研究機関誌「FOOD CULTURE No.9」世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【中】
世界の食の交差点 アメリカの食文化見聞録【中】
前編のあらすじ
アメリカは世界中から集まった移民で構成されている。まずイギリス人は、ニューイングランドに入植した。彼らは飢えの危機にさらされ、ネイティブ・アメリカンに助けられ、土地の産物を使った新しいアメリカ料理を作り上げた。フランス人は、ニューオリンズを建設し、土地の産物をフレンチの技法で調理。さらに、ペンシルベニアに入植したドイツ人は、くず肉を集めた料理やビクルス、甘いバイなどで大食漢の胃袋を満たした。
独立戦争を経たアメリカは、それまでに作り上げた食文化と食料事情の豊かさを享受し、フランスの美食家がアメリカ料理は最高だと褒めたという話がある。
19世紀に入ると、バリのシェフたちが高級料理を広めたが、同時に飽食を戒める風潮も生まれ、健康食を始める人たちも現れる。その頃、西部地域への移住が始まり、開拓者やカウボーイたちは簡単、手軽に食べられる移動料理を作った。これが現代のファーストフードの原点だともいえる。
遣米使節とマーク・トゥエイン
1776年の独立宣言からわずか100年の間に、アメリカは、国家分断の危機、南北戦争を乗り越え、カリフォルニアまでの西部、そしてアラスカへと領土を広げ、その広大な国土を横断する鉄道を完成させていた。
1890年には、組織的な抵抗を続けてきたネイティブ・アメリカンたちは完全に「制圧」され、時期を同じくして、アメリカ人に新天地を与え続けてきた「フロンティア」は消滅する。19世紀後半になると、産業の発展は著しく、自由競争の下で勝利を収めた独占資本家たちは、ありあまるほどの財産を得たが、都市に増え続けた労働者の貧しさは、それと対極にあるすさまじさであった。
豊かなアメリカをめざして、移民たちが殺到し、アメリカ社会は変革への大きな波にもまれていた。
その頃、やはり激動の時代を迎えていた日本は、そのアメリカと相まみえることとなった。ペリーが浦賀に来航するのは、南北戦争以前の1853年、翌年に日米和親条約が結ばれ、1858年には日米通商条約が締結される。そして、1860年、条約批准のため、咸臨丸と共に遣米使節が派遣され、ちょんまげを結い、和服に両刀を携えた東洋の異国からの使節は、行く先々で大歓迎を受けた。咸臨丸に随行した福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、「徳利の口をあけると恐ろしい音がして、まず変なことだと思うたのはシャンパンだ」
「三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で」などと記しており、使節への歓迎ぶりと共に、アメリカが満喫していた豊かな食生活の一端を知ることができる。また、ある家に招待された際には、子豚の丸焼きが出てきて、「まるで安達ヶ原に行ったような訳だ」と、福沢はあきれかえっている。肉食が一般化していなかった当時の日本人が、肉が主食のようなアメリカの食生活に触れて、さぞかし仰天したことだろう。
当時のアメリカの食については、作家マーク・トゥエインも記録を残している。1867年にヨーロッパを旅した彼は、故郷アメリカの料理を懐かしみ、「あれが食べたい、これも食べたい」と、なんと60種類以上もの食べ物をノートに記した。
ヴァージニア・ベーコン、ソフトシェルクラブ(脱皮直後のブルークラブ)、フィラデルフィア・テラピン・スープ(淡水亀のスープ)、コネティカットで獲れる魚、ボルティモアのオオホシハジロ(鴨の一種)、塩気のあるバター、もぎたてのトウモロコシ、アスパラガス、インゲン豆、アップルパイ・・・素朴ではあっても、豊かな滋味にあふれた、古き良きアメリカ料理のおいしさが目に浮かぶようだ。

南北戦争で起こった食の変化
南北戦争(1861~1865)の前後には、アメリカの食生活に様々な変化が起こった。そのひとつに、缶詰という保存食品が市民権を得たことが挙げられる。
