収蔵品企画展
「流山白味淋」というイノベーション ~堀切家文書にみるマンジョウ本みりんの歴史~

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キッコーマン国際食文化研究センターでは、今日の本みりんの礎とされる「流山白味淋」をテーマにした収蔵品企画展を開催します。

キッコーマン創業8家のひとつで、「流山上味淋」(後に流山白味淋と呼ばれる)の製法を確立した堀切紋次郎家には、一万点を超える文書が伝わっています。当センターでは2014年から堀切家文書の分類・解析を進めてきました。

本企画展では、全体像が明らかになった史料群をもとに、創業、流山白味淋の誕生、商標の成立、近代化への歩みをたどります。

堀切家文書により明らかになった、マンジョウ本みりんの歴史をぜひご覧ください。

開催期間  2026年7月21日(火)~10月30日(金)
 10:00~12:00、13:00~16:00(平日のみ)

酒造業の開始と、みりん・しょうゆ醸造業の開始

明和3(1766)年、初代堀切紋次郎は番匠免(現 埼玉県三郷市)から流山(現 千葉県流山市)に移り住み、「相模屋」として酒造業を始めました。江戸時代には、酒造を行うために幕府の許可(酒造株)が必要で、酒造りに使用できる米の量として酒造米高(しゅぞうまいだか)が定められていました。寛政2(1790)年には堀切家で酒造業を行っていたことを示す史料が見つかっています。

みりん醸造を開始した時期は、以前から文化11(1814)年とされてきました。堀切家文書の「心得覚」には「味淋造之儀は文化十一年より造り初メ」と記されており、この説を裏付けています。堀切家は、みりん醸造を開始したのちに他の酒造家の酒造株も譲り受け、当初511石だった酒造米高は幕末には3,650石へと増加します。なお、天明8(1788)年からはしょうゆ醸造も手がけていました。

「カネカ」瓦
相模家の蔵印「カネカ」が入った瓦
酒造記録四
寛政6(1790)~享和元(1801)年。触書や届書を書き写したもの。堀切紋次郎は寛政21790)年に甚太郎から、株高5石、酒造米高511石5斗の酒造株を入手したと記録されている
心得覚
嘉永5(1852)年~安政年間(1850年代後半)。「味淋造之儀は文化十一年より造り初メ」の文字があり、みりん醸造を文化11(1814)年から行っていたことを裏付ける史料
フンドーマンジョウ
堀切家がしょうゆに用いていた商標

商標「万上」の誕生

堀切家のみりんは、当初は「関東上味淋」の名称で販売していましたが、後に「万上」のブランドを掲げるようになります。「万上」の由来は、2代堀切紋次郎が詠んだ歌の一節にあります。白味淋を開発した紋次郎は、堀切家のみりんが宮中に献上されることになった栄誉をよろこび、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なき味淋 醸すさがみや」と詠みました。この歌の「一力」を「万」とし、「上なき」の「上」を採って「万上」という印(ブランド)をつくり、以降「万上味淋」として販売するようになりました。

手製 酒味淋本直志印鏡「万上」
嘉永5(1852)年。酒・みりん等の印を手製で描いた史料
手製 酒味淋本直志印鏡「悦」
嘉永5(1852)年。堀切家が醸造していた酒の商標のひとつ
小金原御狩記(部分)(神奈川県立公文書館蔵
流山市立博物館『近世流山の13枚』から転載
嘉永年間(1848~1855年)に行われた御鹿狩のあと、勢子(せこ)に下賜(かし)された酒として「悦」が描かれている

流山みりん三都冠をなす

みりん醸造を開始した当初、堀切家では酒造業が家業の中心でした。しかし、みりんの生産量が徐々に増えていき、天保年間(1830~44年)には、みりん醸造に使用する米の量が酒造に使用する米の量を上回るようになりました。弘化2(1845)年に著された『下総国旧事考』には、「流山のみりんは江戸・京都・大坂で最も評判になっているものである」と記されており、広く普及していたことがうかがえます。また、この時期には、そば屋・寿司屋・鰻(蒲焼)屋などの飲食店、高級料理屋などが広がりをみせ、江戸の料理文化は庶民にまで浸透します。みりんは、そばつゆ、鰻(蒲焼)のたれなどに用いられ、高級料理にも欠かせない調味料としての地位を確立していきます。

