研究機関誌「FOOD CULTURE No.3」しょうゆの話 醤油の歴史③
醤油の歴史③
鎌倉時代の醤
前回は、平安期には液体状とモロミ状の醤が共に造られていたこと、醤とは一般的にはモロミ状のものと認識されていたこと、そして液体状の醤はしだいに姿を消していったことを述べた。今回は、その後の状況と醤油が登場するまでの時期、つまり中世における状況を中心に述べてみることとする。
鎌倉中期の文永・弘安(1264〜87)頃に成立したとされる『塵袋』という辞書は「味曽」について次のように記している。
「味曽ト云フハ正字歟アテ字歟 正字ハ末醤ナリ ソレヲカキアヤマリテ未醤トカキナス 末ハ搗(タウ)抹ノ義也 末セサルハ常ノヒシホ 末シタルハミソナリ コノユヘニ末ヲ用ルヘキヲ字ノ合似タルユヘニ末ヲ未トカケリ 今世ニハ未ノ字ニ口篇ヲクハヘテ味トカキ 醤ヲハ曽トナシテアテ字ニナリタル様ナリ 醤ノ字ヲハヒシホトモアヘモノトモヨム」
つまり、「味曽」の正しい字は「末醤」である。それが誤って「未醤」と表記されてしまった。「末」は搗いた粉末の意である。原料を粉末状にしないのは普通一般の「ヒシホ」で、搗いて粉末状にしたのものは「ミソ」である。従って「ミソ」には「末」の字を用いるべきところ、字が似ているので「未」と誤記されてしまった。今はこの「未」の字に口篇をつけて「味」と書き、「醤」の代りに「曽」の字を使用し、「味曽」という宛字を使用している。「醤」の字は「ヒシホ」とも「アヘモノ」とも読む、というもので、これをみると、鎌倉中期の醤(ヒシホ)は、粒状で利用され、アヘモノとも呼ばれるモロミ状の製品であったことがうかがえる。
よって、これを調味料として利用する場合には、『厨事類記』(鎌倉末頃)に「零餘子(むかご)焼。差物(さしもの)。鯉ノミヲ皮ニ二分許(ばかり)ツケテ。スキテ(剥きて)。ソレヲヒロサ五分許ニ切天。串ニサス。スリビシホツケテアブルベシ」〔()内の読みは筆者。以下の引用文も同じ〕
ムカゴ焼という串焼は、皮付きの鯉の切身を串に刺して「摺ったヒシホ」を付けて焼く、とあるように、摺りつぶしたヒシホの利用法が記載されたりしている(注1)。
煮物料理の発達
平安期の饗膳の料理は、干物・窪坏物(くぼつきもの:塩辛の類)・鮨・漬物といった保存食品や煮焼きしていない生物といわれるものが主体で、これに焼物・汁物・あえ物が若干加わる程度であったが、中世に入ると、これらの種類が増加し、また禅院を中心に普及した精進料理の中核をなす煮物料理も発達した。
室町初期頃成立の『庭訓往来』は「大斎(だいさい:大法会)」の際「菜者(サイハ)・繊羅蔔(サンロフ)・煮染(ニジメノ)牛房・昆布・烏頭布(ウトメ)・荒布(アラメ)煮・黒煮蕗(クロニノフキ)……」などの精進料理を出すべしとしているが、ここにはゴボウ・アラメ(海藻)・フキなどの煮物の名がみられる。
『塵塚物語』〔永禄12年(1569)序〕には次の話が載っている。左馬頭基氏(足利基氏)は常に美食を好んで賞玩していたが、ある時、庖丁人を呼び寄せ、鮒をよく焼いて羹にするよう命じ、決しておろそかに取り扱わないよう厳しく注意しておいた。庖丁人は「かしこまりて、右ふなをよくあぶりて、みそ汁をもて熟(あつ)くこしらへ煮て、膳部にそなえ」た。基氏が食べると、結構な出来具合であったが、片側を食べ、裏返してもう一方を食べようとしたところ裏側は焼いてなくて生であった。怒った基氏は執事にその庖丁人召し出すよう命じ、庖丁人は御手打ちを覚悟してまかり出たが、結局は許される、という話であるが、ここでは焼いた鮒を味噌煮にしている。
