1200年にわたる肉食禁忌の風習に一大転機がおとずれる

研究機関誌「FOOD CULTURE No.9」肉食の解禁 開化を始める日本人の肉食文化

講師:渡辺善次郎

肉食の解禁 開化を始める日本人の肉食文化

第8号「異国食の受容と変容」のあらすじ

日本の食の歴史は、弥生時代の米食文化流入以来、異国の食文化を受容しながら江戸時代に「和食」を完成させた。その和食は、開国・文明開化によって西洋の食文化を受容し、変容を遂げた。
それ以前、長崎では幕末から西洋料理屋が営業していた。開国後は、横浜、神戸、函館などの港町から西洋料理が普及。明治3年に東京・築地精養軒ホテルが開業。やがて、ライスカレー、トンカツ、コロッケのような日本風にアレンジした和風洋食が広まった。
明治後期になると、製糖・製粉をはじめ、食品産業が発達して次々と新しい食材が出回った。関東大震災後には、ラーメンやワンタンが登場し、安さと美味しさで中華料理が大流行。この頃には、飲食店の数も増え店の大衆化も進み、多くの庶民はここで新しい異国の味を食べることができた。その料理は、一品ごとに米飯の副食になるものだけが取り入れられた。こうして世界に類をみない和・洋・華混合の多様な食が、新しい日本の食として成立した

はじめに

嘉永7年(1854)3月、徳川幕府は日米和親条約を締結、続いて日英、日蘭、日露など西洋諸国と次々に和親条約を結び、長い間の鎖国政策を転換して開国に踏みきった。平成16年はそれからちょうど150周年にあたる。
その後、大政奉還を契機として西洋近代文化の積極的摂取、文明開化が国を挙げての目標となったが、食生活においてはそれまで社会的タブーとされてきた肉食の解禁こそ、その象徴であった。
世界では宗教的理由で牛や豚を食べない民族はあるが、日本のようにすべての家畜肉をタブー視してきた国はきわめて珍しい。
しかし一般的には肉を食べなかったといっても、全国すべての人々がまったく肉食しなかったわけではない。時代や地城や階層によって肉食していた人々も少なくない。日本人と肉食の関係は多様である。これからその歴史を考えてみよう。

市場風景と国土景観

ヨーロッパに出かけるとまずまちの市場を覗いてみることにしている。市場ほどその土地の人々の暮らしぶりを見られる場所はない。一歩市場に踏みこめば、たちまち「ああこれがヨーロッパだ」という光景が展開する。
市場の大半を占めるのは肉と乳製品だ。とくに肉売場は壮観である。精肉ばかりではなく血のしたたるような牛、豚、羊などの頭から脳みそ、肝臓、腎臓、耳、足、しっぽまで並んでいる。ほとんど刺身のようにきれいにスライスされた精肉だけを食べている日本人の肉食とはまったく次元のちがう本格的な肉食の世界がここにはある。
本来、肉食文化の発達度は動物の全体をいかに食べ尽くすかによって測られる。それからすれば日本人は今日でもけっして肉食の民ではない。
魚ならば頭から腸まで食べ尽くす日本人はやはり魚食の民である。古代ユーラシア大陸の中央で発生した肉食牧畜の文化は東西に拡がった。その波は西方ではヨーロッパからアメリカ大陸まで及んだが、東は朝鮮半島までで止まり、ついに日本には達しなかった。
ヨーロッパの食と農業は牧畜を除いては成り立たない。その農村風景といえば、ほとんどが牧場、草地、飼料畑の広がりが目に浮かぶ。それはその気候風土によって必然的に形成されてきたものである。
ヨーロッパは北国である。西欧諸国の首都で東京より南に位置している所は一つもない。北緯でみるとベルリンは53度、ロンドン51度、バリ49度、ローマでも42度である。それに対し東京はもうアフリカに近いジブラルタルと同じ36度、札幌でも43度、5度といえばもうカラフトの真中である。
低温なヨーロッパは元来作物の栽培には不適なところである。だが草は日本のようにたくましく育つことはなく、いつも柔らかなままで家畜には絶好の飼料となる。だから人間の食料にはならない草を家畜に与え、その肉や乳を人間が食べるという文化が成立した。
一方、日本の代表的な風景は水田である。日本の風土は水田耕作にこそ適しており、日本人が米を主食としてきたのも自然のなりゆきであった。しかも島国で水産資源に恵まれ、必ずしも畜肉に依存しなくてもよい、米食、魚食の民が生まれてきた。

