『食道楽』に学ぶ

展示期間
2005年11月~2006年9月

2005年7月「食育基本法」が施行され、広く「食育」という言葉が知られるようになり、各方面で「食」に対する取組みがすすめられている。「食育」という言葉は、いつから使われているのだろうか。この言葉は、明治時代後半にベストセラーとなった村井弦斎(げんさい)が著した『食道楽』によって、当時広く世間に知らされた。同書の中で、「小児には徳育よりも知育よりも体育よりも食育が先き」と述べている。また、「食物の原則」では、現代の食育の大原則となっている「地産地消」の重要性もすでに述べられている。
『食道楽』には食の根源、食生活に関するあらゆる情報が盛り込まれている。今、「食育」を考える時、その入門として、食事や健康が人間にとっていかに重要であるか、そのために人は何をどう食べたら良いかを、村井弦斎著『食道楽』から学んでみよう。
1903年(明治36年)正月から一年間、報知新聞に連載された『食道楽』は、単行本に刊行されると空前の大ベストセラーとなった。その物語は、大原満という年の頃32、3の文学士と友人の妹のお登和(とわ)という妙齢の令嬢を軸に、友人の兄弟らをからめ食べ物の話から生活全般までに、ハイカラな香りを漂わせながら話が展開される内容で、日本人の生活様式が西洋化していく時期と重なり多くの人々に愛読された。

自室に端座する、晩年の村井弦斎(神奈川近代文学館蔵)
村井弦斎年譜
1863(文久3) 吉田藩藩士 村井清の長男として豊橋に生まれる
本名 寛(ゆたか)
1872(明治5) 9歳の年に一家で上京
1874(明治7) 創立直後の東京外語学校ロシア語科に入学
1884(明治17) 米国に留学
1885(明治18) 米国より帰国
1888(明治21) 東京専門学校(現早稲田大学の前身)に学ぶ
郵便報知新聞社編集局の客員となる
1901(明治34) 多嘉子と結婚
1903(明治36) 報知新聞に『食道楽』を連載(1月~12月)
単行本『食道楽』春・夏・秋の巻、刊行
1904(明治37) 平塚に転居。単行本『食道楽』冬の巻、刊行
1906(明治39) 実業之日本社「婦人世界」の編集顧問となる
1927(昭和2) 64歳で永眠

食育論

1904年(明治37年)に平塚に移り住んだ弦斎は、邸内で自給自足に近い生活を営み、食物の大切さを自ら体験している。春・夏・秋・冬の全4巻の単行本として出版された『食道楽』の第252にある「食育論」では、
【今の世は頻(しきり)に体育論と智育論との争いがあるけれども、それは程と加減によるので、智育と体育と徳育の3つは蛋白質と脂肪と澱粉のように程や加減を測って配合しなければならん。しかし先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊の至りだ。
体育の根源も食物にあるし、智育の根源も食物にある。してみると体育よりも智育よりも食育が大切ではないか。野菜を作っても肥料が大切です。人も不衛生的な粗悪な食物ばかり食べていては身体も精神もともに発達しますまいから誰でもこれからは食育という事に注意しなければなりません。】
と説き、当時の教育体系の基本とされた「知育・徳育・体育」のなかで、知育の根源も体育の根源も食物にあるので食育が大事であると弦斎はその重要性を述べている。

増補註釈版 『食道楽』春の巻
増補註釈版 『食道楽』夏の巻
増補註釈版 『食道楽』秋の巻
増補註釈版 『食道楽』冬の巻
(いずれもキッコーマン国際食文化研究センター蔵)

食物・料理・食事法の原則

『食道楽』のなかで日本人の食生活を根底から改革し、合理的で人間の生理学上の原則にかなったものにしようとした。『食道楽』の執筆後、1906年(明治39年)、「婦人世界」の編集顧問となり、数々の食と健康に関する論文を発表する。弦斎はもともと執筆のためには徹底して調査し取材を重ねた人で、ことの本質を究め断食や生食も自己の身体を実験台として試みている。その研究の到達点として1920年(大正9年)に出版した『18年間の研究を増補したる食道楽』で食物、料理、食事法の原則を以下のように記した。

