研究機関誌 「FOOD CULTURE No.32」相模屋堀切紋次郎家文書の概要

キッコーマン国際食文化研究センター 学芸員 川根 正教

相模屋堀切紋次郎家文書の概要 ~万上みりん創業家からの寄贈史料を紹介する~

はじめに

千葉県北西部に位置する流山市の伝統的な産業として、みりん醸造がある。そのみりんは、淡く澄んだ色合いから流山白みりんと呼ばれていた。流山のみりんは遅くとも19世紀初頭には醸造・販売が開始され、なかでも「万上味淋」と「天晴(あっぱれ)味淋」はよく知られている。ここで紹介する相模屋堀切紋次郎家文書は、相模屋の屋号で「万上味淋」を醸造・販売していた堀切家に代々伝えられてきた、1万1,000点以上に及ぶ古文書史料である。
流山のみりんについて、国学者であり佐原村(現千葉県香取市)里正であった清宮秀堅は、弘化2(1845)年に著した『下総国旧事考』巻十五 〇市集のなかで、「流山村。□町。戸およそ三百。醸酒米商多し。近来精醇九醞酒を出す。三都冠をなす。」と記している。この「精醇九醞酒」を清く澄んだみりんと理解すれば、遅くとも天保年間(1830~44)には、流山の白みりんは江戸・京都・大坂の三都で広く知られていたことになる。
「万上味淋」は相模屋堀切紋次郎、「天晴味淋」は秋元三左衛門が創業者である。秋元三左衛門家に伝わる古文書(秋元本家文書)は現在、流山市立博物館が所蔵しており、公にはされていないものの、同博物館の調査研究報告書『流山の醸造業Ⅰ』『流山の醸造業Ⅱ』などで活用されており、流山みりん醸造業の一端が明らかにされている。一方、相模屋堀切紋次郎家文書(堀切家文書)はキッコーマン国際食文化研究センター(以下「当センター」と記述する)が所蔵しており、平成26(2014)年から順次整理作業と一部の解読作業が進められ、流山におけるみりん醸造業を理解する上での貴重な資料として、活用を図ることが可能になりつつある。
ここでは、堀切家文書の収集の経緯と整理の方法についてふれ、主だった史料を紹介するとともに、研究成果の一端を記述することにしたい。解読をはじめとする調査・研究は、まだ一部の史料について行われたに過ぎないが、『FOOD CUITURE』誌に掲載されることによって堀切家文書の周知と活用が図られ、みりん醸造業に関する研究が進むことを望むものである。

堀切家文書の収集

ここで紹介する堀切家文書は、千葉県流山市流山の堀切家に代々保存されてきた文書群である。収集した史料は旧万上味淋株式会社(現流山キッコーマン株式会社)の敷地内にあった堀切家土蔵に長い間保存されていたもので、昭和30(1955)年に堀切家の屋敷がこの地から現住地に移転した後は、土蔵を再建したモルタル造りの蔵に保存されていた。堀切家のみりん醸造業は大正6(1917)年に万上味淋株式会社となり、大正14年には野田醤油株式会社と合併する。こうした大きな変化があった時期に6代堀切紋次郎がまとめた史料群と考えられる。
堀切紋次郎家は近世から万上みりんをはじめとする醸造業を相模屋の屋号で営んでいた。また醸造業経営のみならず、村政や明治初頭に成立した葛飾県政にも御用金取扱方として関与しており、文書群は大きく分類すれば相模屋関係文書、村関係文書、堀切家関係文書からなる。 現在、当センターが所蔵している堀切家文書は、4次にわたって収集された。
1次で収集した史料は、平成23(2011)年1月に8代当主堀切功章氏から直接寄贈された文書群である。一括された書簡類があることから、便宜的に史料数は件数とし、木製看板2点を含む概数1,065件が収集された。
2次で収集した史料は、何らかの事情によって市場に流出した堀切家文書の一部を、平成23年4月に古書店から買い戻したものである。史料数は62件で、店勘定帳や醤油造店勘定帳が主体となっており、葛飾県関係史料もわずかではあるが含まれているなど、貴重な文書群である。
3次で収集した史料は、古くから流山市立博物館が堀切家から寄託を受けていたものである。平成23年1月に堀切功章氏から当センターへ史料が寄贈されたのを契機に、堀切家文書の保存場所を1か所に集約することが望ましいとの判断があり、博物館から堀切氏へ返還し、同年9月に改めて当センターへ寄贈された。流山市立博物館が堀切家から寄託を受けていた史料件数は、483件である。同博物館によって整理は終了しており、一部については解読も行われ、その成果は先に記した博物館調査研究報告書などで活用が図られている。
4次で収集した史料は、平成28年11月に流山市立博物館が館所蔵の古文書を再整理したときに見つかった書簡・封筒など69点である。その取り扱いについて両者で協議を行った結果、3次収集史料と同様の理由により当センターが同年11月に受け入れをしたものである。
4次にわたる収集活動によって、収集当時の概数ではあるが、1,679件の堀切家文書が当センターにそろうことになり、関東における酒造業やみりん醸造業を物語る貴重なコレクションと評価することができよう。

堀切家文書の整理

4次にわたって収集した堀切家文書の整理は、燻蒸作業・中性紙箱への封入といった劣化防止処置、基礎情報の採取および目録作成のための詳細整理を順次進めた。収集と整理の経過については、表1「堀切家文書の収集と整理の経過」にまとめた通りである。
1次・2次収集史料については、現状記録作業、燻蒸作業を経て中性紙箱への封入および受け入れのための仮目録作成が行われた。史料は形態の特徴から、簿冊・綴葉装帳簿類、巻紙書簡類、罫紙類等に大別されるが、簿冊・帳簿類は1件ごとに、書簡類は一括されている束ごとに、罫紙類等は中性紙袋に封入可能な数ごとに、概数・年代などの基礎情報が採取された。
3次収集史料については、流山市立博物館への寄託期間が長期にわたったことがあり、目録作成、凡例、封入のすべての工程において当該博物館保管期のコレクション構造を維持した。なお、博物館によって付された堀切家文書の番号は197から212が欠番となっており、その経緯と文書の所在は不明である。以上のような整理作業を行い、平成23(2011)年11月15日には、1次から3次にわたって収集された堀切家文書の「仮統合目録」が作成された。
基本的な整理が終了した平成26年11月以降は、詳細整理を実施した。詳細整理では、1次から4次収集史料についての詳細な史料確認と目録の作成、史料へのバーコード貼付、サムネイル撮影などが行われ、平成31年3月から6月の10次詳細整理では、束状の一括史料を除き、詳細な「統合目録」が完成した。
令和元(2019)年6月から10月の11次詳細整理では一括史料の切り分け作業を行い、詳細整理が未着手の史料があるため若干前後する可能性はあるが、11,489点という堀切家文書の総点数が把握された。令和2年の12次詳細整理以降は、切り分けが行われた書簡・書類一括史料6,568点のうち、重要度の高い5,202点について詳細整理を進めており、令和3年度の14次詳細整理の結果、総点数は11,498点となった。今後は、令和5年度を目途に堀切家文書目録の完成を図る計画である。

堀切家文書の概要

堀切家文書は先に述べたように、下総国葛飾郡流山村において醸造業を営んでいた堀切紋次郎家に伝来した文書群である。これらの文書群の整理・分類を進め、併せて調査・研究を行うことによって、近世・近代を通じ関東の醸造業のなかでも重要な位置を占めていた流山で、中心的な役割を担っていた醸造家の実像を理解することができよう。
堀切家文書は、近世文書、近代文書、年欠史料、その他の史料、書簡・書類一括史料に大分類される。近世と近代は、廃藩置県が行われ、江戸時代までの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に統合した明治4(1871)年までを近世、それ以降の史料を近代として区分する。大分類した史料のうち近世文書・近代文書・年欠史料については、大分類の下位に中分類、さらに中分類の下位に小分類を設けて詳細な分類を行った。その他の史料とは包紙・封筒・看板などの古文書以外の史料、書簡・書類一括史料は堀切家において束状にして保管されていた史料で、一部を除いて詳細整理が終わっていない史料の一群である。
分類を行った結果、表2「堀切家文書の大分類と点数」のとおり、近世文書309点、近代文書3,993点、年欠史料456点、その他の史料172点、書簡・書類一括史料6,568点、合計11,498点となり、その割合を図1「堀切家文書の大分類の割合」に示した。 近世文書の中分類については、商業、家、支配、社寺、地域、絵図、その他に7分類した。
近世文書の約6割にあたる170点は、商業として分類した酒造業、みりん醸造業、しょうゆ醸造業に関わるもので、主だった史料として酒造75点、勘定帳46点、附立帳26点などが存在する。家関係文書としては日記・雑記類が主体となり、文化・信仰、冠婚葬祭に関わる史料、支配としては御用金関係、触書など、社寺では寺院に関する史料、地域では講や村政に関する史料、絵図では数点の絵図がある。
近代文書は堀切家文書の3割強を占めており、点数が多い。近代文書の中分類については、商業、家、地域、租税、行政、絵図、書籍、刊本、支配、貢租に10分類した。近代文書の7割弱にあたる2,546点は商業関係の文書である。近世文書と同じく、酒造業、みりん醸造業、しょうゆ醸造業に関わるもので、酒造と分類した史料は226点、みりんは299点、しょうゆは126点存在する。また、近代では金銭出納、株式、経営、施設・設備に関わる史料も多く残されている。家関係文書としては書状、金銭出納、諸書上、金銭貸借など、地域関係としては組合、通信などのほか銀行、鉄道に関わる史料、租税では所得、納税など、行政では布告・布達、村政など、絵図では地図や図面が数点、支配では御用金関係史料が存在する。
書簡・書類一括史料は、堀切家によって書簡類等が一括して保管されていた史料群である。先に述べた通り、現段階では詳細整理は終了していないが、仕切書・領収書、その他(商用関係)、書簡、その他(私用関係)、和歌・信仰に5分類されている。和歌・信仰を除き、これらの史料についてはさらに詳細な整理を進め、目録の完成を図っていく計画である。

