研究機関誌「FOOD CULTURE No.28」淡口しょうゆの誕生と近畿のしょうゆ
淡口しょうゆの誕生と近畿のしょうゆ
1.龍野しょうゆの誕生と発展
龍野(現在は合併によりたつの市)は淡口しょうゆの産地として有名であるが、兵庫県の南西部の西播磨地域に位置し、龍野藩5万3千石の城下町で「播磨の小京都」とも呼ばれている。日本で最も愛唱されている童謡「赤とんぼ」の作詩者、三木露風の生誕地であることから、童謡の町でもある。是非、淡口しょうゆの発祥の地である龍野を訪れて欲しいが、龍野の中心街への最寄駅はJR姫新線の本竜野駅で、山陽本線の竜野駅ではない。姫路駅で姫新線のローカル汽動車に乗り換え、20分で本竜野駅に到着する。以前、4月の桜の時期に龍野を訪れたことがあるが、龍野公園の桜が素晴らしかった事を覚えている。
しょうゆの産地となる要件としては、しょうゆの原料である大豆や小麦、食塩の調達が容易であること、仕込水に恵まれていることや、江戸時代では出来上がったしょうゆの大量輸送手段である水運の便が良いこと等が挙げられる。龍野は、隣町である佐用(兵庫県佐用町)の良質な大豆が手に入りやすく、地元の西播磨地域で小麦が採れること、良質の瀬戸内海の食塩である赤穂(兵庫県赤穂市)の塩が手に入ること、そして町を流れる揖保川の水質と水運に恵まれていたこと等から、しょうゆの産地に適していた。さらに、龍野は清酒の産地(最盛期には79軒の酒屋があった)でもあったことから醸造技術が発達し、清酒醸造用の桶や器具がしょうゆ醸造に転用できたことも、しょうゆ醸造が発達した要因でもある。
龍野を流れる揖保川の水は、炭酸カルシウムが18.3ppm~23.2ppm、カリウムも0.95ppmしか含まれず、鉄分の少ない軟水である。清酒醸造において、栄養不足から酒酵母が増殖する前に雑菌が繁殖し酒が再三腐り、酒屋からしょうゆ屋に転向したといい伝えられている。酒屋は財力もあったから、容易にしょうゆ屋に転向できたのではないかとも考えている。
龍野で生産されたしょうゆは、川船で揖保川を下り、網干で海舶に積み替えられ大阪に運ばれ、さらに大阪で再度、川船に積み替えられて京都伏見に運ばれた様である。京都でのしょうゆの販売も中々容易ではなく、江戸時代の1700年頃には京都のしょうゆ屋が150軒程あり、小売店では地元のしょうゆ優先で売られていた様である。備前からのしょうゆも京都に入っており、しょうゆ屋は激しい販売競争を繰り広げていた。龍野のしょうゆ屋は、京都に自社系列の問屋を持ち、次第に京都での販売量を増やしていった。20~30年間で備前しょうゆを駆逐し、その品質の良さから龍野しょうゆが京都市場で認められる様になっていった。龍野藩が龍野しょうゆを特産品として育成したことにより、さらに京都、大阪の市場での地位を固めていった。
2.龍野の淡口しょうゆ
1666年に円尾屋孫右衛門が、淡口しょうゆの製造法を開発したことは、龍野しょうゆにとって画期的なことであった。先述の揖保川の水質が軟水である為に酒が腐るということで、酒が腐る前の甘酒をしょうゆ諸味に添加したところ、風味の良いしょうゆが出来たと、業界に伝わっている。元々、軟水である揖保川の水で普通に仕込んだ濃口しょうゆも、他の地域の濃口しょうゆよりは色は淡く仕上がっていたと思われるが、原料の工夫や甘酒の添加等により品質の良い淡口しょうゆが出来る様になったと思われる。この龍野の淡口しょうゆが、京都の寺院の精進料理に使われる様になり、さらに懐石料理から家庭料理で使われる様になって、関西における淡口しょうゆ文化圏が形成された。
