研究機関誌「FOOD CULTURE No.30」北米レシピ集
レシピ集から見る日系人の食の変遷について 北米レシピ集
はじめに
これは相当な数に上るかもしれない。北米(アメリカ・カナダ)でレシピ集調査を開始してすぐの感触であった。そして時を経るとともに、当初の印象は、南米と比較することのできないレベルで量産されている、という確信に変わった。原稿を書いている現在も、多くの協力者のおかげで、引き続きレシピ集が見つかっている。従って本号では、収集したレシピ集の一覧掲載は割愛せざるを得ない。南米を含めて現時点で収集したレシピ集127点を、国・地域別に集計すると以下のようになる。
| ハワイ | 59 |
| アメリカ | 34 |
| ブラジル | 20 |
| カナダ | 8 |
| 南米(ブラジル以外) | 6 |
但し、南米ではブラジル以外の国で調査は行っていないので、ブラジル以外のものはいわば副産物である。他の国々で調査を行うことができれば、その数は当然増えると考えられる。
なぜこれほど多くのレシピ集が北米で発行されたのか、とくにハワイではなぜ多いのか、これもまた解明すべき課題であるが、その理由は今のところまだ確信をもって説明できない。しかしおそらくその主因は、食が日系人の文化的アイデンティティと密接に関係し、世代間の絆の役割を果たしてきたのではないか、と推測している。
今回北米で収集したレシピ集の大まかな分類を試みると、以下のようになる。
- 1仏教会をはじめとして宗教団体により出版されたレシピ集
- 2日系団体(宗教団体を除く)により出版されたレシピ集
- 3キッチンカーのレシピ集
- 4公設市場などで出版されたレシピ集
- 5エスニックフードとしてのレシピ集
- 6異文化における生活指南としてのレシピ集
- 7手書きのレシピ
南米の場合と同様に、この区分は便宜上のもので、厳密に分けられるものではなく、重なり合う部分も見られる。しかし、南米におけるレシピ集と比べてみると、北米ではいくつかの特徴がすぐに浮かび上がる。
一つは、1.に関わるもので、南米では農協が大きな役割を果たしていた主体が、北米ではその中心が仏教会になっていること。二点目は、3.のキッチンカーで、これは北米に顕著なもので、南米ではまだほとんど見られない。三点目は、5.のエスニックフードで、これはハワイにおいて顕著な表現となっている。以上をそれぞれ具体的に見て行こう。
1.仏教会をはじめとした宗教団体により出版されたレシピ集
北米では日系コミュニティにおける仏教会の果たしてきた役割がたいへん大きい。現在でも、仏教会は多くの日系人にとって重要な社会的生活基盤となっている。6月から9月にかけて各地の日系コミュニティでさかんに行われる「Obon」は、日本のお盆とは異なり、宗教的な側面が薄れ変容してきているが、仏教会なしでは到底実現し得ないイベントで、そこでは当然ながら食文化も披露される。南米でも同様に、現在では仏教関係団体は存在する。しかし北米ほどの浸透は見られない。
この仏教会の数を調べて見ると、その違いが歴然とする。データは少ないが、例えば外務省通商局が昭和7(1932)年11月に編集した『在外邦人団体名簿』には、宗教団体のリストがある。そこでは、布哇(ハワイ)105(仏教99、キリスト教6)、華州(ワシントン州)56(仏教34、キリスト教22)、米国各地(ニューヨーク、イリノイ、カリフォルニア)6(キリスト教6)、加奈陀(カナダ)3(仏教1、キリスト教2)の団体が記録されている。ハワイにおいて仏教団体が圧倒的に多いことが確認できる。これに対して、南米では皆無である。なぜか。その理由は、「日本政府の移民政策として、カトリック教国への移住をスムーズにおしすすめるために、『僧侶、神官の渡伯が外面的にせよ阻止されていた』こと」から、「宗教的指導者がブラジルに渡航できなかった」ことが背景にあるようだ(『ブラジル日本移民70年史』p.314)。ハワイにおけるこの高い数値は、その当時の日系人人口(139,631人、1930年米国センサス)から計算すると、日系人約1400人あたり仏教会が1団体あった勘定になり、4人1家族とすれば、およそ350家族に1仏教会というレベルで浸透していたことが分かる。
その地域や場所により、仏教会ではなくキリスト教系団体のこともあるが、北米では仏教会が一番大きな広がりを持つ組織であることは間違いない。そしてもちろん、レシピ集作成の担い手は婦人会の人たちであり、定期的に繰り返し発行されることが多い。様々な宗派があるが、一般的には「仏教会」という言葉で呼ばれ、英語では Buddhist Churchと呼んでいる。本調査で収集したレシピ集の中でも、一番多く集まったのが、この仏教会によるものである。以下に、このカテゴリーの中から4点を年代順に紹介する。
Family Favorites(Second Edition)(『家族のお気に入り』第2版)
本書の発行年は記載がないが、冒頭の献辞に、多くの要望により1960年代に出版された第1版の再版であると書かれている。仏教会の婦人会、成人仏教協会の会員やその友人の協力を得て作成されている。初版が1960年代であることから、こうした取り組みがその当時から始まっていたことが分かる。60年代と言えば、一世世代がまだ少なからず生存していた時代で、その痕跡が伺える。
内容的には、以下の6章からなり最後に索引がついている。
1)飲み物と前菜
2)スープ、サラダ、野菜
3)付け合せ、ゼリー、ピクルス
4)メインディッシュ
5)デザート
6)外国からのレシピ
「外国(Foreign Countries)からのレシピ」の9割方は日本のレシピであり、レシピ提供者名がある。その姓名から判断すると一世婦人であると推測される。1960年代に発行されたレシピ集の再版であることから、一世世代の食文化遺産が記録されていると考えられる。
その他のレシピも、そのほとんどに個人ないしは団体名がある。そのレシピ提供者の姓名から判断すると、一世と二世の協力のもとに製作されていることが分かる。また、同じレシピ名(例えば、瓜粕漬け、栗饅頭やチキン・テリヤキ)で提供者が異なる場合が見られることから、各家庭で受け継がれたレシピであることを示唆している。レシピの詳細から、ネーミングやその内容で興味深い点を取り上げると以下のようになる。
1)飲み物と前菜
・ローカル色のあるレシピ
Hula Shake, Football Sandwiches, Submarine Sandwiches
2)スープ、サラダ、野菜
・日本語そのままのレシピ
Miso Shiru(味噌汁), Osumashi Jiru(おすまし汁), Kimpira Gobo(きんぴらごぼう)
・Chinese(中国風)と冠したレシピ
Chinese Watercress Soup, Cucumber-BeanThread Salad (Chinese), Gow Gay Soup, Cold Duck Salad(Chinese), Chinese Peas
味噌汁やおすまし汁、きんぴらごぼうといった料理が日系人家庭で受け継がれている典型的なメニューであることや、中華料理も日系人のあいだではポピュラーであることが分かる。
3)付け合せ、ゼリー、ピクルス
・全部で20あるレシピのうち11は以下の日本のレシピ。
Cabbage Tsukemono, Daikon Tsukemono, Chosen Zuke, Cucumber Kimuchi, Cucumber Mizo(ママ) Zuke, Hawaii Zuke Daikon, Pickled Daikon, Sunomon - Cabbage and Carrot, Tokyo Zuke, Uri Kasuzuke, Uri no Kasuzuke
漬物類が豊富で、日系人がよく食していることが伺える。見方を変えれば、漬け物というかたちで野菜を摂っているといえる。使われている野菜は、大根やキャベツ、白菜やキュウリが中心である。1960年代には、日本でも同じように多様な漬け物を食べ、自宅で作っていたはずである。
4)メインディッシュ
・全部で49あるレシピのうち、日本語が使用されているのは3品のみ。
Shoyu Fish, Skirt Steak Teriyaki, Squid Patties (Ika Dango)
3品ともに醤油と味の素を使用していることが共通している。
5)デザート
とくに日本らしいものや日本名のついたものはないが、フルーツを使ったケーキが多いことが分かる。また同名のデザートがあるが、家庭によって作り方が少しずつ異なっている。
6)外国からのレシピ
本章にある67レシピのうち、約半数にあたる以下33レシピは日本語が使われているレシピである。このことはとりもなおさず、移民である一世が日本の食を持ち込んでいることを表わしている。
Abura Age Niwatori (Japan Fried Chicken), Anko, An Pan, Cha-shu Manju, Chawan Mushi(茶碗蒸し), Chicken Teriyaki, Ebi Zushi, Chirashi Zushi,Chicken Teriyaki(Fujinkai), Cold Somen, Frothy Yokan (Awa-Yuki), Gobo-maki, Chicken & Matsutake Gohan, Kuri Manju(2種), Lunch Box Beef (Obento no Okazw(ママ)), Maki Sushi, Oni-Gara Yaki, Manju (Square), Nambanzuke (Vinegared Fish), Okara, Nikomi Gohan(煮込みご飯), Nikudango, Saba Zushi (Mackerel, 鯖寿司), Satsuma Age (Perch Tempura), Shitake Hamyu(ママ), Sukiyaki, Tempura (Shrimp), Takikawa Tofu, Unagi Donburi, Inari Zushi(いなりずし), Umani(Chicken with Vegetables), Zenzai
餡子を使いパンや饅頭、ぜんざいなども家庭で作られていたことが分かる。鶏肉(チキン)を使った料理が多いことや、ちらし寿司・鯖寿司・いなり寿司といった寿司がポピュラーであることも同様である。さらに興味深いところでは、ウナギ丼ぶりがあり、ウナギの缶詰が使われている。これは、多くの二世の証言として小さい時にウナギの缶詰をよく食べていたということや、現在に至るまでウナギ缶詰が日系食品雑貨店で扱われていることを裏付けている。
このほか外国料理として英語以外に起源を持つ料理名を選び出すと、以下のようになる。
Chow Mein, Enchiladas, Flour Tortilla, Goo Low Yuke, Lobster Cantonese, Prawns Cantonese, Shish Kabob
つまり、中華料理やメキシコ料理、中東料理が含まれており、移民の国であるアメリカらしさが表われている。このうちChow Mein(チャーメン)は、多くの二世の回想としてよく語られる料理で、家族で外食した際によく食べたのが Chow Mein(炒麺、焼きそば)だったという。それもその多くが、日系人が経営する中華料理店であったようだ。
味の素と醤油
