研究機関誌 「FOOD CULTURE No.35」みりんの起源を探る
みりんの起源を探る
はじめに
みりんとはなにか、辞書には「焼酎と蒸した糯米とをまぜ、麹を加えて醸造し、かすをしぼりとった酒」とある。醸造酒といわれる「酒」に比べれば、みりんは新しい「酒」である。なぜ新しい酒といわれるのか、それは焼酎という蒸留酒の誕生が新しいからである。
焼酎なくしてみりんなし。現行の税法では、みりんは醸造酒でも蒸留酒でもない混成酒に区分されているが、醸造酒を蒸留して造られた焼酎なくしてはみりんの誕生はありえない。
新しい酒であるなら起源も判明していそうであるが、国内起源説と舶来渡来説の両論併記がなされているのが現状である。本稿は、なぜ前者がいまだに提唱されているのか、裏を返せば、なぜ後者への支持が弱いのかを問題提起として、中国の明清時代の文献に見られるさまざまな表記の「みりん」からその起源をさぐるものである。
駒井日記を越えられない湖雅
日本には「みりん」の初出例といわれている記述が『駒井日記』に見られる。1593年の記録である(図1)。その日記の作者駒井重勝について、川根正教2014に「文筆に優れ、関白豊臣秀次の祐筆(ゆうひつ)を勤めた。文禄二年十一月晦日(みそか)の条に『三位法印様蜜淋酎・御酒を御進上なさるべきの由、御諚として申し上ぐ』と書かれている。三位法印というのは三好吉房のことで、秀次の実父である。…秀次は…吉房に、秀吉へみりんや酒を贈るように伝えたという内容」とある。氏は「蜜淋酎・御酒」と読まれておられるが「蜜淋酎御酒」(みりんという酒)と読むのではないか、素朴な疑問である。この初出例では1593年の記録ともにみりんが天下人秀吉(1537-1598)への贈呈品として使われている点に注目したい。
また秀吉の時代の記録である『太閤記』にもみりんが登場する。キリシタンの布教を進めるバテレンが民衆に振る舞うものとしてブドウ酒などのひとつにみりんが見られる。小瀬甫庵の『太閤記』は江戸寛永年間(1624-1644)に書かれたもので同時代資料ではないが、みりんが秀吉の時代の人々を引き付ける珍しい舶来品として使われていたことが伺える。
さらに松永貞徳が書いた『貞徳文集』にもみりんが残っている。1650年 の記録である(図2)。原文は読みにくいが翻字したものから「葡萄酒、焼酎、みりん類者(は)異国自(よ)り来(きたる)候」と読め、ブドウ酒と焼酎とともにみりんが舶来起源説を主張する有力な資料となりそうに思う。しかしなぜ舶来起源説が優勢になっていないのか。その大きな理由は、海外文献として引かれる中国語文献資料が《湖雅》しかなかったからである(図3)。
中国文献資料の情けなさ
篠田統1976は「『湖雅』…が面白い。(略)汪曰楨(エツテイ)の作(光緒三、一八七七)、九巻があり、浙江省北部の名郡湖州の物産辞典である。(『湖雅』の雅は『爾雅』『広雅』などの雅)。巻一の穀・蔬に始まって、草・木・虫・魚から、器用・薪炭にも及ぶ。巻八には酒・茶・地方料理が収められ、巻一~六と併せて、単に湖州地方の食物志というだけではなく、清朝末期のある地点での食物史としても重要である」と評価している。目録巻八は「造醸・餅餌粥飯附・烹飪」の部で「造醸」の属に「みりん」が「焼酎」の次に立項されている。
本書の記述形式は先行する書籍(主として地方誌、巻八だけで約50点の引用書籍がある)から関係する文章を項目ごとに集め、編著者の按語が付される。しかしみりんには2項の按語だけしかない。先行する文献にみりんに関する記述が見られなかったのか、しかし酒の一種として名前だけは知っていたのであろう。初めの按語には、酒孃(さけこうじ)と焼酒(しょうちゅう)を半々に混ぜて造るとあるが、半々ではみりんが造れないのではないか。次の按語には「俗にこのように称しこの三字を使っているが、どのような意味なのか解らない。字書にサンズイに禽という字がないからだ。サンズイに禁という字の別字体であろうか。ある人は果実の林檎(りんご)の二字を借用しているのだというが、それでは意味が成さない」とある。起源を探る根拠とする《湖雅》の著者はみりんについて知識がないのである。