表1 堀切家文書の収集と整理の経過
和暦 西暦 収集・整理 内容
平成23年度 2011年度 1月 1次収集 堀切功章氏から1,065件受贈
1~3月 1回整理 1次収集史料について、燻蒸、中性紙箱への封入、受け入れのための仮目録作成
4月 2次収集 古書店(岩神書店)から62件購入
4月 2回整理 2次収集史料について、燻蒸、中性紙箱への封入
9月 3次収集 堀切功章氏から483件受贈(流山市立博物館寄託史料)
9~12月 3回整理 3次収集史料について、燻蒸、中世紙箱への封入、1次から3次に収集された史料の「仮統合目録」を作成
平成26年度 2014年度 11~2月 1次詳細整理 510点について、史料の切り分け作業、仮統合目録で不足している情報を加えた詳細な目録作成、データベース登録のためのバーコード貼付、サムネイル撮影
平成27年度 2015年度 7~10月 2次詳細整理 501点について、1次詳細整理と同様の整理、データベース登録作業開始
平成28年度 2016年度 5~7月 3次詳細整理 帳簿類603点について、目録作成、サムネイル撮影
7~10月 4次詳細整理 束になっている一括史料について切り分け作業、目録作成、サムネイル撮影
11月 4次収集 流山市立博物館から69点受け入れ
1~3月 5次詳細整理 4次収集史料について、目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影
平成29年度 2017年度 8~9月 6次詳細整理 407点について、1次詳細整理と同様の整理
1~3月 7次詳細整理 448点について、1次詳細整理と同様の整理、仮統合目録と詳細な目録の統合
平成30年度 2018年度 8~10月 8次詳細整理 1,623点について、1次詳細整理と同様の整理、仮統合目録と詳細な目録の統合
12~3月 9次詳細整理 407点について、目録作成、サムネイル撮影、仮統合目録と詳細な目録の統合
平成31年度
令和元年度
2019年度 3~6月 10次詳細整理 962点について、1次詳細整理と同様の整理、詳細な「統合目録」が完成
6~10月 11次詳細整理 一括史料65件について、切り分け作業、内容分類、分類シール貼付、堀切家文書総点数は11,489点
令和2年度 2020年度 10~1月 12次詳細整理 11次詳細整理で切り分けした書簡・書類一括史料6,559点のうち723点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影
12~3月 13次詳細整理 書簡・書類一括史料6,559点のうち702点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影
令和3年度 2021年度 7~10月 14次詳細整理 書簡・書類一括史料6,559点のうち769点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影、総点数は11,498点
12~3月 15次詳細整理 書簡・書類一括史料6,559点のうち652点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影を計画
令和4年度 2022年度 16・17次詳細整理 書簡・書類一括史料6,559点のうち1,400点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影を計画
令和5年度 2023年度 18・19次詳細整理 書簡・書類一括史料6,559点のうち956点について、詳細な目録作成、バーコード貼付、サムネイル撮影を計画 和歌・信仰などの史料1,366点については一括登録して、整理を完了する計画

表2 堀切家文書の大分類と点数
大別 点数 割合
近世文書 309 3%
近代文書 3,993 35%
年次史料 456 4%
その他の史料 172 1%
書簡・書類一括史料 目録化 5,202 45%
非目録化 1,366 12%
合計 11,498 100%
図1 堀切家文書の大分類の割合

近世文書


近世文書については、先に述べた通り、中分類として商業、家、支配、社寺、地域、絵図、その他に7分類した。中分類の各点数は、表3「近世文書の中分類と点数」に示した。 ここでは、分類中の多数を占める商業関係史料として附立帳・勘定帳・棚勘定元帳、酒造記録、「醤油造棚勘定帳」、「手製 酒味淋本直志印鏡」、支配関係史料として葛飾県御用金関係帳簿、地域関係史料として「松尾社再建入用之控」、絵図として万上みりん樽と凧と町の絵を紹介することにしたい。

表3 近世文書の中分類と点数
商業 支配 社寺 地域 絵図 その他
170 97 21 3 9 3 6 309

附立帳・勘定帳・棚勘定元帳

堀切家の会計帳簿として、時期により名称は若干異なるが、附立帳・勘定帳がある。最も古い帳簿としては文化10(1813)年の「付立之覚」があり、天保2(1831)年の「付立」から大正2(1913)年の「店勘定下書帳」まで、ほぼ毎年の会計帳簿が残されている。また、文化13年から嘉永元(1848)年までの「棚勘定元帳」、嘉永2年から明治26(1893)年までの「在物附立帳」が並行して作成されている。
記帳される項目は、原材料の買入量と金額、酒・みりん・しょうちゅうなどの有物数量と換算した金額、店の出入金額、江戸問屋からの受取分見積額、諸取引先への支払い額などであり、最後に差引して決算額が求められている。単価は符牒で記され、数字の一はイ、数字の二はロで表し、例えば「ハヘがえ」とあればみりん一駄の単価は3.6両となる。一駄とは、2樽を表す単位である。
堀切家における経営状況の推移や、決算方法の変遷を理解するうえで、特に重要な史料群である。

堀切家文書37-32
文化10年「付立之覚」
堀切家文書30-37
慶応3年「店勘定調帳」

酒造記録

堀切家文書には「酒造記録壱」「酒造記録弐」など、酒造記録と表題が付された史料が5点、表題には付されていないが同内容の史料が5点存在する。
酒造記録の内容は触書や届書を書き写したもので、そこには酒造人ごとに、酒造株高・冥加永・酒造米高・酒造道具とその数量などが記録されている。このうち最も古い酒造記録は天明6(1786)年から同7年までを記録した「酒造記録壱」、新しいものは万延元(1860)年から慶応4(1868)年までを記録した「弐番酒造記録」である。こうした史料によって、断続的にではあるが流山における酒造人の変遷や酒造高の推移を理解することができる。
堀切家文書541「酒造記録弐」の「覚」では、堀切紋次郎が寛政2(1790)年に株高5石の酒造株を取得していたことが理解される。また、堀切家文書543「酒造記録三」は寛政2年から同6年までの記録で、関東御免上酒造りに参加した酒造人名と酒造高、「地廻り酒問屋名前之覚」、摂州・泉州などからの上酒の江戸入津樽数などが記録されている。

堀切家文書555・575・583 酒造記録

醤油造棚勘定帳

堀切家におけるしょうゆ醸造業は『野田醤油株式会社二十年史』によれば、酒造業の副業として天明8(1788)年に開始されたが享和3(1803)年に中断し、天保9(1838)年に再開したとある。堀切家では明治9(1876)年に「酒造不引合ニ付」として酒造を休造し、以降はしょうゆ醸造の比重が増す。
「醤油造棚勘定帳」は、再開後の天保15(1844)年から明治44(1911)年の間に作成された60数点が存在する。堀切家文書37-16は、元治2(1865)年に作成された「醤油造棚勘定帳」で、「壱番」「弐番」など号数が付された桶別に、仕込んだ日付と数量が記されており、最後に諸味数量などが合計されている。

堀切家文書37-16 元治2年「醤油造棚勘定帳」

手製 酒味淋本直志印鏡

堀切家文書224「手製 酒味淋本直志印鏡」は、酒・みりん・本直し※の印(しるし)を手製で描いた和綴じの帳面である。最初の頁には「嘉永五壬年 子ノ正月吉日 見世深造作」と記され、最終頁には明治12(1879)年の書き込みがあって、この印鏡は江戸末期から明治初期にわたって使用されていたものと考えられる。
史料に沿って記すと、銘酒大極上では「福禄」「東海」「淀川」「慶長」「時宗」など、銘酒吟造では「赤」、秘製上味淋では「万上」「松林」「萬上泉」、古味淋では「甘露水」、古味では「山山」など、本直志では「和合」、本直シでは「寿々嘉世」などがあり、それぞれの生産品の種類と印を知ることができる。
堀切家が醸造したみりんの主力である万上の印は、中央に「万上」と大書され、左上に「東都一」、右下に「関東上味淋之祖 相模屋紋次郎醸」、右上に朱書きで「上 秘製上味淋」と描かれる。なお、万上の印は明治18年に商標として登録された。
※本直しについては『守貞謾稿』に「美琳と焼酎を大略これを半ばに合せ用ふ」とある。

堀切家文書224 嘉永5年「手製 酒味淋本直志印鏡」

葛飾県御用金関係帳簿

明治2(1869)年に葛飾県が成立し、流山村の北に隣接する加村(現流山市加)に葛飾県庁が置かれた。流山を代表する商人であった3代堀切紋次郎は、葛飾県の成立当初から御用金取扱方として御用を務めていた。 堀切家文書には「葛飾県御用金出入帳」「壱番 葛飾県御用金預控」「御用金諸渡帳」などの御用金関係帳簿が12点存在する。帳簿の作成者として「懸屋 堀切紋次郎」と記される場合もあって、御用金取扱方は懸屋とも称されていたことが分かる。
御用金取扱方の業務は県下の村から「上納金」「租税金」を集め、県の指示に応じて手形で納めるものとされているが、具体的な内容には不明な点が多い。御用金関係帳簿には村ごとの年貢、国役金、普請金の受け取りなどが記録されていると考えられ、明治初年の年貢納入の実態や御用金取扱方の詳細な業務内容、地域における堀切家の役割などを明らかにできる可能性がある。

堀切家文書14-1 明治2年「葛飾県御用金出入帳」

松尾社再建入用之控

堀切家文書559「松尾社再建入用之控」は、天保3(1832)年に当時の流山酒造仲間が、酒造の神である松尾社石祠を建立した際の記録である。
松尾神社は流山6丁目に所在する赤城神社境内に祀られており、現在の石祠は平成7(1995)年に再建されたものである。その右隣りに、天保3年に建てられた石祠が現存している。史料には石祠を建立するにあたって、酒造仲間である秋元(三左衛門)・相重(重左衛門)・相紋(紋次郎)・安久(久左衛門)・鴻池(由太郎)・同浦蔵(栄助)・安利(利兵衛)の7人が合計17両2分を出し合ったことが記されている。

堀切家文書559 天保3年「松尾社再建入用之控」

万上みりん樽と凧と町の絵

堀切家文書7-1-4-10は、「画狂老人卍」と絵師名が記された摺物である。縦175㎜、横485㎜の横長の形状で、右下に「齢八十二 画狂老人卍」の署名と方印があり、画面の右には2つの樽と樽の上に載せられた凧が描かれている。手前の樽には中央に「万上」、右に「秘製上味淋」とあり、左には「東都一大樽」の朱書がみられる。奥の樽には、「関東上味淋之祖相模屋紋次郎醸」とある。画面の中央から左には風景画が描かれ、流山村らしき集落と江戸川、江戸川を集落方向へ進む渡し船、集落の奥には「流山」の地名由来となる赤城山、さらに奥には筑波山と考えられる山並みがみられる。
「画狂老人」という絵師名は、浮世絵師である葛飾北斎が晩年の天保5(1834)年から嘉永2(1849)年まで使用した名であり、「卍」名も同様に天保5年から嘉永2年まで使用したものである。また、富士の形をした方印は、天保5年に刊行された「富嶽百景」初編で初めて北斎が使用したとされている。こうした研究成果に基づくと、史料は北斎が82歳、天保12年に作成したものと考えることができよう。この史料は下絵・彫・摺とも入念で、上質な奉書紙が使用されている。どのような目的で作成されたのかは不明であるが、凧が描かれていることから、正月の何らかのお祝いを目的として作成されたものであろう。
万上印が誕生し、以降天保年間(1830~44)にはさまざまな形で万上という印を持つみりんの積極的な周知活動が行われたことが推測できる。

堀切家文書7-1-4-10 万上味淋樽と凧と町の絵
「画狂老人卍」名部分

近代文書


近代文書については、先に述べた通り、中分類として商業、家、地域、租税、行政、絵図、書籍、刊本、支配、貢租に10分類した。中分類の各点数は、表4「近代文書の中分類と点数」に示した。