古代から中世にかけての各種有職故実書や日記類には数多くの料理名が出てくるが、それがどのように調味されたかはほとんど不明である。この話は足利尊氏の子で、初代関東公方になった足利基氏が左馬頭であった頃(1352〜59)のエピソードを伝えるものであるが、この頃の煮物料理に味噌が使われていた事実を実際に伝える貴重な史料といえる。この例にみられるように中世を通じて、煮物料理の発達には味噌が重要な役割を果たしてきた。
たれみその登場
中世も室町中期になると料理流派の料理書等によって、味噌が煮物や汁物用として盛んに利用されるようになっていることが確認できる。そして、味噌は「たれみそ」という液体調味料に再加工されてその用途を広げている。たれみそ(垂味噌)とは、味噌に水を合わせて煮詰め、布袋に入れてつるして得られる液体調味料(垂れ汁)で、江戸初期の『料理物語』〔寛永20年(1643)刊〕には「垂味噌 みそ一升に水三升五合入せんじ(煎じ)三升ほどになりたる時ふくろに入たれ申候」と、その製法が示されている。また、同書には、「生垂は味噌一升に水三升入もみたてふくろにてたれ申候也」と、加熱しないたれみそを「生垂」として区別している。しかし、室町期の史料には「生垂」の用語は見当たらないので両者は区別されずに「たれみそ」の名で一括されていたものと思える。
たれみそ造りには専用の袋も使われた。『東寺百合文書』(注2)中には「光明講方道具送文」と題する同種の文書が数多く収められている。これらの文書をみると、永享4年(1432)12月30日に「味噌垂袋一」とあるのをはじめとして、その後、文正元年(1466)12月晦日の「みそたれふくろ」まで「光明講」用として毎年のように「味噌垂袋」が用意されている。専用の味噌垂袋を使った垂味噌造りが15世紀前半にはおこなわれていた。また、享徳3年(1454)12月1日の「光明講方用脚算用状」(光明講用の予算書)には「六十七文味曾垂袋代」とある。味噌垂袋は購入されることもあった。
たれみそ料理
たれ味噌を使った料理法は室町期の料理書に数多くみられる。その内のいくつかを紹介すると、
①「コヾリノ事。小鮒ヲ可レ用也(もちうべき)。其外ハ何魚成共(なりとも)可レ用。タレミソニテ煮タルヲバコヾリ迄ニテ(煮て)有ベシ」(フナの煮こごり料理)〔『四条流庖丁書』長享3年(1489)奥書〕
②「瓜汁 越瓜(しろうり)なくば冬瓜(とうがん)以下用(もちいる)。越瓜を少ふとく切。長サ一寸五分計(ばかり)に切。たれみそにて煮べし。又蚫(あわび)をけづりて入」(シロウリとアワビの煮物)〔『山内料理書』明応6年(1497)奥書〕
③「松笠いり(まつかさ煎り)とは鯛の躬(み)を鱗形に切。筋違(すじちがい)に刀目(かたなめ)を入。湯びき候へば松笠に似る。たれみそなどにて煮也」(タイの切り身に斜め格子の切り目を入れて煮た料理)
④「卯の花いりとは。いかを切。薄たれにて煮なり。青味を入べし」(切ったイカを煮た料理)〔③④『庖丁聞書』室町末頃〕などがある。
また、室町中期の武家の婚礼料理中にも「ひしほいり 山のいもをかは(皮)すきて。一寸ばかりニきりて。きじ(雉)をつくりてたれみそにてしたゝめ候て。うえにあまのりををくなり」〔『よめむかへの事』〕といった雉肉と山芋をたれみそでしたためた(煮た)料理が、また「飯田・富松よひ(呼び)、餅ニイリコ(煎海鼠)・マルアワビ・スルメ・マメ入テタレ味噌ニテニテ(煮て)クワス」〔『山科家礼記』明応元年(1492)8月2日条〕と、人を招いてたれみそで煮た雑煮のような料理を食べさせていることが、日記に出ている。
