研究機関誌 「FOOD CULTURE No.35」ハワイにおけるしょうゆ事情

早稲田大学 人間総合研究センター 招聘研究員 小嶋 茂

ハワイにおけるしょうゆ事情 ~日系しょうゆの起源と現在~

私はハワイ研究の専門家でも食文化の専門家でもなく、移民研究に携わってきました。日本から海外に渡った移民が、移住先で日本人から日系人に代わっていく、そのプロセスを調べています。その過程に食文化は密接な関係があり、日本人が日系人になっていくことと、日本食が日系食になっていくことは、並行関係にあるのではないかと感じています。日本人と日系人、日本食と日系食には、それぞれ違いがあります。海外で日本食といわれているものには、日本から渡った日本人シェフがつくっているものもあれば、日系人が受け継いできた日本食もあり、また、日本人も日系人も関係なく現地の人がつくっている日本食もあります。いろいろな日本食がある中で、興味深い側面があるという一端をお伝えできればと思います。

ハワイ調査に至るまで

これまで食文化講座で4回講演を担当させていただきました。1回目は「ヨロズヤの世界」、海外の日系人が日本食をはじめとした食品雑貨を輸入販売している「ヨロズヤ」をテーマに取り上げました(写真1)。2回目は「日本食の変遷」、日本から渡った移民が食材や材料がないなかでどのように日本食をつくってきたか、世代を経るに従って食事の内容がどのように変わったかということをお話ししました。3回目は「レシピ集と日系人」、各国の日系コミュニティで出版されているレシピ集、料理本を取り上げました(写真2)。その流れで、4回目は「ブラジルにおけるしょうゆ事情」についてお話ししました。ブラジルでは日系の醤油屋が少なくとも6軒、あるいは10軒ほどまだ存続しているようです。こうした過去の歴史を記録しておきたいと調査を行いました。

写真1 タクアン缶詰ラベル 1935年 Namco
(横浜開港資料館所蔵)
北米のヨロズヤで販売されていた缶詰のラベル
100年以上前から、いろいろなものを缶詰にして輸入していた
 写真2 日系コミュニティで出版されているレシピ集
(海外移住資料館所蔵)

逆輸入されるしょうゆ

写真3 日本で販売されているペルーの日系醤油
神奈川県愛川町 筆者撮影

日系ブラジル人もそうですが、現在、ラテンアメリカの大勢の人たちがカッコつきの「デカセギ」として日本にきています。つまり、必ずしも経済的な理由による「出稼ぎ」ではなく、日本に勉学や異文化体験を目的として来日し、結果として日本に永住している人が大勢います。そういう人たちのなかには、日本に住んで日本の醤油を使うものの、出身地で慣れ親しんだ現地の日系醤油の方がいいという人もいます。やはり食生活は慣れですから起こり得ることです。同じことがペルー人にも当てはまり、ペルーでつくられた日系醤油が日本に送られて、ペルーの人たちが購入し使っているという現状があります(写真3)。

このように過去の歴史を掘り起こす意図で調査を行ってきましたが、その延長線上で、今回は日本人移民の最初の渡航先であるハワイについて調べてみました。まだ全ての調査を終えたわけではなく、途中経過になりますが、ハワイにおける日系のしょうゆについて報告させていただきます。その前にブラジルの日系しょうゆについて少しおさらいしてみます。

ブラジルの日系しょうゆ


前回、ブラジルの日系しょうゆについてお伝えしたことを簡単に紹介します。ハワイの事例と比較すると、おもしろいことが見えてくると思います。
ブラジルの主な日系醤油の会社は、さくら醤油、ひのもと醤油、丸一醤油、ミツワ醤油、東山醤油、MN醤油の6社ですが、いずれも創業者、出身地、ブラジルに渡った年、創業した年などを明らかにすることができました(表1)。ブラジルでは小麦の入手が難しかったことから、代わりにトウモロコシを使い、また流通網がなく販路の拡大も難しかったことなど、二世の方々へのインタビューで伺うことができました。ブラジルでは現在第一線で活躍しているのが二世の方々で、一世の行っていたことや苦労してきたことを、実際に見聞きして覚えていました。こうしたブラジルでの調査の経験から、ハワイの日系しょうゆでも歴史を掘り返すことができるのではないかと思ったのですが、実際はなかなか難しい状況でした。