ここでは、近代文書のうちの多数を占める商業関係史料として仕切帳、仕込帳、大福帳、酒類売上帳、荷物判取帳、商標関係文書、日記帳、家関係史料として賞状類、地域関係史料としては「流山軽便鉄道改造ニ付嘆願書」、「至誠講規定簿」、絵図として万上みりん工場絵図面を紹介することにしたい。

表4 近代文書の中分類と点数
商業 地域 租税 行政 絵図 書籍 刊本 支配 貢租
2,546 1,065 121 135 49 73 1 1 1 1 3,993

仕切帳

明治30年代前半に作成された「味淋仕切帳」、「醤油仕切帳」などが堀切家文書に残されている。
堀切家文書154「味淋仕切帳」は、明治33(1900)年7月15日と表紙に書かれた史料で、1月から6月を前半期、7月から12月を後半期とし、取引のあった問屋別に記帳している。
記帳する項目として月日、「万上」など納品をしたみりんの種類、「白味 弐太片馬」「古味 拾太」などの品名と数量、荷を運んだ「利助舟」「庄兵エ舟」などの船名、「替」とあるみりん単価と代価が記される。最後に半期ごとの納品数量と代価を合計し、受け取り済みの内金、蔵敷口銭、はしけ代などの内金を差し引いた金額が算出され、この残金を受け取った月日を朱書きし、「仕切済」と朱で押印している。
仕切帳は、当時の取引先である問屋、みりんの販売量と金額、また万上の専用船などを知るうえで貴重である。

堀切家文書154 明治33年「味淋仕切帳」

仕込帳

近代のみりん仕込帳は15点あり、このうち簿冊の「味淋仕込・焼酎蒸留日記帳」は、明治44(1911)年から大正7(1918)年まで毎年作成されている。作成者は大正6年までは堀切紋次郎、大正7年は万上味淋株式会社となる。
堀切家文書8-13「味淋仕込・焼酎蒸留日記帳」は大正2年から同3年までの仕込みを記録したもので、項目は仕込日、仕込みを行った樽の号数と量、酒精度、麹米の産地、「山山」・「万上」などのみりんの種類が記録されており、各年度に醸造されたみりんの種類と数量を知ることができる。

堀切家文書8-13 大正2年「味淋仕込・焼酎蒸溜日記帳」

大福帳

大福帳は帳簿の主要なものとされるが、他の帳簿に転記された後、当時の保存期限により廃棄されたためか、堀切家文書には明治23(1890)年から明治31年までの数冊が残されているに過ぎない。
堀切家文書16-8は明治31年に作成された大福帳で、表紙に大福帳、裏表紙に堀切紋次郎と大書されている。「高為」「一木」「奴利彦」「牧原」など当時取引のあった問屋別、販売した日付ごとに、「万上印白味」など販売したみりんの種類と駄数、朱書きの単価と金額、搬送した船名が記帳されている。
6月末と12月末には販売したみりん数量と代金が合計され、内金と屋敷口銭あるいは蔵敷口銭、はしけ代を差し引きした金額が算出され、仕切済と押印される。

堀切家文書16-8 明治31年「大福帳」

酒類売上帳

酒類売上帳は、明治29(1896)年から明治41年に作成されたものが13点存在する。
堀切家文書22-13は明治32年に作成された「酒類売上帳」で、みりんの売り上げが記録されている。「三十一年度古味淋」と「三十一年度新味淋」、小売りと東京問屋別に記帳している。小売りは流山と東京・千葉・埼玉・栃木・群馬など関東近県に多いが、北海道にも販売されている。記帳される項目は、月日、石数、代金、売渡先住所、氏名で、日付別、売り先別に記し、「月計」と「通計」を求めている。小売りの数量は「斗」単位での販売が多いのに対し、東京問屋への販売はすべて「石」単位である。

堀切家文書22-13 明治32年「酒類売上帳」

荷物判取帳

荷物判取帳は、明治30(1897)年から明治42年の間の史料が17点存在する。この帳簿は、万上みりんを搬送した「太平小船」「庄兵衛船」「手船利助船」「手船亀吉船」など、船別に作成されている。
堀切家文書14-4は明治40年に作成された「庄兵衛船」のものである。先頭頁には収入印紙が貼付され、「此帳簿之附立期限 自明治四十年八月 至四拾壱年七月」、帳簿の紙数は百弐拾枚と記されて、堀切紋次郎の署名と印がある。内容は、荷を受け取った問屋がみりんの種類と数量、「右正ニ受取申候也」などと記したうえ、日付と問屋名を署名し押印したものである。

堀切家文書14-4 明治40年「荷物判取帳」

商標関係文書

商標関係文書として、明治17(1884)年に制定された商標条例に関わるもの、大正9(1920)年の「聯合商標登録査定謄本」などが存在する。
堀切家文書226は明治17年の条例制定時に、商標登録をするために作成された文書の控えである。しょうゆとみりんに使用する商標見本と意匠を説明し、農商務卿西郷従道宛てに提出している。「万上味淋」樽詰に使用する商標では、「万上」の烙印の右肩上に「上」字、右側に「秘製上味淋」と朱書きし、「改正」印とその脇に「関東上味淋之祖相模屋紋次郎醸」印を烙印するなど、配置する文字列の意匠が詳細に説明されている。

堀切家文書226 明治17年「明細書」

日記帳

6代堀切紋次郎が記した日記帳として、堀切家文書442「明治四十一年当用日記」、堀切家文書441「明治四十二年当用日記」がある。
この頃は日露戦争後の経済恐慌が始まった時期にあたるが、堀切家の総資産額がピークに達した時期でもある。紋次郎が37歳、38歳※の時であり、醸造家として積極的な経営を図ったことが日記帳から読み取ることができる。明治41(1908)年にはみりん醸造法の改良について熱心な研究を行っており、「濃厚味淋醸造法」と「純粋葡萄糖製造法」について専売特許の申請をしている。
また、工業の近代化へと向かう時期にあたり、蒸気機関や最新式濾過機の導入、井戸掘り、釜の新調、大煙突の建設など、醸造設備の充実に努めたことが綴られている。
※年齢は、引用部分を除き、満年齢とした。

堀切家文書441 明治42年「当用日記」

賞状帳

堀切家の地域社会への貢献については、明治時代以降の感謝状や表彰状によって知ることができる。
堀切家文書13-9は明治10(1877)年、学資として流山学校へ寄付したときに千葉県から贈られた賞状である。この他に、明治12年のコレラ流行に伴う流行病予防費、明治19年のコレラ大流行に伴う避病所新築費、松戸警察署流山分署の建築費、明治22年3月の関宿・松戸間道路修繕費、明治23年の水戸脇海道土功費などの寄付に対する賞状類が残されている。
火災時における救恤、教育の普及や教育施設建設への寄付、医療への寄付、警察署建設や道路整備への寄付など、堀切家ではさまざまな分野への寄付を行って地域社会に貢献している。

堀切家文書13-9 明治10年 学資寄付賞状

流山軽便鉄道改造ニ付嘆願書

千葉県松戸市の馬橋駅と流山市の流山駅を結ぶ現在の流鉄流山線は、大正5(1916)年に流山軽便鉄道として営業を開始している。鉄道敷設申請に対する千葉県知事の回答書には、流山町の名産みりんが直ぐに輸送できるようになる、などと記されている。
堀切家文書19-283「流山軽便鉄道改造ニ付嘆願書」は、大正9年に流山町長をはじめとする町民など129人から、当時流山軽便鉄道株式会社相談役の堀切紋次郎に宛てた、鉄道線路幅の改造についての嘆願書である。
開通したときの流山線は2フィート6インチという狭軌が採用されたため、常磐線へ直接乗り入れすることはできなかった。史料では、線路幅を拡幅することによって常磐線と連絡し、貨物運搬ができるようにすれば町は一層発展するので「特別御援助ヲ得」たいと嘆願している。大正13年には、常磐線との直通運転が開始される。

堀切家文書19-283 大正9年「流山軽便鉄道改造ニ付嘆願書」

至誠講規定簿

流山市流山1丁目には現在、正保元(1644)年建立と伝えられる浅間神社が祀られている。
明治6(1873)年の堀切家文書19-385「至誠講規定簿」には、浅間神社再建費用の集金方法についての取り決めが記されている。
内容は、安政3(1856)年の風災により社殿が吹き潰され、仮の社殿に祭神を祀ったままなので、堀切紋次郎や秋元三左衛門など6人が世話役となって至誠講と名付けた講を組織し、当月から130か月をかけて金3,000円を積み立て、浅間神社を再建しようとするものである。

堀切家文書19-385 明治6年「至誠講規定簿」

万上味淋工場絵図面

明治21(1888)年に描かれた万上みりん工場の絵図面で、堀切紋次郎が千葉県知事船越衛宛に提出した堀切家文書32-81-4「酒造見込種目幷石数御届」の付図である。
これまで万上みりん工場内の諸建物については、明治29年『千葉県博覧図』に所収されている銅版画(図2~図4)しか知られておらず、建物の配置、諸建物の用途・規模などは不明であった。
届には、みりん・銘酒の見込石数、醸造方法、酒造場建物、諸桶数量、諸道具の種類と数量が記されている。酒造場建物については、絵図面に描かれている通り、「酒造ニ属スル分」として倉庫8棟、釜場1棟、麹室1棟、納屋1棟、蒸溜場1棟、槇庫1棟、米搗場1棟、穀庫1棟の規模と坪数、「酒造に属セサル分」として居宅6棟、倉庫2棟の規模と坪数が書き上げられている。

図2 明治29年『千葉県博覧図』
「万上皇国第壱等味淋醸家之始祖千葉県下下総国東葛飾郡流山相模屋 堀切紋次郎」(西半分)
図3 明治29年『千葉県博覧図』「其二 万上 醸造蔵」(東半分)
図4 明治29年『千葉県博覧図』「其三 醤油醸造所千葉県下下総国東葛飾郡流山相模屋 堀切紋次郎」
堀切家文書32-81-4 明治21年 万上みりん工場絵図面