レシピ全体の3分の1ほどにajinomotoが使用されており、shoyuとともに味の素はこの頃からかなり一般的に料理に使われていたと推測される。そしてそれと相まって、この二つの広告はレシピ集の中でも、とりわけ大きく一面広告となっている場合が多い。
Oriental Recipies 東洋料理
The Veleda Club 1969年
本書は全54頁の小さな本だが、コンパクトにまとめられており内容は充実している。オレゴン州ポートランドのVeleda Clubによって作成され、初版は1963年7月である。本書が1969年8月発行の第6版であることから、毎年再版されている勘定になる。それだけの需要があったということだろう。
このVeleda Clubはネット上に残されている記録によれば、第二次大戦後ポートランドの日系二世婦人により設立された団体である。ポートランドYWCAをとおしてJapan Dayなどの文化理解に向けたイベントをはじめ活発に活動していたらしい。団体名のVeledaはラテン語で “wise women”を指すことから命名されたとある。同クラブは「婦人のための教育、娯楽、文化」を使命とし、「白人社会と日系社会の双方」の奉仕に尽くしていた。その活動の一つとして、地元の日系アメリカ人学生に対して奨学金を授与していたというから、広範な活動を行っていたようだ。Veleda Clubを紹介するサイトに、この出版物に関する言及は見られないが、個人所有の写真やレシピを共有していたとの記述があることから、その一環の活動としてレシピ集が構想されたのだろう。
ここで注意が必要なのは、日本料理ではなく東洋料理と銘打っていることだ。日本料理とは言わずあえて東洋料理と言っているのは、理由があってのことかもしれない。しかしポートランド、そしてそのYWCAにおいて、アジア系移民の大多数は日系婦人が占めていたことから、東洋といえば実質的に日系を意味していたと考えられる。
冒頭にある解説では、ここに紹介するレシピが、単に日本食というだけではなく、かつてそれぞれの地元で母親が作っていた料理のレシピであることを強調している。そして、これらのレシピは、太平洋北西部に住む日系二世の家庭で一般的に使われていたものであり、読者の食生活や料理の喜びを豊かにしてくれるものだと紹介している。
さらには「役に立つヒント」の頁があり、タマネギを切る際に泣かないで済む方法や、レモンを使い鶏肉を柔らかくする方法、さらには味噌汁を作る際には味噌を最後に入れて煮過ぎないことや、スキヤキ用肉は軽く冷凍させることで薄く簡単に切れることなども紹介している。醤油や味の素についても触れられており、ともにあらゆる料理の風味を高めるものとして推奨されている。そのほか、「いちょう切り」「乱切り」「半月切り」などの食材の切り方や、日本食材を扱っている食品雑貨店のリストも掲載されている。主な日本食材の解説や箸の使い方についても記述がある。つまり、どのようにして作るかだけではなく、調理の楽しみや背景文化の紹介にまでおよび、至れり尽くせりの内容となっている。
レシピの内容はといえば、「豚肉料理」「牛肉料理」「テンプラ」「シーフード」「鶏肉」「玉子料理」「出し汁とスープ」「めん類」「寿司」「野菜」「サラダ」「デザート」「ソース類」「付け合わせ」「香の物」と分類されている。豚肉料理から始まっているところが面白い。また、日本料理の名称がローマ字書きでそのまま使われているものとして以下がある。
Sukiyaki,Teriyaki,Tempura,Kazunoko,Mizutaki, Sashimi,Oyako Donburi,Chawan Mushi,Dashi, Ozoni,Miso Shiru,Udon,Hiya Somen,Maki Zushi, Inari Zushi,Nigiri Zushi,Chirashi Zushi, Onishime,Kuromame,Yaki manju,Sakura Manju, Zenzai,Yokan,Kanten,Kaki Mochi
おそらくこれらの料理や食べ物は、その当時つまり1960年代において、日系人家庭で食され、そして実際に会話で交わされていた語彙で、食文化の伝統を示しているものであろう。ブラジルにおける場合と比較するとどうか。ほとんどその違いは認められない。明らかな違いとしては、以下の2点が認められる。
数の子
上記の食べものの中で興味深いものの一つは「Kazunoko」(数の子)である。数の子といえば、正月のおせち料理の縁起物として使われることが多いが、そうした影響であろうか。Kazunokoの缶詰がアメリカへ輸出されていたことを考えると、一世は日本の習慣を維持しようとしていたのだろう。ブラジルでは少なくともレシピ集の中では、数の子は登場しない。アメリカまでは輸出されていたが、ブラジルへは輸出が難しかったことも関係しているだろう。ブラジルの場合、その地理的条件や高関税からアメリカと比較するとかなり限定されていた。
スキヤキ
ここでは同じスキヤキでも、日本式(typically Japanese)と二世風(Nisei-styled)の二通りのレシピが紹介されており興味深い。二世風は日本式と何が異なるのか、それを確認すると以下のようになる。
1)砂糖・醤油・酒・味の素が、それぞれ2倍の量に増える。
2)豆腐の量が半減する。
3)ネギが8分の1から10分の1に減る。
4)日本式にはない、乾燥タマネギ・タケノコ・セロリ・ピーマンが入る。
5)日本式ではオプションの玉子が、二世風では消える。
6)品目と量の変化がないのは、牛肉としらたき(Yam noodles)である。
7)作り方が日本式に比べて簡素になっている。
以上から判断すると、一世から二世へと伝わった時点での変化は、味が濃くそして甘くなり、豆腐やネギが減り、その代わりとしてタマネギ・タケノコ・セロリ・ピーマンが入ったということである。ネギはあまり好まれないが、いろんな野菜を入れて食べるということだろうか。アメリカにおけるテリヤキは日本に比べて一般的にたいへん甘口であるが、スキヤキも同じように甘口が好まれていることが分かる。
ここでもう一点注意をひくことがある。缶詰入りしらたきが使われていることだ。1969年というこの時期には、しらたきはまだ缶詰による輸入品であったということを示している。また、この伝統は現在まで続いており、日系スーパーマーケットでは「すき焼の友」(Sukiyaki no Tomo)というスキヤキに使う具材が缶詰で売られている。
Favorite Island Cookery(『お気に入りハワイ料理法』)
本書Favorite Island Cookeryの日本語訳は、『お気に入りハワイ料理法』だろうか。Islandは島だが、ハワイのことを指していると考えられる。このレシピ集全6巻は、ホノルルにある本派本願寺ハワイ別院で発行されたもので、このうち3巻は記念事業の一環として作成されている。第1巻は同別院85周年記念、第4巻は官約移民※100周年記念、第5巻は同別院100周年記念と銘打たれている。
※ハワイ王国と日本政府の間で結ばれた協約により、ハワイのサトウキビ・プランテーションでの労働を主な目的として、1885年から1894年までハワイに渡った日本人移民。
各巻冒頭にはそれぞれ、仏教の教えやそれにまつわる食についての解説が、かなりの紙面にわたり割かれている。例えば、第1巻ではお正月と食について、第2巻は彼岸や花祭り、お盆やひな祭り、端午の節句といった年間行事や精進料理について、第3巻は年忌法要について、第4巻は「いただきます」そして敬意・感謝・思いやりについて、第5巻は人類と食、そして「ごちそうさま」について、といった具合である。これらの紙面は、その時々の開教師(海外で布教活動に従事する僧侶)が、仏教の教えを広めるべく解説しており、一部は筆者の署名がある。また第6巻は女性開教師が担当しており、食事指針ピラミッド(Food Guide Pyramid)について紹介している。レシピそのものについて内容を見ると、すでに第1巻(1973年)から日本語名のついたレシピが目を引く。例えば以下のようなレシピである。
Curried Chikuwa, Osumashi, Cucumber Namasu, Yakumi, Makina no Tsukemono, Kiriboshi no Sanbaizuke, Cabbage O-Koko, Takuwan, Shira Ae, Lemon Shoyu no Yaki Tori, Bamboo Chicken Nikomi, Oyako Donburi
などなど、枚挙にいとまがない。これらのレシピは一世ないしは二世が関わり作られたと推測され、日本食の伝承が脈々と受け継がれていることを伺わせる。それと同時に、以下のようなレシピも多数見られる。
Filipino Chicken Soup, Korean Egg Broth, Chinese Chicken Salad, Korean Ogo Kim Chee, Chinese Style Tofu, Spanish Rice
これらのレシピ名は、その名が表わすように、ハワイに移民としてやってきた様々なエスニックグループの食文化が浸透していることを示している。また、この第1巻から第6巻への流れの中で、レシピの数は300件台から400件台で漸増しているが、大きな変化はない。そして、レシピの内容からもそれほど大きな変化が起こっているようには見えない。あえて言うならば、他の国々でも確認できるように、ローマ字による日本語名表記が増えてきていることである。
こうした中で、第5巻は他の五巻には見られない大きな特徴がある。各レシピの起源のありかを示していることである。前書きには、「母から娘へと長年に渡って伝えられてきた、母のお気に入り料理が紹介されている」とあることから、これらのレシピは他から転載したものではなく、各々の出身県等にルーツを持つ人たちが独自のレシピを伝えていると判断される。起源が明記された391件のレシピのうち、一番多いのはハワイ(Hawaii)で226件(58%)、日本の都道府県名(HiroshimaやOkinawaなど)を冠しているものが128件(33%)、「母のお気に入り」(Mother’s Favorite)と記載されているものが37件(9%)である。
都道府県別では、43都道府県にわたるレシピがあり、以下の順でその数が多い。
| 広島 | 10件 |
| 大阪・沖縄・鹿児島 | 8件 |
| 長崎 | 7件 |
| 北海道・山形 | 6件 |
| 兵庫 | 5件 |
| 東京・新潟・福岡・宮崎・山口・山梨 | 4件など |
47都道府県の中で見当たらないのは、石川・岩手・神奈川・宮城の4県である。上記の都道府県別の順位は、必ずしもハワイ移民の出身県順位と一致していないが、おおむねその傾向に類似している。広島・山口・沖縄・福岡・新潟は、ハワイに渡った移民が多い県として知られている。
またこのほかにも、第5巻では地域的特徴を伝えようという意図が見られる。4頁にわたるOzoni(お雑煮)の項では、日本国内各地におけるお雑煮のSoup(汁)・Mochi(餅)・Other Ingredients(他の具材)の違いについて解説している。つまり、汁は澄まし汁か味噌汁か、餅は丸餅か角餅か、などについてである。
都道府県別のレシピとしては、例えば広島の「牡蠣の味噌鍋」や熊本の「辛子蓮根」、高知の「カツオの角煮」や新潟の「のっぺい」など、典型的な郷土料理が紹介されている。そしてこれはとりもなおさず、そうした料理の具材が入手できるということを示している。
