研究機関誌「FOOD CULTURE No.8」世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【上】
世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【上】
「アメリカの食」といえば、ハンバーガーに代表されるファーストフード、あるいは巨大なステーキがイメージされることが多いだろう。しかし、世界中から移民が集まって構成されている多民族国家アメリカの食文化は、けっしてそれだけの、単純なものではない。また、アメリカは新しい国、と思われがちであるが、確かに1776年の独立宣言からはわずか二百数十年の歴史ではあるものの、紀元前25000〜12000年頃、アジアからこの大陸にたどりついた人々、いわゆるネイティブ・アメリカンが、長い年月をかけて育んできた食の知恵が、現在にまで生きていることも忘れてはならないだろう。現在、世界有数の農業国であるアメリカの農産物の7分の4は、ネイティブ・アメリカンに教えられたものだという。
ネイティブ・アメリカンの食の知恵は、ヨーロッパからやってきた入植者が新大陸で生き延びる際に、必要不可欠なものであった。両者の食の交流を語るものとして、サンクス・ギビング・デイ(Thanksgiving Day)のエピソードがある。サンクス・ギビング・デイは、独立記念日と並ぶ、アメリカにおいて最も重要な祝日であるが、この日には、日本の正月のお節料理のような定番メニューを家族で囲む。食卓に並ぶのは、七面鳥の丸焼きやクランベリー・ソース(ツルコケモモに似た赤い実を煮詰めた、甘い口とりのようなもの)、サコタッシュ(トウモロコシと豆を一緒に煮、メイプル・シュガーで味つけしたもの)、パンプキン・パイなどだが、そのいずれもが、ネイティブ・アメリカンが享受してきたアメリカ大陸原産の素材を使ったものだ。サンクス・ギビング・デイの起源には諸説あるが、17世紀初期にヨーロッパから入植してきた人々が、それまで自分たちが暮らしてきた土地とは異なる風土にとまどう中、ネイティブ・アメリカンがアメリカならではの食材の栽培方法や食べ方を伝授したおかげで飢えを免れたことを感謝して饗宴が行われた、という話が人口に膾炙(かいしゃ)している。
サンクス・ギビング・デイの料理にとどまらず、アメリカの伝統的な郷土料理には、ネイティブ・アメリカンが調理方法を生み出したものが少なくない。七面鳥やバッファローなどの野鳥・野生動物料理、クランベリーやハックルベリー、サクランボ、ピーナッツやピーカン・ナッツ、多種多様なキノコ、トウモロコシやカボチャ、トマト、アボカド、ヤムと呼ばれるサツマイモ、ジャガイモ…アメリカの大地が生み出した豊穣な実りは、ネイティブ・アメリカンによって様々に調理法が工夫され、その後、ヨーロッパからの入植者たちの食文化というフィルターを通して、「アメリカ料理」を生み出していくことになる。

入植者たちの食生活
1492年に、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」してから後、日本では江戸時代が始まろうという頃とほぼ時代を同じくして、ヨーロッパ人による植民が始まる。1565年にまずスペインがフロリダのセント・オーガスティンに、続いて1607年にイギリスがヴァージニアにジェームズタウンを建設している。いわゆるピルグリム・ファーザーズたち(メイフラワー号で渡った102人の清教徒)がマサチューセッツのプリマスに上陸したのは1620年、その後、ニューイングランド(メイン、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ヴァーモント、ロードアイランド、コネティカット各州)には、イギリスからの入植民、アングロサクソン系ピューリタン(清教徒)が多く移住し、彼らは後にアメリカ北部発展の牽引役を果たした。アメリカの食文化においても、ピューリタンの生活様式や思考方法は、現在にいたるまで、大きな影響を与えているように思われる。そのひとつに、宗教的な教えに根ざした禁欲的態度が挙げられるだろう。