知識がなくとも記録者に徹すれば、その記録にはそれなりの価値はある。しかし《湖雅》は上記の『駒井日記』に太刀打ちできない。なぜなら『駒井日記』の1593年と《湖雅》の1877年では約300年の差があるからである。前者の方がはるかに古く、中国伝来説(舶来起源説)が成り立たないのは明白である。加えて、みりんは日本独特な酒として和食に欠かせない調味料となっており、現代の中国にみりんの存在の報告がないことも中国伝来説成立を難しいものにしている。伝来したのであれば発信元になにか物があるはずである。
清代資料から
以下、時間をさかのぼって中国語文献から「みりん」の文字を拾ってゆく。
(1)游焉(ゆうえん)社常談
《湖雅》のおよそ百年前の1770年の資料にみりんが見られる(図4)。「游焉社常談」という本である。今は唐話辞書類集(汲古書院)に収録されている。中国の出版物ではないが、周辺資料としての唐話学習書である。江戸時代、中国語を指す呼称として「唐話」が用いられた。初期は長崎出島の唐通事や京都黄檗宗の禅僧が交易や学問のために学び、中期になると荻生徂徠(1666-1728)門下の儒者にも学習者が広がり、水滸伝などの中国白話小説の紹介翻訳も行われ、岡島冠山編著『唐話類纂』『唐話纂要』などの辞書も刊行された。石崎又造1940には金谷貞一著「『游焉社常談』二巻一冊は上巻は二字話・三字話を集め、之に譯と音を加へたもの、下巻は長短話・話説に分ち、冠山の語學書類と變る所はない。明和七年京林權兵衞刊」とある。漢字の右に中国語音、左に日本語訳が付けられた三文字話が並ぶなか、昆虫に続いて飲食品が5点あり、屠蘇とみりん、どちらも酒である。屠蘇散を入れたみりんが御屠蘇、正月を祝って飲む酒である。唐話学習者の集まりで正月に振る舞われたのであろうか。『游焉社常談』の刊年は中国では乾隆年間(1736-1796)にあたる。
(2)崎港(きこう)聞見録
編者も作成年も記されていないが文中に2か所「雍正」の文字が使われている『崎港聞見録』という写本にもみりんが見られる(図5)。雍正年間は康熙と乾隆に挟まれたわずか13年間(1723-36)。本書はその頃の長崎で見聞された中国語が使われている学習書である。会話学習書は新しさが命、長崎で得た最新の中国語満載の学習書なのであろう。虫、食品、身体名称などと意味分類され、食品の末尾部に酒名がならぶ。状元紅の次、続いて恵泉、女貞、三白酒、蘭陵酒、包酒、火酒、茘枝醸の酒名9品である。漢字の右に中国語音、下に日本語訳が付けられている。状元紅とみりんの組合せは後述する資料《温州方言詞典》にも見られアルコール度数に高低がある二品と考えられる。恵泉は三白とともに次項の《鉄花仙史》にも使われている銘酒である。女貞と蘭陵酒は乾隆年間の文人袁枚(ばい)《随園食単》にも見られ、前者は蘇州の女貞とあり評価は低く、後者は常州の蘭陵酒とあり評価は高い。ともに浙江の酒である。
(3)鉄花仙史
雲封山人編次と著者名が記されているが、仮名であり成書年を特定することはできない。魯迅は《中国小説史略》で「明之人情小説」とするが、本文中に「原来故明制度…」とあること、そして叙述内容と様式から康熙年間(1662-1723)の作とされている。《鉄花仙史》第九回にみりんが見られる(図6)。原文に句読点を付すと「石灰湯豈是我相公吃的、可去沽些恵泉三白,或是緑荳酒、蜜淋漓、香雪焼都好」となり、石灰湯(スープ)など若さまにお出しできるものか、恵泉や三白がよい、なければ緑荳酒や蜜淋漓や香雪焼でもよいとお供の者が杭州での食事に注文をつけている場面である。恵泉と三白は上述の『崎港聞見録』にも見える酒名で、ともに銘酒であるのに対し、みりんなどはやや劣る部類に入れられている。