万上みりん樽と凧と町の絵
天保12(1841)年。万上樽と流山村らしき集落、江戸川、山並みが描かれている。右下に「齢八十二 画狂老人卍」とあり、葛飾北斎が82歳のときに描いた作品
東都名所高輪二十六夜待遊興之図
(東京都歴史文化財団イメージアーカイブ)
天保12~13(1841~1842)年頃。高輪周辺で月の出を待つ人々の賑わいを描いた作品。屋台ではみりんやしょうゆを使用した「寿司、天ぷら、蕎麦、だんご」などが売られており、料理文化が庶民にまで広がったことを表している

博覧会への出展

明治6(1873)年、オーストリアのウィーンで万国博覧会が開催されました。産業近代化を図るため、日本政府はこれに初めて公式参加します。工業が未発達だった日本では優れた伝統工芸品などが出品物の中心でしたが、飲食物として流山白味淋をけん引した堀切紋次郎と秋元三左衛門のみりんも出品され、両者ともに有功賞牌を受賞しました。

ウィーン万国博覧会への参加をきっかけに、日本では、産業奨励を目的とした内国勧業博覧会が明治10(1877)年の第1回から明治36(1903)年の第5回まで開催されます。堀切紋次郎の万上味淋、秋元三左衛門の天晴味淋(あっぱれみりん)も出品され、数々の賞を受賞しました。

第5回内国勧業博覧会賞状
明治36(1903)年。二等賞牌の受賞を
伝える賞状
第5回内国勧業博覧会賞牌
明治36(1903)年。受賞した二等賞牌
日英博覧会賞牌
明治43(1910)年。受賞した金牌

みりん醸造業の近代化

明治時代、日本では産業の工業化・近代化が進められ、1890年頃から産業革命が始まったとされています。堀切紋次郎はこの時期に万国博覧会や内国勧業博覧会に積極的に参加したことにより、工業化の知見を得たものと考えられます。万上味淋工場では、早くも明治28(1895)年に汽缶(ボイラー)を導入しています。当初、汽缶は精米に用いたと考えられ、その後、蒸米、圧搾工程にも活用されていきます。また、流山はみりん製造の産業化先進地域として、三河のみりん工場から視察が訪れたことが記録に残っています。

精米器械拾本増見積明細書
明治271894)年。この時代に、すでに精米器を導入するための見積を取得していることを示す史料
山崎圧搾機明細書
明治34(1901)年。当時の汽缶(ボイラー)の構造を示した図

万上味淋株式会社の設立と現在

明治から大正へと時代が移り変わるころ、しょうゆ業界では、需要増を見込んだ増産や新規参入が相次ぎました。また、法人化や資本合同による経営の近代化の動きも広がり、競争は激しさを増す一方でした。こうした動きに刺激され、野田の茂木・髙梨7家は近代的企業への転換をめざして一族合同に合意しました。みりんとしょうゆの2本柱で事業を展開していた堀切紋次郎家もこれに加わり、1917年に野田醤油株式会社(現 キッコーマン株式会社)が設立されます。このとき、堀切家のしょうゆ事業とみりん事業は分離され、しょうゆ事業は合同新会社へ統合、みりん事業は万上味淋株式会社を設立して継続されました。

万上味淋株式会社は、大正14(1925)年に野田醤油株式会社と合併して野田醤油株式会社万上味淋部となります。流山白味淋の伝統は、現在もマンジョウ本みりんとして受け継がれ、誕生から210年以上を経た今日でも変わることなく続いています。現在は「流山キッコーマン株式会社」がその伝統を継承し、流山の地から皆さまの食卓へお届けしています。

登録商標貼紙全集 
大正9(1920)年。万上味淋株式会社の
商品ラベル一例。「日本一之上味淋」と
記載されている
登録商標貼紙全集 
大正9(1920)年。万上味淋株式会社の
商品ラベル一例
万上味淋部時代の商品ラベル
大正14(1925)年以降。「日本一之白味淋」と記載されている
現在の商品ラベル