「ニューイングランド」とは名ばかりの、イギリス本国とはまったく違う気候や風土にあって、入植者たちは、早々に飢えの危険にさらされることとなった。ネイティブ・アメリカンの助けもあって、少しずつ生活を軌道に乗せてはいったものの、この地方特有の長く厳しい冬は、その後も入植者たちの食生活に一定の枷かせを与え続けることになる。収穫が終わる秋が過ぎる頃には、人々は冬を越すための食糧の貯蔵を終えていなければならず、冬中通して倹約にいそしむ必要があった。冬の間、毎日食卓に並んだのは、貯蔵された塩漬け豚肉や乾燥豆を使った単調な料理であり、春になると、チーズやバター作りのシーズンが始まり、夏から秋までは、肉に代わって、乳製品が人々の栄養源となった。
ニューイングランドの入植者たちは、美食を罪とし、身を養うに十分な食物さえあればそれでよし、という、清教徒的禁欲精神の持ち主であった。同じものを食べ続けても、神が与えてくださった恵みに不平をいうことなどもってのほか、どんなに粗末な食事でも、それで飢えから救われることに感謝して、彼らは食卓についた。しかし幸いなことに、ニューイングランドは豊富な食材が実る土地であった。ロブスターや蛤、牡蠣をはじめとする海の幸がふんだんに獲れ、ブルーベリーやクランベリーなどベリー類が豊かに実り、今でも名産のメイプルシロップを恵む楓の森が広がる。七面鳥や鹿、野ウサギなどの野生動物や野鳥の肉、カボチャ、サツマイモ、キノコや山菜…ニューイングランドの特産品は数え切れない。これらニューイングランドの食材を使って、入植者たちは祖国イギリスの料理を作った。たとえば、トウモロコシとクリームを混ぜたミルク、卵に調味料を入れて作ったコーン・プディングは、イギリス名物のローストビーフにつきもののヨークシャー・プディングをアレンジしたものである。
しかし、アメリカ料理のルーツは、ニューイングランドに限らない。新大陸めざして入植してきた中には、ピューリタンのように禁欲的でない人々も当然含まれていた。たとえば、1718年には、フランス人がヌーヴェル・オルレアン、現在のニューオーリンズを建設している。その後、1803年にアメリカに割譲されるまでの半世紀ほど、スペインの支配も受けたこの地からは、「ケイジャン・クレオール」と呼ばれる、アメリカ南部の中でも独特の食文化が生まれた。ピューリタンたちがニューイングランドの食材を使ってイギリス料理を作ったように、「ケイジャン・クレオール」も、土地の産物をフレンチの技法で調理したものが多い。その中には、もちろん元々住んでいたネイティブ・アメリカン、さらには奴隷として連れてこられたアフリカ系や西インド諸島の黒人たちの食文化も含まれている。「ケイジャン・クレオール」の代表料理には、ザリガニやエビのエトフェ(フレンチの技法のひとつで、スープなどで煮込む料理)やワニ肉が入ったガンボ(具だくさんの濃厚なスープ。フレンチのブイヤベースに影響を受けているといわれる)、ジャンバラヤ(スパイスの効いた炊き込みご飯。スペインのパエリヤに似せて作られたという)などがある。
禁欲的でない、といえば、17世紀から18世紀にかけてペンシルベニア州に移住したドイツ人プロテスタントの子孫、ペンシルベニア・ダッチは、くず肉を集めた料理、スクラップルやバラエティあふれるピクルスなど、ニューイングランドのピューリタンたちに通じる質素で倹約を旨とする料理を得意とした。しかし、大きな違いは、「食べ物を無駄にするよりは胃袋を破裂させる方がましである」という格言があるほどの大食漢であり、彼らは非常に強く食にこだわりを持っていた。また、ペンシルベニア・ダッチは非常に甘いもの好きで、日に3度パイを食べ(ミートパイのような甘くないものも含まれてはいたが)、朝食にジャムや糖蜜が入ったドーナツ、収穫時の「十時のおやつ」には、粉砂糖をまぶしたドーナツをつまんだ。ちなみに、現在ポピュラーな、真ん中に穴の開いたドーナツは、ペンシルベニア・ダッチのそれが元になっているのではと言われている。