ハワイと記載のあるレシピはどうか。レシピ名をみると「Saimin Salad(サイミン・サラダ)」や「Plantation Baked Beans(プランテーション・ベークト・ビーンズ)」など、その名がいかにもハワイを思い起こさせるレシピもあるが、それは少ない。それどころか、移民が持ち込んだ食の方が圧倒的に多い。例えば、Beef with Miso Ae(味噌和えビーフ)、Sashimi(刺身)、Salmon Miso Yaki(味噌焼きサーモン)、Fried Udon(焼きうどん)、 Microwave Yomogi Mochi(電子レンジで作るヨモギ餅)。あるいは、Korean Noodle Salad(Kook Soo)、 Chinese Style Roast Turkey(中華風ローストターキー)といった、まさに移民文化と直結したレシピである。日本で私たちが慣れ親しんでいる料理もたいへん多い。とくに、日系人は第二次世界大戦以前、ハワイ人口の約四割を占めていたことから、その影響を強く残していると言える。
もう一つの「母のお気に入り」レシピはどうか。以下がそのいくつかの例である(原文はローマ字表記のみ)。
Spicy Eggplant(Nasu Itame-Ni,ナス炒め煮)
Lotus Root Kinpira(Hasu No Kinpira,ハスのきんぴら)
Hijiki(ひじき)
Beef with Irish Potatoes(Niku Jaga,肉じゃが)
Mackerel cooked with Miso(Saba No Miso Ni, サバの味噌煮)
Scrambled Tofu(Iri Dofu,炒り豆腐)
Stir-Fry Konnyaku(Konnyaku No Kinpira, コンニャクのきんぴら)など。
上記は誰の目にも明らかな、日本における惣菜そのものである。そして、その調理法も日本とほとんど変わらず、これはといった違いもない。つまり、日本の食文化がそのままハワイのレシピとして引き継がれていることが分かる。そして、日系人はこれらの食をまさに「okazu」と呼んでいる。
またハワイでの本調査で日系スーパーマーケットを訪ねた際、以下のような商品パッケージのローマ字表記が目を引いた。レシピではないが、食の伝承という意味で、その存在や変容がたいへん興味深い。
Mochi, Manju, Mochi ball, Mochi Crunch, Choco Mochi, Chi Chi Mochi, Ko-Ko, Takuwan, Fukujinzuke
まずはMochiという言葉。MochiはManjuと並んで日系人の中でよく知られており、また食されている。本レシピ集全6巻にも、Mochi and Manjuという項目が設けられており、Yomogi Mochi, Habutae Mochi, An MochiやFukashi Manju, Tsubushi Manju, Yaki Manjuなどが紹介されている。つまり、それらの和菓子を自分で作る人たちがいるということだ。Mochiはもちろん餅であるが、Mochi ball, Mochi Crunch, Choco Mochiの場合はどうだろうか。これらは餅ではなく、日本で言えば「あられ」だろう。しかし「あられ」は「あられ餅」の略であることから、「あられ」よりも 「餅」が優勢勝ちしたということだろうか。あるいは他の理由があるかもしれない。いずれにせよ、Mochiはよく知られた日本の食であることに間違いない。正月に餅つきをする習慣が続いていることからも、慣れ親しんだものなのだろう。Chi Chi Mochi(あるいはChi Chi Dango)は、ハワイではよく知られている。これは広島県が発祥の地である乳団子がハワイで受け継がれているようだ。ハワイでは広島県移民が一番多いことを考えると、頷ける話である。
ハワイのスーパーマーケットで売られている様々なMochi商品
Ko-Ko, Takuwan, Fukujinzukeは、第二次世界大戦以前から日系人がよく食し、また日本から輸入した食材である。それゆえ二世の多くも、それらが何かをよく理解している。ここで注目されるのは、Ko-Koである。Ko-Koはもちろん香々、香のもの、漬物である(フードカルチャー22号参照)。しかしこの言葉はもう日本ではほとんど聞かれなくなった。ワードの漢字変換でも「こうこう」では出てこない。大学生に尋ねても誰一人として知る者はいない。移民船での食事の基本が、ご飯・味噌汁・漬物であった時代には、香々は誰もが知る毎日食べる食材だったはずだ。だからこそ「タクワン貿易」という言葉が生まれたと推測する。それが日本よりも移住先の地、ハワイにおいて残っているということに、たいへん興味がわく。異文化の中でこそ伝統文化が強く残っているということだ。
さらに興味深いのは、移民文化の融合である。ハワイのあるスーパーマーケットで売られている買い物袋に面白いデザインを見つけた。「Mo’ Bettah Together」と中央に大きく書かれており、周りには以下のような食品名とイラストが散りばめられている。
Kim Chee & Saimin, Mango and Shoyu, Shave Ice and Mochi balls, Eggs and Portuguese sausage, Mochi Crunch & Popcorn
これはまさに様々な移民の食文化をミックスしたもので、「いっしょにした方がもっといい(More better together)」、とのメッセージである。ハワイならではの混合共生文化を見事に言い表している。
日本食 NIHON SHOKU Our Family’s Favorite(『日本食 我が家のお気に入り』)
本書は、カリフォルニア州プラサー仏教会婦人部による製作で、1986年2月第1版501部、6月第2版501部、11月第3版1001部を発行している。冒頭の献辞では「この料理本を一世、二世、三世、そして将来の世代に捧げる」とある。料理本委員会メンバーは委員長のほか6名、計7名からなる。関係者の名前はすべてローマ字書きされているので明確な判断はできないが、姓名から判断すると、そのほとんどが一世と見られる。またこのレシピ集にレシピを提供した仏教会メンバー38名の貢献者の名前も記載されている。ファーストネームから判断すると、38名中10名ほどが二世ないしはそれ以降の世代だと推測される。
本文に先立ち日本料理に使われる食材の用語集が掲載されている。120語ほどからなり本文で使われる用語理解の助けになっている。内容は17項目からなり以下のタイトルおよびレシピ例(数)がついている。
| 「正月料理 New Year Dishes」 | 12例 |
| 「おつまみ Hors D’oeuvre」 | 10例 |
| 「すいもの Soup」 | 19例 |
| 「すのもの Salad」 | 46例 |
| 「ごはんもの Rice Dishes」 | 17例 |
| 「なべもの One-Pot Dish」 | 15例 |
| 「とり Chicken」 | 17例 |
| 「さかな かい Fish and Clams」 | 31例 |
| 「にく Meat」 | 19例 |
| 「あげもの Deep-Fried Fish」 | 27例 |
| 「とうふ Tofu」 | 14例 |
| 「やさい Vegetable」 | 33例 |
| 「ソース・ベニガ(ママ)ドレッシング Sauces and Vinegar Dressings」 | 14例 |
| 「めんるい Noodles」 | 14例 |
| 「つけもの Pickles」 | 24例 |
| 「あれこれ Miscellaneous」 | 17例 |
| 「おかし Desserts」 | 27例 |
日本語が使われているのは、これらのタイトルのみで、あとはすべて英語である。但し、料理名は日本語名がそのまま音訳されているものが多い。場合によってはそのあとに英語による訳が付記されるものもる。例えば以下のようなものである。
Kakitama-Jiru – Scrambles Egg Soup
Takenoko Gohan – Bamboo Rice
Satoimo no Miso Shiru
Shiitake Shira Ae
Kyuri Miso Zuke
「すのものSalad」の項は、日本語が「すのもの」となっているが、内容的には「酢のもの」もあるとはいえ、いわゆるサラダ一般である。「やさいVegetable」に関して、いわゆる惣菜で「ナスの味噌田楽」「きんぴらごぼう」「大根の柔らか煮」などの料理がならんでいる。「おかしDesserts」は「羊羹」「餅」「団子」「饅頭」といった和菓子がならんでいる。以上のように、現在の基準で考えると日本語訳に違和感を覚えるものもあるが、その当時としては許容範囲であったのだろう。
レシピの数の多い順にみると、「すのものSalad」46例、「やさいVegetable」33例、「さかな かい Fish andClams」31例となり、まさに日本人の食生活に則したレシピが採択されている。
また「Dash of ajinomoto」「1tsp. ajinomoto」といったように、様々な料理にajinomotoが頻繁に使われている。味の素が広く出回り使用されていたことが分かる。この時代つまり1980年代は、ブラジルにおいても味の素は広く出回っており、その当時の中華レストランのほとんどは味の素を使って調理しており、どこの中華料理も味に代わり映えがしないとよく言われた。
17項目中最初に現れる「正月料理」の項では、具体的なレシピ紹介の前に、日本における元旦の風習やおせち料理各々の持つ意味などについて解説している。つまり、日本人にとっての正月の持つ意味が特別であることを意識し、伝えようとしていることが分かる。
レシピの内容を見ると、使われる材料および調理法のいずれもが、日本のそれとほとんど変わりがない。つまり、日本料理に使われる材料はほぼ揃うということであり、日本における日本食をそのまま伝えようとしていることが分かる。この本が出版された1986年という時代と、アメリカにおける日本食の状況を反映しているということができるだろう。
以上の特徴から判断すると、このレシピ集は一世婦人が中心となりその調理法を二世に伝授し、その英語による解説文を二世が手がけたと考えられる。この種のレシピ集は、北米においては、各地の仏教会婦人部において作成されており、その類は数限りないと言ってもよいのではないか。言い方を変えれば、仏教会婦人部の果たした役割は、食の伝承という意味においても、非常に重要な位置を占めているということである。
2.日系団体(宗教団体を除く)により出版されたレシピ集
Our Favourites in Canadian Japanese Cookery(私たちのお気に入りのカナダ風日本食)
本書の初版は1983年に出版されている。その初版は手元にないが、五千部を売ったことから、再版を発行することになったと序文にある。再版に際し30のレシピを加えており、全部で194のレシピが紹介されている。さらに、JapaneseレシピとJapanese Canadianと呼ぶべきレシピが含まれていると解説し、“Canadian Nihon-Shoku”もあれば、伝統的な“Nihon Ryori(Japanese Dishes)もあるとして、日本文化の一部である日本料理を将来の世代のために残して行きたいと記されている。タイトルのCanadian Japanese CookeryはこのCanadian Nihon Shokuからきていると思われる。