(4)閩(びん)小紀
清初の資料として、現在の福建省に赴任していた8年間に見聞した風物を詩にした周亮工(1612-1672)の《閩小紀》にもみりんが見られる(図7)。酒名を織り込んだ七言絶句全十八首の九首目の起承句は「何に因りて名を蜜林檎と喚(よ)ばん、人の口に香しく甜く仔細に斟(く)めばなり」と訓読でき、南京から赴任した作者には酒名らしくない酒名が不思議らしく、甘く香りもよく細かく味わえるからとその理由を詠んでいる。また割注として詩人自身の解説では「酉」へんの字が使われることがある点、「蜜桶」は不明であるがりんごの意とはなっていない点は注意したい。みりんと転結に詠まれた金盤菊との組合せは後述する資料《世事通考》にも見られ、ともに甘い酒であり、果実や花弁を用いた薬酒の類かと思われる。
明代資料から
元朝を倒して建国した明朝は日本の室町時代から安土桃山時代を経て江戸の初めまで続く王朝であるが、今に伝わる書籍の多くは明代後期万暦年間(1573-1619)以降のものである。
(5)客座贅語(ぜいご)
万暦45年刊の顧起元の筆記《客座贅語》酒三則にみりんが見られる(図8)。 1617年の記録である。「余性不善飲」で始まる第二則には産地とともに大量の酒名が挙げられている。3群に分け、最初の20地点の24酒名を上品とし、次の6地点の7酒名を中下品と評する。みりんはこのグループに見られ揚州の産とある。最後の5地点の8酒名は名前は耳にしているが賞味したことがないとする。明朝も後期になると国内の流通が整えられ全国的な酒の製造販売が行われたことが分かる。「四夷入国朝来」で始まる第三則には国外から酒が明に入ってきたことが記されている。北は女真・韃靼(だったん)、東は朝鮮、西は于闐(うてん)・拂菻(ふつりん)(辞書には東ローマとあるが西域の国にあろう)から、そして南はベトナム・ボルネオ・シャム・ビルマなどの国名が見られる。南方からの朝貢は後述する事項に関係する。
(6)事物紺珠(かんじゅ)
万暦32年刊の黄一正の類書《事物紺珠》巻14六表には2字から4字の酒名38があり、その中にみりんが見られる(図9)。1604年の記録である。酒名の下には長短さまざまな注が付されている。みりんには「言うこころは、味は蜜の如く色は林檎の如し」とあるが、字面からの注である。《客座贅語》のような評価は見られない。辞書によると紺珠とは、手でなでると記憶を呼び起こすという紺色の宝珠で、転じて記憶力がよいことの意とある。編者はこの酒を飲んだことはなく飲む必要も考えなかったように思われる。昔の文献にある大量の酒のひとつに過ぎず、注釈もなおざりである。
(7)世事(せじ)通考
徽郡散人 陸嘘雲輯、潭城書林 余雲坡梓と編者名と出版元は記されているが刊年の記載はない。先行研究では一様に万暦年間刊としている《世事通考》の下巻16裏には2字と3字の酒名26があり、その中にみりんが見られる(図10)。ただしこれまで見てきた「林」Linと書かれていたみりんと異なり「濃」Nongの字が使われている。本稿では強引とも思えるこの表記をなぜ同列の表記と見なしたのか。ひとつは編者の出身地(安徽省)ではLとNが混用され(LN不分)ていたことによる可能性があること、いまひとつはみりんの蜜(あまく)で濃(味が濃い)という意味を表出するために「濃」で書かれた可能性があると考えたからである。みりんに続く金盤菊との組合せは上述の資料《閩小紀》のとおり。酒名26のうち3字の酒名は12あるが、みりんと金盤菊以外の3字酒名10のすべてが2文字+酒であるのに対して、金盤菊も2文字+菊であるが、みりんは蜜+2文字という構成になっており特異性が見られる。上記の《事物紺珠》の3字の酒名でも3文字目は酒か春の字が多い。唐代以来の酒名の伝統と言われる。
(8)通雅