腎臓(左)や心臓(右)などがならぶパリの臓物店(週刊朝日百科2『世界の食べもの』)
お客の注文に応えて、内臓をとりあわせている(週刊朝日百科2『世界の食べもの』)

古代の肉食と肉食禁止令

日本にも古代には肉食の文化があった。原始の狩猟採集時代にはもちろん野獣肉は重要な食物であった。
邪馬台国の時代を記した「魏志倭人伝」には、倭人たちは死者が出ると十数日間は喪にふして肉食をしないと書かれている。また倭の地は温暖で、人々は「冬夏生菜を食し」、酒好きで、8、90才から100才にも達するほど長命だとも記している。
古代の天皇たちもさかんに狩を行い、肉ばかりか内臓まで食べていた。「万葉集」には鹿の肉や内臓が天皇のために如何に役立っているかをうたった歌がある。『日本書紀」には狩と鳥獣肉の膾(なます)を好んだ雄略天皇の話もあり、朝廷には島獣の肉料理を担当する宍人部という職がおかれていた。養豚も行われており、「古事記」 には「猪飼い」が出てくる。また聖武天皇は40頭の猪を野に放ったという。
またその頃、民間では雨乞いなどの農耕呪術として牛馬を殺して神に捧げる風習が広く行われていた。それは神と人との肉の共食である。こうした古代の肉食に大きな変化をもたらしたのは6世紀半ばの仏教伝来である。仏教は輪廻転生の教えを説く。人間は生まれかわり、死にかわりながら、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界をめぐり続けるということで、虫や動物も親や祖先の生まれかわりかもしれないのである。だから生きとし生けるものすべてに慈愛の心を持ち、殺生をつつしむべしという。
675年4月、天武天皇は諸国に殺生・肉食の禁断を発令した。これは4月から9月までの農耕期間中は牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならないというものであった。家畜として人間と一緒に生活しているものと、人間にもっとも近い猿が対象で、狩猟の主な獲物である鳥獣は除外されている。まだ重要な食料とされていた鳥獣肉まで禁止するわけにはいかなかったのである。
その後およそ100年ほどの間、代々の天皇が殺生肉食の禁令を発している。これはその禁令がなかなか守られなかったことを物語っている。
牛乳・乳製品も飛鳥時代に帰化人によって伝えられた。以後平安時代まで各地に牛の牧場が設けられ、生乳・乳製品が朝廷に貢納されていた。平安時代の「延喜式」典薬寮の頃には乳牛の記載があり、搾乳の時期には一日豆2升、稲2把を与えると決められていた。牛は農耕飼料で養われていたらしい。
また天皇家に奉げられる牛乳は毎日3升余で、天皇家ではかなり多量の牛乳を飲んでいたことになる。乳製品には酪、蘇、醍醐があった。酪は練乳、蘇はバターのようなものと思われる。醍醐の実体はよくわからないが、この世で最高の美味として「醍醐味」の語源となっている。「源氏物語」の主人公たちもこうした乳製品を食べていたに違いない。
平安時代の長詩「玉造小町子壮衰書」は「小野小町物語」とされているが、そこに描かれた小町の食卓は金の机の上の銀盤に、鶉(うずら)の冷汁、鴨の熱汁、雁の塩辛、熊の掌、兎の脾臓、鶏の頭などが並んでいる。小町も大いに鳥獣肉の美味を楽しんでいたらしい。しかし時代とともに、仏教的殺生禁断、肉食禁忌の思想は肉の穢れという観念と相まって、次第に広がっていった。
9世紀には田植の時に農民たちが牛肉を食べたことに怒った田の神が蝗を放って苗を枯らしてしまったという神話も生まれている。「延喜式」では家畜肉を食べれば3日間の物忌とされていたが、鎌倉時代の伊勢神宮の物忌令によると家畜ばかりか野獣肉も物忌の対象となり、その肉を食べた者は100日間、その者と一緒に食事した者は21日、さらにその者と食事を共にした者まで7日間の物忌を課している。まして牛馬の肉を公然と食べることなど考えられない時代になっていた。後にイエズス会の宣教師が秀吉に面会した時、「牛馬は人間に仕え有益な動物なのに、何故それを食うような道理に背いたことをするのか」と詰問されたという。