表1 ブラジルにおける主な日系醤油製造会社  
製造会社 創業者 出身地 渡伯年 創業年 製造知識ほか
さくら醤油 中谷 末吉 愛媛県松山市 1932年 1949年 周囲から学んだ
ひのもと醤油 福原 憲一 福岡県遠賀郡折尾町(現在の北九州八幡西区) 1913年 1957年 周囲から学んだ
丸一醤油 上田 盛一 香川県沖多度郡高見島村(現在の多度津町) 1926年 1930年 香川県小豆島で醸造業を学んで再渡航
ミツワ醤油 沖 勇一 石川県石川郡松任町(現在の白山市) 1933年 1967年 醤油作りの経験のある日本人を招聘
東山農産加工醤油 佐野 満 東京農業大学出身 戦後 1966年 醸造技師
MN醤油 松田 典仁 群馬県前橋市 1960年 2020年 有機醤油製造販売

ハワイの日系しょうゆ調査(スーパーマーケット)


ハワイではまずスーパーマーケットや食品雑貨店で、どのような商品が売られているかを確認しました。オアフ島ホノルルのWalmartの店頭では、キッコーマンはじめ日本の醤油もありましたが、圧倒的にアロハ醤油が主流でした。テイクアウト用の小袋もあれば、1.89リットルの大きなボトルまで売られていることがわかりました(写真4~6)。さらに、Foodlandという日本でいえば紀伊国屋などの高級スーパーには、アロハ醤油もありますが、キッコーマンやヤマサ、フンドーキン、マルキン、ヒゲタといった商品も置かれていました(写真7)。もちろんすべて輸入品です。もう一つ、ハワイ島のヒロに本社があるKTAというスーパーマーケットは、クラブ醤油、アロハ醤油がたくさんあり、しかも容量の大きいものが置いてありました(写真8)。また、クラブ醤油はホノルルでは見当たらず、ハワイ島にしかありませんでした。同じハワイでも場所によって状況が違うということがわかりました。

写真4 Walmart店舗、Aloha Shoyuが主流
写真5 テイクアウト用小袋
0.20fl oz=5.915ml
写真6 徳用大ボトル
1.2 gallon=1.89l
写真7 Foodland店舗
写真8 KTA店舗

日本からの醤油輸入の歴史


いつごろから日本の醤油が輸入されていたかを調べるため、デジタル化された邦字新聞コレクションの検索機能を使い(邦字新聞デジタル・コレクション、フーヴァー研究所ライブラリー&アーカイブス)、いくつか資料を確認することができました。『布哇毎日』と『日布時事』を見ると、1910年から1934年までの醤油の輸入樽数が記載されていました(表2)。1925年がピークで91000樽が輸入されていますが、翌年は大きく下がっていました。その理由はよくわかりません。一つには1924年に日本人移民が禁止されたことが影響しているかもしれません。

表2 ハワイにおける醤油 輸入記録
1910年 74,170樽   1911年 70,948樽
1912年 65,063樽   1913年 71,612樽
1914年 77,488樽   1915年 85,807樽
1916年 90,959樽   1917年 86,557樽
1918年 64,535樽   1919年 61,722樽
1920年 60,592樽   1921年 76,711樽
1922年 74,655樽   1923年 57,315樽
出典:「布哇毎日」1924年11月28日付

1924年 83,785樽 501,790円
1925年 91,433樽 566,634円 ※1,481,215L
1926年 13,892樽 445,872円
1933年 90,602樽 412,304円 ※1,467,752L
1934年 86,042樽 385,645L
出典:「日布時事 布哇年鑑」1934年
※1樽 九升入=16.2L 74,170樽=1,201,554L(1910年)

写真9 日本から輸入した醤油の商標と現地価格
1901年9月~1902年8月 9升入 2弗40仙~2弗70仙
出典:満長彰「今日の布哇」1904年

1934年の『日布時事布哇年鑑』には、醤油は9万樽あまり146万リットルほどが輸入されていて、日本から輸出した際の原価は41万2千304円と記載があります。2022年の物価に換算すると、3億7231万円になり、その金額を1930年のハワイにおける日本人の人口、13万9631人を基に計算すると、一人あたり2022年の物価換算で2666円支出しています。ただ関税が35%かかっており、それを含めると3599円ほどで、月間一人あたり約300円になります。
1904年発行の『今日の布哇』には「醤油」という項目があり(写真9)、そこに「色澤濃厚なるを可とす、下松茂木製のキッコーマン印もっとも声価あり。輸入額も他を圧倒す。一か年本邦より輸入せししょうゆの商標と小売り相場は左のごとし」(p.160)とあります。現在のキッコーマン醤油のことを指すでしょう。「9升入り1樽2弗40仙から2弗70仙」とあります。また「醤油特定の営業税なし」「在留本邦人に依りて他国人には之を需用する者なし」(p.158-159)とあり、1904年時点では税がなく、日本人しか消費していなかったことがわかります。