このカナダ風日本食(Canadian Nihon-Shoku)が、194のレシピのうちどのレシピにあたるのかは、はっきりとした記載がない。レシピ名から推測できるのは以下のレシピである。
Cumberland Chow Mein(p.67), Hamburger Manju (p.74), Beer Zuke(p.86), Denba Zuke(p.90)
このうちCumberlandとDenba(Denver)は地名を指している。Denba Zuke(デンバー漬け)はカナダの日系人のあいだではよく知られた漬物で、戦時中日系人が収容されたニューデンバー(New Denver)収容所内で日系人が作っていたものである。
いわゆる大根漬けであるが、それが現在も広く日系人の間で受け継がれている。味は砂糖をたくさん使っているせいか、日本の漬物と比べるとかなり甘く感じる。味の素を使うことも多いようだ。
日本料理の作り方の中に、何らかのカナダ的な影響あるいは要素があるかは、はっきりと見いだすことができない。あえて言えば、アメリカにも共通するが、やはり砂糖の量が多めであることだろう。そして最後には、豆腐の作り方が紹介されていることから、これは現在でも豆腐を自宅で作っている人、そして作りたい人がいる、という証になるだろう。
5th Anniversary of the LA Tofu Festival Cookbook (ロサンゼルス・トーフ・フェスティバル5周年記念料理本)
リトル東京サービスセンター 2000年
本書は2000年リトル東京サービスセンター(LTSC)によって発行された。LTSCは1979年ロサンゼルスで日系アメリカ人のボランティアグループを中心として設立され、地域に根差した慈善福祉団体である。社会福祉事業のほか、コミュニティ運営と都市開発、移民へのサービスなど、広範な活動を行っている。そして1996年から始まったロサンゼルス・トーフ・フェスティバルもその活動の一環であり、第5回を記念して出版されたのが、この料理本『ロサンゼルス・トーフ・フェスティバル第5周年記念料理本』である。このトーフ・フェスティバルは、資金調達を目的として始められているが、栄養価が高く用途の広い豆腐と、健康・福祉や社会奉仕の普及を祝うためのイベントと銘打っている。冠スポンサーはアメリカで最大規模の豆腐生産を行っているハウスフーズアメリカ社となっている。
目次をみると、「序章、前菜、副食、サラダ、主食、デザート、その他」とシンプルで、総頁数も112頁と小ぶりであるが、その内容はたいへん興味深い。序章では豆腐の歴史や日本食用語集、豆腐に関するQ&A記事が記載されており、豆腐をまだ知らない人にも分かりやすい工夫が施されている。ここに集められたレシピは、LTSCスタッフやボランティア、そして南カリフォルニアにあるレストランや食堂のシェフたちによるもので、単なる豆腐料理の紹介というよりも、豆腐を使ってどのような創造的な食が可能かを様々な立場から紹介している。「日本食」というよりも、コリアン風、メキシコ風、イタリア風、スペイン風の料理や、スナック、デザートであり、豆腐を使ってこんなことが可能であるという創作の数々である。言ってみれば、豆腐の各国版メニューだろう。例えば、韓国のスンドゥブをはじめとして、トーフ・エンチラーダ、トーフ・ラビオリ、トーフ・ラザーニャやスパニッシュライス、トーフ・キッシュ、トーフ・チーズケーキ、トーフ・チョコレートムースなどである。
なるほど豆腐は日本の専売特許ではないことをあらためて気付かされるが、その一方で日本食ブームの影響があることも感じとれる。この料理本には豆腐という食品をとおした、エスニック文化交流と互助の思想がはっきりと見て取れる。レストランシェフのレシピは、いわば「企業秘密」の一部でもあるはずだが、レストラン側にはお客として来てもらえる見返りもあるだろう。助け合いながら互いにメリットがあるイベントとなっており、食をとおした交流や協働としてたいへん参考になる。
ちなみに、本書の「豆腐の歴史」によれば、豆腐の起源は中国の後漢時代(紀元22-220年)に始まり、日本で最初に豆腐が記録として登場するのは1183年としている。そして、アメリカでは1878年サンフランシスコの中国人移民によって始められ、1895年にはサクラメントで日本人も豆腐店を開業している。
Nikkei potluck – A collection of recipes and stories of Japanese American culture
Japanese Cultural and Community Center of North California(北カリフォルニア日本文化コミュニティセンター)2005年
本書は北カリフォルニア日本文化コミュニティセンター(JCCCNC)が、サンフランシスコ日本町100周年記念プロジェクトの一環として2005年に始めた、日系持ち寄り料理書プロジェクト(Nikkei potluck cookbook project)のパイロット版である。その副題が示すとおり、日系アメリカ人文化のレシピとストーリーを収集しており、リングファイル式のバインダーで補充シートが追加できるようになっている。出版年は明記されていないが、2009年には販売されていた。このプロジェクトは、料理とレシピにまつわる思い出を記録に残すことで、日系アメリカ人の文化遺産を記録し次世代に伝えて行こうとするもので、たいへん有意義な取り組みである。
食とそれに関わる様々な文化的習慣は、世代間ギャップが大きいと捉え、レシピをとおして広く文化遺産を伝えることを目的としている。従って、レシピそのものに限らず、料理や食に関する想い出や写真、手紙や詩なども収集するとしている。6名のプロジェクトグループが50名の投稿者の協力を得て本書は作成された。My story(私の想い出話)と題した項目があり、それぞれ貴重なコメントが残されている。すべてのレシピにコメントがついているわけではないが、例えば以下のような想い出話が掲載されている。
「農場で育った私は、母が家の近くの土地で菜園をもち、トマトやトウガラシ、ナスやgobo、yama-imoや daikonなどの野菜を作っていたのを覚えている。これらの野菜は地元のマーケットでは手に入らなかった。私たち11人の大家族は、いつも野菜がたっぷりあり、それはしばしば近所の人や友人にも分けていました。それらの多くは、tsukudaniやtsukemonoとして保存していました。母が元気なうちは、tsukemonoやピクルスを作り、成人した子どもたちに与えていました。母からは多くのレシピを教えてもらいました。私のお気に入りの一つはfukujinzukeです。」(Daikon Fukujinzuke, p.77)
「私の母はいつも出来立てのtofuを買った。私は、そのtofuのかたまりが水でいっぱいいになった大きなブリキの容器に入っていたのを覚えている。豆腐屋さんは、大きなひしゃくで豆腐のかたまりをすくうと、プラスチックの袋に入れてくれた。母さんはいつもその袋を私に渡すと、『tofuに優しくしてね』と言った。私の夫は、『tofuと同じように、優しく人に接しなさい』という日本語の表現があると教えてくれた。」(揚げTofu, p.79)
「アメリカ人が初めて日本に来た時、きんぴらごぼうを出されて怒り出したそうです。それを木の根っこだと思ったらしい。私は日本の四国で育ち、母はいつもこのきんぴらごぼうを作ってくれた。この料理は鉄分が多くて健康にいいのよと母は言っていた。私の家庭では、『健康を祈りましょう。健康はすべての元』といつも願っていました。家では朝食、昼食、夕食といつも家族がいっしょに食べていました。」(Kimpira Gobo, p.84)
「収容所から戻ってきた後も、ごはんとパパの作ったumeboshiとtsukemonoさえあれば、私たちは決して空腹になることはありませんでした。umeboshiや tsukemonoを作るというパパの強い想いは絶えることなく続き、私たち家族は今でもそのochazukeが大好きなのです。」(パパのUmeboshiレシピ, p.97)
以上のローマ字表記は原文そのままであり、これらの語彙はそのまま日本語で使われ話されていたことが分かる。日系人としてのアイデンティティやその想い出と深く関わる食材、そして食文化だとみることができるだろう。この取り組みはたいへん意義深い。今後他の国や地域においても、同じような取り組みが行われていき、歴史が共有されることを切に期待したい。
Home away from home(遠く離れていても家と呼べる場所) 2011年
Our edible roots -The Japanese Canadian Kitchen Garden-(私たちの食用根菜-日系カナダ人家庭菜園) 2018年
この2冊はともに、バンクーバーを拠点とする「隣組(Japanese Community Volunteers Association)」(1974年設立)という日系ボランティア団体が出版したものである。前者は2007年が初版で、第3版として2011年に発行されている。後者は2018年に出版された、いわばその続編である。この両書を手にして最初に気付くのは、そのデザインや趣向が非常に日本的な感覚に近いことである。いわゆる日系人らしさとは少し異なり、日本らしい感じがする。2011年版の序文には、様々な世代からなる多様な人たちの協力のもとに実現したと記されている。最年少は20才台の若いボランティアから、最年長93才までの古くからの会員による協働作品だという。この中には新一世と呼ばれる戦後移住者や、いわゆる国際結婚によりカナダに移住した日本人女性などが含まれている。本書の随所に、そうした戦後移住した日本人のセンスが加味されていると思う。この理由の一つには、隣組が日系人高齢者への支援活動から始まり、のちには、戦後移住者のカナダ社会への適応へのサポートも進めてきたことがある。この活動の中から、戦後移住者が若い三世世代とのコラボレーションを実現する機会が生まれたのである。また隣組では、給食宅配や電話による介助支援などのサービスも行っており、そこでも日加世代間の交流が育まれている。この現象は他の国や地域ではあまり見られないことである。
バンクーバーといえば、毎年8月に行われる日系フェスティバル・パウエル祭(Powell Street Festival)がよく知られている。この祭りは日系三世と新一世と呼ばれる戦後移住者との密接な協力のもとに実現したといわれている。この場合の新一世とは、日本企業の駐在員や関係者ではなく、個人の自由意志のもとに移住してきた移住者や、国際結婚した日本人である。このレシピ集を見たときに、ああこれはこのコラボではないかと直感した。このパウエル祭協会(Powell Street Festival Society)にも隣組関係者が多数関わっている。
レシピの数は多くはない。2011年版では74、2018年版では40である。しかしその中には、戦後の新一世が持ち込んだレシピや、戦争中の日系人の体験から生まれたもの、地元日系カナダ人コミュニティではもう忘れられ失われてしまったレシピも含まれている、と説明されている。例えば、以下のようなレシピで、メニュータイトルだけは日本語訳付きとなっている。