缶詰は19世紀前半、ヨーロッパで考案されているが、アメリカにおいては、1821年、イギリス人移民によってボストンに缶詰工場が作られていた。南北戦争中、缶詰は、運搬のしやすさと保存のしやすさで、兵糧食として重宝されたという。北軍用にボーク・ビーンズ、牡蠣、サヤインゲンなどの缶詰が、南部では肉と野菜のシチューの缶詰が製造され、帰還した兵士たちは缶詰の便利さと味の良さを宣伝し、需要は急増した。やがて、缶詰のトウモロコシ、ベイクドビーンズ、カボチャ、サツマイモなどが台所に常備されるようになり、それらは、アメリカの家庭料理の素材として欠かせない存在となっていく。
その後、19世紀末までに、濃縮スープで有名なキャンベル社を起こしたジョセフ・キャンベルが缶詰の製造と食品の充填の自動化に成功し、アメリカは、世界の缶詰産業をリードしていくこととなる。缶詰の普及は、アメリカ人の食生活と調理を根本から変え、他の加工・パッケージ食品に道を開いた。
南北戦争前後に生まれ、需要が急速に伸びた食品として、他に、(現在のような味つけの)ケチャップ、タバスコソース、コンデンスミルク、エバミルクなどがある。これらは、アメリカのみならず、世界中で親しまれる商品となった。

大陸横断鉄道の完成と流通革命
南北戦争後に起こった、アメリカ人の食生活における変化で、もうひとつ見逃せないのが、牛肉の普及である。入植初期のニューイングランドに住む人々の大半は、イギリスからの移住者だったが、彼らが故国でポピュラーだった牛肉料理を味わうには、1624年にイギリスから牛が送られてくるまで待たなければならなかった。それまで、人々の肉に対する欲求を満たしたのは、牛よりもずっと育てるのが容易な豚や鶏であり、そしてそれ以後も、豚はアメリカの肉料理の主な部分を占めていた。そうした事情を変えることになった大きなきっかけのひとつが、1869年に完成したアメリカ大陸横断鉄道である。
1830年代から始まった西部への開拓が進むと共に、アメリカ中西部の大平原に4千万頭という規模で棲息していた巨大な野牛、バッファローの狩猟が盛んになっていった。大陸横断鉄道の建設は、その棲息地城を開発し、さらなる乱獲を進めて、19世紀末にはバッファローは絶滅寸前になってしまった。それは、バッファローを食糧としてのみならず、衣類、住居、調理器具、燃料など生活の多岐にわたって利用してきた、ネイティブ・アメリカンが追いつめられていく過程と重なっていた。
一方、16世紀にスペイン人がテキサスに持ち込んできた牛の子孫、ロングホーンは、アメリカ・メキシコ戦争(1846~1848年)時には30万頭が野放しになっていたといわれ、その数は南北戦争の頃には500万頭にも達していた。絶滅に追いやられていく野生のバッファローに取って代わるかのように、1867~1887年までの間、カウボーイによって、テキサスから北部へ運ばれていった牛の数は、400万頭とも500万頭ともいわれる。その後、ロングホーンは、他のヨーロッパ種との交配が進められ、アメリカの牛肉産業は順調に発展していく。1880年代中頃には、多くのアメリカ人が、現代アメリカの食の典型のひとつである巨大なステーキを食べられるようになっていた。
アメリカをつなぐ鉄道は、牛肉だけでなく、野菜や果物の流通にも利用された。1860年代から始まった製氷産業のおかげで、野菜を新鮮なまま輸送するため、氷を使った冷蔵車両が活躍したが、それによって、缶詰業者は、豊作の地方で採れた農産物を大量に買い付けて輸送し、それを缶詰にして、さらに遠くの地域に売ることができるようになった。缶詰は、旬の野菜や果物がいつでも手に入る魔法の食品として、アメリカ人の間で大きな人気を博した。


シリアルという朝食革命
缶詰以外にも、アメリカの食、特に朝食を大きく変えた工業製品が、この頃に誕生している。ケロッグ兄弟によって普及することになる、シリアルである。