明末清初の思想家方以智(1611-1671)が著した《通雅》を取り上げるのであれば前項の清代資料に入れるべきである。しかし万暦年間の前に置いたのは《飲膳正要》の逸文が引用されているのではないかと考えたからである。みりんが含まれる箇所は図版のとおり(図11)。「阿剌吉酒とは焼酒のことである」の次に《飲膳正要》という書名が見られる。該書について宮2002を引く。「元代の料理書・養生書・本草書。当時のモンゴル料理や食事療法がイラスト付きで記されている。1330年忽思慧が元の文宗に献上した。元代には公刊されず秘府に蔵されていた。明代の景泰7年(1456年)代宗景泰帝の命により覆刻公刊された。この景泰本は日本にも伝わり20世紀《四部叢刊続編》が日本の静嘉堂文庫所蔵の景泰本の影印を収録、『中国食経叢書』も収録」とある。本稿の図版は『中国食経叢書』に依る。
問題は《通雅》が引用したと思われる文が『中国食経叢書』が収録する景泰本に見られないことである(図12)。《通雅》が引用する飲膳正要と『中国食経叢書』所収の飲膳正要を比べると、一方が他方を削除したとか、加筆したとかの違いではない。別本と思える違いである。宮2002は続けて「なお景泰本と別系統の明刊本・鈔本や、残巻のみの元刊本も現存する。景泰本のすこしあと成化十一年(1475)の刊本は、こんにち残っておらず、存在したこと自体、従来ほとんど知られていなかったが、忠実にもとづいた抄本が報告されている」とある。つまり『中国食経叢書』の飲膳正要は景泰本(1456)であり、《通雅》が引用する飲膳正要は成化本(1475)あるいはそのダイジェスト本である可能性が生まれる。そこで成化本と異なる系統の元刊本(1330)であり、それが《通雅》に引用されていると考えられるのである。この仮説が正しいとすれば《通雅》が引用する飲膳正要(1475)にみりんが使われており、『駒井日記』1593年以前の中国語の用例を報告することができる。しかし仮説であってこれまで見て来た清代からの文献の実証的な解読法と大きく手法が異なる。加えて元代に書かれた文章であれば自国を呼ぶときは「元」ではなく「大元」「本朝」と書くはずである。明代成化の刊行時に版木の国名を改めた可能性もあるが、《通雅》の《飲膳正要》引用説は慎重に考えたい。ただ《通雅》にみりんは使われていることは確かである。
現代中国方言から
中国伝来説成立を難しいものにしているもう一つの理由に現代の中国にみりんの存在の報告がないことが挙げられる。そこで以下「みりんの末裔たち」を求めてゆく。
(1)《漢語方言大詞典》
古今の文献から方言の収集を行ない、50万枚の資料カードをもとに約1500万字、収録詞語20万項の大型方言辞典が編纂された。復旦大学と京都外国語大学が合作編纂した《漢語方言大詞典》5巻本である。その大著にはわずかに2項が収録されるだけで、清光緒5年(1879)の《鎮海県志》には上述№6《事物紺珠》を引用し、《白楊村山歌》にはみりんの末裔と思われる言葉が見える(図13)。どのような酒なのか、美酒とあり米で造った甜い酒とあるだけでアルコール度数は如何ほどかなどの情報はない。しかし呉語という情報は貴重で、みりんの末裔は呉語に生きている可能性がある。
(2)《現代漢語方言大詞典》
上記がカードに依る編纂であるのに対して本詞典はインフォーマントに依る調査報告である。北はハルピンから南の海南島(海口)まで42か所の方言調査地点、42冊の分冊からなる巨著で上記と双璧をなす。各分冊の巻末に付く意味分類索引で「飲食 煙、茶、酒」の項からみりんの末裔と思われる言葉を拾うとわずか《温州方言詞典》に見られたに過ぎなかった(図14)。しかも「蜜」ではなく「米」が使われている。現代中国語では蜜も米も同音(声調は異なる)であり、原料に米が使われているからこの字で書かれているのであろう。アルコール度数は状元紅との比較があるだけで、何よりも「黄酒」とある。本稿ではみりんとは焼酎が使われている蒸留酒として論を進めてきたが、一般の黄酒(醸造酒)より度数の高い黄酒、さらにそれより高い度数の酒がどのように造られるのか、蒸留法は使われているのかの記載はない。また状元紅との組合せは前述の資料《崎港聞見録》のとおりである。