Biyazuke(ビール漬け)、Crunchy Ramen Salad(カリカリパリパリサラダ)、Hawaiian-Zuke(ハワイアン漬け)、Hiroshima Okonomiyaki(広島風お好み焼き)、Mochi cake(餅ケーキ)、Tofu dango(豆腐団子)
そしてその続編として作られた2018年版では、このような日系カナダ人のレシピが成立するために必要な野菜や食材を家庭菜園(Kitchen garden)で栽培してきた日系人の個人史と、その野菜の育て方が、詳しく記録されている。例えば、キュウリ・ナス・シシトウ・ミズナ・カブ・ネギ・シュンギク・サヤエンドウといった、日本ではお馴染の野菜が並んでいる。まさに、日本ならば家庭菜園で栽培している人も多いと思われる食材である。これらの野菜を移民個人史とともに伝えて行こうという趣旨で、サンフランシスコの事例とともに、新しい取り組みである。
料理の写真を見ると、その見た目にも現在の日本的感覚が凝らされているように感じる。こうした三世と新一世のコラボがうまく機能し、日系コミュニティの活性化に大きな貢献を果たしているのは、私の知り得る範囲では、ここバンクーバーとアメリカのサンノゼである。この二つの町では、戦後の新一世や若い日本人世代が、戦前移民の子孫である三世と、非常に理想的なかたちでその経験や知識を共有し連携を実現している。それが見事に食という分野で表れていることを示している。
3.キッチンカーのレシピ集
トラックフード(Truck Food)やフードトラック(Food Truck)、あるいはランチワゴン(Lunch Wagon)などと呼ばれる、キッチンカーで提供される食事のレシピである。キッチンカーは最近日本でもよく見られるようになったが、北米ではキッチンカーがたいへん身近な存在となっている。オレゴン州ポートランドなどは、キッチンカーのための一定区画が確保されており、一般のレストランと同じように利用されている。キッチンカーのレシピは、伝統的な食というよりも、どちらかと言えばかなり斬新で個性的なレシピであることが多い。そして、そうしたレシピが出版されていることが注目に値する。ライフスタイルとしての文化が、そこに定着している。
The Truck food cookbook(トラックフード料理本)John T. Edge 2012年
Portland food cart stories: behind the scenes with the city’s culinary entrepreneurs
(ポートランド・フードカート・ストーリー キッチンカー起業家の舞台裏)Steven Shomler 2014年
キッチンカーで提供される食事とは、そもそもどんなもので誰が作っているのか。ポートランドの旧日本人町近くの街区でたまたま出くわしたフードカート・エリアが、その関心の始まりであった。そして後になって分かったことだが、どうやらポートランドはアメリカにおけるキッチンカーのメッカであるらしい。フードライターのアーロン・ワカマツによれば、ポートランドには500を超えるフードカートが営業しており、さながら世界中のおいしい料理のるつぼ(a melting pot of delicious dishes from around the world)になっているという(p.164-165, Shomler)。そして、ジョン・エッジによれば、ポートランドにはフードカートが集まるエリア(pod)が4地点あり、それらはフードコートのような機能を果たしているという(p.16-17, Edge)。
そのエリアで最初に目にして関心をひいたのは、International Bento の文字である。そして #1 Bento Korean BBQやNoodles Bentoもあった。これらのBentoはいったいどんな弁当だろうか、と興味がわくと同時に、あちらこちらで、スーパーでもレストランの店舗名にも、Bentoの文字がみられることに気が付いた。これらのBentoには日本食の影響があるのだろうか。
Bentoと聞くと、どうしても日本の弁当を連想してしまうが、結論から言えば、こうしたBentoにはほとんどの場合、日本食の影響は見られない。Bentoは単に、その持ち帰りスタイルのことを指している。Bentoの定義は「一人用のテークアウトあるいは家庭で作る料理」(p.161,Shomler)ということである。あるいはまた、サンパウロの弁当屋の看板にあるように「ファーストフード」という意味である。
そしてBentoの中身を見ると、所によりけりだが、やはり日本のそれとは微妙に違うことが分かる。
しかし、なぜこのBentoという言葉が使われるようになったのか。このほかにも、他の項で紹介するように、食に関する一定の日本語語彙が使われるようになる背景には、何らかの原因や影響があるはずだ。おそらくは日系スーパーで販売される上記のような「日本風」の弁当がBentoとして売られ、そのスタイルが広がったものだと推測している。
このキッチンカーで提供される食事のレシピおよび索引から日本語語彙をキーワードとして検索すると、以下の言葉が現れる。
Adzuki, Bento, Curry rice, Furikake, Karaage, Miso soup, Musubi, Nori, Onigiri, Sushi rice, Teriyaki
Adzuki(小豆)はベジタリアン・バーガーの素材として使われており、健康食として位置づけされている。Curry rice(カレーライス)やKaraage(唐揚げ)、Onigiri(おにぎり)は日本でも人気のメニューであるし、Furikake(ふりかけ)やNori(海苔)も普段よく食べる食材だ。Musubi(ムスビ)はハワイのスパムむすび(Spam Musubi)である。ただし、これらの料理は、日本と同じように作られているとはかぎらない。例えば、カレーライスはカレーライスオムレツとして提供されているし(p.76, Edge)、ふりかけはスパムむすびのライスにまぶして使われている。味噌汁の具材にはズッキーニが入っている(p.115, Edge)。そして、おにぎりはツナマヨが外国人(日本人以外を指す)には人気があるらしい。
Bento Boxというフードカートの人気メニューは、特製Teriyaki(テリヤキ)ソースを使ったチキンである。オーナー夫妻はカリフォルニア育ちだが日系人ではない。数年かけて独自のテリヤキソースを開発して人気メニューとなった。(p.159-163, Shomler)
索引から伺えるもう一つの特徴は、様々なエスニックや地域名が登場することである。ベルギー、中国、キューバ、エチオピア、ジャマイカ、日本、韓国、メキシコ、スイス、台湾、タイ、そして、南アジア、ハワイなどである。つまり、アメリカにおけるフードカートには、そこで生活する様々なエスニック集団の食が反映されており、ワカマツのいう「世界中のおいしい料理のるつぼ」が出来上がっている。そして、それぞれの料理はその母国文化から離れて、少しずつ変化したかたちで受け入れられている。
カナダのバンクーバーには、ジャパドッグ(Japadog)というたいへん人気を博しているホットドッグスタンドがある。筆者もバンクーバー調査の際に何度かスタンドを目にして、実際にホットドックを買い求めたことがある。ホームページによれば、「『海外で屋台からスタートして大きくしていく!』という志と、わずかなお金だけを持ち、日本人夫婦が、カナダ、バンクーバーに渡っていき」、2005年に路上のホットドッグスタンドをオープンしたという。店は困難を乗り越えつつ、2010年には店舗をオープンし、2011年にはトレーラー型スタンドをオープンし、計5店舗になっているという。
このジャパドッグのJapaは日本(Japan)を指すと思うが、メニューを見るとそこにはまさに日本語語彙が並んでいる。
Terimayo, Oroshi, Okonomi, Negimiso, Ume, Yakisoba, Ebi Tempura, Yakiniku Rice, Tonkatsu, Kobe beef, Kurogoma Kimuchi, Kurobuta Terimayo
ホットドックのメニューではあるが、キッチンカーのメニューと同様に、日本食の中でどのような料理が好まれているかを、如実に表している。
4.公設市場などで紹介されたレシピ集
生産者農家による農産物直売所、いわゆるファーマーズマーケット(Farmers Market)、あるいは現在の公設市場(Public Market)には、戦前多くの日本人農家が携わっていた。ワシントン州シアトルのファーマーズマーケット(別名Pike Place Market)に行くと、その入り口には5枚の壁画が掲げてあり、そこには次のような解説がある。
「1941年、Pike Place Marketの露店の約3分の2は日系アメリカ人によって占められていた。しかし現在は、一人もいない。」
これは戦時中の日系人強制収容体験のことをさし、戦後に元の仕事に戻れなかったからである。5枚の壁画にはそうした日系人の経験が描かれている。シアトルに限らず第二次世界大戦前、西海岸にいた日系人のおよそ8割は農業に従事し、大きな貢献を果たしていた。ポテトキング(牛島謹爾<きんじ>)やライスキング(西原清東<さいばらせいとう>)、レタス王(南弥右衛門)などと呼ばれた日系人も存在した。従って、ファーマーズマーケットは日系人と深い関わりがあったはずだ。そこで、ファーマーズマーケットに何か日系人の痕跡はないかと探り、その料理本を調べてみた。料理本が見つかったのは、以下のサンフランシスコとロサンゼルス、そしてポートランドである。
The San Francisco Ferry Plaza Farmers’ Market cookbook
(サンフランシスコ・フェリープラザ・ファーマーズマーケット料理本
Christopher Hirsheimer,Peggy Knickerbocker 2006年
L.A.’s original Farmers Market cookbook(ロサンゼルス・オリジナル・ファーマーズマーケット料理本)
JoAnn Cianciulli 2009年
Portland Farmers Market cookbook(ポートランド・ファーマーズマーケット料理本)
Ellen Jackson 2016年
これらの料理本には、残念ながら、その歴史に関する章で日系人に関する詳しい記述は見当たらない。それぞれ発行年が比較的新しく、最近であることが影響していると推測する。なぜならば、これらの本はフードライターが、それぞれのマーケットで現在働いている人々へ行ったインタビューをもとに作られているからである。戦前の歴史について身をもって知る人は少ないか、ほとんどいないだろう。その歴史は、まさに強制収容とともに消されてしまったのかもしれない。以下は、それぞれ日系人によるレシピである。
サンフランシスコ版
ファーマーズマーケット理事長による歴史紹介と、フードライターによるレシピの紹介がある。その中には日系人漁師ラリー・ミヤムラ(Fisherman Larry Miyamura)が紹介されており、以下のレシピ紹介がある。