このように、たれみそは、それを薄めた「薄たれ」とともに、多種多様の煮物料理に使われている。また、たれみそは、煮物用のほか、汁物やかけ汁用としても利用され、中世における醤油出現以前の液体調味料の役割を果たしている。
このようなたれみそ時代を経てやがて「醤油」や「たまり」が歴史の舞台に登場してくる。
『多聞院日記』にみる唐味噌
『多聞院日記』は奈良興福寺の塔頭多聞院の僧・英俊らによって文明10年(1478)から元和4年(1618)まで書き継がれた日記である。
ここには味噌や醤の製法が具体的に示されていて当時の味噌や醤の実態を知る上で貴重な手がかりが得られる。味噌に関しては「吉ミソ」「大ハミソ」「唐味噌」などの名とその製法がみられる(注3)。
このうちの「唐味噌」について注目してみると、まだその製法が確立されてなく、さまざまな工夫がなされているが、煮た大豆と炒って粉にした麦とを混ぜ合わせて麹をつくり、塩水を加えて仕込むといった江戸時代の醤油の製法と非常によく似た方法も取られている。そして「唐ミソノ汁上了」「タウミソノシル一樽」などとあって完成品は液体状であったことがわかる。
原料の配合比率に関しては、唐味噌製造の最初の記録である天文19年(1550)6月12日条に「唐味噌今日入了、大豆一斗三升・小麦一斗三升・塩一斗三升・水三斗三升入了、水ハ惣シテ一色ノ升数ノ三倍也」とある。大豆・小麦・塩は同量で、水は「総じて各原料の3倍」とある様に3種の原料の合計量に近い量になっている。このあとも原料の比率を示す記事は頻繁に出てくるが大体同じである。
麦に関しては、小麦の代りに大麦のこともあるが、小麦と大麦が併用されている場合が多い。この原料の配合比率を、醤油の製法が記された江戸時代の比較的早い時期の史料と比較してみると、次の表のように非常に近い数字となっている。この点からも唐味噌は江戸時代における醤油造りの先駆けをなしていたことがわかる。
ただ、『多聞院日記』に「唐味噌」の名が現われる天文19年(1550)には、後述するように、既に「シヤウユ」の名が使われるようになっているのになぜ「唐味噌」としたのかという疑問は残る。たしかに『多聞院日記』にはその後2ヶ所に「醤油」「正ユウ」の名が出てくる。しかし、その製法についての記述はなく、この後も引き続き「唐味噌」の名は使われていき、両者の関係ははっきりしない。
一方、醤に関しては、主原料は大麦で、大豆は大麦の30パーセント程度にすぎない。しかも、これらは粒状に近い状態で利用されている。水の比率は30パーセント強で唐味噌に比べてかなり少なく、それでも「近年アマリシルキ(汁き)間、此通ニ(このとおりに)塩水ヒカヘ了」と、近年は水っぽくなっているので水分量を減らした、などとある。完成品はなめ味噌的なものであったろう。
唐味噌と江戸期の醤油との原料比較表
| 史料名 | 品名 | 原料の比率(%) | 成立年代 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 大豆 | 麦 | 塩 | 水 | |||
| 多聞院日記 | 唐味噌 | 17-18 | 17-18 | 17-18 | 47-48 | 文明10年(1478)~元和4年(1618) |
| 料理物語 | 正木醤油 | 19.6 | 25.5 | 15.7 | 39.2 | 寛永20年(1643)刊 |
| 日本歳時記 | 醤油 | 19.2 | 19.2 | 19.2 | 42.3 | 貞享4年(1687)序 |
| 本朝食鑑 | 醤油 | 約22 | 約22 | 約22 | 約34 | 元禄8年(1695)跋 |