写真10 森田栄「布哇日本人発展史」
1915年

さらに、1915年発行『布哇日本人発展史』(写真10)には、「近年布哇において盛んに製造するに至り絶えず日本輸入品と競争状態に在り。輸入醤油は1樽2弗50仙平均にして布哇製品は1樽1弗50仙ないし2弗位なり。」「布哇醤油は精製幼稚にして其品質の如き到底内地醤油に及ばず。」(p.238)と記述されています。日本製の価格はハワイ製の2割から4割増しです。また、在住日本人職業別表には、ホノルル市には醤油屋が18戸、ハワイ島には醤油醸造が7戸と記載されています(p.557, p.561)。醤油屋と醤油醸造がどのように違うのか、その詳細は不明ですが、ハワイ全土に25戸の醤油店があったことになります。先ほども紹介したアメリカの人口調査によると日系人79675人あたり25戸の醤油店で、1戸あたり3187人。1家族5人と考えると、だいたい600家族あたりに1件の醤油店があったという計算になります。

ハワイにおけるしょうゆ醸造の始まり


ハワイにおけるしょうゆ醸造の始まりに関しては、二瓶孝夫による先行研究があります(表3)。二瓶は醸造技師として大蔵省主税局国税庁醸造試験所の技官を務め、のちにホノルル酒造製氷株式会社の副社長を務めました。そして1978年、日本醸造協会雑誌に論文を書いています。その二瓶の調査によれば、ハワイにおける初期の醤油屋は1890年代から1910年代にかけて、そのほとんどがホノルルで創業しているようです。会社名は分かるものの創業者や銘柄が不明なものもあります。
1978年時点で、キング醤油、アロハ醤油、ダイヤモンド醤油、クラブ醤油の4社が残っており、創業年および創業者がわかるのはクラブ醤油だけです。この4社のうち2社はアミノ酸しょうゆを製造しています。二瓶孝夫はさまざまな論文を執筆しており、中には醤油に関する記述もあります。その中に、「醤油に砂糖、にんにく、たまねぎ、しょうがなどの香辛料をいれた「バーベキュー醤油」はハワイでは早くより各人種に愛され、戦前いつごろから始まったかわからないがハワイ日系人の発明である」「さらに発酵調味料を入れたハワイ風『テリヤキソース』が人気を呼んでいる」とあります。二瓶の論文を見る限り、テリヤキはハワイで日系人が始めたということがわかります。ただし、これは諸説あるので、正しいかどうかはまだ確定できません。
二瓶には別の論文で「ハワイ日系人と味覚」という記述もあります。「健康上、また食生活の違いもあり、ハワイではあまり強い塩味が好まれない」「塩分を多く含む日本の伝統食品の醤油、味噌でも戦前より格段と塩分が低く、早くより塩分5%内外の減塩醤油が売り出され、味噌の場合も5%内外である」とあります。塩味が好まれないのはブラジルでも同じで、日本の醤油は塩辛いという感覚を持つ人が多いようです。

表3 ハワイにおける醤油醸造の始まり

会社名 創業年月 創業者 銘柄 所在地 概要
不明 1891年6月 島田治八 不明 不明
HONOLULU,HAWAII
閉業
山上醤油醸造所 1905年 山上信行 賢婦 不明
HONOLULU,HAWAII
閉業
布哇醤油株式会社 1906年 山上信行
田代熊太郎
N.KING ST
HONOLULU,HAWAII
閉業
亜米利加醤油醸造株式会社 1912年8月 米倉団三郎 BANYAN ST.HONOLULU,HAWAII 閉業
亜米利加布哇醤油株式会社 1924年頃 丸高醤油
丸亜白味噌
BANYAN ST.HONOLULU,HAWAII 上記二社合併
現在味噌醸造
池田醤油醸造所 池田辰之助 丸一醤油
池田醤油
HILO,HAWAII 最近閉業
丸正醤油醸造所 宮城喜一 丸正醤油 618 COOKE ST.HONOLULU,HAWAII 閉業.銘柄はホノルル酒造会社が継承
福島醤油醸造所 叶義雄 福島醤油 618 CORAL ST.HONOLULU,HAWAII 閉業
キング醤油株式会社 村田寿吉 キング醤油 1215 KONA ST.HONOLULU,HAWAII アミノ酸醤油
現在営業中
アロハ醤油株式会社 アロハ醤油 807-E.WAIAKAMILO RD.HONOLULU,HAWAII アミノ酸醤油
現在営業中
ホノルル酒造製氷株式会社 ダイヤモンド醤油 2150 BOOTH RD.HONOLULU,HAWAII 営業中
富士酒造株式会社 富士醤油 539 COOKE ST.HONOLULU,HAWAII 閉業
日米酒造株式会社 国粋醤油
パンダ醤油
WAIAKEA HILO,HAWAII 閉業
ブルアリーインダストリー会社 1947年 富樫輝夫 クラブ醤油
ミツバ醤油
45 OMAO ST,HILO,HAWAII 現在営業中