淡口しょうゆは、糖とアミノ酸が反応して褐色になるしょうゆの着色反応であるアミノカルボニル反応を抑えるために、仕込食塩水の食塩濃度を18%と濃口しょうゆの16%よりも高い濃度にしている。しかし淡口しょうゆは、料理の仕方で濃口しょうゆを使うよりも低塩分で、美味しく食べられるという淡口パラドックスが知られている。近年の研究で、淡口しょうゆは「塩味を識別し易く、塩味を美味しくつけられる」「だしの特徴を生かす」という特徴があることが明らかになった。淡口しょうゆの生産量は、しょうゆ全体の15%にしか過ぎないが、もっと上手に淡口しょうゆを利用して料理をおいしくして欲しいものである。
3.「うすくちしょうゆ」と「うすしょうゆ」
牛尾公平氏の明治、大正、昭和期の料理本(93冊)の調査研究によると、料理本における最も古い「うすくちしょうゆ」の記載は1904年(明治37年)の「日本家事調理法」であったとのことである。「うすしょうゆ」には、「うすくちしょうゆ」と「しょうゆをだしで希釈したもの」、「しょうゆを水で希釈したもの」の3種類があった様だ。大正から昭和にかけて、料理人が増え料理材料の使用量を明記した料理本が増えるのと並行して、「うすくちしょうゆ」の記載が増え、「うすしょうゆ」の出現数は減少したとのことである。しょうゆを希釈した「うすしょうゆ」は、材料使用量の記述に不向きであり、料理本から消えて行った様である。
龍野で造られた龍野しょうゆは色が淡くてその品質の良さから、「うすしょうゆ」や「うすくちしょうゆ」と呼ばれていた中から、淡口しょうゆとして認知される様になって定着したものと考えている。
4.終戦後の混乱期
戦後の原料不足からしょうゆ業界を救ったのは、新式2号しょうゆであった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のアップルトン女史は、「原料の利用効率が悪く、熟成期間が1年もかかる醸造しょうゆよりも、原料の利用効率が高く、短期間に製造できるアミノ酸液に転換すべき」との方針を出してきた。この醸造しょうゆの欠点を改良したのが野田醤油株式会社によって開発された新式2号法で、昭和23年に野田醤油株式会社は業界存続の為に特許を公開し、業界統一で新式2号法を採用することを決めた。新式2号法とは、脱脂加工大豆を塩酸分解、中和して租アミノ酸液を造り、小麦麹を仕込んでしょうゆ化する方法で、原料の利用率の向上と醸造期間の短縮、さらに旨味の増強も可能にした醸造法である。これにより、GHQの方針は転換し、しょうゆ業界は生き延びたのである。
龍野の淡口しょうゆは、戦時下の統制で丸大豆、小麦、甘酒用米、食塩の配給が途切れ、年々出荷量が減り昭和19年から製造を休止していたが、戦後、昭和25年から淡口しょうゆの製造を再開した。
しょうゆ業界は新式2号法によって助けられたが、原料事情が安定化した昭和45年頃から大手しょうゆメーカーは新式醸造(現行JAS法の混合醸造方式および混合方式)から本醸造だけに切り替えている。しかし、全国的に中小メーカーは本醸造に切り替える事が出来ず、今でも混合醸造方式および混合方式が残っているのが現状である。
5.龍野協同醤油株式会社
昭和38年に施行された中小企業近代化促進法により、しょうゆ業界の協業化が進んだ。協業化の第1号は福島県醤油醸造協同組合で、その後、全国に協業工場が建設されていった。しょうゆ業者が集まり、政府による低利の資金の貸し付けによって近代的なしょうゆ工場を建設することにより、安定的な品質の生揚げしょうゆが大量生産による低コストで手に入れる事ができる様になった。ただし、各しょうゆメーカーが持っていた原料処理から生揚げ生産までの製造設備を廃棄することが、政府による低利の資金の貸し付けの条件であった。現在、しょうゆメーカーは全国で約1200社あるが、協業化が進んだ結果、日本国内で原料処理から製品まで一貫生産しているしょうゆ工場は200を切っているのではないかと考えている。