鳥(鶴)と魚(鯉)を調理する室町時代の包丁人達(週刊朝日百科103『世界の食べもの』)

キリシタンと肉食

フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために来日したのは天文18年(1549年)である。
彼は日本人に悪感情を抱かれないよう日本では肉食をしないと固く決心していた。彼等は来日前に日本についての予備知識を得ていた。とくに食については、日本人は牛肉を忌み、牛乳は、「生血を吸うが如し」といって飲まず、バターも、オリーブ油もないといって、日本に派遣する宣教師は粗食に耐えることを条件にした。事実、はじめの頃はまったく肉食を断ち、どこでも日本人と同じ食事をしていたらしい。そのため健康を害する者もいた。
彼等は九州や山口など諸大名に歓迎され、布教もほぼ順調にすすんだ。長崎の大村、有馬、豊後の大友のようなキリシタンに改宗した大名の領内では神社仏閣の破壊や仏僧の追放が行われ、肉食禁忌を積極的にやぶるものが続出した。キリシタン大名たちは宣教師がもたらした牛肉、豚肉、ワイン、パンなどを好み、大いに喜んだという。
肉食を喜んだのは大名たちばかりではない。「イエズス会士日本通信」には、大友宗麟の豊後府内で行われた盛大な復活祭の模様を次のように伝えている。
「当日は大なる祝日なりしがゆえに、約四百人のキリシタン一同を食事に招きたり。この食事のため我等は牝牛一頭を買い、その肉とともに煮たる米を彼等に饗せしが、皆大なる満足をもってこれを食したり。」
これはポルトガル・スペインの代表的料理パエリアではないか。いまでも「豊後黄飯」と呼ばれて大分の郷土料理になっている。また松永貞徳の「慰草」(1653年)には「ちかごろ吉利支丹の日本へいたりしときは京衆牛肉を「ワカ」と申してもてはやせりという」と記されている。ワカとはポルトガル語 VACA=牛肉である。京都の町衆たちも牛肉を好んだらしい。秀吉の小田原征伐の時に、キリシタン大名高山右近が蒲生氏郷や細川忠興を招いて牛肉料理を馳走した話も伝わっている。忠興はその味が忘れられず国許に牛肉を送れとたびたび命じていたという。こうした肉食を中心とする南蛮料理は九州から山口、京都、堺などを中心に広がりをみせていった。

江戸時代の肉食事情

キリシタンや南蛮貿易の影響によって新たに開化しかけた日本の肉食文化も、その後のキリシタン禁制、鎖国のあおりを受けて再びタブー化され、貞享4年(1687年)、五代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって一層弾圧されてしまった。この時代に日本の殺生禁断、肉食禁忌は最高潮に達した。
しかし建前としては禁忌された肉食も実際上はいろいろな形で続けられた。牛馬のような家畜肉はともかく、野生の鳥獣肉はかなり広く食べられていた。
農作物に恵まれない山村では鳥獣肉はやはり貴重な食料であった。日本の国土の7割は山地で多くの鳥獣が棲息しており、山村では農作物を荒らす鳥獣を防ぐことが最大の課題であった。垣をつくり、夜番をし、ワナを仕掛け、鉄砲で撃ち、人々は懸命に鳥獣とたたかった。
幕府や藩から山村にはたくさんの鉄砲が貸与されていた。それは武器ではなく、山村には不可欠な「農具」であった。各村々に少なくとも5、6挺の鉄砲があるのが普通だった。信州松本藩では軍役規定により装備すべき鉄砲は200挺と決められていたが、藩内の安曇郡、筑摩郡、松本町の民間が所持していた鉄砲は1040挺で藩の5倍以上に達している。こうした山村の鉄砲所持は紀州藩で8013挺、長州藩4158挺、仙台藩3984挺と記録されている。
山村には猟師も少なくなかった。「仮名手本忠臣蔵」の五段目「山崎街道」では早野勘平が猟師となって登場している。
仕留めた鳥獣は食べるだけでなく販売ルートにのせて都市に運ばれた。江戸の四谷には元禄頃まで猟師の市がたっていた。「名産諸式往来」(宝暦10年〔1760〕) には麹町で猪、鹿、狐、タヌキ、狼、熊、カワウソ、イタチなどが売られていたと記されている。
こうした獣肉屋は「けだもの屋」、「ももんじい屋」、「山奥屋」などと呼ばれ、「麹町」といえば獣肉屋を意味していた。

