生地の漁師町の出身で、子どもの頃から毎日のように、フクラギと地元で呼ばれるブリの幼魚を一人一尾ほども食べて育ったという。おかずは毎日のようにその刺身で、一尾食べるには甘くなくては食べきれなくて、甘いしょうゆを丼になみなみ注いで泳がせるようにして食べたという。この「甘い」が砂糖のように甘いかどうかは定かではなく、甘味を足して塩角をとった程度の甘さだったのかもしれないが、本醸造のままのしょっぱさではない甘味の添加があったのは確かだろう。
戦後まもなく、先々代女社長に見初められ嫁に入った後は、特徴のあるしょうゆ造りを目指し、幼少期から慣れ親しんだ甘味のあるしょうゆにさらに粗糖や水飴等を加えて「とても甘いしょうゆ」を造り出した。造るだけでなく販路の開拓にも貢献したのは、出身地の港町の網元はほとんどが親戚筋でつながる間柄で、折しも根室花咲を主とした道東部への出稼漁業者が急増した時代であったからである。生地から根室花咲への出稼漁業者は、1949年には62人だったのが1953年には235人に増加し、1959年には245人と最多を記録する※9)。1952年頃から根室花咲・釧路等を基地とした北洋サケマス漁が盛んになったことが背景にある。
1954年の道東沖災害を契機に漁船の大型化・近代化が図られ1950年代後半に発展期を迎えた後は、200海里体制が構築されていくに伴い衰退していくわけだが、それまでの約20年間に、生地地区から多くの人が北海道に移出した。彼女が手搾りの生揚げに味付けをして造り始めた甘いしょうゆは、生地から北海道に向かう親方衆の船に大量に積み込まれて運ばれた。一艘50斗(900ℓ)としても、それらが巨大な船団をつくって出航するため、甘いしょうゆが飛ぶように売れたという。このしょうゆは北洋の船上で故郷の味として親しまれ、また根室・歯舞群島の昆布漁を行う地域や釧路で荷下ろしされたしょうゆは、そこに移り住んだ越中衆(生地衆とも呼ばれた)に望郷の味として懐かしまれたことであろう。甘いしょうゆは人気を呼び、北海道からさらに東北の岩手、宮城あたりまで届けられ、今でも懐かしい甘い味わいを求める顧客が東北沿岸部にいるという。
彼女の造った甘いしょうゆは地域でおいしいと評判になり、近隣のしょうゆ屋が追随して次々と甘いしょうゆを造るようになった。時代の流れとしては、甘味料を使った混合しょうゆ造りが全国的に広まる頃と重なる。甘味のレベルを簡単に変えられるようになり、日本海沿岸部から東北沿岸部にかけて、漁師同士のつながりが沿岸部の甘いしょうゆの味を広めるきっかけになったのではないかと考えられる。

※9)横山貴史、橋爪孝介他(2013)「黒部市生地地区における漁業の変遷と地域資源を活用した漁村地域活性化の取り組み」筑波大学人文地理学研究、33、pp.145-173