南部では、大規模農場(プランテーション)で栽培されるタバコ、綿、砂糖などがヨーロッパに輸出され、経済的繁栄をもたらしたため、早くから富裕層が形成された。彼らにとっては客を招いての晩餐は日常的なものであり、プランテーションに宿泊した客は、朝食から肉類、果物にアルコール付きの豪勢な食事でもてなされたというから、その歓待ぶりがうかがえる。また、プランテーションの労働力として、早くも1700年代からアフリカから黒人が連れて来られるのだが、彼らは料理上手と評判が高く、主人一家さらには大勢の客人の食事を作る料理人としての役割も担った。彼らがアフリカから携えてきたオクラ、ごま、ピーナッツ、ブラック・アイド・ピーなどは、南部料理の主要な材料となった。また、南部では豚肉が非常に好まれ、特に、ヴァージニアのピーナッツを飼料にして育った豚を燻して作るスミスフィールド・ハムは、その肉の柔らかさが類を見ず、ビクトリア女王への献上品にもなったほどである。


独立戦争、そして初期のアメリカ大統領の食卓
17世紀初期から始まるヨーロッパ人による入植の時代を経て、アメリカ独立戦争が始まるのが1775年である。当時、イギリスは、1755年から1763年にかけてのフランス人とネイティブ・アメリカンの連合軍を相手にした植民地戦争など、海外植民地をめぐって列強諸国と戦争を繰り返しており、その莫大な戦費による赤字解消のため、すでに経済的繁栄を謳歌しつつあったイギリス領13植民地への課税を強めた。1773年のボストン・ティーパーティは、そうした一連のイギリスによる課税強化政策のひとつ、紅茶にかけられた関税の高さに対する抗議行動であり、その2年後に始まる独立戦争のきっかけのひとつとなる。ところで、ボストン港につながれたイギリス船の紅茶の積み荷342箱が海に投げ入れられる、というこのラディカルな事件は、現代のアメリカ人のコーヒー好きにも一役買った形跡がある。それまでの入植者たちは、本国イギリス人同様、非常に紅茶を好む人々であった。それが、相次ぐ紅茶に対する課税により、人々はイギリスの暴虐を象徴する紅茶をボイコットするという行動をとり、それは七年間にわたる独立戦争の間続けられた。紅茶の代わりに、コーヒーや、「リバティ・ティー」と当時の人々が呼んだ、一種のハーブティーが飲まれたという。
1776年に独立宣言、その後、独立戦争の指揮官であったジョージ・ワシントンが初代大統領に就任するのが1789年である。建国当時のアメリカの大統領の食生活をかいま見てみよう。ヴァージニアのプランテーション主でもあったワシントンは、他の南部のプランテーション主同様、客を招いての晩餐を好んだ。当時の慣例として晩餐は3時に始まり、自身の農場からの農産物、近郊のポトマック川から水揚げされた魚、ドングリを食べてよく太った豚、野鳥や野生動物の肉、ヴァージニアハム、そして果樹園でとれたりんごや桃の自家製ブランディなどが供されたという。当時人気のあったアーティーチョークはしばしばワシントン好物のサラダに入れられた。ワシントンは他にパイナップルとマデイラ・ワインを大変好んだという。現在、ニューヨークのレストラン「フランシス・タバーン」では、ワシントンが好んだといわれる料理、たとえば、チキンビスケットのライス添え、ニューイングランド風クラムチャウダー、アップル・クランブルのクリーム添えなどを今でも食べることができる。
独立宣言起草者でもある第3代大統領、トーマス・ジェファーソンもグルメとして知られている。やはりヴァージニアのプランテーション主であったジェファーソンは、アメリカで初めてトマトを栽培するなど、法律や外国語、美術、建築など彼が才能を発揮した他の分野同様、農芸科学者としても第一級の才能をみせた。当時、トマトは毒があると人々に思われていたので、ジェファーソンは自らトマトにかぶりついて、食べても大丈夫、と証明してみせたという。
フランス公使として5年ほどパリに滞在するという経験は当然、ジェファーソンの食通のレベルをより一層上げることとなった。ジェファーソンはフランス料理を愛し、黒人奴隷のコックをフランスに連れて行き、優れたフレンチのシェフたちから教えを受けさせた。また、元々、ワイン通であったジェファーソンは、「外交より熱心」と陰口を叩かれるほど、ヨーロッパ各地のワイン産地めぐりに熱中している。彼は、上等なワインにおいしい食事が外交に不可欠、と信じており、大統領在任中の豪華な晩餐会の費用はしばしば大統領の給与ではまかなえず、彼個人の財産で補填したほどだという。