堀切紋次郎家について


堀切紋次郎家の故地

万上みりん醸造家として知られる流山の堀切家は、明和3(1766)年に現在の埼玉県三郷市番匠免から移り住んだことが明らかである。流山市流山6丁目に所在する真言宗豊山派光明院の墓地にある初代堀切紋次郎の墓石には「武州二合半領番匠免村堀切浅右衛門三男 流山相模屋之祖紋次郎行年七拾七歳没 天保八丁酉年二月二十五日 下総州葛飾郡野田町茂木佐平治女 元祖堀切紋次郎妻八重女七十七歳没 天保十四癸卯年正月十九日」と刻まれている。
『野田醤油株式会社二十年史』などによると、堀切家の祖先は桓武平氏千葉氏の一族で、平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した千葉介常胤(つねたね)とされる。常胤の三男武石胤盛(1146~1215)は落城後、堀切村(現東京都葛飾区)に堀切将監と号して住まい、その後およそ400年の間、浪士として過ごしたという。将監11代の末孫勝右衛門は寛永年間(1624~44)に二合半領上彦川戸村(現埼玉県三郷市)に住まいを移し、その子の伝右衛門はさらに下彦川戸村に移り住んだとされる。
そして伝右衛門の子である宇右衛門の次男清左衛門が、享保年間(1716~36)に二合半領番匠免村に住んで初代堀切浅右衛門と名のる。初代浅右衛門は酒・味噌の醸造を始め、遠祖が相模国鎌倉に居住していたことから相模屋を屋号としている。2代浅右衛門の三男が明和3(1766)年に流山に移住し、堀切紋次郎家を興して酒造業を営むことになり、本家と同じく相模屋を屋号とする。堀切紋次郎家では7代まで紋次郎を襲名し、現在は8代にあたる堀切功章氏が当主となっている。
堀切紋次郎家が御本家様と呼んでいた堀切浅右衛門家は、『埼葛の酒文化』によれば初代浅右衛門である清左衛門が寛政2(1790)年に2,500石、寛政5年に1,700石の関東御免上酒を醸造している。寛政6年に紋次郎も関東御免上酒造りに参加しているが、その石高は320石5斗であり、堀切家浅右衛門家の規模の大きさを伺い知ることができる。
流山のみりん醸造家秋元三左衛門が双樹と号して俳句を嗜んだように、当時の豪商・豪農として3代浅右衛門は湖竹、4代浅右衛門は鯉丈と号した葛飾派の俳人としても知られている。堀切浅右衛門家では、慶応4(1868)年に5代が亡くなって6代が相続しているが、その後の家業のあり方について堀切紋次郎をはじめとする親類一同に相談している明治7(1874)年の書簡が堀切家文書に残されている。いずれにしても、堀切浅右衛門家では6代浅右衛門までは酒造業を営んでいたものと考えられる。
万上みりんは『野田醤油株式会社二十年史』などによると2代堀切紋次郎が27歳の時、野田の高梨家の後援を得て開発し、文化11(1814)年に発売を開始したとされる。高梨家は上花輪村(現千葉県野田市)の旧家で、野田醤油株式会社創業8家の一つである。堀切紋次郎がみりんをつくるにあたっては高梨家の協力を得たとされているが、詳細な経緯は不明である。堀切浅右衛門家と高梨家は、遅くとも文政4(1821)年以前から交流のあったことが知られており、おそらく、高梨家と堀切家との交流は、堀切紋次郎家よりも堀切浅右衛門家との間で始まったものと考えられる。初代堀切紋次郎の妻は3代茂木佐平治の次女であり、また22代高梨兵左衛門の孫にあたる八重であることから、堀切紋次郎がみりんを開発するにあたっては、高梨家の協力を受けたと考えることができよう。

図5 堀切紋次郎家系図

歴代紋次郎の事績と家訓・家憲

前述した通り、流山堀切紋次郎家は番匠免村堀切浅右衛門の三男が興したと初代紋次郎の墓石に刻まれている。初代から6代紋次郎および家業に深く関わった人物の事績と残された家訓・家憲について、史資料から分かる範囲内で順に述べることにしたい。

心自證心信士

堀切家の墓地は、流山市流山6丁目真言宗光明院墓地の一画に所在する。そのなかで、最古と考えられる文化5(1808)年の墓が、心自證心信士のものである。名・生年や堀切紋次郎家との関係は不明であるが、堀切家文書32-33により、明治40(1907)年に堀切家によって百回忌が営まれたことを知ることができる。
先に述べた通り、堀切紋次郎家は初代紋次郎が明和3(1766)年に流山へ移住して興したとされているが、初代が5歳の時のことになる。史料的な裏付けはないが、心自證心信士は初代紋次郎と共に番匠免村から移住し、家業の創業に深く関わった人物と想定されよう。

初代 堀切紋次郎(宝暦11~天保8年)

堀切紋次郎家の創始者である。番匠免村2代堀切浅右衛門の三男で、生年は宝暦11(1761)年、没年は墓石から天保8(1837)年で、戒名は阿覚浄性信士である。妻は野田町の茂木佐平治次女の八重で、生年は明和4(1767)年、没年は天保14年で戒名は授法妙吽信女である。
墓石右側面には、初代紋次郎が番匠免村堀切浅右衛門の三男で、流山相模屋の祖であると刻まれている。『野田醤油株式会社二十年史』によれば、流山に移住したのは明和3(1766)年5月で、酒造場を創設し相模屋蔵と称したとある。また、天明8(1788)年に副業としてしょうゆの醸造を開始したが、享和3(1803)年に廃止したと記している。同書では、初代紋次郎は3代堀切浅右衛門の三男としているが、3代浅右衛門の生年は宝暦3(1753)年であり、初代紋次郎の生年が宝暦11年であることを考慮すると、初代紋次郎は2代浅右衛門の三男とするのが妥当であろう。
堀切家文書541「酒造記録弐」は、紋次郎が寛政2(1790)年に酒造株を入手したことが分かる史料であり、このときの当主は初代紋次郎である。また、寛政6年と同7年には、関東御免上酒造りに参加している。2代紋次郎がみりんの販売を開始したのが文化11(1814)年とすると、初代が53歳の時のことになる。

堀切家文書541 寛政2年「酒造記録弐」
次頁には「一造高五百拾壱石五斗」とある

『野田醤油株式会社二十年史』に初代紋次郎が記したとされる家訓が掲載されており次に引用する。

 一、御公儀様御法度之儀堅く相守申候事
 一、親類朋友に親み睦敷可致候事
 一、貧賤又は奉公人等に至る迄慈愛すべし
 一、火の用心大切に可致事
 一、百姓は菜種きらすな公事するなと申すたとへ忘る可からず
 右の外は常々申教へ候通り相心得可申候事
                                 未七十五歳 初代 堀切紋次郎
     

堀切紋次郎家初めての家訓であり、初代が最晩年の天保7(1836)年に定めたものである。最初に公儀の尊重が掲げられ、2つ目に親類や朋友との和合、3つ目に奉公人などに対する心得、4つ目に火元用心が記されている。
5つ目の農業への出精、争いごとの停止については、初代が未だ家業を農業とし、酒造を余業と考えて定めたものか、あるいは酒造を農業に例えたものかは不明である。商売上の心得などについては具体的にふれておらず、家や生活一般についての教訓を定めたものといえよう。ただ最後に、常々申し教えている通りと結んでおり、商売に関しては成文化されていない心得が存在していた可能性は考えられる。また、奉公人に慈愛を持てという条文は、これ以後も伝えられていく堀切紋次郎家の奉公人に対する基本的な理念である。

2代 堀切紋次郎(天明8~弘化2年)

初代紋次郎の子で生年は天明8(1788)年、没年は弘化2(1845)年で、名は伊之松、戒名は観阿即應信士である。妻は江戸亀島町日野屋清兵衛娘利代で、生年は寛政9(1797)年、没年は明治18(1885)年で戒名は即心妙慧信女である。
2代堀切紋次郎の墓石右側面には、「二世堀切紋次郎行年五十八才没 □□弘化二乙巳秊十二月十六日也 江戸亀島町日野屋清兵衛□女 二世紋次郎妻利代」と刻まれている。日野屋清兵衛の詳細については不明であるが、亀島町は現在の中央区日本橋茅場町にあたり、何らかの商売を営んでいた商人と考えられる。堀切紋次郎家と早くから取引のあった矢野屋伝兵衛をはじめとする矢野屋一族は、亀島川の対岸に位置する霊岸島四日市町・南新堀・富島町で醤油酢問屋、地廻り酒問屋を営んでおり、こうした人びとと関わりのあった人物と想定される。屋号から判断すると、日野屋、矢野屋ともに近江商人の可能性がある。
『野田醤油株式会社二十年史』によれば、2代が27歳のときに野田高梨家の後援を得て白みりんを試醸し、文化11(1814)年に発売を開始したとある。みりんを開発した理由として、『野田醤油株式会社二十年史』では酒造業が衰微したためと記しているが、裏付けとなる史料は不詳である。2代紋次郎が販売したみりんは天保年間(1830~44)には軌道にのったと考えられ、それまで家業の主体となっていた酒造に代わって、みりん醸造が家業の中心になっていく。しかし、天保年間には飢饉が発生しており、この影響によって酒造米高の減少を防ぐためか、酒造株を買い足しており、同年間には1,350石の酒造米高となっている。「万上」の印が誕生したのも、2代紋次郎の時である。

3代 堀切紋次郎(文化10~明治5年)

2代紋次郎の子で生年は文化10(1813)年、没年は明治5(1872)年で、名は徳次郎、戒名は諦観長榮信士である。妻は4代堀切浅右衛門娘長で、生年は文政2(1819)年、没年は慶応4(1868)年で戒名は諦信妙果信女である。
3代紋次郎は、父である2代紋次郎が大病を患った弘化2(1845)年7月、32歳の時から家業の中心となって活躍した。2代からの帳簿である「棚勘定元帳」を引き継ぎ、嘉永2(1849)年からは後続の帳簿として「在物附立帳」を丹念に記帳している。江戸問屋との酒類取引量は、最晩年の明治初頭を除き、これを大幅に増加させた。また、酒造株の買い増しも積極的に図っており、酒造米高は安政年間(1854~60)に2,750石、万延元(1860)年に3,650石となる。
3代紋次郎は安政年間初頭に、家業を4代に相続させたと考えられるが、4代紋次郎が安政2(1855)年に没すると、再度家業を担うことになる。明治5(1872)年に没するまでには長女八重の婿として良助を養子とするが、その良助が文久2(1862)年に没すると、堀切浅右衛門家から5代紋次郎となる儀助を婿養子として迎える。
慶応元(1865)年5月、第2次長州征討と呼ばれる事件が起こる。徳川家茂の進発にあたり、上納金を預けた褒美として3代紋次郎は苗字帯刀を許され、儀助は銀10枚を受け取っている。明治2(1869)年2月、流山村に接する加村の旧田中藩本多家の屋敷跡に葛飾県庁が置かれる。3代紋次郎は葛飾県役所の公金の出納を管理する御用金取扱方になり、財政的な側面から県政を支えた。
3代紋次郎が記した家訓として、堀切家文書112(三世紋次郎家訓)があり、次に掲げる。年代は不明であるが、その内容から4代紋次郎が没し、5代となる儀助が婿養子となった元治元(1864)年ごろと推測される。

 御公儀様御法度之儀者何事ニ不寄堅く相守可申事

一.

万事之儀表立て儀母たり共婦人江相談致間敷候事女は知恵浅く心かたましきゆへなれバなり

一.

醤油造蔵之儀は手前持之心得ニ致し可申候乍去余り手広にて行届兼候節は兄弟之内慥成者も出来候ハヾ支配申付分合取り抔ニも為致候儀は其時宜ニより何れ共取斗ひ可申事

一.