| 和漢三才図会 | 醤油 | 18.2 | 18.2 | 18.2 | 45.5 | 正徳2年(1712)序 |
醤油の名の出現
醤油の名は中国に先に現われる。13世紀頃の『山家清供』(林洪著)や『中饋録』(浦江呉氏編)に「醤油」の名がみられ、製法は不明だが、調味料として使われている(注4)。次いで、14世紀頃(元末明初頃)の『易牙遺意』(韓奕撰)になると醤油の造り方(「醤油法」)が出てくる(図1)。ここでの醤油の造り方は、果たして今日の醤油につながるものかは疑問視されているが(注5)、とにかく中国では14世紀頃には「醤油」と名の付くものが造られるようになっていた。
日本では、16世紀に入ると節用集や日記類に「シヤウユ」の用語がみられるようになる。早い例は16世紀初頭頃の『文明本節用集』で、「漿醤」を「ショウユ」と読んでいる(図2)。同書では「醤」は「シヤウ」、「油」は「ユ」「ユウ」と音読されているので、醤油は「シヤウユ」「シヤウユウ」と発音されたと思えるが、ここには醤油の字は採用されずに「シヤウユ」の読み方のみが採用されている。また同書には「醤漿(タレミソ同)」とあって、「醤」や「漿」は「タレミソ」とも読まれている(注6)。
たれみそと醤油の大きな違いは、たれみそは味噌の2次加工品であるのに対して、醤油は当初よりそのものの製造を目的とした1次加工品である。『文明本節用集』では、醤油とは違う「タレミソ」のような液体調味料を「シヤウユ」としたのではなかろうか。
次に「シヤウユ」の名がみられるのは『鹿苑日録』の天文5年(1536)6月28日条で、そこには「漿油ヲ子(ね)サス」とある。そして、この前日の6月27日条には「ヒシヲ子サス」とあるので、「ヒシヲ」とは別に「漿油」が仕込まれている。また、同年8月14日条には「遣漿一桶」と「漿」を桶に入れて遣い物(贈り物)にしていることがみえている。多聞院における唐味噌の醸造は「製麹は6月中旬ー下旬、仕込みは約その1週間後、製成が8月中旬頃で、通常約60日間を要した(注7)」とある。「漿油」をねさせ(麹をつくり)、製品の「漿」を樽に入れて贈った時期は「唐味噌」の製麹と製成期にそれぞれ一致する。この贈り物の「漿」は6月28日に麹づくりを始めた「漿油」の完成品と思える。
少し後になるが『言継卿記』の永禄2年(1559)8月27日条にも「シヤウユウ 小桶壹、遣之」と「シヤウユウ」を小桶に入れて贈り物にしていることがみえる。 桶に入れて贈り物にされたこの「漿油」や「シヤウユウ」は、「タレミソ」ではなく、醤油であった可能性が大きい。
『鹿苑日録』は鹿苑院主達によって書き継がれた日記を収める。相国寺の塔頭鹿苑院は室町幕府の東隣りに位置し、当時の文化センター的な役割を担っていた。これに対し、多聞院は奈良の地にあった。中国文化をより早く受け入れられる状況にあった鹿苑院は、多聞院に先駆けて醤油を生産しそれに「漿油」の名を与えたことは充分考えられる。日本でも、16世紀の中頃までには醤油の製造が始まったようだ。
醤油とたまり
16世紀後半になると醤油の字も現われるようになる。『多聞院日記』の永禄11年(1568)10月25日条に「長印房ヘ羅漢供ニ徳利・醤油持出了」と長印房へ醤油を持参したとある。管見の限り、「醤油」の字が使われた初見と思える。同日記の天正10年(1582)8月24日条にも「十後ヨリ梅ツケ正ユウ取ニ来、遣」と「正ユウ」を遣わしていることがみえている。多聞院でもそろそろ「唐味噌」を「醤油」とも呼び始めたのではなかろうか。