ジェファーソンの好物のひとつ、マカロニ・アンド・チーズは、イタリアから彼が持ち帰ったパスタマシーンとパルメザンチーズで作った彼の「発明」だが、これは現在でもアメリカ人の好物である。また、フランスでアイスクリームの作り方を習い覚えたジェファーソンは、当時のアメリカでは手に入らなかったアイスクリーム作りに並々ならぬ情熱を傾け、氷に塩を加えた樽の中でクリームを攪拌するアイスクリーム・マシーンを考案したりしている。


食の多様化が進む19世紀アメリカ
現代のアメリカの食に対する評判はけっして高くはないが、建国当時のアメリカ料理はまずくなかった、という証人のひとりに、かのブリヤ・サヴァランがいる。フランス革命中、2年ほどニューヨークに亡命していた稀代の美食家は、1794年にコネティカットを訪れて、コーンビーフやガチョウの煮込み、マトンのもも肉、豊富な野菜などを楽しんだ、という記録が残っている。また、新大陸の食材である七面鳥の狩りに招かれた彼は、その肉の味わいは最高だった、と誉めたという。
当時のアメリカの食糧事情の豊かさを証明するものとして、体格の推移がある。ひとつの国の成人の平均身長は、2ないし3世代前からの栄養状態の水準の反映である。17世紀初めの入植初期、白人の入植者たちは、同時代のヨーロッパ人と比べると、かなり背が低かったという。それだけ栄養状態が悪かったわけだが、18世紀後半にアメリカが独立するまでには驚異的な伸びをみせ、5フィート8インチ(約172.72センチ)と、20世紀半ばのアメリカ人の平均身長とほぼ同じ体格に達した。わずか150年の間に、アメリカ人の食糧事情は飛躍的に進化したのである。「1日に3回肉を食べ、しかも3食それぞれの量は半端ではない」と、1864年にアメリカを訪れたイギリス人が、南北戦争中にもかかわらず、アメリカ人が有り余るほどの食糧を享受しているさまに驚嘆した記録が残されている。彼はまた「7、8種類の料理を6分ほどで平らげてしまうアメリカ紳士たち」と記しているが、当時のアメリカ人は、体格のみならず、現在のアメリカ人にまさるとも劣らぬ大食漢であったことがうかがえる。
この頃、18世紀前半は、アメリカの食生活に多様性が増していった時期でもある。「肉とパン」以外の食物、たとえば野菜の生産が増え、夏野菜と冬野菜が食べられるようになるなど、食卓に並ぶ食品にバラエティが出てきた。北部ではじゃがいもが、南部ではさつまいもが広く栽培されるようになり、食事における野菜の量が増えたことで、人々は単調なメニューから解放されたことはもちろん、ビタミン不足からくる病気、たとえば壊血病に対する抵抗力も増した。
19世紀前半になると、香辛料、砂糖、茶、コーヒーなどの嗜好品も広く行き渡るようになる。裕福な階級が独占していた贅沢品、紅茶も、18世紀後半には日常的飲み物となっていた。コーヒーは紅茶以上に急速に普及し、1800年から40年の間に、消費量は5倍に増えた。また、1820年代以降の禁酒運動の高まりは、アルコールの代替品として、水やコーヒー、紅茶の消費を一層うながすこととなった。コーヒー、紅茶の消費が拡大するにつれ、それに入れる砂糖や糖蜜の消費量も急速に増え、1833年の平均的労働者家庭の食費の概算によると、砂糖と紅茶に対する支出は肉への支出を上回っていたほどだという。
19世紀前半は、食の贅沢化が進んだ時期でもあった。1789年に起こったフランス革命によって、パリにいたシェフが多数アメリカに亡命し、パリ風の高級料理をアメリカ人に広めることとなる。1828年にはニューヨーク市にパリ風高級レストラン「デルモニコ」が開店し、裕福な商人たちは、アスターハウスホテルのレストランで数十種類の肉と魚料理、そして貯蔵室に蓄えられた百種以上のワインを楽しんだ。1820年代までには、氷冷蔵庫が一般化し、都市の富裕階級は、夏の期間中、牛乳、バター、野菜、生肉を食べることができたという。一方、貧富の差も拡大し、都市の貧困労働者階級や貧しい田舎の農民は、パンよりも安いじゃがいもを主食にせざるを得なかった。黒人奴隷たちも、肉や砂糖を口にする機会はほとんどなく、トウモロコシに大部分を依存していた。