川柳もいろいろある。
「送るのが送られてくる麹町」は狼。「昨日まで化かしたやつを麹町」は狐である。獣肉は薬用、強精剤とされており、「けだもの屋ヤブ医者ほどは口をきき」は獣肉屋が一応は肉食の効能をしゃべるということ。
寛永20年(1643)の刊本「料理物語」には「鹿は汁貝、焼煎、干してもよし。狸は田楽、山椒味噌。猪は汁、田楽。兎は汁、煎焼。川うそは貝焼。吸物。熊は吸物、田楽。」などとあり、それらの獣肉がかなり食べられていたことを物語っている。
大名屋敷の発掘調査でも食用にされたと見られるいろいろな獣の骨が多く発見される。将軍もしばしば大掛りな鹿狩、猪狩の遊猟に興じた。将軍が鷹狩りで捕えた鶴は昼夜兼行の早飛脚で京都の天皇に献上するのが慣例であった。
飛騨の白川村などでは毎年、年の暮れになると「くらじし」と呼ぶ羚羊狩りを行い、大晦日の馳走にその肉鍋を食べる風習があったという。白川村といえば真宗のさかんな土地として知られている。
他の村でも都市でも、諏訪明神の神札「鹿食兎」をいただくとか、同社の出す白箸で食べれば肉食しても穢れにはならないとしたり、あくまで薬用を名目にするとか、いろいろな免罪符が用意されていた。

七代目市川団十郎演じる早野勘平(文政2年〈1819〉玉川座 国立劇場『歌舞伎公演』)
江戸時代の「ももんじい屋」と呼ばれた獣肉専門店の店先(雄山閣出版社『全集日本の食文化第八巻』)