食物の原則 なるべく新鮮なもの。なるべく生のもの。なるべく天然に近いもの。なるべく寿命の長きもの。なるべく組織の緻密なるもの。なるべく若きもの。なるべく場所に近きもの。なるべく刺激の少なきもの。
料理の原則 天然の味を失わざること。天然の配合に近からしむること。消化と排泄の調和をはかること。五美(味、香、色、形、器の美)をそなうること。
食事法の原則 飢えをもって食すべきこと。よく咀嚼すべきこと。腹八分目に食すること。天然を標準とすること。

これらの諸原則は、今日の栄養学や食物学の基本原則にも十分に適うものである。

洋食のメニュー
『18年間の研究を増補したる食道楽』
(キッコーマン国際食文化研究センター蔵)

栄養論

弦斎の料理に対する姿勢は、従来の日本人の食生活を栄養面から見直して、その欠陥を補うために和風の食材を西洋料理にアレンジし、新しい食材と新しい味を広めようとしたところにある。そして『食道楽』は、家庭における料理の近代化を促進することに貢献した。弦斎はアメリカ公使館で働いていたコックを雇い、コックが作る料理を試食して、おいしいと思ったものだけを採用して小説のなかに生かした。さらに日本料理や中国料理についても、それぞれ有名な店の料理人の協力を得ていた。したがって『食道楽』は、一流の料理人の意見を参考にしつつ、実用性を重視して書かれているのが特徴である。弦斎は、『食道楽』のなかで料理することの文化的意義を積極的にとらえ、医師や栄養学者のコメントを多用しながら、食べることの健康に与える影響はもちろん、日々の食生活を通して当時の日本人のライフスタイルそのものを変革しようとしたのである。

大隈伯邸花壇室内食卓真景(水野年方画)
『食道楽』冬の巻 口絵
(神奈川近代文学館蔵)

料理法(1)

『食道楽』を読んで驚かされるのは、文中に登場する料理の種類の豊富さである。その数、和洋中の幅広い料理が実に六百数十種もあった。すべての料理について、食材の分量やレシピが書かれているわけではない。しかし実際に料理の手順が、食材の成分の見分け方にはじまり、食材の買い方、食材の栄養学的効能、季節ごとの食べ物、その調理法と盛り付け方、伝統料理の歴史的背景、単品料理から数十種の料理を揃えた上等料理などのほか、台所の道具や設備、害虫や毒物・有毒細菌の駆除法など、およそ食生活に関するありとあらゆる事柄が具体的にわかりやすく説明されている。
その料理の中心は家庭料理である。弦斎の『食道楽』以前にも料理本は出ているが、家庭料理のなかに新しい食材と新しい味を求め、それを広めようとして幅広い料理の知識をもとに日本料理や西洋料理のほか、中国料理まで採り上げている料理本は意外に少なく、『食道楽』は読者にとって目新しいものとなった。弦斎は『食道楽』の読者を通して、家庭の中に料理法の興味を広め、覚えさせたいと考えていたのである。

『台所日記 料理暦・明治38年』表紙
(神奈川近代文学館蔵)
「西洋料理調理法」村井弦斎直筆ノート
(神奈川近代文学館蔵)

料理法(2)