甘いしょうゆの「甘さ」について考える

「九州と北陸のしょうゆは甘い。海沿いのしょうゆも甘い。」とよくいわれるが、甘さのレベルには幅がありそうだ。特に、各地で造られている混合しょうゆ(生揚げにアミノ酸液と甘味料等で調味したしょうゆ)には、地域ごとに甘味のレベルに差がある。
九州のしょうゆは特に「甘い」。甘さがしっかり感じとれるだけの甘味料による甘味がある。一方、北陸の「甘いしょうゆ」には、エリアによって違いがあると考えられる。たとえば、金沢・大野醤油は甘いかというと甘い味がするほどまでには甘くない。能登・輪島にある海鮮料理屋で刺し身用に出しているしょうゆについて聞いたところ、「地元のしょうゆは甘過ぎるから、うちは大野のしょうゆを使っています。」とのことだった。大野のしょうゆは地元のしょうゆに比べて甘くないから魚介に合うというのである。輪島をはじめ能登の北部一帯に流通する「甘いしょうゆ」は甘味料がしっかり入ったもので、甘味が十分に感じられる。一方、金沢には、素材の風味を生かし、色も味わいも上品に仕上げるおもてなし料理である加賀料理がある。金沢の寿司屋や石川県下のしょうゆ醸造業者に地元の人が好む味付けについて聞くと「くどい」味は嫌われるのだとか。大野のしょうゆが甘くておいしいといわれるときの甘さというのは、あくまで塩角がとれたまろやかな味わいという意味である。金沢では、甘味料を控え目に使った混合しょうゆが飲食店でもよく使われており、高級寿司屋でもつけしょうゆと煮炊き用に2種類が使い分けられていた。
約18%の食塩水で仕込むしょうゆは、出来上がりで食塩分15~16%にもなる。発酵熟成中にたんぱく質が分解してうま味が加わるため食べやすくはなるが、「しょっぱい」と感じるのは当然である。その「塩角(しおかど)」をとるために甘味を少し加えると、甘味による抑制効果で塩味が抑えられまろやかに食べやすく感じられるようになる。先述の石川県の江戸時代の文献にもあるように、しょうゆに砂糖を入れるという技法はしょうゆの塩角をとるために始まり、砂糖やみりんをしょうゆに加えることは明治時代から行われていた。明治29年発行の農学士西村榮十郎編『通俗日用化学全書 味噌醤油篇』博文館(p.88)には、火入れの際に「味醂清酒若くは砂糖を混入すること一般にして、然りその混量は家々秘密に属するも大低味醂清酒は液量二分内外を混じ、砂糖は十石に対して二貫目より二貫五百目を混ぜ(中略)又殊に着色の目的として黒蜜砂糖を用ゆるあり。」とある。
また、大正7年11月7日の高岡新聞(富山県)には、「家庭の醤油学 ◎悪いのを良く」と題して、「最上はしぼり立ての生のままのへ一石につき味醂二升と白砂糖が五百目入つて味がついてゐます」とあり、番水(食塩水)で造る二番搾り、三番搾りの悪いしょうゆでも少量の味醂と白砂糖を加えることで少しは良くできるというアイデアが掲載されている。自家醸造のしょうゆや買ってくる安いしょうゆをおいしくするために甘味付けが行われていたことがわかる。
また、大正から昭和初期にかけての日本全国の食生活を記録した聞き書『日本の食生活全集』では、自家醸造のしょうゆの甘みづけに播磨山地(兵庫県)で甘草の根を入れる例や、出雲平野(島根県)で二番搾りのしょうゆの色づけに黒砂糖を使うという例がでてくる。今回のしょうゆ調査で各地をまわる中では、高知市内のしょうゆ蔵の隣に住んでいたという方から、亡くなった旦那様のお話をうかがった。大正末期の幼少時代、しょうゆ蔵に忍び込んではしょうゆの大桶の隣りに山積みされたキザラ(細かなザラメ)の袋に竹ひごを刺し込んでなめて遊んだという話である。自家醸造だけでなくしょうゆ醸造業においても砂糖の添加がなされていたひとつの例である。
大正期から昭和にかけてのしょうゆ醸造技術書に甘味料の記述がある(表2)。砂糖の添加量を身近な量に換算してみると、しょうゆ100mlに砂糖8.3g、大さじ1杯弱の量である。1:1の容量比で合わせる砂糖しょうゆに比べれば、しょうゆ6杯に砂糖1杯弱であるので甘いほどではない。みりんであればしょうゆ40に対してみりん1程度で、ほんの隠し味程度となる。砂糖の代替として甘草エキス等の使用にも関心が寄せられ、各甘味料を単体で使うよりも組合わせて使う方がよいとして様々な配合を技術者が試した結果が記されている。いずれも、塩角をとる程度に甘味付けをするための指南だったと考えられる。
では、九州や能登のしょうゆのように明らかに「甘い」と評されるしょうゆは、いつからどのように甘くなったのか。これは、人工甘味料による食品の甘味付けの歴史が関係するものと考えられる。
人工甘味料といえば、今でも甘いしょうゆによく使われるサッカリンがある。サッカリンは1879年、ドイツ人のファールバーグとアメリカ人のレムセンによって発見された。1880年代に工業生産化が進み、第一次世界大戦下の砂糖不足によって世界に広まったとされる。日本には明治20年頃に持ち込まれ、明治21年初めの新聞記事で「コールタールから甘味料ができる」と、その存在が大々的に報じられた。当時の雑誌に掲載された販売広告には、サッカリンが砂糖の代用の甘味料としてだけでなく防腐効果のある物質として、しょうゆ、酒類、菓子、製薬等に使用できると謳われていたという※10)
こうして、輸入サッカリンによるしょうゆへの甘味付けが可能となり、明治41年頃には原料を輸入し国産のサッカリン製造も始まった。明治30年代、サッカリンは砂糖の10分の1程度の価格であり優位性があった。しかし、大正から昭和初期までのしょうゆ醸造技術書には甘味料としてサッカリンの記述はなく、一般的な使用はなかったものとも考えられる。国産砂糖の振興等の諸事情が絡み、サッカリンの使用禁止令が出たり昭和に入って沢庵漬けに限定的な使用が認められたりといった紆余曲折があった後、使用が本格化したのは第二次世界大戦中から戦後にかけてだとされる。昭和10年発行の「醤油醸造法」(深井冬史著、p.268)にも、サッカリン、ズルチン等の人工甘味料は治療目的以外の飲食品への添加は法令で禁止されているとある。しかし、砂糖の供給不足から、戦中にはサッカリンだけでなくズルチン(後に使用禁止)が用いられるようになり、甘味への欲求が補完された。
しょうゆを「甘い」と感じるほどに甘味付けをしようとすると、一般的な砂糖では限界がある。焼いた餅につける砂糖しょうゆを思い浮かべるなら、甘じょっぱいしょうゆにするにはトロリと粘度がつくくらいに砂糖を大量に入れなくてはならない。一方、サッカリンや甘草等の甘味料を使えば、その甘味度は砂糖の200倍から300倍と桁違いの甘味が得られる。つまり、砂糖の重量の200~300分の1で同じ甘さが得られるわけであるから品質管理も楽である。また、サッカリンや甘草等の甘味料では、苦味や独特の風味が食品添加においては難点とされるが、しょうゆは高食塩分で色が濃いために、甘味料を添加しやすいことは利点であった。
※10)光武幸(1986)「人工甘味料、特にサッカリンの砂糖代替品としての位置付けについて-明治以降の使用変遷を手掛かりとして-」北海道大学大学院環境科学研究科邦文紀要、2、pp.1-31

表2.醤油に添加する甘味料の種類と1石あたりの使用量目安