薬食と牛豚肉

獣肉屋にも牛肉はなかった。だが一部では牛肉もかなり食べられていた。
東京千代田区の紀尾井町ビルは昔の紀州藩邸跡であるが、その遺跡からは調理したとみられる牛骨が出土している。
彦根藩からは味噌漬、干肉、粕漬にした牛肉が毎年将軍はじめ諸大名、公家などに献上されていた。将軍家から所望があれば、彦根から念のために東海道と中山道の二つのルートを使って送った。道中その荷物は将軍家御用として特別に扱われ中身は牛肉なのに「返本丸」とか「反本丸」などと薬名がつけられていたという。
彦根の牛肉は当時珍しい絶好の贈答品であった。水戸浪士が大老井伊直弼を暗殺した桜田門外の変はその牛肉の因縁によるという巷説まで広まっている。水戸斉昭は牛肉好きで知られていたが、直弼が彦根藩主になってから牛肉献上を止めてしまったことに不満を抱いていたというのである。
仙台藩伊達家の料理書には牛肉を本汁に用いるという記述がある。牛肉とごぼうの汁で、本汁は第一の膳に供されるもっとも大切な汁である。ただしそれを食べた者は150日の穢れとされた。
幕末の桑名や和歌山の武家の日記にも牛肉食の様子が記されており、大石内蔵助も堀部弥兵衛に「養老食」として牛肉を贈っている。武士階級ばかりでなく、庶民の間でも牛肉食はあったらしい。18世紀末の安永頃の播磨国では牛肉を細かに切って煮て天日干したものが各所で売られ、一日に2、3頭から1頭、年間3~400頭も屠牛が行われていたという。かなり需要が多かったことを物語る。
平安末期から途絶えていた牛乳・乳製品も吉宗時代に復活した。享保12年(1727年)八代将軍吉宗がオランダから献上されたインド産白牛3頭を房州嶺岡の幕府直営牧場に放牧したのが始まりである。その後白牛は増えて寛政頃(1789~1801)には70頭、維新頃には4~500頭にも達した。
白牛からは牛乳をしぼり、白牛絡をつくった。生乳は江戸まで運べないので乳の出る牛を江戸まで連れて行き、しぼり終った牛はまた嶺岡に帰した。白牛酪は牛乳に砂糖を混ぜて煮詰めたもので、一個100グラムほどの大きさに固めた。服用するときはそれを削って食べるか、茶に入れて飲んだ。石鹸ぐらいの固さだったという。
白牛酪の効用は幕府の医官桃井寅「白牛酪考」に詳しいが、それを常用していた十一代将軍家斉は51年間将軍を続け、40人の側室をもち、55人の子供を生ませたことで知られている。加賀前田家に嫁ぎ、東大の赤門に名残りをとどめた容姫はその16女である。増産されるようになった白牛酪は一個一朱で庶民にも販売された。一朱は大体職人の日当程度である。
また嶺岡の白牛からは御製薬と称する将軍家特用の傷薬も作られた。これは白牛に蓬(よもぎ)だけを与え、その糞を黒焼きにしたものである。牛肉ばかりでなく豚肉も食べられていた。安政6年(1859年)佐藤信淵はその「経済要録」の中でこう述べている。
「豚は近年これを飼うものがすこぶる多い。その味はきわめて上品で、他の獣肉のとても及ぶところではない。薩摩藩邸で飼っている白豚はその味がさらに上品だ。それを見習うべし。」
寛政年間の橘南谿「西遊記」は広島城下の「家猪」と題して次のように記している。
「其町にぶた多し。形牛の小さきがごとく肥ふくれて色黒く、毛はげてふつつかなるものなり。京などに犬のあるごとく、家々町々の軒下に多し。他国にては珍しき物なり。唐土などには多く飼そだてて、食用にする事なり。琉球にも多しという。」
中国人が豚肉を常食にしていたことは知られていた。「美しい顔で楊貴妃豚を食い」「豚食うと聞けばおそろし楊夫人」
楊貴妃が豚を食う姿は日本人にはきわめて不釣合なことに思われた。
天明8年(1788年)に長崎を旅した司馬江漢はそこで牛肉を食べ、「味ひ鴨の如し」といい、豚肉も「至って美味し」と褒めている。最後の将軍一橋慶喜も豚肉好きで知られ、「豚一さん」とあだなされていたという。
新撰組も豚肉と関係がある。近藤勇と親交のあった幕府の御典医松本順が京都で新撰組の屯所を訪れた。そこには70~80人の隊士がいたが、その多くは栄養失調で肺病だった。そこで松本は残飯で豚を飼い、それを食べて栄養をつけることを勧告した。新撰組はそれを忠実に実行し、隊士たちも大喜びだったという。新撰組は日本における残飼養豚の一つの先駆者である。

長崎出島・蘭館内での饗宴風景(『唐蘭館絵巻』)
徳川吉宗へ白牛が献上され、日本の酪農が始まった(千葉県酪農のさと「酪農資料館」資料)