味淋醤油共品物落不申候様時々刻々気ヲ付可申候升目ハ勿論之事ニ候然ル上ニ高利ヲむさぼらず薄利ヲ専一ト心掛け可申候酒造之節は手練次第ニ而銘酒も出来候品故是ハ其時宜ニより掛引可致候右之心得ニ而商内油断不致候へは永続可致事○諸商内共身分ニ不応おもむく大手の事ハ堅く致間敷候手広之商売ニ相成候故日々刻々心ヲ用ひ候共不行届勝手成事と相心得可申候おもむく商内は時々致し候間は大利とも得候へ共大損も又ゝ有之候事故夫がために手広之商売不行届ニ相成候而は却而大損之基ひニ相成申候

初代の家訓と同様、最初に公儀の尊重が掲げられ、次に3か条にわたって商売に関する具体的内容が示されている。
1つ目は、商売のことは婦人に相談しないように、と店を運営していくうえでの心得を記している。堀切家では、2代紋次郎が51歳、3代紋次郎が26歳の天保10(1839)年に、一時中断していたしょうゆ醸造が再開される。2つ目として、しょうゆ醸造については手前持の心得にいたすよう述べており、家業の中心は酒造であって、しょうゆ醸造は副業的な位置づけであったことが理解される。同時に、商売の発展に伴う兄弟での分業も示唆している。3つ目として、みりん・しょうゆ共に品質や量目を落とさず薄利を心がけ、酒造は手練しだいで銘酒ができるので、油断しなければ商売は永続するとしている。
商売全体にわたる心得としては、身分に応じた商売を行い、手広く行うことは大損の基であると述べており、商売の発展・拡大に伴い、家業としての酒造・しょうゆ醸造を確実に継承するために定められた家訓とみることができよう。辞世の句とされる短歌が岩崎徂堂「堀切家の家憲」に取り上げられ、堀切家文書48(3世紋次郎家訓)として残されている。『野田醤油株式会社二十年史』をはじめとする社史には記されていないので、次に掲げておく。

家の業よく勤よやこの外に いゝおく露のことの葉もなし

「堀切家の家憲」によれば、みりんの改良に奏功した結果をもって終世の理想と詠んだもので、これ以降の歴代堀切家当主が奉じたものとしている。ただし、同書では2代紋次郎の句として取り上げている。

4代 堀切紋次郎(文政元~安政2年)

3代の弟とされ、生年は文政元(1818)年、没年は安政2(1855)年で、名は伊助、戒名は法屋知郷信士である。妻は松戸の安蒜権左衛門娘多喜で、生年は文政5年、没年は明治23(1890)年で戒名は仏生妙心信女である。
4代がいつ、どのような経緯によって3代から家業を受け継いだのかは不明であり、4代は3代より先に37歳で没している。3代によって作成された「在物附立帳」は嘉永6(1853)年で中断し、3代が没した明治5(1872)年から、5代紋次郎の手によって記帳が再開される。こうしたことなどから、4代が家業を担ったのは、安政元(1854)年から同2年までと推測することができよう。安政元年は3代が41歳の時である。
『野田醤油株式会社二十年史』には、「三代主・四代主共に稼業に精励し流山味淋の声価は益々世に知られ売行激増して来た」と記述されている。

5代 堀切紋次郎(天保元~明治11年)

5代堀切浅右衛門の三男であり、3代紋次郎の養子として迎えられる。生年は天保元(1830)年、没年は明治11(1878)年で名は儀助、戒名は慈恵良赫信士である。妻は3代紋次郎長女八重で、生年は天保6年、没年は大正4(1915)年で戒名は賢明妙仁信女である。
堀切家文書18-5「在物附立帳」には、明治5年に3代紋次郎が病気のために隠居し、儀助が紋次郎と改名して、家督を相続する旨を印旛県役所に願い出た文書の下書きがある。家督を相続するにあたって、役所へ提出した文書はこの史料以外にはないので、次に掲げる。


 弐郷半番匠免
   堀切浅右衛門三男
        堀切儀助
        三拾五才
  流山村
     堀切紋次郎方江
    元治元年子三月聟養子成 
    壬申歳五月九日家督願
    左ニ記置候也
    乍恐以書附奉申上候也
 御県下流山村堀切儀助奉申上候
 私儀堀切紋二郎長男ニ御座候
 当区内戸長勤役中ニ候処
 今般父紋二郎義病身ニ
 相成候ニ付考平与改名隠居
 致私儀者堀切紋二郎与
 改名家督仕度此段奉申上候
 何卒以御仁恤右之段御聞済
 被下置度奉願上候以上
      御県下流山村
      農堀切紋二郎倅
 壬申     戸長
  五月九日   堀切儀助
        右
         堀切紋二郎
 印旛県
  御役所

これによれば、儀助は元治元(1864)年34歳で3代紋次郎の婿養子となり、8年後の明治5年に5代紋次郎を襲名して、家業を相続している。
幕末から明治初年の動乱期にあって、明治初年に堀切家の附立有金は落ち込むが、それ以降明治8年まで、5代は附立有金を順調に増加させていく。嘉永6(1853)年に中断していた「在物附立帳」の記帳は、3代紋次郎が没した明治5年から5代が再開している。明治10年堀切家文書14-7「店勘定取調簿」には、明治9年に「酒造不引合ニ付」酒造を休業したとあり、以降はしょうゆ醸造業の比重を大きくするなどして不安定なこの時期を乗り切り、家業を発展させている。
5代は、明治6年にオーストリアで開催されたウィーン万国博覧会にみりんを出品し有功賞牌を受賞、産業博覧会の性格を持つ明治10年開催の内国勧業博覧会では花紋褒章を受章している。

堀切家文書14-7 明治10年「店勘定取調簿」
明治9年秋口「酒造不引合ニ付休造いたし」とある

堀切幸平(天保13~明治38年)

生年は天保13(1842)年、没年は明治38(1905)年で、戒名は実心達道信士である。旧姓は米川と墓石に刻まれており、流山村百姓総代である須賀孫七の甥にあたる。妻は3代紋次郎四女知恵で、生年は天保12年、没年は大正4(1915)年で戒名は深心玅吽信女である。
明治11年に5代紋次郎が48歳で没した時、その子であり後に6代を襲名する千賀蔵は6歳11か月であった。千賀蔵が成長するまで、後見人を務めたのが幸平である。5代が没した同年同月に、商売上の不都合があるとして、幸平は叔父であり後見人として、堀切浅右衛門と連名で千賀蔵の改名届を次の通り県令柴原和宛提出している。この願いに対して、県から「書面紋次郎ト改名之儀聞置候事」と記され返却された文書が堀切家文書34-158である。これ以降、千賀蔵は6代紋次郎を襲名する。
なお、史料中にある堀切幸吉と堀切幸平とは同一人物で、幸平が本名である。明治5(1872)年の戸籍編成のときに幸吉と誤って登録され、その後幸吉名で多くの文書が作成されているが、明治19年に「名面文字訂正願」を戸長宛て提出し幸平に復している。

 改名願
         第十二大区六小区
          葛飾郡流山村
           百十三番屋敷居住
              農     
                堀切千賀蔵
           本年八月六年十一ヶ月
右千賀蔵幼年ニ付後見人同人叔父堀切幸吉
奉申上候私店之義ハ旧来堀切紋次郎ト称シ
酒造渡世相営罷在候処本月八日紋次郎
病死仕候ニ付前書千賀蔵義家督相成
然ルニ年来之通称俄ニ相変シ候ヨリ東京ハ
勿論摂州其外諸国同業之者ヨリ取引
上ニ付往々不都合相生シ殆難渋仕候ニ付千賀
蔵ヲ紋次郎ト改名仕度候ニ付何卒出格之以
御仁恤右願之通御聞済被成下度此段
奉願上候以上
             右千賀蔵幼年ニ付
             後見人
               叔父
   明治十一年八月三十一日  堀切幸吉㊞
         埼玉県第三区
             武蔵国葛飾郡番匠免村
             親類
               叔父
                堀切浅右衛門㊞
               用掛
                寺田伊助㊞
           右区戸長三上貞次郎代理
             副戸長
                飯島祐三郎㊞
     千葉県令柴原 和殿

幸平は6代紋次郎が成人するまで後見人を務めたものと考えられ、明治12(1879)年から明治15年まで附立有金は減じるが、明治16年・17年には従前まで回復し、それ以降は微減するものの幾度の恐慌を乗り切っている。
明治14年に開催された第2回内国勧業博覧会では万上味淋が有功賞を受賞する。6代紋次郎が10歳の時であり、幸平が参画したものと考えられる。

堀切家文書34-158 明治11年「改名願」

6代 堀切紋次郎(明治4~昭和5年)

5代紋次郎の子で生年は明治4(1871)年、没年は昭和5(1930)年で、名は千賀蔵、戒名は篤実清観信士である。妻は高梨兵左衛門娘あさで、生年は明治6年、没年は昭和33年で戒名は実純妙清信女である。
6代紋次郎は7歳のときに父である5代紋次郎を亡くし、叔父である堀切幸平の後見を受けて6代紋次郎を襲名する。明治期における堀切家の附立有金は明治8年をピークとして減少傾向にあるが、明治33年を境に上昇に転じ、明治38年には急増している。明治41・42年に6代紋次郎は当用日記を記している。こうした史料によれば、醸造設備の充実を図るとともに、味淋醸造法の研究を熱心に行っていたことを知ることができる。先に紹介した通り、「濃厚味淋醸造法」と「純粋葡萄糖製造法」については特許を出願している。
また、明治23年の第3回内国勧業博覧会をはじめとして、第4回・第5回内国勧業博覧会、明治42年アラスカ・ユーコン太平洋博覧会、明治43年日英博覧会、大正3(1914)年東京大正博覧会、大正4年パナマ・太平洋万国博覧会などにみりんを出品して各種の賞を受賞している。こうした博覧会などへの出品は、醸造設備の充実・醸造法の研究と相まって、6代紋次郎が積極的な経営を行っていたことを証するものであろう。
大正6年12月、6代堀切紋次郎が取締役社長となって万上味淋株式会社を設立、大正14年4月には万上味淋株式会社を解散して野田醤油株式会社と合併する。6代紋次郎が記した家憲として、堀切家文書444-1があり、次に掲げる。大正3年11月15日に書かれたもので、「堀切家家憲録」と表題が付されている。