ケロッグ兄弟の兄、ジョン・ハーベイ・ケロッグは、菜食や禁酒といった食生活を提唱していたキリスト再臨派の外科医であり、ミシガン州バトル・クリークに作られた同派の療養所の運営を任されていた。温泉療法も施したこの療養所で、彼は、新鮮な空気、精力的な運動、果物やヨーグルト、穀類からなるバランスのとれた食事を処方して評判を呼び、当時の多くの著名人、たとえばヘンリー・フォードやタフト大統領などが彼の元を訪れている。健康食の追求に情熱を燃やすジョン・ケロッグは、1894年、たまたま2日以上放置してあった、ゆでた小麦粉のひからびた生地をローラーで挽いてみたところ、フレーク状になり、それを火であぶったものを患者に食べさせ、非常に喜ばれた。その後、ケロッグは、1898年にコーン・フレークを売り出し、兄の健康食品販売に協力していた弟のウィリアムがそれに砂糖で味つけをして、爆発的なヒットとなった。
ウィリアムは、コーン・フレークの広告を全国展開し、それもまた商品の売り上げを伸ばした。シリアルは、健康食として、健康志向の高かった当時の中産階級を引きつけ、また、密閉された箱に入っている「衛生的」食品として好まれた。
「冷たいシリアル」の普及と共に、「温かいシリアル」、つまりオートミールも商品化された。オートミールそのものは、中世からヨーロッパで食べられてきた主食の一つであり、アメリカでも馴染み深い食べ物であったが、それが商品として販売されるようになったのは、1870年代、ドイツ移民の食品小売り店主フェルディナンド・シューマッハーが始めてからである。その後、ヘンリー・クロウェルが「クエーカー・オーツ」というブランドを確立し、アメリカのみならず、世界におけるオートミール製造販売業者のトップとなった。
すぐに食べられる簡便食シリアルは、19世紀後半からの20年ほどの間に、アメリカ人の朝食スタイルをすっかり変えてしまった。シリアルは、その頃急激に増加した都会に暮らす人々、特に主婦に受け入れられた。夫や子供を送り出す前に、1時間半もかけて天火を用意し、ホットビスケットやソーセージといった朝食を準備していた彼女たちは、シリアルによって、朝の忙しさを格段に減らすことができたのであった。
「金びか時代」の光と影
南北戦争後から19世紀末にかけての時代を、マーク・トゥエインは「金びか時代」という小説で批判したが、この言葉は、まさに物質万能、趣味俗悪な当時のアメリカを象徴するものであった。入植から建国の時代に尊ばれた、質素で倹約を旨とするピューリタン的精神と対極にある、贅沢や豪華を競うような風潮が流行し、発展する産業界で富を得た新興の富裕階級がその担い手となった。
彼らの食事は、簡素なイギリス料理を基にしたアメリカ料理ではなく、豪華なフランス料理を取り入れたものであった。ただし、朝食だけは、パンにコーヒーあるいは紅茶だけというフランス式ではなく、ステーキや多種多様のメニューを含んだ「朝から大量に、いろいろなものを食べる」アメリカ式が採用された。
上流階級ほどの贅沢さは望めないにしても、中産階級でも、ディナーパーティが流行した。食事のメニューを考えるのは、この場合、家庭の主婦たちであり、彼らの可能な範囲での贅沢、かつ量の多い料理を、召使いに手伝わせつつ、客に振る舞った。そうした中産階級のためのもてなし料理のサンプルとして、当時の料理書に載っているメニューは、次の通りである。
オードブルに氷の上に乗せた生牡蠣、コンソメ、魚のオランデーズソース添え、チーズスフレ、ローストチキン添え物にマッシュポテト、グリーンピース、セロリ、クランベリーソース、小さな牡蠣のパイを14個、レタスのサラダ、チーズとクラッカー、シャーベット、プディング、メレンゲ菓子、スポンジケーキ、コーヒー
ただし、中産階級においては、日常の食事は、肉とじゃがいもが中心であり続け、前記のようなメニューは、あくまで客用の「よそゆき」であった。
一方、産業の拡大・発展によって富を得る上流・中産階級とは対照的に、労働者の貧困は極まっていた。1830年頃から1870年代までの間、アメリカ人の身長・体重はそれまでよりも平均値が低くなったが、それは、この間、急速な工業化で労働者の数が増大し、貧しさゆえに必要な栄養を十分に摂れなかった彼らの体格が小さかったためと思われる。
そうした労働者の食事は単調で、ちゃんとした食事を摂れる時でも、メニューは、塩漬け肉、じゃがいも、キャベツ、ケーキなどの甘いものといった具合であった。また、農村では、全国から集まる多様な食品を享受していた都市とは異なり、労働者階級と似たような、単調で質素な食生活が営まれていた。