肉食禁忌と殺生禁断

「幕府季世の頃は、猪鹿猿等の類さへ、汚穢物として甚しく之を排斥し、大名行列も、ももんじい屋の前を通る時は、其不浄を嫌ひ、駕篭を宙にさし上げて通行せる程なりし。されば、牛肉等は啖はんこと思ひもよらざりし也。」
これは天保はじめ寺門静軒による「江戸繁昌記」の一説である。幕末の水戸藩下級武士の娘に生まれた山川菊栄は自伝「武家の女性」の中で当時の日常生活を描いているが、「食べ物は肉類はもちろん使わず」と強調している。
肉はあくまで薬としての特殊な食物であって、生涯肉を一度も口にしたことのない人々が大部分であった。肉食禁忌と殺生禁断の観念は社会通念として日本人の心に強く浸透していた。幕府の「御触書」でも社寺参詣に際しての肉食による謹慎期間は、カモシカ、狼、兎、タヌキで5日間、豚、鹿などで60日、牛馬では15日とされている。
庶民の間では一層厳しく肉食禁忌が守られており、肉食する場合でも火が穢れると家外、別火で煮炊きしたり、神棚や仏壇に目かくしをしたりしていた。とくに仏事、神事の前には肉ばかりか魚類まで生ぐさものとして禁忌するのが習しだった。
「忠臣蔵」七段目「一力茶屋の場」で大石由良之助が斧九太夫に無理に蛸を勧められる有名な場面がある。亡君の命日で由良之助が精進を守るかどうか、敵討の本意を探ろうとした企みであった。由良之助の苦衷が観客に共感されなければ成り立たないシーンである。
文化・文政以降、江戸に獣肉屋が増えるがそれを非難する世論も強かった。天保期の有名な国学者小山田与清は「松屋筆記」の中で、蘭学の影響で肉食をするものが多くなり、江戸の家屋に不浄が充満し、神の怒りにふれて火事が多発しているのだと嘆いている。肉食嫌悪の根底には穢れの観念とともに、無益な殺生を忌む仏教的殺生戒がある。その頃までの日本人はどんな生物でも無闇に殺すようなことはしなかった。19世紀まで動物が一種類も絶滅しなかった国は日本だけだといわれている。
猟師、漁民、鳥屋、うなぎ屋など、生業として殺生せざるをえない人々でも、生物の生命を悼み、慰霊の心を抱いていた。山村には千匹塚などの鳥獣慰霊碑、漁村には魚塚などが各地に分布している。山形の飯豊山周辺には草木のための供養碑「草木塔」まである。そうした心はいまだに受け継がれていて、例えば京都三条の檀王法林寺には鳥肉業者団体の建てた大きな鳥の供養塔があり、毎年鳥供養が営まれている。
神の与えてくれた肉食を当然とする西洋人には、こうした日本人の心情は到底理解できないであろう。江戸時代の西洋では動物虐待ゲームが大流行していた。
これについては夏目漱石が講演している。「西洋人は大変人道を重んずる。畜生、犬牛馬などに大変叮嚀である。しかし少し前まで遡ってみると随分猛烈な惨酷な娯楽をやって楽しんだものだ。」例えば雄牛と犬を戦わせる「牛いじめ」、熊と犬の「熊いじめ」、犬にネズミを噛み殺させる「ネズミいじめ」、鶏を標的にして棒を投げつける「鶏当て」などである。英国でこうした動物虐待防止が制定されたのは1820年である。
ペリー艦隊が来航した時、水兵たちは船に飛来する野鳥の多さに驚いた。人間を恐れずマストや甲板にとまる鳥たちを片端から撃ち落した。それを見た日本人は「なんと野蛮な人間どもだ」とあきれて、「日本では鳥獣遊猟は禁じられている。アメリカ人もこれに服すべし」という一項を日米和親条約の付則第10条につけ加えたという。

現在でも鳥供養が毎年常まれている(京都三条檀王法林寺の「烏供養塔」筆者撮影)
動物虐待(牛いじめ)が一種の娯楽であった19世紀初期の英国(株式会社リブロポート『非労働時間の生活史』)