温州は浙江省南部、福建省に隣接する都市である。温州も《湖雅》の湖州も呉語区に属すのに、同省北部、太湖のほとりにあり湖州の文人が約百年前に不詳としたみりんの末裔が今も温州に生きているのはどのように考えるのか。同じ呉語区にあっても、内陸の湖畔都市と東海の沿岸都市という地理的な差異を含めた食文化の違いと考えられる。
おわりに
みりん起源を考えるにあたり、これまでの考察で国内起源説に比して劣勢であった舶来渡来説が説得力を持つようになったと思われる。中国語資料に散見するみりんがどのように日本に渡来したのか。中国人(商人でも仏僧でも)がみりんを持ち込んだのか、れっきとした品物であれば漢字記録が規範として使われたはずである。いろいろな表記が見られるということは文字を通してではなく音声が主要な伝達手段であったと考えられる。さらに文化とは水の流れに似て高い所から低い所に向うもので、遣隋使の時代からこちらから求めに行っていた。しかし江戸時代は鎖国、秀吉の時代も中国交易は限定的であった。そこで考えられるのが沖縄=琉球王国の存在である。中国と日本に通じるため、それぞれ琉球王朝は福州琉球館と鹿児島琉球館を設置したという。琉球王国の地政学位置は注意すべきである。琉球には中国(明清)や海外諸国との政治的な交流を主とする歴史資料である歴代宝案が残っている(図15)。先行研究によれば「蜜林檎香白酒二十一埕、蜜林檎香紅酒二十九埕」を贈る、シャム国の長史・蕭奈悦本から琉球へ宛てた1479年と推定される書状の記載が歴代宝案に見られるという(図16)。
結論らしきことを記せば「みりんの起源はシャム、語源は中国、育成は日本」といえるのではないだろうか。
追補
本稿では資料に使われている文字を原則活字にせず、図版を用いた。相当する活字がないこともあるが実際の字形を重視するためである。《湖雅》から時をさかのぼり9種の字形を示した。しかし音は示していない。つまりどのように読まれていた(発音されていた)のかを知るのは根源的な問題と考えたからである。一番分かりやすいのは蜜(み)林檎(りんちん)milinqinである。№6《事物紺珠》の説明「味は蜜の如く色は林檎の如し」である。しかし多くの資料では「さんずい」や「酉へん」が付いて液体であること、あるいは酒であることを示している。部首はカテゴリーを示しているのである。№5《客座贅語》では「酒」という字が添えられている。「ミなんとかという酒」ですよ、という意味である。現代中国語でも“卡片”kapian(カードという紙片)、“吉普車”jipuche(ジープという車)など外国語の受容に広く見られる翻訳法である。
これに対して《湖雅》の疑問は重要である。3字目の字が「さんずい」に「禽」という字と書くが辞書にないという指摘である。№13では技術の進歩で作字をしているがどことなくぎこちない。「禽」と似た字を探すと「离」がある。現代中国語では「離」の簡体字として使われているが「さんずい」に「离」なら辞書にあり“淋漓(りんり)”linliと使われ、水・汗・血などのしたたるさまと説明がある。
林檎linqinは畳韻(2字の母音が同じ二字の熟語)であり、淋漓liuliは双声(2字の語頭子音が同じ二字の熟語)である。どちらも連語で、切り離された1字では使えない語である。前者には逍遥(しょうよう)xiaoyao、連綿lianmian、後者には方法fangfa、参差(さんし)cenciなどがあり、日本語で読んでも双声畳韻が分かる。