堀切家家憲録の要旨
忠君愛国の精神常ニ忘る可らず国家有事の際ハ奮て臣民の本分を尽せよ
敬神崇仏及祖先を尊ぶの心掛常ニ忘る可らず
公益の為ニハ私財を吝むなかれ
勤倹ハ祖先以来の厳訓なれば衣食住とも分ニ応して為す事
堀切家ハ一夫一婦ノ制を確守し畜妾及ひ是ニ類する不品行の行為を厳禁す
堀切家ノ主人ハ自ら家業ニ精通し第一ニ醸造ノ研究ハ申迄もなく原料の買入商品の売買及日常の帳簿等ニ至る迄可目を通して精励し決して雇人任せニ致ざる事主人として勤勉ハ店員も是ニ倣ふ主人早起なれバ店員何□□朝ゟ援を為さんや正働きて人ニ示さバ会せすして前事行ハる也
子孫多くハ祖先の勤労を知らず何事ニ任せて安佚驕奢を為大ニ慎を□可らず
小事ニ齷齪タルモノ大事業を為す器ニ非ず大胆ニ沈着ニ冷静の態度を以て家業を精励せよ
家庭ハ質素にして事業ハ進取的タル事
家業ハ天授ノ福なれバ至誠を以て尽す可き事万上の二字ハ如何なる犠牲を払ふも守る可き事
拾壱 商品ハ品質本位とす好き物を勉強して売れバ天之意ニ叶ふて繁昌し家富み栄ゆ
拾弐 商業上の資本金ハ主人と雖も勝手ニ使用を許さざる事
拾参 堀切家ハ衆議院、貴族院、県会議員タルたる(ママ)事確く禁し置事若し此禁を犯す者あれば即時隠居せしむ可き事猶政党員等と深く交際せざる事
拾四 雇人ハ目を掛け使ふ可き事忠実なる者と見ば一層優遇して本人前途の幸福を計る可き事
拾五 商業上ノ利益ある場合ニハ通常の積立金を為し残余ハ一家族ニ分配ハ勿論雇人下男等ニ到る迄勤労ニ応して賞与金の分配を為す事
右家憲の條々確守可致事
大正参年十一月拾五日 第六世堀切紋次郎謹書㊞

1条から5条は、国民としての国家に対する心構え、神仏の崇拝と祖先への崇敬、質素倹約、道徳など、家庭における行動規範が示されている。6条から12条では、商売に関する内容を具体的に述べ、特に10条では「万上」の2文字は必ず守るようにとしている。13条では衆議院・貴族員・県議会議員になることを厳禁し、政治家との深い交際も禁じている。ただし、6代紋次郎は大正9(1920)年の時点では流山町会議員を務めており、地域への貢献が主となる町会議員は例外と捉えていたようである。14・15条では、初代の家訓にもあるように、雇い人に対しての基本的な理念を示している。
初代・3代の家訓に比べ家業としてのみりん醸造業に関する具体的な規定が定められ、家業を取り巻く環境の変化とともに、家業の存続を強く希求する内容となっている。

堀切家文書444-1 大正3年「堀切家家憲録」

万上みりん醸造業の開始

流山の地理的位置

堀切紋次郎家がみりん醸造業を展開した流山は、江戸時代の早いころから舟運の河岸として発展してきた。ここでは、流山の地理的位置とみりん醸造業との関連についてみておくことにしたい。
流山市は千葉県の北西部、都心から25キロメートル圏内に位置している。北は野田市、東は柏市、南は松戸市に接し、西は江戸川を隔てて埼玉県吉川市と三郷市に面している。昭和26(1951)年4月、流山町・八木村・新川村の1町2村が合併して江戸川町(翌年流山町に改称)が成立し、ほぼ現在の市域が形づくられる。この流山町は、明治22(1889)年4月に市制・町村制をうけて流山村、加村、三輪野山村、西平井村、鰭ヶ崎村、木村の6村が合併して成立している。流山村については、慶長19(1614)年の「小金之領野馬売付之帳」に流山の地名が確認でき、また岩田僖助編『流山町誌』に寛永3(1626)年の石高の記録が残されていることから、遅くとも近世初頭には成立していたものと考えられる。
流山には流山河岸、北に隣接する加には加村河岸があった。流山河岸は元禄期(1688~1704)には所在した幕府の城米津出し河岸(幕府領の年貢米輸送河岸)、加村河岸は田中藩本多家の年貢米を積み出しする河岸として機能していた。両河岸では、米・麦・しょうゆ・塩・芋・こんにゃく玉をはじめとして、真木・紙・水油・蝋・漆・元結油・薬類、酒・煙草類など、さまざまな物資が積み降ろしされていた。
江戸時代の早くから河岸として発展した流山は、酒造・みりん醸造に必要な原料と醸造用水が得やすく、また舟運を利用して江戸へ商品を出荷しやすいという地理的な条件下にあった。流山から江戸までの舟運のルートは、江戸川を20km下ると市川の本行徳、さらに進んで妙見島の手前から新川・小名木川に入り、万年橋から隅田川を経て日本橋川へ入ると、ほどなく日本橋小網町に到着した。その距離はおおよそ33kmで、流山を朝4時ごろに出発すれば、夕暮れには江戸へ着いたという。 「万上味淋」と「天晴味淋」は専用河岸を持っており、江戸時代の万上では庄助船・重蔵船・太平船・平吉船・嘉平治船・乙次郎船・金蔵船といった高瀬船、明治に入ってからは利助船・亀吉船・庄兵衛船・太平小船などの高瀬船、蒸気船通運丸でもみりんを運んでいたことが堀切家文書に記録されている。古くから醸造業が発展した銚子・佐原・野田も同様に利根川・江戸川の河岸であり、流山で酒造業やみりん醸造業が発展した理由として、流山が河岸であったことが指摘できよう。

図6 「東関東鳥瞰図」(部分) 千葉県立関宿城博物館所蔵

流山の酒造業

流山における醸造業はみりんが有名であるが、大消費地江戸と直結する江戸川の舟運がもたらした利便性によって、流山は佐原と並び古くから酒造業が盛んな地域であった。みりん醸造で知られる堀切家と秋元家は、共に酒造業を出発点としており、両家がみりん醸造を主な家業とするにいたった経緯を検討するため、流山における酒造業を概観することにしたい。
堀切家には先に紹介した通り、「酒造記録」と名付けられた複数の古文書が残されている。「酒造記録壱」は天明6(1786)年7年、「酒造記録弐」は天明7年から寛政2(1790)年まで、「酒造記録三」は寛政2年から同6年まで、「酒造記録四」は寛政6年から享和元(1801)年まで、「弐番酒造記録」は万延元(1860)年から慶応4(1868)年までの記録である。この他に、表題には記されていないが、享和2年から天保10(1839)年までの酒造記録が数冊残されている。こうした史料によって断続的ではあるが、流山における酒造人の変遷や酒造米高の推移をある程度理解することが可能である。
最も古い史料である「酒造記録壱」と「酒造記録弐」では記述された内容が若干異なってはいるが、酒造人ごとに酒造株高・酒造米高・冥加永・元来酒造高・造り来酒造高・道具とその数量などが記されている。これらの史料によれば、流山村には天明6年に7人、同8年には9人の酒造人がいて、株高65石、酒造米高3,994石の酒造が行われていたことが分かる。もっともこの時期は、天候不順や浅間山の噴火により全国的に飢饉が発生した、いわゆる天明の大飢饉の時期にあたり、実造高は1,000石ほどであった。同時期の佐原では酒造人35人、酒造米高は13,000石を超えていて、佐原との規模の違いは明らかである。 堀切家文書「酒造記録壱」「酒造記録弐」には酒造株の前所持者と取得した年も記されており、こうした記録をたどると享保年間(1716~36)には流山に4人の酒造人がおり、この時期が流山における酒造の開始と考えられる。明和9(1772)年には7人の酒造人がいて、株高の合計は35石であった。
堀切紋次郎と秋元三左衛門が酒造株を取得したのは、寛政2(1790)年である。紋次郎は株高5石・酒造米高511石5斗を流山村甚太郎から、三左衛門は株高5石・酒造米高480石6斗を流山村三右衛門から譲り受けている。2人が酒造株を取得した寛政年間(1789~1801)は、松平定信による寛政の改革が行われた時期にあたる。その頃江戸で飲まれていた酒は、伊丹・池田・灘など上方でつくられた下り酒と関東でつくられた地廻り酒であった。しかし、上酒である下り酒に対し地廻り酒は評判が悪く、下り酒が好んで飲まれていたようである。
寛政の改革の一環として寛政2年から始められたのが、関東御免上酒造りである。堀切家文書543「酒造記録三」の「差上申御請証文之事」に「於関東上方酒同様之上酒造方」とあって、関東において上方と同様の上酒を造り、江戸と上方との経済的不均衡を是正しようとする政策であった。寛政2年には現在の埼玉県・千葉県・茨城県・東京都・神奈川県の経済力を持った11人の酒造人がこの関東御免上酒造りに参加しており、流山村では平八と重左衛門の2人の名前を確認することができる。堀切本家の初代浅右衛門である番匠免村清左衛門も、11人のうちでは最多の2,500石の試造高でこれに参加している。
御免上酒造りに参加した酒造人への優遇措置として、酒造制限令が出された年であっても、御免上酒は制限高とは別のものとして、休み桶を使用して試造することができた。酒造制限令とは米が不作のときに出されるもので、本来の酒造米高の2分の1、3分の1などしか酒造してはならないという政策である。寛政2年から参加した平八は、3分の1造りの制限例が出された寛政6年には、酒造米高200石に対し「三分之弐休桶御免酒造相用候分」として、休み桶を使用し制限高よりもはるかに多い御免上酒を試造している。
もう一つの優遇措置として酒造米が貸与される拝借米制度があり、寛政2年に平八は御免上酒2,000石を試造しているが、うち750石が拝借米、重左衛門は800石の試造で拝借米が300石を占めている。拝借米は担保として質地を差し出し、翌年には拝借時の相場値段分を金納しなければならないが、酒造に不可欠な米を優先的に入手することができる制度と考えられよう。
流山村では、寛政3年に平八、同4年に由太郎、同5年に平八と三左衛門、同6年に平八・由太郎・三左衛門・紋次郎・伊右衛門、同7年に前年と同じ5人、同11年に由太郎が関東御免上酒造りに参加している。堀切家文書554「酒造記録四」には寛政8年「御免酒造高酒造人三拾七人 酒造米高三万三千六百石」とあって、政策は順調に行われてきたことがみてとれ、天保4(1833)年まで継続したとされる。しかし、幕府から借りて御免上酒に押印する「御免関東新製上酒」と刻まれた焼印を、重左衛門は寛政3年、平八は同8年、三左衛門と紋次郎は同9年に返却しており、同12年以後は流山村からの参加はみられなくなる。関東御免上酒造りは関東における酒造業を育成するための政策であったが、享和2(1802)年・3年以後は試造高・酒造人数が激減し、この政策は失敗に帰したと評価される。

堀切家文書543 寛政2年「酒造記録三」

堀切家文書552「酒造道具書上控」に「酒造之義自今以来前々之造高ニ無構分限ニ応し実を得候」とある通り、これまでの酒造米高に関わらず能力に応じた範囲内で酒造してよいという、酒の勝手造り令が文化元(1804)年に出された。また、同じ年に酒造人から代官浅岡彦四郎に宛てた史料には各酒造人の実造米高の記載があって、以後はこの酒造米高が各酒造人の基準高となる。これによれば、文化元年の流山村には酒造人が12人いて、酒造米高は8,050石となり、江戸時代を通じ流山での酒造業の最盛期を迎える。堀切紋次郎の酒造米高はこれまで511石であったものが1,100石、秋元三左衛門は486石が700石となった。この19世紀初頭に堀切家と秋元家はみりん醸造を開始したと考えられるが、『野田醤油株式会社二十年史』には「文化の中頃酒造業衰微したるため」みりんを開発したと記述されており、酒造業が衰微したとはどのような状況であったのか、再検討する必要があろう。