文明開化と肉食奨励

長い間肉食を社会的なタブーとしてきた日本人が自由に肉を食べはじめるには、やはり明治の文明開化を待たなければならなかった。
しかし一般に肉食を忌む風習は根強く、肉食の普及は容易ではなかった。積極的に西洋文化をとり入れようとしていた維新政府は、そうした因習の打破にさまざまな努力を重ねた。
半官半民の築地牛馬会社が明治3年秋「肉食之説」という宣伝文を発行した。福沢諭吉の文章である。それは肉食を穢れのようにいってきたのは無学文盲の空論だとして次のように説いている。
「そもそも肉食を嫌うのは牛や豚が大きいから殺すに忍びないというのか。牛と鯨とどちらが大きいか。鯨肉を食うのは誰れも怪まない。生物を殺生するのが残酷だと思うのか。生きた鰻の背を割き、泥亀の首を切り落すのも痛々しいではないか。牛肉や牛乳を穢いというのか。牛や羊は穀物や草を食べているだけだ。日本橋の蒲鉾は溺死人を喰った鱶の肉でつくったものだ。黒鯛の潮汁が旨いといっても船のあとを追って人糞を喰った魚だ。春の青菜が香しいといっても、一昨日かけた小便が深く葉に浸みこんでいるだろう。牛肉牛乳が臭いというのか。松魚の塩辛は臭くないのか。くさやの干物などはもっとも臭い。先祖伝来の糠味噌樽へ蛆と一緒にかきまぜた茄子や大根の新漬はどうだ。みんな慣れているかいないかの問題ではないか。牛肉牛乳は滋養が多く身体に良い。西洋人はみな日常食としている。日本人もこれからよく眼を開いて大いに肉食をしなければならない。」と。
仮名垣魯文は『安愚楽鍋」の中で、「肉食をすりゃあ神仏に手が合されねへの、ヤレ穢れるのと、わけのわからねへ野暮をいふのは、学問を弁へないからだ。そんな連中には福沢の書いた肉食の説でも読ませたいねえ」と言っている。
伝統的な肉食禁忌の風習に一大転機をもたらしたのは天皇の肉食であった。明治5年(1872年)正月、明治天皇が1200年にわたって続けられてきた肉食の禁を破って牛肉を食した。天皇が率先して肉食したことは肉食の奨励・啓蒙に拍車をかけた。またこの年僧侶の肉食も正式に許可された。
しかし反対も強かった。同年2月、10人の山伏が皇居に乱入する大事件が起った。天皇の権威を保つため国内ではほとんど公表しなかったが、英国の代表紙「タイムズ」はこれを「ミカド暗殺の企て」として報じている。
事件は2月18日早朝に起った。木曽御岳講の山伏たちが白装束で刀や杖をもって大手門から侵入、衛兵の発砲で4人が射殺され、1人が重傷、5人が逮捕された。
彼等は外国人が来日して以来、日本人の多くが肉食するようになったために国土が穢れたとして、外国人の追放、神仏混淆、封建体制への復帰などを天皇に直訴し、受け容れられない場合は天皇を殺すことも辞さない、と供述している。
肉食反対の運動は各地でも起っており、牛肉店が周辺住民の圧力で潰されるようなこともあった。政府だけでなく各県でも何とか県民の旧慣を打破して肉食を奨励しようと努力していた。
例えば敦賀県庁では明治5年県下に次のような布告を発している。
「牛肉は優れた養生物なのにとかく旧来のしきたりに固執し、自分が食べないばかりか食べれば神前をはばかるなどと、いわれのないことを言いふらして開化を妨げるものどもが少なくないが、これは天皇の御主意にも反しもってのほかである。」と。
こうしたさまざまな啓蒙や奨励によって日本の肉食文化は漸く広がりを見せようとしていた。これが食生活における文明開化のはじまりである。

明治時代の牛鍋店(明治7年〈1874〉萩原乙彦著『東京開化繁盛誌』週刊朝日百科103『世界の食べもの』))
事件を伝えた英紙「タイムズ」の記事(国立国会図書館蔵 昭和63年5月14日付東京新聞夕刊)
参考文献
  1. 1原田信男「歴史のなかの米と肉」平凡社 1993年
  2. 2村田実「日本人と西洋食」春秋社 1984年
  3. 3小管桂子「水戸黄門の食卓」中公新書 1992年
  4. 4JA東京中央会「江戸・東京暮らしを支えた動物たち」農文協 1996年
  5. 5岡島成行「アメリカの環境保護運動」岩波新書 1990年