だが、当時、多様な国から大規模に流入してきた移民たちの食生活は、そうしたアングロサクソンの食文化とは、明らかに異なるものであった。

「新移民」がもたらした食の多様化
19世紀後半から20世紀初め頃は、アメリカにおける移民事情に変化が訪れた時期でもある。1890年代には、それまで主流だったイギリスや北欧、フランス、ドイツといった西あるいは北ヨーロッパの「旧移民」を、イタリア系やアイルランド系、東ヨーロッパ系、ロシア系など、ヨーロッパの中でも貧しい地域からやってきた「新移民」が追い越し、移民そのものの流入も、1900年からの10年間にピークを迎えた。
1900年のアメリカの総人口は約7600万人であったが、それから10年の間、その10パーセント以上にあたる「新移民」がアメリカに押し寄せてきたことになる。彼らは、大飢饉(1840年代のアイルランドにおける「ジャガイモ飢饉」など)や政情不安(19世紀半ばのドイツ内戦など)による深刻な不況に襲われ、「座して死を待つよりは」と、生き延びる可能性を求めて海を渡ってきた人々であった。
宗教や生活習慣の違いからくる差別もあったが、アメリカは彼らの期待に応えた。経済的な格差はあったものの、たとえ貧しい階層でも、旧大陸とは比べ物にならないほど豊かな食糧を得ることができたのである。餓死一歩手前の状態から、食糧があふれんばかりの国にたどりついた移民たちの驚きと喜びはいかばかりだったろう。たとえば、貧しい南イタリアからの移民たちが故国へ書き送に食べられる!」と繰り返し述べられている。「故郷ではコーンブレッドと野菜スープ、パスタにボレンタという食事。肉は年2回食べられる程度」なのに、アメリカでは「週に1、2回肉を食べられる」「コーヒーがたっぷり飲める」「王様のように、白パンにバターを塗って食べる」贅沢さである。しかも、「1日5、6ドル」というわずかな稼ぎでも、故郷の暮らしを考えれば、王侯貴族のような食事を楽しむことができたのだ。
あるイタリア系移民の手紙にはこう記されている。「アメリカでは、パンは柔らかい。しかし生活は厳しい」
だが彼の手紙は次のように続く。「どんなに生活が大変でも、誰もが腹一杯食べられるアメリカは素晴らしい国だ」
そして、移民たちが母国から携えてきた食生活は、アメリカの食文化にさらなる多様性を与えることとなった。彼らの多くは、慣れ親しんだ料理を食べることによって、同胞との絆を強め、自らのアイデンティティを確認し、過酷な新天地での生活にしばしの安らぎを得た。そして、徐々にではあるが、アングロサクソンの食文化の伝統に、自分たちの食文化を組み込ませていった。
特に重要な役割を担ったのは、「新移民」の中でもマジョリティだったイタリア系移民である。彼らは、乏しい収入の中から、オリーブオイルやイタリアのチーズ、マカロニ、肉などを買い求め、庭にトマトの苗を植えて、イタリア料理を作り、食べた。イタリア系移民は、自分たちの家庭やコミュニティの中でイタリアの食文化を守るだけでなく、食品店やレストランの経営を通して、外食の習慣が一般化しつつあった当時のアメリカに、イタリア料理を浸透させていく。やがて、安上がりで腹持ちのよいスパゲッティやマカロニは、イタリア系以外の人々にとっても、欠かせない家庭料理のひとつになり、イタリア系移民が持ち込んだサラミやボローニャ・ソーセージは、アメリカ人の大好きなサンドイッチの重要な要素となった。
ナス、ピーマン、ブロッコリー、ソラマメなどの野菜もまた、イタリア料理の手法を取り入れることで、アメリカ人に親しまれるようになった。一方、イタリア料理がアメリカに受け入れられていく過程で、本国ではみられない「アメリカ化」も起こった。トマトソースで煮込んだミートボールでスパゲッティをからめた「ミートボール・スパゲッティ」は、その代表例のひとつである。