龍野においては、昭和46年に16社のしょうゆメーカーが株主となって龍野協同醤油株式会社が設立され、協業工場がスタートした。6回に渡る増設や設備の更新により、龍野協同醤油株式会社は、30,000kℓを生産する大工場に発展した。
しょうゆ消費量の減少によるしょうゆメーカーの廃業等で、全国ではすでに協業工場が解散したところが出ている(岩手県、宮城県、富山県、三重県、京都府等)が、最近、龍野協同醤油株式会社も経営が厳しくなり、大手しょうゆメーカーの傘下に入ったと聞いた。
6.龍野以外の兵庫県のしょうゆメーカー
兵庫県にはしょうゆ組合が2つあり、龍野醤油協同組合(10社加盟)と兵庫県醤油工業協同組合(17社加盟)がある。淡路島には昭和30年に40社のしょうゆメーカーがあったそうであるが、現在は1社のみと聞いた。前述の2つのしょうゆ組合とも、かつてはもっと多くのしょうゆメーカーが加入していた様だ。
昨年、龍野以外の兵庫県のしょうゆメーカーを3社訪問したが、いずれのメーカーも原料処理から圧搾、火入れまで自社で行う一貫生産の工場であった。3社のうち2社は生産量の30%~40%が混合しょうゆで、地元の人々は混合しょうゆしか使わないと聞いた。同じ兵庫県でも、本醸造しょうゆが主体の龍野と、それ以外の地域とでは嗜好性に違いがあることに少し驚いた。一方、やはり淡口しょうゆの発祥の地である龍野に近いだけあって3社とも淡口しょうゆは造っていたが、龍野の淡口しょうゆとは製造方法が異なり、淡口アミノ酸液で濃口しょうゆをうすめて色を淡くした混合しょうゆの淡口しょうゆを製造していた。また3社とも自社の特徴を出すために、本醸造の濃口しょうゆで、2社が兵庫県産丸大豆しょうゆ、1社が国産丸大豆しょうゆを製造していた。これらの本醸造の濃口しょうゆは、地元ではなく大阪や他の地域に出荷されている。
7.京都のしょうゆメーカー
昭和48年に60軒あった京都府のしょうゆメーカーも、今は23軒しかない。京都府のしょうゆメーカーは協業化を行い、その時に自社の原料処理から生揚げまでの製造設備を廃棄してしまっているので、京都府のしょうゆメーカーには一貫生産工場は無いのではと思っている。時代の変遷からその京都の協業工場も閉鎖され、現在は、京都府のしょうゆメーカーは滋賀県の協業工場から生揚げしょうゆを購入している。
京都のしょうゆメーカーは生産量の85%~95%が混合しょうゆで、殆ど本醸造しょうゆを造っていないことに驚いた。京都府で3社のしょうゆメーカーを訪問したが、3社とも昭和30年頃まで自社でアミノ酸液を自製していた様だ。
戦後すぐしょうゆが不足していた頃、食塩水にカラメルで色を付けただけの粗悪品でもしょうゆとして飛ぶように売れたそうで、その当時、しょうゆ屋はみんな高額納税者だったとも聞いた。兵庫県でも同様な話を聞いたが、品質が悪くてもしょうゆが売れ非常に繁盛して、大阪にも営業所があったそうだ。世の中が安定するに従って、次第に粗悪品のしょうゆはなりを潜め、本来の品質のしょうゆが流通するようになった。
8.大阪のしょうゆメーカー
現在、大阪府のしょうゆメーカーは、堺市にある大醤株式会社1社しか無く、大阪府と同じくしょうゆメーカーが殆ど無い東京都と神奈川県のしょうゆメーカーと共に6社で中央醤油工業協同組合を組織している。中央醤油工業協同組合の事務局は東京都の日本橋小網町にある醤油会館内に置かれている。尚、昭和2年の大阪府醤油醸造同業組合の名簿には、89社が載っており、旧堺市内には19社があったそうだ。
大醤株式会社は、先に述べた中小企業近代化促進法による構造改善事業の一環として、河又醤油株式会社(堺市)とイヅミイチ株式会社(貝塚市、しょうゆメーカー)との企業合同により昭和45年に生まれたしょうゆ会社である。昭和55年に河又株式会社(昭和46年に河又醤油株式会社から名称変更)が、イヅミイチ株式会社から所有株式を全て買い取った事から企業合同は解消され、現在、大醤株式会社は河又株式会社の関連会社になっている。