Salmon with Aunt Mae’s Miso Sauce (p.143-145)
Shogun Salmon Cakes with Corn and Tomato Salsa (p.148)
ロサンゼルス版
フードライターによるファーマーズマーケットの歴史とそれぞれの屋台が紹介されている。その中で日本人シェフ・オーナーの屋台2軒が紹介されており、以下のメニューが載せられている。
屋台434 Sushi a go go (p.94-99)
Salmon tempura Salad with Kiyoko’s Dressing
Miso Soup
屋台P20 & O20 Kado (p.140-145)
Diver Scallops with Blackberry Puree and Shiitake Risotto
Japanese Rib Eye with Baby Bok Choy and Oyster Mushrooms (p.148)
これらの屋台は、日本人シェフが2000年以降に開いた屋台のようであり、戦後移住者である。レシピはそれぞれのオリジナルで個性的な凝ったものになっている。
ポートランド版
ファーマーズマーケット理事長による紹介文とフードライターによるレシピが紹介されている。日系人あるいは日本人によるレシピは見当たらないが、日本語に関連する以下2点のレシピがある。
Miso-Lemon deviled eggs(p.18-19)
Kabocha squash drop biscuits(p.198)
このポートランド版には、唯一日系人の歴史について記述がある。果樹園を営むキヨカワ・ファミリー(Kiyokawa Family Orchards)に関するもので、現在のオーナーである日系三世ランディ(Randy)・キヨカワの祖父、キヨカワ・リイチ(漢字表記は不明)の生い立ちを紹介している。多くの初期移民がそうであったように、リイチは鉄道敷設の仕事に関わった後、1911年にフードリバー渓谷のディ(Dee)で、リンゴをはじめとした果樹園を営んだ。そして現在、孫のランディへと受け継がれている。
以上のように、残念ながら上記のファーマーズマーケットのレシピ集からは、日系人の食の歴史を辿れるような内容を見つけることはできなかった。あるいは、まだどこかに過去の記録、あるいはファーマーズマーケット・レシピ集が残っているかもしれない。引き続きそれを探すしかない。
5.エスニックフードとしてのレシピ集
本調査を実施した国・地域、つまりブラジル・アメリカ・カナダ・ハワイは、すべて多様な移民から成り立つ多文化社会である。そうした背景から、多文化共生や異文化での変容をテーマとしたレシピ集が発行される事例が見られる。
Vancouver entertains:a menu cookbook for entertaining- recipes & histories of Vancouver’s ethnic communities -
(バンクーバーを魅了するエスニックコミュニティ:バンクーバー エスニックコミュニティのレシピと歴史を楽しむ料理本)
本書は1986年、バンクーバー市市政100周年を記念して、同市を構成している多様なエスニックグループへの敬意を示し、ブリティシュコロンビア大学の大学婦人クラブが作成したものである。作成にあたり、同婦人クラブは過去20年間にわたって同大学で行われたディナーパーティから150のメニューや1500のレシピを調査し、その中から20のメニューと190のレシピを選び出したという。本文では、バンクーバー市におけるエスニックグループの概要から始まり、英国(British)・スカンジナビア(Scandinavia)・オランダ(Dutch)・ドイツ(Germans)・フランス(French)・スペインとポルトガル(Spanish and Portuguese)・イタリア(Italians)・ギリシア(Greeks)・ハンガリー(Hungarians)・ウクライナ(Ukrainians)・ロシア(Russians)・東インド(East Indians)・中国(Chinese)・日本(Japanese)・太平洋諸島(Pacific Islanders)・アメリカ(Americans)といった16の国と地域に関するエスニックグループの紹介とそれぞれのメニューやレシピを紹介している。
そこで紹介されている食事は、1960年代半ば以降のものであり、家庭料理とは言えないかもしれない。しかしそれぞれのエスニック集団でよく食べられる料理が選ばれている。日本の夕食として紹介されているメニューは、以下のとおりである。
キリンビール、イカの燻製、おつまみ、サントリーウイスキー、のり巻き、刺身、茶碗蒸し、チキンの照り焼き、ホウレンソウのおひたし、なます、ご飯、泡雪寒天、緑茶。
これらの料理は、日本の典型的な定番の食事といって差し支えないだろう。調理法にはとくに日本との違いやカナダらしい特徴は見られない。しかし、醤油の訳がJapanese soy sauceとなっており、中国料理の項では同じく醤油は、soy sauceとなっている。日本と中国で区別はされているものの、Shoyuという表記は見られない。この時点でShoyu、つまり日本の醤油は、現在ほどに一般的でなかったということだ。また飲み物に特定の銘柄が選ばれていることは、輸入品であることを示し、入手もそれほど困難ではなかったのであろう。
紹介されている16のエスニックグループの中で、日系グループは11番目に位置し、1981年時点でバンクーバー市内に5300人、バンクーバー大都市圏に11800人という人口も紹介されている。過去には、1901年の時点でカナダに住む約5000人の日本人のうち、97%がブリティッシュコロンビア州に在住し、1911年までには2000人以上の日本人がバンクーバー市にいたという。そして、太平洋戦争開戦前の1941年には約8500人がバンクーバー市に居住していた。
バンクーバーは、北米の他のいわゆるジャパンタウン(日本町、日本人町、日本人街、リトル東京など、呼び方は様々)と比べた場合に、様相が異なる。日本人移民の歴史が古く、集住地域が存在したという点では共通している。しかし、その一方で戦時中の強制収容とその後の帰還制限の影響はアメリカ以上に深刻な影響を及ぼし、ジャパンタウンは事実上消滅した。ところが、他所でも言及したように、三世と新一世との連携がうまく機能していることが特徴的だ。さらに、ワーキングホリデーや一般観光客が多いことで、日本との人やモノの交流が目に見えるかたちで進んでいる。例えば、バンクーバーの中心街で日本人留学生とすれ違うことなくして歩くのは不可能だ。筆者は90年代以降のバンクーバーしか知らないが、これほど多様な日系人(戦前移民とその子孫、および戦後移住者)、そして日本人留学生や観光客が、同じ空間で混在している場所はほかにないと思う。従って、食に関しても、そうした現実が反映されており、影響し合っている。
さらにもう一つの特徴は、本書が示しているように、多様な移民集団、エスニックグループが一都市という限られたエリアで共存していることであり、政府がそれを積極的に支援していることだ。そのため民間団体でも多文化(Multi Cultural)と銘打ったイベントがしきりに実施され、そこでも食が紹介されるのである。
本書はハワイ航空客室乗務員により1988年に作成されたものである。タイトルのMelting Pot(るつぼ)が示すように、ハワイにおける多様な人種そして食の融合をよく表している。レシピのタイトルを整理すると、以下のように3つに区分される。
1)個人の名前を冠したレシピ
2)エスニック名・地域名のついたレシピ
3)日本の食材や料理名が冠されたレシピ
以下にその内容をみてみよう。
1)個人の名前を冠したレシピ
Shiraishi’s Pupu Chicken / Gail’s Portuguese Bean Soup / Liana’s Chicken Soup / Cindy’s Sukiyaki / Cynthia’s Korean Style BBQ Beef / Mrs. Fujioka’s Cornflake Cookies / Sandy’s Stuffed Tofu / Mario’s Carrot Bread
これらは各々その個人が考案したレシピ、つまりその家固有のレシピであろう。このように家庭で受け継がれているレシピが多数あり、場合によってはそれが知人へと伝えられていたのだろう。同じように、個人名はついていないが、以下のように、父母や祖母が考案したであろうレシピも記載されており、各々の家庭で独自に工夫を凝らしている様子が伺える。
Dad’s Chicken Paria(ママ)/ Grandma’s Escalloped Potatoes / Grandma’s Puto / “My Son’s Favorite” / Mom’s Seafood Casserole
2)エスニック名・地域名のついたレシピ
Armanian Sushi / Chinese Roast Chicken / Filipino Steamed Cake / Italian Beef / Japanese Beef and Potatoes / Korean Khai Bi / Local Raw Fish, Tahitian Style / Nutty Polynesian Chicken / Portuguese Soup
ここに現れるアルメニア・中国・フィリピン・イタリア・日本・韓国・タヒチ・ポリネシア・ポルトガルは、ハワイにやってきた移民の出自を表したもので、それぞれの母国食文化を受け継いだレシピであろう。しかし、Armanian Sushi (アルメニア風スシ)に見られるように、本来その国にはなかったものが、折衷創作された料理もある。しかしこのスシは、魚はおろかライスすら使わない。七面鳥の胸肉にレタスとタマネギ、そして各種チーズを使ったトルティーリャを、巻き寿司風にスライスし、アルメニア風スシと呼んでいる。つまり、ここでのスシは、その食材の中身ではなくその手軽さや形状から命名していると考えられる。現在のフルーツスシやチョコレートスシのスシブームにおいても、トルティーリャをスシと呼ぶ例は見たことがない。しかし見方を変えれば、スシブームの「はしり」と言えるかもしれない。ちなみにJapanese Beef and Potatoes(ジャパニーズ・ビーフとポテト)は、醤油と砂糖で味付けしている。
3)日本の食材や料理名が冠されたレシピ
Armanian Sushi / Basic Teriyaki Sauce / Chi Chi Dango / Chocolate Mochi / Coconut Mochi / Cindy’s Sukiyaki / Furikake Rice Chex (Mock Arare) / Kamaboko / Potato Salad / Layered Manju / Mochi Chicken / Tofu Loaf / Baked Shoyu Chicken / Oyako Donburi