出典:「日本醸造協会雑誌」1978年7月 P.548 二瓶孝夫 ホノルル酒造製氷株式会社

デジタルアーカイブにみるハワイの醤油


前掲の邦字新聞のデジタルアーカイブスを検索すると、キング醤油(写真11)、アロハ醤油、ダイヤモンド醤油、クラブ醤油の1940年代後半の広告が、以下のように多数見つかりました。
1946年12月7日付のHawaii Times紙に掲載されているアロハ醤油の広告(写真12)には6名の日系人の名前が掲載されており、おそらくこの人たちが創業者であろうと推測されます。クラブ醤油広告(写真13)の「手コック」は「手料理」のことでしょう。ダイヤモンド醤油(写真14)はもともと酒造会社で、禁酒法の影響で醤油の醸造を始めました。宝政宗はハワイではよく知られた清酒です。最初から醤油を作ったのではなく、酒を作っていた会社が醤油も作り始めるというパターンは、ブラジルの場合でも同様に確認できます。上記の検索では、池田醤油に関する広告も確認できました(写真15・16)。1941年の記事では、「布哇島で醤油醸造元及び味噌製造の元祖」「今日では実に三十有余年の歴史ある醸造元」とあり、おそらく1910年代創業であろうと推測できます。国粋醤油という会社の宣伝も1941年、1951年、出版物の『ハワイ島案内』の裏表紙にありました(写真17)。この会社も日本酒をつくっている会社が醤油をつくるようになったものです。また、ハワイ島ヒロにあるハワイジャパニーズセンターには、池田醤油と国粋醤油のガラス瓶が残されています(写真18・19)。こうした資料から、1950年代にはまだガラス瓶で醤油が販売されていたことがわかります。

写真11 キング醤油
1947.7.10 Hawaii Times
写真12 アロハ醤油
1946.12.07 Hawaii Times
写真13 クラブ醤油
1947.4.09 Hawaii Times
写真14 ダイヤモンド醤油
1949「全米日系人住所録」
写真15 池田醤油
1941年7月17日 布哇毎日
写真16 池田醤油
1923年1月19日 布哇毎日
写真17 国粋醤油
1954年「ハワイ島案内」裏表紙
写真18
ハワイジャパニーズセンターの醤油ガラス瓶
写真19
ハワイジャパニーズセンターの醤油ガラス瓶

レストランの醤油差し


2023年の現地調査では、レストランのテーブルに銘柄が入った醤油瓶やボトルは見当たらず、市販の醤油差しに移し置いてあるところがほとんどでした(写真20)。厨房を拝見すると、あるレストランでは5ガロンの大きな業務用のヤマサしょうゆを使っていました(写真21)。ブラジルではスーパーマーケットで購入できる醤油ボトルが、そのまま置いてありましたが、ハワイのレストランでは銘柄の入ったボトルは見られず、店員に尋ねてみないと醤油のブランドは分かりませんでした。

写真20 醤油差し

写真21 業務用の5ガロン醤油容器

ハワイの日系人としょうゆ

日系人に醤油とその銘柄について質問してみました。ハワイ島在住で80歳代のある二世女性は、「父は毎晩、晩酌して刺身を食べていました。醤油はキッコーマンでした。それ以外は使いませんでした。」「池田醤油があったことは覚えています。広島出身の人で、息子さんは同級生でした。」と証言しています。また、同じくハワイ島在住のある三世男性は、「キッコーマンは strong、 クラブ醤油は mild & sweetです。」「ダイヤモンド醤油とクラブ醤油を覚えています。」と回答してくれました。このようにして、調査を行ったハワイ島とオアフ島のおおぜいの日系人に尋ねてみると、興味深い事実に気付きました。