大醤株式会社の前身の河又醤油の歴史は古く、1800年に初代・河内屋又兵衛(河又)が堺でしょうゆ醸造業を始めたことを起源とする。初代・河内屋又兵衛は河利(河内屋利兵衛、木綿問屋)で修業し、本家からのれん分けを許されて、河内屋又兵衛を名乗り大阪船場にあったしょうゆ業である河内屋を引き継いだ。すなわち河内屋グループのしょうゆ部門担当者としての位置づけであった。河内屋三家としては、河内屋利兵衛(木綿問屋)、河内屋又兵衛(しょうゆ屋)と、この他に河内屋仁平(河仁、回船問屋)があり、河仁は、北前船を18隻所有し、往き船で木綿、帰り船で昆布等の海産物を運んでいたそうだ。明治になって苗字使用が許された時に河内屋三家で話し合い、本家の苗字である「森川」をひっくり返し、河内屋の「河」を残し、苗字を「河盛」とすることになったそうである。
しょうゆは、味噌の桶に溜まった溜りが独立した液体調味料になったものとされている。従って、最初に、室町時代に大豆だけで造る溜りしょうゆが出来てくる。江戸時代になって大豆と小麦を同量用いて造る濃口しょうゆが生まれたとされている。江戸時代の初期に堺で造られたしょうゆは江戸に送られ、「下りもの」として高級品として珍重されていた。今回の訪問調査で大醤株式会社から、かつて「堺溜」なるしょうゆがあったとお聞きした。溜りとはいうものの、原料は大豆の他に小麦も使っていた様で、溜りしょうゆと濃口しょうゆの中間に位置するしょうゆだった様である。「堺溜」を詳しく調べれば、濃口しょうゆ誕生の過程が明らかになるかも知れない。
余談ではあるが、明治末期の河又醤油は非常に先進的で、製造工程の機械化を進め特許7件と実用新案10件を取得している。さらに河又醤油の技師である今野清治は、麹菌の純粋培養により友麹(前回でき上がった麹の一部を種麹として使う方法、良い友麹の維持が難しい)を改め、製麹技術を確立した。今野清治は河又醤油の技師として在籍のまま、今野商店を立ち上げ優良な種麹の全国販売を行った。現在、種麹メーカーとして有名な秋田今野商店は、今野清治の実家である。
しょうゆ業界で種麹を使う様になったのは、清酒業界とは違いそれ程古くはなく、1907年(明治40年)に野田醤油醸造組合醸造試験所(キッコーマン株式会社 研究開発本部の前身)が組合員に種麹を配布したのが始まりである。今野清治が麹から純粋培養により優良菌を分離したのも、明治38年と同じ年代であった。
- 1百年の歩み、福山醸造株式会社(1991)
- 2新北海道史 第6巻、北海道(1977)
- 3キッコーマン国際食文化研究センター誌[フードカルチャー]、26、3-6(2016)
- 4醤油の科学と技術、栃倉辰六郎編著、(財)日本醸造協会(1988)
- 5龍野醤油協同組合要覧 平成11年度版、龍野醤油協同組合(1999)
- 6牛尾公平、「うすしょうゆ」の特性、および、「うすくちしょうゆ」とのつながりに関する研究―明治、大正、昭和期の料理本の調査―;日本調理学会誌、48、39-48(2015)
- 7むらさき 堺の醤油屋 河又・大醤200年のあゆみ、河盛幹雄(2000)

■研究分野
醸造学、応用微生物学
■学歴
東京農業大学大学院農学研究科農芸化学専攻博士前期課程修了、博士(農芸化学)
■現在の役職
東京農業大学教授、日本健康医学会副理事長、日本醤油技術センター理事、他多数
■受賞歴
平成9年度日本醸造協会技術賞、平成18年度、平成22年度および平成24年度日本健康医学会論文賞、平成21年度醤油技術賞、平成22年度日本醤油協会功労賞


