人々がより裕福になり、食事が贅沢で多様になるにつれ、それに異議を唱える「改革論者」も出現した。有名なのは、今でもグレハム・クラッカーという全粒粉のクラッカーに名を残している、シルベスター・グレハムである。長老教会派の牧師でもあった彼は、豊かな中流階級は過食の度が過ぎ、飽食状態であり、精力過多であると批判し、肉の摂りすぎ、香辛料と刺激物、精製された粉で作ったパンや菓子の食べ過ぎは、肉体的には消化不良という病を、精神面では心の落ちこみをもたらすと主張した。彼の主張は、都市の一定の階層に受け入れられ、彼らは、紅茶、コーヒー、肉を完全に断ち、水を飲み、荒く精製された田舎風の黒いパンを主食にした。現代アメリカでも盛んな健康食のはじまりのひとつがここにみられる。
フロンティアの移動料理
この頃、アメリカは西部への「膨張」を続けていた。1830年代の初めから、「辺境」と呼ばれた西部地域への人々の移住が始まり、1848年にはカリフォルニアに金鉱が発見され、東部から人々が熱狂的に集まってきた。「ゴールド・ラッシュ」である。「今やアメリカ大陸には『辺境』というものはなくなった」と国勢調査局が宣言した1890年まで、アメリカは「西部辺境」の時代に入る。人々は全財産を積んで、幌馬車や乗り合いの駅馬車で遙かな旅路を西へと進んだ。小麦粉、ベーコン、コーヒー、砂糖、乾燥豆、塩、こしょうなどの調味料、じゃがいもなどを積み込み、缶詰や乾燥野菜を携帯した。旅の食事は単調で、朝食はベーコンと乾パンやビスケット、コーヒー、昼食や夕食にはオートミール、ドライ・アップルのシチュー、ベーコン、堅パンなどが並んだ。元々はネイティブ・アメリカンの食であったバッファローの肉を薄くスライスして乾燥させ、細かい粉末状にしたペミカンも、旅行中の大事な栄養源であった。調理は野外のたき火の鍋ひとつで行われ、塩漬けの豚肉かベーコンと豆を煮込んだポーク・アンド・ビーンズは、大量に作って、来る日も来る日も食べ続けられた。
ポーク・アンド・ビーンズは、南北戦争後から1880年代半ばまでに全盛だったカウボーイたちの主食でもあった。南北戦争後、東部で牛肉の消費量が増え、肉牛の産地であるテキサスからカンザスなど北部の鉄道駅まで牛を生きたまま運ぶ必要が生じ、その運び手として活躍したのがカウボーイである。ちなみに、テキサスの牛は、スペイン人たちが持ち込んできた牛たちの子孫とされている。カウボーイたちは、チャックワゴンと呼ばれる炊事をするための馬車、そしてクッキーと呼ばれた調理人と共に旅をした。
開拓者やカウボーイたちの移動料理は、長旅の最中ということもあり、食を楽しむという点はかなりなおざりにされたが、簡単に作れて、手軽に食べられ、それひとつで激しい労働や旅の疲れを癒すだけのカロリーをとれるよう工夫されていた。現代アメリカのファーストフードや電子レンジで温めるだけのTVディナーは、こうした移動用料理の末裔のように思える。

- 1Danforth, Randi, et al. 1998. CULINARIA:THE UNITED STATES:A CULINARYDISCOVERY. Konemann
- 2The Art Institutes. 2002. American Regional Cuisine, Wiley, John & Sons
- 3『世界の食文化 12 アメリカ』 本間千枝子、有賀夏紀(農文協 2004年)
- 4『アメリカがまだ貧しかった頃』 ジャック・ラーキン 杉野目康子訳(青土社 2000年)
- 5『クックブックに見るアメリカ食の謎』 東理夫(東京創元社 2000年)
- 6『アメリカの食卓』 本間千枝子(文藝春秋 1982年)
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加藤 裕子(かとうひろこ)
1970年東京に生まれる 1993年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業 同年(株)集英社入社 女性月刊誌「LEE」 編集部に在籍 1999年退職。生活文化ジャーナリストとしてフリーランス活動を開始。同年渡米 The Vegetarian Resource Group (メリーランド州) に籍をおき、アメリカのベジタリアン事情、食生活、 健康志向などをテーマに取材。帰国後は日米のメディアで活躍している。 著書に『寿司、ブリーズ!~アメリカ人寿司を喰う』 (2002年 集英社新書)、『「シャキッと炒める」を英語で言うと」 (2002年幻冬舎)、『食べるアメリカ人」 (2003年 大修館書店)などがある |