ハワイ産日系しょうゆの銘柄について


ハワイ産日系醤油の銘柄は、二瓶孝夫の調査や邦字新聞の記録などを見るかぎり、過去に20程度あることが分かります。しかし現地の日系人に尋ねても、上記のような例外を除き、アロハ醤油以外は、ほぼ誰もその存在を知りませんでした。三世になると、ほぼ全滅状態でした。誰一人聞いたことがないという答えが返ってきました。移民である一世にとっては不可欠な醤油も、孫である三世世代では、調味料として使用するものの、その銘柄までは関心の対象となっていない現状が伺えました。しかし例外もありました。ハワイ島ヒロに在住する、高齢の二世や仏教会の人たちは池田醤油を覚えていました。ただし興味深いことに、オアフ島の日系人は誰一人として、クラブ醤油や池田醤油の存在を知りませんでした。あるいはまた、見方を変えれば、ハワイの各島単位で、ある程度の独立した経済圏があったと言えるのかもしれません。
また日本のキッコーマンやヤマサの醤油が簡単に入手できる一方で、アロハ醤油はよく知られており、両者はともにスーパーマーケットで手に入ることから、使い分けしている人たちも一定数いるようでした。例えば、「寿司や刺身にはヤマサ醤油、チキンや煮物にはアロハ醤油を使う。」「ハワイの料理にはアロハ醤油を使い、日本の料理には日本の醤油を使う。」「キッコーマンが一番塩辛い。」などといったコメントが聞かれました。

醤油の多様性

1915年発行の『布哇日本人発展史』には、「布哇に於いて製造する日本醤油は今や日本人在留者間に於いて使用するのみならず、志那人の如き殆ど之を使用するに至る」とあり、ハワイにはいろいろなところから移民が渡っていて、中国人(ここでは「志那人」と言及)も日系人がつくった醤油を使うとあります。
1959年、78年の二瓶論文に、醸造醤油と化学醤油の規格についての問題提起がありました。しかしその当時、醤油の規格を決定できる権威者もなく、消費者も醤油に関する知識がなかったことから、立ち消えになったと報告されています。健康志向から品質第一を考える消費者もいれば、品質よりも値段優先と考える人もいるわけで、そうした需要が続くかぎり、多様な「醤油」が共存していく状況にあるようです。

ハワイの特性

ブラジルとの比較から考えると、ハワイの特性は日系人人口の占める高い割合にあります(表4)。ハワイでは、戦前そして第二次大戦後の1950年代まで、日系人人口はハワイ人口全体の約4割でした。マイノリティの中のマジョリティである、ともいうことができます。それゆえに日本の文化が色濃く残っていると考えられます。ちなみにブラジルの場合、日系人人口は全人口の1%弱です。ただし、ブラジルは第二次世界大戦時を除いて、恒常的に日本から移民が渡っていたために、日本の文化も維持されてきた傾向が強いことが考えられます。

表4 ハワイにおける日系人人口と州人口全体に占める割合
1894 20,000 20.0%
1900 61,111 39.7%
1910 79,675 41.5%
1920 109,274 42.7%
1930 139,631 37.9%
1940 157,905 37.3%
1950 184,598 36.9%
1960 203,455 32.2%
1970 217,669 28.3%
2010 312,292 22.9%
     (Asian:57.4%)

2つめは日本からの地理的距離です。ハワイの場合は船で10日あまりかかり、ブラジルまでは50日程度です。費用の面からも輸入は比較的容易でした。なお、池田醤油というヒロの醤油が知られていない背景には、上記でも指摘したとおり、島単位で独立した経済圏が存在するゆえかもしれません。酒造会社はオアフ、ハワイ、マウイにあり、それぞれの島でそれぞれの醤油、食文化があったと思われます。ハワイは様々な文化背景を持った人たちが集まり、互いの文化を受け入れる土壌があったと言われています。日本人観光客も多く、日本からやってくる日本人を相手にした商売もあり、日本と同じものが食べられるレストランもあります。その影響も大きいでしょう。

3つ目は、繰り返しですが、三世世代はほとんど一世世代のことを知らず、歴史が遺されていないということです。三世に聞いても一世の事はぼんやりとしか覚えていません。ブラジルでは、まだ二世世代が第一線で活動しており、二世は親の姿を見て育って来ました。だからまだ記憶の中に残っており記録として残せる可能性があります。ハワイは三世以降の時代になっているので、記憶もなく記録として残っていないということが分かりました。ハワイの方が歴史は古いが記録が残っていない。より新しいブラジルの方が一世の記録を残せるということになるようです。