次いで『易林本節用集』〔慶長2年(1597)奥書〕に「醤油」と出てくる。最古の節用集の一つと目される『文明本節用集』以後、多種多様な「節用集」と名のつく辞書が著わされてきたが「シヤウユ」や「醤油」に相当する名はなく、この『易林本』に至ってはじめて「醤油」が採用されている。この頃には名実共に醤油が普及するに至ったと考える。
『鹿苑日録』の慶長4年(1599)9月8日条には「朝食有之。汁・菜。々者(菜は)松茸ヲ醤油ニテ煎テ也。」と朝食用の菜(おかず)に松茸を醤油で煮た料理が出されている。その後も「麩シヤウユウニテ煎之。上置山椒」〔慶長6年(1601)3月21日〕、「茶請ニ大栗……。シヤウユウニテ煎之」〔同年9月26日〕などと醤油を使った料理がよくみられるようになる(注8)。また、日本イエズス会宣教師らが編纂した『日葡辞書』〔慶長8年(1603)刊〕には、醤油は「食物を調理し、味をつけるために非常によく使われる」とある。
一方、この醤油に対して味噌を母体にした「たまり」も造られるようになっていく。江戸時代に入るまでには「醤油」と「たまり」が出揃うことは『日葡辞書』によって確認できる。『邦訳日葡辞書』によると、醤油に関しては、「Xoyu.シャウユ(醤油)酢に相当するけれども、塩からい或る液体で、食物の調味に使うもの。別名(簀立)と呼ばれる」、「sutate.スタテ(簀立)日本で食物を調理し、味をつけるために非常によく使われる、小麦と豆から製するある液体」とある。一方のたまりに関しては、「Tamari.タマリ(溜り)味噌(Miso)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」となっている。
ここには、醤油は小麦と大豆から製せられる液体、たまりは味噌から製せられる液体、と説明されている。醤油は、たまりとも味噌とも異なる製品として独自の発展を遂げていく。この点については次回で述べるつもりである。
- 1『庖丁聞書』(室町末頃)に「摺醤(すりびしお)といふは魚鳥ともに無塩を切。塩をふり。酒を懸(かけ)るをいふ也」とあって、一般的にはこのような料理法と考えられているが、この場合は文字通り摺った醤と解せる。
- 2『大日本古文書』「家わけ十ノ三」(東京大学史料編纂所編)
- 3『多聞院日記』の大豆発酵食品については『日本の食と酒』(吉田元著人文書院)に詳しい研究がある。
- 4『山家清供』や『中饋録』に現われる醤油については問題点が指摘されている。詳しくは『中国の食譜』(352〜353頁)(中村喬編訳平凡社東洋文庫)を参照されたい。
- 5『中国食物史』(255頁)(篠田統著柴田書店)は『易牙遺意』の「醤油法」に関し「醤油法というものがあり、黄豆(しろまめ)一斗・塩六斤・水多い目に仕込むと、豆は下に沈み、油は上に浮くとある。これが今日いう醤油なのか、油だけなのかもう少し検討を要する」としている。
- 6同書の「醤」には「ヒシホ」と読む従来の読み方も示されている。
- 7前掲『日本の食と酒』(212頁)
- 8一般に室町時代の料理書に想定されている『大草家料理書』には醤油を使った料理法が多く出ている。しかし、この書には江戸時代になって書き加えられた言葉も多く、醤油もその一つではないかと考え、ここでは言及を避けた。
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飯野亮
1938年東京生まれ。早稲田大学英文学専攻課程、明治大学史学地理学科卒業。食物史家。服部栄養専門学校講師(食物史担当)。食生活史懇話会世話人、食生活史研究会世話人、日本風俗史学会会員。「米は日本人の主食であったか」「蘇の実験的考察」「『多聞院日記』にみる醤油と唐味噌」など研究発表多数。 |