堀切家文書552 文化元年「酒造道具書上控」「酒造之義自今以来前々之造高ニ無構分限ニ応し実を得候」とある

文化年間(1804~18)の実造高を記録した史料は残されていないので、酒造高の推移を把握することはできないが、文化3(1806)年に酒造人が酒造米高のうちの何割を実際に酒造したかを記録した堀切家文書603「覚」がある。文化3年には市兵衛が久左衛門に酒造株を譲渡したため、この2人が入れ替わってはいるものの、それ以外の11人の酒造人は替わっていない。12人のうち三左衛門・紋次郎は10分造り、十左衛門・林蔵・久左衛門・由太郎・栄助・利兵衛の6人は8分造り、伊右衛門と専右衛門は出造り、五郎兵衛と佐次右衛門のどちらかが8分造りでどちらかが10分造りである。文化元年の酒造米高は8,050石で文化3年は6,400石前後であり、1,600石程度の減少はあるものの、さほど衰微したとはいえない。文化年間の中頃から文政年間(1818~30)の酒造米高は、残念ながら不明である。
寛政の改革の一環として、寛政4(1792)年に伊丹・池田・灘などが所在している摂州をはじめとする11か国からの下り酒は、江戸入津量が40万9,000樽に制限されるとともに、11か国以外からの新規入津も禁止された。ところが、文化元年に酒の勝手造り令が出されると、それまで下り酒に対してとられていた江戸への入津制限がなくなり、文化14年には100万樽を超え、最も多い文政4(1821)年には122万4,000樽という大量の上酒が江戸へ入ることになった。酒造業自体の衰微というよりもこうした状況の中、堀切家・秋元家はみりん醸造を開始し、やがて家業の中心にしていったものと考えられよう。
文化年間以降の流山村における酒造米高は、文政年間は不明であるが、天保元(1830)年7,182石、天保2年5,553石、天保4年7,650石と順調に推移しているかのようにみえる。しかし、天保4年以後はいわゆる天保の大飢饉が発生し、酒造制限令が毎年のように出されている。酒造米高が分かっている天保4年から天保9年までの年平均実造高は3,500石ほどに減少しており、それに伴い流山村の酒造株は集約されるようになっていく。天保10年の調査によれば流山村の酒造人は8人となる。
ところで、酒造業を営むためにはどのくらいの人数が必要だったのであろうか。堀切家文書583(酒造記録)には、酒造業に携わっていた人数が記録されている。この史料は天保9年に3分の1造り令が出されたのに伴い、酒造米高と3分の1造りの実造米高、及び「酒造人着到並家内人別書上覚」と題して従事者数とその内訳を関東取締出役に報告したものである。
このとき、流山における酒造人は8人で、村全体の酒造米高は7,650石であるが、3分の1造りのため実造米高は8人合わせて2,549石9斗9升6合である。各々の酒造人における家内人数等を、表5にまとめたとおり報告している。最大規模は堀切紋次郎で、家内人数35人でうち18人は家内召仕、17人は酒造に付召抱分でそのうち米搗は7人、杜氏は平兵衛である。次に規模の大きいのが秋元三左衛門で、家内人数は32人、うち16人は家内召仕、16人は酒造に付召抱分でそのうち米搗は7人、杜氏は源助である。最小規模は栄助(浦蔵)で、家内人数16人、うち8人は家内召仕、8人は酒造に付召抱分でそのうち米搗は4人、杜氏は仁助となっている。
この年には8家の酒造人のもと、203人が酒造業に従事していたことが理解できる。平均は家内人数25人でうち14人は家内召仕、酒造の時にのみ召抱える人数は10人でそのうち5人は米搗ということになる。こうした体制は3分の1造りに対応したものであるのか、あるいは例年同様なのかは、他に記録された史料がないため比較できない。
時代は大きく下るが、「大正八年諸工場要覧」に「万上味淋醤油醸造場」と「天晴味淋醸造場」の生産高や従業員数等が記載されている。職工徒弟人員数は万上味淋醤油醸造場が男43人、天晴味淋醸造場が男25人となっている。機械力がすでに導入されていることなど、みりん醸造を行う上での環境は異なっているが、近代化される以前のみりん醸造業の規模をおおよそ推測することができよう。

表5 天保9年の酒造人別家内人数等(堀切家文書583から)
酒造人 酒造米高 家内 家内
召仕共
酒造二付
召抱分
内米搗 杜氏
利兵衛 700石 24人 14人 10人 (4人) 文吉
由太郎 1100石 26人 15人 11人 (5人) 源助
栄助 700石 16人 8人 8人 (4人) 仁助
久左衛門 1200石 22人 9人 13人 (5人) 文蔵
紋次郎 1350石 35人 18人 17人 (7人) 平兵衛
重左衛門 900石 28人 16人 12人 (6人) 駒吉
三左衛門 1400石 32人 16人 16人 (7人) 源助
五郎兵衛 300石 20人 20人
7650石 203人 116人 87人 (38人)


天保10(1839)年に8人いた流山村の酒造人は、安政年間(1854~60)から万延元(1860)年には紋次郎・三左衛門・由太郎の3人となり、幕末から明治初年にかけて、流山村の酒造業は低迷期を迎える。酒造株は紋次郎と三左衛門の2人に集中していき、紋次郎の酒造米高は3,650石、三左衛門は1,700石となる。万延元年以降を取り上げれば、2分の1・3分の1造りの酒造制限令が出された時期ではあるが、酒造米高が増えたことによって紋次郎のみりん醸造量は天保年間(1830~44)に比べて倍近くに増加する。
万延元年、紋次郎の酒造米高が3,650石になったことが分かる史料として堀切家文書630があり、次に掲げる。表紙には「酒造米高 下総国葛飾郡流山村 酒造人紋次郎」と記され、林部善太左衛門の手代柏木正五郎と藤沢□之助に宛てた文書の控えである。


下総国葛飾郡流山村
酒造人
酒造米高千百石 百姓 紋次郎
酒造米高弐百五拾石同国同村久左衛門名代之御鑑札 右同人
酒造米高七百石同国同村栄助名代之御鑑札 右同人
酒造米高七百石同国同村重左衛門名代之御鑑札 右同人
酒造米高九百石 右同人
五口
合酒造米高三千六百五拾石
(中略)
右は当申年酒造御改メニ付奉書上候処書面之通相違無御座候以上
葛飾郡
下総国葛飾郡流山村
申ノ十一月 酒造人
百姓 紋次郎
同所
年寄 喜太郎
林部善太左衛門様御手代
柏木正五郎様
御同人様御手訴
藤沢□之助様

なお、流山村における酒造人の変遷および酒造米高の推移については、表6にまとめたとおりである。

表6 流山村における酒造人の変遷および酒造高の推移(※印は御免上酒づくりに参加)

堀切家における酒造業の創業

堀切家における酒造業の創業年については、これまで明和3(1766)年、天明年間(1781~89)、寛政7(1795)年の諸説があり、現在は『野田醤油株式会社二十年史』などにより明和3年説が採られている。 創業年を明和3年とする史料として、6代紋次郎が明治27(1894)年頃に記した堀切家文書7-1-5「万上味淋之沿革」があり、「明和三年吾祖堀切紋次郎」がみりんの研究・開発を始めたと記している。天明年間としているのは清水林蔵が大正5(1916)年に発行した『流山案内』で、「当地の堀切紋次郎秋元三左衛門両氏の創業は、今を去ること百三十六年前、即ち天明年間にして」と記している。寛政7年とするのは明治42(1909)年に堀江吟山が出版した『流山』で、「堀切紋次郎氏の創業は寛政七年十月なり」としている。
堀切家は初代紋次郎の墓石に刻まれているとおり、明和3年に現埼玉県三郷市の番匠免から移り住み、流山相模屋を興した。『野田醤油株式会社二十年史』にはこの時に「酒造場を創設し相模屋蔵と称していた」と述べており、明和3年を酒造業の創業開始年と捉えている。前述したとおり初代紋次郎はこの時5歳であり、酒造を行える人物が紋次郎とともに番匠免から移り住んだと考えなければならない。
明和3年とされる創業当初の酒造規模については、史料が残されていないため不明である。それからやや時間は経過するが、みりん醸造が開始される以前の酒造規模を伺い知ることができる史料として、寛政元年の堀切家文書22-36「樽之通」がある。明和3年に酒造業を創業したとすれば23年が経過し、みりん醸造開始を文化11(1814)年とすればその25年前となる史料である。この史料は、初代堀切紋次郎と取引のあった霊岸嶋の明樽問屋矢野屋伝蔵が作成した通帳で、天明8年10月から寛政2年12月までに紋次郎が購入した樽・莚、洗大口・小口の数量及び金額が記されている。

堀切家文書7-1-5 明治27年「万上味淋之沿革」

通帳は暦年別に締められている。酒造年度である7月1日から翌年6月30日までをまとめると、寛政元(1789)年9月12日から寛政2年4月11日までの樽購入数量は1,867樽、莚は760枚、用途不明であるが洗が大口・小口合わせて4,500、金額は102両1分程である。樽を4斗樽とし、すべて使用したと仮定すれば、寛政元年度には746石5斗の酒が造られたことになる。時代はやや下るが、天保7(1836)年の堀切家文書576「天保七申年御改品々下書」に、「米九百石也 此桶数六拾三本造り 此太数千八百太也」とある。これによれば、米1石について1石6斗の酒ができることになる。したがって寛政元年度は、おおよそ467石の酒造米高であったと推定することができる。翌寛政2年に堀切紋次郎は酒造株を取得するが、その酒造米高は511石5斗であり、それ以前からほぼ同規模の酒造を行っていたと考えることができよう。

堀切家文書22-36 寛政元年「樽之通」

みりん醸造業の開始

みりん醸造業の開始年については、安永元(1772)年、安永2年、堀切家文書に記された「みりん」の文字による享和2(1802)年、文化11(1814)年説がある。現在は文化11年説が採られているが、享和2年説を除いて、いずれの説もその根拠となる史料は管見にふれない。
安永元年とする説は酒造業の創業年でも取り上げた「万上味淋之沿革」に、「安永元年初めて四五石入れの桶にて試造せし」と記され、また、安永2年とするのは吉田東伍が明治36(1903)年に著した『大日本地名辞書』で、「紋次郎は流山の人なり、積年丹精を凝し良好の味醂を造ることを知り、安永二年醸造を為し」と記述していることによる。
享和2年説は、堀切家文書547-1「酒造樽数書上帳」の裏表紙に「みりん」の文字が書かれていることによる。現在、文化11年説が採られているのは、『野田醤油株式会社二十年史』が、「二代堀切紋次郎(幼名伊之松)二十七歳の時野田高梨家の後援を得て、白味淋酒を試醸し、文化十一年発売を開始した」と記述していることによっている。