独特の食文化ということでは、コーシャーと呼ばれるユダヤ教の食の戒律にのっとった食生活を送ってきた、ユダヤ系移民について触れなければならない。コーシャーで最も知られているのは、豚肉の忌避であるが、その他に、貝類、海老・蟹などの甲殻類は禁じられていた。牛、羊、鶏や七面鳥などは食べることができたが、それらの血は禁じられており、ユダヤ教徒が食べる肉は、コーシャーにのっとって処理されていなければならなかった。その他に、肉を乳製品と一緒に調理することも許されず、野菜は害虫がいないことを確認しなければならなかったりなど細かい決まりが多くあったため、ユダヤ系移民の主婦たちにとって、コーシャーの食材を手に入れられる店を探せるかどうかは、切実な問題であった。特に、チキン・スープ、ゲフィルテ・フィッシュ(鱒などのすり身団子)、ホレント(豆、肉、じゃがいもなどの野菜の煮込み)、ケーキ、果物といったメニューが並ぶ、週ごとの安息日の食事を用意するには、コーシャーの食材は不可欠だった。ユダヤ人が多く住む地域に、ユダヤ人が経営する食料品店やレストランが集まったのは、ごく自然な成り行きであったといえる。中でも、デリカテッセンという食料品兼軽食販売店は、たとえばべーグルやスモークサーモン、豚ではなく牛で作られたパストラミ・ソーセージのサンドイッチなどを売り、それらは次第に、ユダヤ人以外にも受け入れられるようになっていった。
また、この頃は、アメリカにアジア系、特に中国系移民が急増した時代でもある。大陸横断鉄道敷設や運河建設などに従事するため、西部には多くの中国系移民が労働者として流入してきたが、移民の増加に伴って各地にチャイナタウンが作られ、そこにできたレストランでの食事を通し、中国料理もアメリカにおいて一般的になっていった。「中国料理」といっても、労働者の多くは広東周辺の出身者だったため、供されたのは広東料理をアメリカ人の口に合うようにアレンジしたものであった。
たとえば、八宝菜をアレンジした、野菜炒めのごった煮のような「チャプスイ」などが、長い間アメリカ人にとっての「中国料理」のイメージであり続けたのである。
大飢饉や貧困によって食文化そのものに打撃を受けたアイルランド系移民を例外にして、その他の国々からやってきた移民たちも、自分たちの食習慣をアメリカにおいて再現しようと努めた。例えば、メキシコ系移民は、トウモロコシで作ったトルティーヤを主食とし、メヌンドという牛の臓物を煮て、チリパウダーで味つけしたスープを食べた。日本人移民は、米と共に、醤油や味噌で味つけをした料理を食べ、正月の雑煮やお節料理の習慣を守り続けた。また、インド系のヒンズー教徒、アラブ系や東南アジアからのイスラム教徒たちは、それぞれの宗教の戒律に従った食生活を送った。
- 1Danforth, Randi, et al. 1998. CULINAASA THE UNITED STATES: A CULINARYDISCOVERY. Kanemar
- 2Pillsbury, Richard, 1998. NO FOREIGN FOOD, Westview Prosa
- 3「世界の食文化12 アメリカ」 本間干枝子、有夏紀(農文協 2004年)
- 4「保存食品開発物」スー・シェパード 赤根洋子(文藝春秋:2001年)
- 5「クックブックに見るアメリカ食の謎」東理夫(東京創元社2000年)
- 6「アメリカの食卓」 本間干枝子 文藝春秋 (1982年)
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加藤 裕子(かとうひろこ)
1970年東京に生まれる 1993年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業 同年(株)集英社入社 女性月刊誌「LEE」 編集部に在籍 1999年退職。生活文化ジャーナリストとしてフリーランス活動を開始。同年渡米 The Vegetarian Resource Group (メリーランド州) に籍をおき、アメリカのベジタリアン事情、食生活、 健康志向などをテーマに取材。帰国後は日米のメディアで活躍している。 著書に『寿司、ブリーズ!~アメリカ人寿司を喰う』 (2002年 集英社新書)、『「シャキッと炒める」を英語で言うと」 (2002年幻冬舎)、『食べるアメリカ人」 (2003年 大修館書店)などがある |