これらのレシピ名からは、寿司・テリヤキ・乳団子・餅・スキヤキ・ふりかけ・かまぼこ・饅頭・餅・豆腐・醤油・親子丼が、ハワイで受け継がれていることが分かる。さらにその内容からは、現地化が進んで、日本とは異なる新しいアレンジがなされている様子が伺える。例えば、カカオとココナッツミルクなどと混ぜて焼いたChocolate Mochi(チョコレートモチ)や、ゴマとココナッツミルクを使ったCoconut Mochi(ココナッツモチ)は、チョコレートムースと同じ感覚である。Layered Manju(重ね饅頭)は、サンドイッチのようにして餡子を上下で挟んで焼いたもので、Tofu Loaf(トーフローフ)は、ミートローフの挽肉の代わりに豆腐とサーモン缶詰を使った料理である。Mochi Chickenにはいわゆる餅は材料として使われていない。鶏のモモ肉を長ネギやゴマ、片栗粉や小麦粉を使って調理したものである。なぜモチと銘打っているのかは不明である。おそらく、Mochiというものが、日本の餅とは異なるイメージで理解されているのだろう。残念ながら、これらの写真はない。
以上は、世界的な和食ブームが起こるはるか前、1988年であることを考えると、ハワイにおいて日本の食文化がしっかりと根付いており、そして現地化が起こり、その語彙が受け継がれてきていることが理解できる。
Nikkei cuisine:Japanese food the South American way(日系料理:南米風の日本食)2015年
Cocina Nikkei:Comida japonesa al estilo de America del Sur(日系料理:南米風の日本料理)2016年
『日系料理 ―和食の新しいスタイル―』 2017年
Luiz Hara ルイス・ハラ
著者のルイス・ハラは、日系ブラジル人四世。本人の紹介では、三世としているが、祖母は福岡生まれの移民だが、「祖父はハワイ生まれのアメリカ人」としていることから、四世になろう。いずれにせよ、このサンパウロ生まれのハラは、イギリスのロンドン大学に留学したあと、食に関心をもち修行するとともに、サパークラブを開いてこの道に入った。日系人としての自分自身の経験はもとより、ブラジルとペルーの日系人一流シェフとの交流や、そこから得た知識をもとに本書を著している。ハラは「ニッケイ料理」を以下のように解説する。(本書のタイトルは『日系料理』と漢字表記だが、本文では「ニッケイ」とカタカナ書きになっている。)
「彼ら(日本から呼ばれた一流料理人)は南米で和食を作る際、多様な食材を日本から輸入するのは不可能ではないまでもかなり難しいことに気づき、現地食材の応用を考え始める。この時期、ニッケイ料理は家庭料理からプロのシェフが作るレストラン料理へと進化していった。」(p.14)
あるいはまた、表紙カバー裏には、以下の紹介文が掲載されている。
「南米料理と和食のマリアージュ、“ニッケイ料理”。ブラジル・ペルー、そして日本の家庭料理を原点としつつ一流シェフたちが手がける『新しい和食』のトレンドを盛り込んだ至福のレシピ100種類以上を紹介。いま、日本料理は世界で進化を続けている。」
本書で紹介されているレシピは、すべて一流シェフ、あるいはハラ自身が考案したものである。それゆえ、掲載されているレシピのいくつかは、その料理名に有名シェフの名前が散りばめられている。あるいはまた、柚子とハラペーニョのドレッシングをかけた「ニッケイ風鯛めし」や、黒ビールを使った「ニッケイ流牛すき焼き」、南米でポピュラーなキャッサバのフライを添えた「ニッケイ・フィッシュ&チップス」、醤油・ライム・ニンニク・オリーブオイルのたれをかけながら焼く「ニッケイ風ブラジリアン・シュラスコ」などが紹介されている。従って、一般的な家庭で日系婦人が作るいわゆる「おふくろの味」とは、一味も二味も違うものだ。しかしながら、ハラは「家庭でつくる(ことのできる)ニッケイ料理」を提案している。そこには日本人シェフなり日系人の食体験に基づく知恵が生かされている。そして、彼らが言うように、「ニッケイ料理を創造するには、日本と南米双方の食文化を理解することが重要だ。南米料理に醤油と味噌を混ぜてニッケイ料理と呼ぶのはルール違反」、「その理解がなければフュージョンはコンフュージョン(めちゃくちゃ)になってしまう」、「日本の外で和食を完全に再現するのは不可能で、常に順応が必要だ」ということになる(p.15)。これらの指摘は、筆者自身もいつも感じてきたことだ。南米の日系婦人たちが、どうしたら日本と同じように日本食を作ることができるか、と頭を悩ませている姿を見て、違和感を覚えた。まずは身近にある素材を、場合によっては日本にない素材を、どうやって自分なりの料理に仕上げるか、それが基本ではないか。従って、「所変われば品変わる」で外国の日本食は日本の日本食とは同じにならない。それどころか、日本にはない「日本食」になり得るのである。なお、本書は最初に英語で、続いてスペイン語、そして日本語の順で出版されている。そして、それぞれのカバーデザインは、出版国の読者を意識して選ばれていることが分かる。
6.異文化における生活指南としてのレシピ集
異文化社会に渡れば、そこでの食材や食習慣は当然異なる。永住した移民がその典型なわけだが、一時滞在の場合はどうか。永住ではなくとも一定期間の滞在中にいったいどのような対処や工夫がなされるのか。これはいわば番外編であるが、以下の興味深い二つの事例を紹介したい。つまり、100年以上も前に書生としてアメリカに渡った若者の記録。そして、進駐軍として日本に来た米軍兵士の婦人たちが日本で試みた食生活の記録である。
『英語独案内 附・西洋料理法』筋師千代市 1901年
本書は書生としてアメリカに渡った単身移民が、帰国直後に書いた海外渡航者向けの自習用英語教材で、1901年に発行されている。著者の筋師千代市(すじしちよいち)は1876年に和歌山県太地村(当時)で生まれ、16才の時に米国カリフォルニア州に渡航し、現地で9年間を過ごした。『英語独(ひとり)案内 附西洋料理法』(English Japanese Dialogue and English Cookery)とタイトルにあるように、内容的には単なる英会話書ではなく実用案内書である。緒言に「予は米国に滞在せしこと九ヶ年間の長きに至れり其間家内的労働に或は農業に月日を消費しぬ然れども渡米最初英語の不通なるを以て日々の困難一方ならず苦心のあまり両眼より流涙せしことさへある」と述べ、英語を学ぶことの重要性を指摘し、「日用西洋料理法も便宜のために記しぬ」としている。この「日用西洋料理法」には「マイニチノコックノシカタ」とフリガナが振ってあり、料理法の個所は全201頁のうち68頁、つまり全体の三分の一を占めている。意図的かどうかは分からないが、大正5年版の英語タイトル後半部分English Cookeryは、そこだけ文字サイズが大きくしてあり強調されている。これはその当時、住み込みの家事仕事をしながら学校に通っていた書生と呼ばれた単身移民の生活実態を反映しているのだろう。つまり、西洋料理を作れる能力が不可欠だったということである。そのため本書ではアメリカの典型的な家庭料理を中心に130を超える料理方法を紹介している。その当時の日米間の食生活の違いを考えると、カルチャーショックをはじめ、習得には相当な困難が伴ったはずで、著者の並々ならぬ意気込みが感じられる。
その内容はと言えば、肉類・魚類・卵類のメインディッシュから、サラダ・ソース・デザート、そして朝食やパンの作り方まで、家庭における料理一般についてたいへん詳しい調理法を紹介している。さらに以下に見られるように、英語語彙への配慮もなされている。
「肉(ミート)を焼鍋(ローストパン)の上に置き膏身を上下に布き強き火の竈(オブン)の中にて二十分焙き次に茶碗(カップ)一盃斗りの湯を注き入れ時間半位ひ竈(オブン)の中似て蒸すものとす」(p.134-135)
「Scrambled eggs(スクランブルド エッグス) ミルクとバタと鹽(ソールト)とペパーを入れ焼鍋(フライパン)にてかき混ぜ日本の玉子煎の如くすべしあまり堅くすべからず」(p.150-151)
そこには日本食はおろか醤油や味噌も一切出てこない。アメリカ人家庭に住み込みとして働き、その社会に適応するために書かれたものであれば、当然と言えば当然である。しかしその30数年前にアメリカに渡った万延元年遣米使節団の侍や明治元(1868)年にハワイへ渡航した日本人移民(元年者)が、醤油なしの生活にもがき、往生していたことを思うと、その苦労や一種の潔さに感銘を受ける。アメリカ人家庭で提供する食事はともかくも、自分自身の食事はどのように対処していたのか。たいへん気にかかる。そのへんの記録は残っていないのだろうか。今後の課題である。
『アメリカ式家政法』極東学芸通信出版社 1949年
本書は初版が1948年12月、東京の極東学芸通信出版社により発行され、1949年3月そして7月と2回にわたり改訂され再発行されている。タイトルは『アメリカ式家政法』(The American Way of Housekeeping)となっている。しかし内表紙には英語で「of the Women of the Occupation by the Women of the Occupation for the Women of the Occupation」(進駐軍夫人のための進駐軍夫人による進駐軍夫人の)と付記されている。そして謝辞の項には、編纂に関わったのが「アメリカ婦人組合、騎兵将校夫人一同、キリスト教夫人協会、総司令部将校夫人一同、海軍将校夫人一同」とある。従って一見すると、在日アメリカ人のために書かれているように見える。しかし序文では、「この『アメリカ式家政法』が日本にいる背景を異にした人たちの間の相互の理解と親睦を醸し出すのに役立てばと願っている」とあり、二カ国語対訳になっていることからも、対象は進駐軍夫人だけではなく日本人も含まれていることが分かる。
本書全8章の中には「給仕法」と「料理と調理法」の2章が含まれ、レシピも多数記載がある。進駐軍夫人がその主対象であることから、そのほとんどは洋食であるが、その中には注目すべき点が二つある。一つは18項目あるうちの一つに「日本料理」の項があること。もう一つは聞き慣れないレシピが見られることである。レシピはすべて進駐軍夫人つまりアメリカ人による記名がある。
日本料理の項目には3つのレシピ「茶碗蒸し」「すきやき」「天ぷら」しかない。おそらくその当時、外国人が好んでいた日本料理だと推測される。とくに「すきやきはアメリカ人に最も親しまれている日本食です」とある。そこで気付くことは、材料に現在では入れないであろう「ほうれん草(spinach)」が使われていること。および、醤油の英語訳が「soy sauce」「shoyu sauce」「showa sauce(soy)」とバラバラなことである。時代を考えると、soy sauce が一般的かと思われるが、進駐軍ならではの現象と言えるかもしれない。ちなみに、レシピの中で醤油が使われているのはこの日本料理の3点だけである。従って、この当時外国人にとって醤油はまだまだ馴染みの薄い調味料であったのだろう。
聞き慣れないレシピとは、「フジヤマ」「進駐ケチャップ」「平野式の御飯」である。フジヤマ(Fujiyama)は、マフィンの上にチョコレートプリンさらにその上にココナッツをまぶしたデザートである。「赤い桜ん坊を頂上に一つのせます(噴火孔の火)」とあり、サクランボをトッピングして噴火口の火に見立てている。富士山を模していることからフジヤマと命名したようだ。「私の子供達はこの思いつきを大変喜びます」とあり、富士山はその当時から外国人にとっても人気があったということだろう。進駐ケチャップ(Occupation catsup)は、トマトベースで魚介類や肉にかけるソースのようだが、解説を読んでも何が「進駐」であるのかは分からない。唯一想像されるのは、使用する「トマトスープ(tomato puree)」(今でいうトマト・ピュレのことか)が缶詰であることから、それが進駐軍の配給だったからではないかと推測される。平野式の御飯(Rice a la Hirano)に関しても、何が「平野」式であるかの説明はない。玉葱・人参・セロリを使ったスペイン風御飯ということで、炊き込みご飯のようだ。