堀切家文書547-1 享和2年「酒造樽数書上帳」裏表紙ほぼ中央に「みりん」の文字が確認できる

みりん醸造を開始し、やがて酒造業からみりん醸造業へと家業の中心を移していったのは、紋次郎も参加した関東御免上酒造りの政策が失敗に帰した文化年間以降のことと推測される。堀切家文書には「酒造記録」と名付けられた史料が数冊、また毎年作成された「付立帳」「棚勘定帳」が残されているが、文化年間の史料としては文化10(1813)年の堀切家文書37-32「付立之覚」と文化13年の堀切家文書18-4「棚勘定元帳」しか存在していないため、みりん醸造の開始年を明らかにするには困難が伴う。
こうした史料的な制約はあるものの、文化13年から嘉永元(1848)年までの棚勘定などを記録している「棚勘定元帳」の「文政元(1818)年 寅ノ酒造棚勘定」の項に、「味淋」の文字を初めて確認することができる。それ以前に作成された文化10年「付立之覚」や「棚勘定元帳」の文化13年、同14年の項には、みりんに関する記述を見出すことはできない。
この「棚勘定元帳」の「文政元年 寅ノ酒造棚勘定」の項において、みりんに関する記述として「此年ゟ(より)味淋造始」という朱書きを確認することができる。この記述によれば、この年からみりん醸造が始まったと解釈することができよう。文政元年にはこの他に、「味淋口銭」という記述も確認できる。翌文政2年には「上焼酎 三拾六石 味淋仕込」「味淋口せん」、文政3年には「巳之秋味淋口銭」「午ノ春味淋口銭」とあり、文政4年、文政5年にも同様の記述が確認できる。文政6年以降になると、売払代の項に「一同三拾六両弐分ト十匁也 みりん四百太程」などとあって、多量のみりんを販売したと考えられる記載となる。
いずれにしても、みりん醸造の開始年については、さまざまな史料に基づく確実な年代を今後とも検討していく必要があろう。
口銭とは、近世において一般的には仲介手数料をいう。

堀切家文書18-4 文化13年「棚勘定元帳」
堀切家文書18-4 文政元年の項「此年ゟ味淋造始」と朱書きがある

「万上」印の誕生

堀切紋次郎家で醸造した数種類のみりんのうち、代表するのが「万上」みりんである。「万上」印の由来については『野田醤油株式会社三十五年史』によると、「流山味淋酒が、江戸の名物として謳われ、遂には宮中にも用いられるようになったので」、2代紋次郎は「おもいきやかもす味淋をかくまでにかしこき方にめさるべしとは」、また「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味淋醸すさがみや」と詠み、「やがて味淋の商標を撰ぶことになったので、この歌の一力を万とし、上なきの上を採って万上とし、万上味淋と称するようになった」と記述している。ただし、『野田醤油株式会社三十五年史』からは万上印がいつから使用されたのか、具体的な年代を読み取ることはできない。ここでは、万上印が使用されるようになった年代について、他の史料を用いて検討を加えてみることにしたい。
2代紋次郎がみりんを発売したのは文化11(1814)年、もしくは文政元(1818)年である。やがて宮中にも用いられるようになって、万上印の由来となる「一力で上なき味淋」の歌を詠んだとされている。これまで万上印が確認できる最古の史料として、流山市立博物館が所蔵している弘化3(1846)年のラベルが知られていた。この史料は、流山村の北に隣接する三輪野山村の旧家の土蔵から発見されたものである。「奇製 美里舞 北総長連山 相模屋紋次郎」「関東上味淋元祖」「弘化三年改刻」とあり、朱で「万上泉」と書かれている。また、先に紹介した嘉永5(1852)年の堀切家文書224「手製 酒味淋本直志印鏡」にも「万上 関東上味淋之祖 相模屋紋次郎醸 東都一 大樽」とあって、「秘製上味淋」と朱書きがある。
万上印の誕生は、いつまで遡ることが可能であろうか。文化13年から嘉永元(1848)年までの付立が記された堀切家文書18-4「棚勘定元帳」の天保5(1834)年の項に「巳の秋仕込之分 一万上印味淋五太 折引き分」とあり、初めて「万上」の文字を確認することができる。次いで「天保八酉年七月附立所」の項には「一山山印味淋弐拾弐駄 代金百三拾弐両也 一万上印廿六駄片馬 代金百八拾五両弐分」とある。こうした史料の記述から、万上印が使用されるようになったのは天保5年からで、それ以降には「万上」をはじめ「山山」など数種類のみりんの印を用い、みりん醸造を展開していったことが理解される。
天保年間には、堀切家の酒造米高のうちみりん造米高が占める割合は5割を超すようになる。流山のみりんが江戸・京都・大坂で広く知られるようになったのも、この頃からのことになろう。

堀切家文書18-4 天保5年の項「一万上印味淋五太」とある
堀切家文書18-4 天保8年の項「一山山印味淋、一万上印」とある

万上みりんの販売網

19世紀の初頭に販売が開始された万上みりんは、どのよ うな販売網によって江戸へもたらされたのであろうか。先に紹介した堀切家文書「勘定帳」に記載された問屋名などから、検討を加えてみることにしたい。
早い時期の文化10(1813)年、文政7(1824)年には、湯島横町の玉川屋藤右衛門、神田旅籠町一丁目の玉川屋長左衛門、本所元町の内田屋伊右衛門、湯島横町の内田屋清右衛門、霊岸島四日市町の矢野屋伝兵衛、同じく矢野屋安次郎が取引先として記載されている。いずれも、十組問屋※のうちの醤油酢問屋である。取引内容の詳細は不明であるが、酒が中心であったと考えられよう。みりん醸造が軌道に乗った天保年間(1830~44)には、南茅場町の小沢屋鉄五郎、南新堀一丁目の真宜屋庄兵衛、東湊町一丁目の伊勢屋太郎兵衛、小網町三丁目の高崎屋長右衛門など、新たに多くの問屋との取引が開始され、江戸問屋との取引が活発になっていった様子が伺える。弘化2(1845)年から慶応3(1867)年の間には、南茅場町の江島屋弥右衛門、神田旅籠町の一木、霊岸島銀町の山本長右衛門・近江屋太右衛門、南新堀一丁目の奴利屋彦吉、勘左衛門屋敷の伊勢屋清兵衛などとの取引が開始された。
相模屋堀切家の屋号印は「カネカ」であるが、この屋号印「カネカ」を同じくする矢野屋について少し詳しくみていきたい。『野田醤油株式会社三十五年史』には堀切家の系譜として、宇右衛門の長男文次郎は現埼玉県三郷市戸ヶ崎で農業経営、次男清左衛門は享保年間(1716~36)に三郷市番匠免で酒・味噌の醸造を始め、三男藤兵衛は同じく享保年間に江戸勘右衛門(勘左衛門)屋敷で酒店を開き相模屋と改め、後に矢野と改姓したと記述している。次男清左衛門が初代堀切浅右衛門で、前述の通り「流山堀切家」の本家である。
享保年間に酒店相模屋を開いたとする藤兵衛については、『江戸商家・商人名データ総覧』に「すきやばし 矢の屋藤兵衛 文化10年 醤油酢問屋」としてその名を確認することができる。ただし所在地が異なっており、勘左衛門屋敷の矢野屋藤兵衛と同一人物と断定することはできない。
時代がやや下った文政7年の「江戸買物独案内」には、屋号印を「カネカ」とする「十組 醤油酢問屋 勘左衛門屋敷 矢野屋藤兵衛」という記述があり、代は替っている可能性はあるが、堀切藤兵衛が興した問屋と推測されよう。
享保年間に相模屋として酒店を興した堀切藤兵衛は、いつのころか矢野屋に入り、矢野屋藤兵衛として醤油酢問屋を営むようになったと考えられる。早くから堀切紋次郎と取引のあった矢野屋伝兵衛・矢野屋安次郎も屋号印「カネカ」を用いており、堀切浅右衛門家が所有する「堀切家過去霊簿」からも、矢野屋と堀切浅右衛門家は縁戚関係にあったことが知られる。このほかに堀切紋次郎と取引のあった矢野屋一族には、矢野屋正兵衛と矢野屋儀兵衛がいる。
堀切家文書10-289「差入申年賦証文之事」には矢野屋伝兵衛・安次郎は親類として正兵衛の後見人を務めたとあり、堀切浅右衛門家、矢野屋伝兵衛家、矢野屋安次郎家、矢野屋正兵衛家、矢野屋儀兵家はすべて親類関係にあったことが理解される。『埼葛の酒文化』では堀切紋次郎家、堀切浅右衛門家、矢野屋藤兵衛家の関係について「堀切一族は、農業・酒造・焼酎造・味醂醸造・江戸販売店と原料生産から醸造、販売に至るまで一族内ですでにネットワークができていたことが想像される」と述べている。
みりん醸造を開始する以前の史料である寛政元(1789)年の堀切家文書22-36「樽之通」によれば、初代紋次郎は酒樽を矢野屋伝蔵から購入している。矢野屋伝蔵は霊岸嶋町に店を構える十組の明樽問屋で、屋号印も他の矢野屋・相模屋と同じく「カネカ」を用いており、矢野屋伝蔵もまた一族であろう。『埼葛の酒文化』で指摘のあったことに加えて醸造業に不可欠な容器の調達も含め、一族におけるネットワークは2代紋次郎がみりん販売を開始する以前から確立されていたと捉えることができる。発売当初のみりんは、矢野屋を始めとするこうしたネットワークを利用することによって、販売されたと考えるのが妥当であろう。
※十組問屋とは、江戸に成立した問屋仲間の連合体

屋号印「カネカ」

おわりに

ここではキッコーマン国際食文化研究センターが所蔵する堀切家文書の一部を紹介するとともに、少しずつ明らかになってきた万上みりん醸造業の開始の契機や時期、販売網などについて述べてみた。1万1,000点以上に及ぶ堀切家文書は、江戸地廻り経済圏としての関東における酒造業の実像を解明するとともに、流山の伝統的産業であるみりん醸造業の発展の過程が理解できる史料として、極めて価値が高いものと考えられる。今後多くの研究者によって活用が図られ、研究が進展することを期待したい。

参考文献
  1. 『野田醤油株式会社二十年史』 野田醤油株式会社 1940
  2. 『野田醤油株式会社三十五年史』 野田醤油株式会社 1955
  3. 『埼葛の酒文化』 埼葛地区文化財担当者会 2005
  4. 『近世酒造業と関東御免上酒の展開』 立正大学古文書研究会 2002
  5. 堀野周平 2014 「直轄県県庁所在地の機能」 『流山市史研究』第22号 流山市教育委員会
  6. 松本典子 2015 「江戸時代の酒造業」 『寧楽史苑』 第60号 奈良女子大学史学会
  7. 楢崎宗重 1998 『北斎論』墨田北斎研究叢書一 (財)墨田区文化振興財団
協力者

  浅羽葵偉  椎橋友都