国外(後述するようにシャム)から従来にないアルコール度数の高い酒が入ってきた。発酵作用を応用して造った醸造酒とは違う強い酒、醸造酒に繰り返し発酵醸造を繰り返しても蒸留法による酒の強さには及ばない。このような舶来酒をどのように呼んだのか、蜜のように甘く、どろりとしたたる酒と捉えて蜜(み)淋漓(りんり)と呼ばれたのではないだろうか。「みりんり」という言葉を知っていれば3文字目を「さんずい」に「禽」と書いてもデザインとすれば問題はない。これは「蜜」が「密」と書かれても問題がないのと同じである。問題は「みりんり」という言葉を知らない人が勝手に解釈し書き換えてしまうことで、こうして蜜(み)林檎(りんちん)が字面の解釈が出てきたのであろう。
3文字酒名の伝統的な命名法は2文字(生産地名、原料名など)+酒・春・酎である。これに対して蜜淋漓は1字(蜜という味:みりんの特徴義である)+2字(オノマトペ・擬態語)の構成を取る。福建省には「蜜沉沉」という酒がある(図17)。形容詞+重畳成分の語構成は、芥川『羅生門』の最後に文「外には、ただ、黒(こく)洞々(とうとう)たる夜があるばかりである」の「黒洞洞」があり、テレサテンが歌う「甜(テェン)蜜(ミ)蜜(ミ)」もABBの構成を取る。形容詞の生動形式、生き生きした語感を表わす。また4字目に酒・酎が加わることもあれば、1字+2字が2字+1字と解され3字目1字が削られることもあった。№4『崎港聞見録』の用例のとおりである。さらに3字目の1字が削られ、酒・酎が加わることもあった。日本語のみりん表記に見られる。
以上のように考えれば「みりん」にさまざまな書き方が残っているのかも理解できるのではなかろうか。
本稿は、令和7年(2025)2月15日に開かれたキッコーマン食文化講座「みりんの語源を探る」と題した発表をもとにまとめた論稿である。発表にあたりキッコーマン食文研所員の方々には資料作成や諸々の準備でお世話になり、また発表後にはメールで様々なご感想ご質問をいただきました。ありがとうございました。
石崎 又造1940 近世日本に於ける支那俗語文学史 昭和15年10月 弘文堂書房
川根 正教2014 流山みりん物語 平成26年5月 崙書房出版
宮 紀子2002 「附属図書館の珍本」『静脩』 京都大学附属図書館
篠田 統1976 中国食物史 昭和51年9月 柴田書店
時代 | 中国 | 時代 | 日本・琉球 | |
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1300 | ||||
1330飲膳正要 | 鎌倉(12世紀末-1333) | |||
南北朝(1337-1392) | ||||
明(1368-1644) | 室町(1336-1573) | |||
1400 | 1405-33鄭和遠征 | |||
戦国(1467/1493-1573) | 1479歴代宝案 | |||
1500 | 1543ポルトガルから鉄砲伝来 | |||
安土桃山(1573-1603) | 1549ザビエルによりキリスト教伝来 | |||
1600 | 万暦(1573-1619) | 世事通孝 | 1593駒井日記 | |
1604事物紺珠 | ||||
客座贅語 | ||||
通雅 | 江戸(1603-1868) | |||
清(1644-1911) | 閩小紀(順治年間1644-1661) | 1649貞徳文集 | ||
鉄花仙史(康熙年間1662-1722) | 1661太閤記 | |||
1700 | ||||
崎港聞見録(雍正年間1723-36) | 1713和漢三才図会 | |||
1770游焉社常談(乾隆年間1736-1795) | ||||
1800 | 1814二代堀切紋次郎白みりん発売 | |||
明治(1868-1912) | ||||
1877湖雅 |

東京教育大学文学部卒、筑波大学大学院。元筑波大学、元日本大学経済学部非常勤講師。日本中国語検定協会名誉理事。 「中国の食文化が日本に与えた影響:日中餃子文化研究」(本誌2017 No.27)、中国語「醤油」事情(同2021 No.31)