進駐軍関係者は、第二次大戦直後のこの時期、一般の日本人から見ればたいへん恵まれた食生活を送っていたと考えられるが、その後の戦争花嫁に繋がる日米間交流の兆しがここに垣間見られる。不明なことも多いが、入手できるものを生かしている点やネーミングの工夫が分かって興味深い。
7.手書きのレシピ
現在では、レシピ集というかたちで、様々なレシピが集められ、1冊の本として印刷され広く一般に共有されることは普通になった。しかしかつては、レシピは母から娘へ、あるいは知人へと、口伝えで、あるいはメモ書きによって、個人レベルで伝える時代があった。その名残は、今でも日系人の間で、おそらくどこかで残っているのではないかと想像していた。そして、その推測は的中した。仏教会婦人部のメモとして、博物館の資料として保管され、残されていた。あるいはまた、どこかの家庭にまだ眠っているかもしれない。
材料を箇条書きにしただけの簡単なものもあれば、手順をしっかりと示したカード式のメモもある。前者はカナダのスティーブストン仏教会で婦人会の方が使っている、「カリント」「カレイ」「チキン(てりやき)」「むしまんじゅう」「Mikasa」である。これらは婦人会でバザーや何かのイベントの際に、おおぜいでたくさん作る時に、情報共有のために誰かが書き残し、それが受け継がれているもののようだ。ローマ字書きや、鉛筆で英語訳が付けられていることから、異なる世代へも伝えられている。「百人分」との記載があるように、婦人会では様々な機会におおぜいの人数に対して、食事を提供する活動を担っている。従って、その仕事は協同作業であり、参加者全員が情報共有して取り組まなければならない。それゆえのメモでもあるわけだ。
「カリント」→かりんとう、「サト」→砂糖、「バタ」→バター、「カレイ」→カレー、「マガジン」→マーガリン、「MIKASA」→三笠と、本来ならば表記されるべきものだろう。耳で聞いた音がそのまま書き留められていることが分かる。しかし、これも異なる世代間でやり取りされた痕跡だろう。それよりも、こうしたメニューや菓子が定番として、現在まで受け継がれているということが、より大事な事実だろう。
バンクーバーにある日系ナショナル博物館には、下のようなレシピカードが資料として保管されている。「チャメン」は炒麺 Chow mein のことで、上記でも言及したが、北米日系人の外食の想い出としてよく語られるメニューである。多くの二世は、子どもの時に家族で外食した想い出として、チャーメン(五目中華焼きそば)を食べたと語っている。それを家庭でも作っていたという証拠になるだろう。そのほか、「カリフラワーのピクルス瓶詰」、「塩鮭の酢漬」、「醤油製法」、「納豆 造り方」などのレシピカードがあることから、これらは日系人のあいだで作られていた、あるいは現在も作られているかもしれない。
まとめ
最後に、まとめとして以下のアーノルド・ヒウラの著作を例にとり、本稿を総括したい。なぜハワイにおいてレシピ集が一番たくさん収集できたのか、というヒントにもつながっていると思うからである。
KAU KAU - Cuisine & Culture in the Hawaiian Islands(カウ・カウ - ハワイ諸島の料理と文化)Arnold Hiura 2009年
カウ・カウとは、ピジン(pidgin)と呼ばれる英語をベースとしたクレオール言語で、ハワイにおいて食物や食べる行為を表わす言葉である。著者のアーノルド・ヒウラはハワイ島生まれで、サトウキビ・プランテーションで育った。
『ハワイ・ヘラルド』誌の元編集者で、現在はヒロにあるハワイ・ジャパニーズ・センターの常任理事を務めている。ヒウラは、まさにカウ・カウとともに育ち、その実体験や地元のネットワークをとおして、ハワイにおける多様な食文化の歴史を掘り起こしている。カウ・カウは、ハワイのサトウキビやパイナップルのプランテーションで仕事をした移民たちが、昼食時に持ち寄った各々の母国料理をすべてカバーする言葉で、昼休み(lunch break)はカウ・カウ・タイム(kau kau time)と呼ぶのだという。
本書でヒウラは、ハワイへやってきた以下の各国・地域の移民の歴史を紹介しつつ(カッコ内は到着年)、その食文化とレシピを紹介している。中国人(1852年)、日本人(1868年)、ポルトガル人(1878年)、プエルトリコ人(1900年)、沖縄人(1900年)、韓国人(1903年)、フィリピン人(1906年)。
さらに、「カウ・カウ100選:エスニック持ち寄り料理手引き」(The Kau Kau 100: An Ethnic Potluck Primer)と題して、地元住民であればほとんど誰もが知っているハワイの食べ物100点をリストにして紹介している(p.34-35)。その中には、以下の日本の食品が32点、沖縄1点が含まれておりエスニックグループ別では最多である。
Andagi, Arare, Azuki, Furikake, Ika, Kamaboko, Kombu, Manju, Miso, Musubi, Namasu, Nishime, Nori, Ogo, Okazu, Ramen, Sashimi, Senbei, Shoyu, Soba, Somen, Tako, Takuan, Tempura, Teriyaki, Tofu, Tonkatsu, Udon, Ume, Unagi, Warabi, Wasabi, Yakitori
これらはいわば、本稿上記で触れた内容の復習になっている。つまり、日本人移民がハワイに持ち込み現地で定着した食文化リストであり、その多くは他の移住先国の日系人にも受け継がれている。さらに、ヒウラは以下の重要な指摘を行っている。
ハワイでは輸入と現地生産ともに可能だった
ハワイの場合は、こうした日本の食文化や食品を、「輸入することもできたし、自給して販売することも可能だった」(p.44)ことである。なぜならば、日本人移民は他のどのエスニックグループよりも大きな集団(第二次世界大戦以前の日系人人口はハワイ総人口のおよそ4割)だったことから相応の需要があり、好みの食べ物を日本から直接輸入することもできた(つまり採算が取れ輸入が可能だった)し、地元において自分たちで作り販売用に売ることもできたのである。この指摘は正鵠(せいこく)を得ている。日本製輸入品を手にすることができ、かつまた自分たちで現地生産も可能だったのは、おそらくハワイだけだろう。
ミックス・プレートに象徴される多様性
ハワイにはミックス・プレートという定番の料理がある。サトウキビ・プランテーションの昼食時に、各国移民が持ち寄ったベントウの中身が一つの皿に集められた料理で、いわば「多文化共生」料理である。
ハワイの人たちがハワイを離れて一番恋しく思うのは、何か特定の料理ではなく、その豊かな食の多様性だという(p.92)。そしてまさにそれはハワイにやってきた様々な移民、エスニックグループによる遺産である。多様な文化を背景とした食を共有し、受け入れてきたハワイの歴史である。
このほか、ハワイに限定したことではないが、移住先国すべて共通する以下の指摘は示唆に富む。
現地食材により順応させる
どんな移民集団においても、その母国料理をそのまま移住先で再現できるところはない。少なくとも当初は、現地で入手できる食材を活用するしかなかった(p.93)。しかしそこにこそ、日本ではできない創意工夫が見られ、新しい挑戦や開拓がある。そしてハワイの場合は、日本と同様に周りを海に囲まれ山が多いことから、海の幸山の幸に恵まれていることが日本の食文化受け入れをいっそう進展させていった。
より広く行き渡るための変容
各移民が持ち込んだ食文化の中には、より広い範囲の人たちに受け入れられるように、その味付けがよりマイルドに、あるいはより甘くより辛く、と様々な変容が起こっている(p.96)。これは私たち日本で生活する日本人が海外へ行くと、よく経験することである。ハワイや北米のテリヤキはかなり甘いし、北米でスシやサシミに使われるワサビがとんでもなく量が多いことを目にする。しかし、多数派(majority)への適合は避けて通れない現実であろう。
国内各地方の特徴(Regional characteristics)が残る
中国料理、日本料理、フィリピン料理といっても、それぞれの料理には国民料理(national cuisine)という呼び方では必ずしも表せない地理的・地域的な色合いの濃い料理や食品が見られることである(p.92-93)。これは、ハワイに広島県出身者が多いことからChi Chi Dango(乳団子)などが残っていることがその適例である。今後は、このグローカルな(glocal)な現象や取り組みがもっと重要性を増してくると思う。
このレシピ集調査で一番感じたことは、記録を残すことの大切さである。それも一人一人の各家庭での想い出、各団体での活動、それぞれの記録が、重要な歴史として次世代に刻まれていく。そして、サンフランシスコやバンク―バーでの取り組みのように、食に関わるファミリーヒストリーが、日系人としてのアイデンティティと深く関わっていることを、ぜひともおおぜいの人たちに共有してもらいたい。そして終りに、最近見つけた、ハワイ出身のある日系五世のコメントを紹介したい。
「人のアイデンティティは国籍ではなく、経験で出来ている。自分の経験はもちろんの事、先祖から引き継がれた経験でも構築されている。そして、私たちもそれを子孫に引き継いでいくべきだ。私は日系五世である。その肩書きに誇りを持っており、誰にも譲らない」。
この証言と、ハワイでは「Okage sama deおかげさまで」という言葉が大切にされている背景から、様々なことが分かった気がしている。
本調査でもおおぜいの方々にお世話になった。まさに「おかげさまで」。皆さんのお名前をあげることはできないが、とくに以下の3名の方々には、心から御礼申し上げたい。3名の方々の協力なくしては、到底本稿を書くことはできなかった。
Cyrus Tamashiro (Honolulu), Pam Yoshida (San Jose), 須賀孝子(Steveston)

早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員。新潟県三条市出身。上智大学在学中にブラジルへ留学。パラナ連邦大学大学院歴史科社会史修士課程修了。ブラジル全土をバス旅行してブラキチとなり、クリチバ市で移民研究に目覚める。約十年の滞在を経て帰国。大学等に勤務後、JICA横浜海外移住資料館の設立に関わり、現在同業務室。ブラジル・アメリカ・カナダなどの多文化社会における日本人移民の歴史、日系人のアイデンティティや日系コミュニティの変容に関心をもつ。研究の主要テーマはマツリ・エスニックタウン・食・翻訳など。































