『食道楽』にある料理は、家庭料理が中心である。したがってその料理は、「原料の良否善悪(よしあし)を吟味して、廉(やす)き食材を蒐(あつ)めて味佳(あじよ)き料理を作って食べる」ことが第一とされた。その精神は、「いかなる料理にも丁寧に心を籠め、最も衛生的に最も経済的に美味しいものを作る気構えが家庭料理であり、不消化物を消化しやすくして食べるのが家庭料理の本旨で、料理の時には手数をかけなければならない」とした。しかし家庭料理では、同じ料理でも急ぐ時や忙しい時に料理の手順を台所用具や手近な物で才覚できることから、簡便に美味しいものを食べる工夫ができる料理法も紹介している。
また、食材の良否善悪は美味しい料理を作るために最も大事なことで、食材や食品などの鑑別・吟味は欠かせないものとして、その見分け方・択(えら)び方を記している。また、すべての料理法が食材と適合しなければ、よい食材もかえって悪くなる。また、その購入は他人に任せるのではなく、料理するものが選り分け、購入すべきであるとしている。

弦斎邸内「家畜小屋」
明治40年頃
(平塚市博物館蔵)
弦斎邸内「野菜園」
大正6年頃
(平塚市博物館蔵)
弦斎邸内「促成園」(温室)
明治40年頃
(平塚市博物館蔵)

食物の成分

『食道楽』の巻末には「日用食品分析表」を付録としてつけた。当時、公定の食品分析表がまだない時代だった。穀類・豆類・根菜類・魚類・獣肉類など18種類、444食品について、水分、蛋白質、脂肪、含水炭素、繊維、鉱物質などの成分を表し、身体に吸収された後のそれぞれの役目を記している。そして「家庭料理を掌(つかさど)るものはこの理を知り、食物の成分・季節の寒暖・人体の健否・消化の善悪・嗜好とをよく考えて、生理上に適う料理を作るべきである。したがって家庭料理は料理方の手際より、むしろ材料の取り合わせが生理上・衛生上に適うか否かという点を第一に考えるべきで、食材によっては滋養物でないものも味覚によって他の食物を美味しく食べさせるためである。」
こうした考えは、「食物の影響を最も受けやすい病人に与える食物ほど大切で、病気の種類や、病人の年齢・体力・体質・習慣などによって、医師と相談しながらその料理法次第で、病人の治癒力や快復力を高めることができる。人は毎日、食物の影響を身体に受けているため、ますます食物療法に重きを置く、食物を研究する医者である食医の必要を感じる。」と述べている。

増補註釈版『食道楽』春の巻 附録・日用食品分析表
(キッコーマン国際食文化研究センター蔵)

台所論(1)

明治30年代、次第に家庭料理にも西洋料理が普及しはじめ、和洋折衷料理や新案料理が紹介されるようになってきた。しかし「男子厨房に入らず」で、男が食べ物についてとやかく言うものではない、とされていた時代である。
弦斎は『食道楽』春・夏の巻の口絵にそれぞれ大隈伯爵邸、岩崎男爵邸の台所を詳密に実写し、極めて清潔で料理器具が整頓され、立働きの便利さと全体の衛生的な点をあげて台所の重要性を巻頭で明確にしている。そして「台所の事に注意せざるは我が生命を重んぜざるに斉(ひと)し」と言い切る。生活の根源である台所は家屋の中心点であるから十分に金を懸け、全体に明るく、構造は最も便利に最も衛生的に建てなければならないと説いた。その工夫は、屋根に硝子張りの大きな明かり取りを設け、台所全体を明るくする。石炭や炭薪の代わりに火が要る時はネジをひねるだけで強くも弱くも自在にでき、何時間も平均な熱度の得られる瓦斯(がす)ストーブを設置する、として台所の改築を薦めている。

大隈伯爵邸台所の図(山本松谷画)
増補註釈版『食道楽』春の巻口絵
(キッコーマン国際食文化研究センター蔵)
岩崎男爵邸二階建台所階上の真景(水野年方画)
増補註釈版『食道楽』夏の巻口絵
(キッコーマン国際食文化研究センター蔵)
弦斎邸台所。多嘉子夫人と長女米子(平塚市博物館蔵)

台所論(2)

台所は食物を調理することから最も不潔を嫌う場所である。そのため家の中で一番明るい所にしなければならない。台所全体を明るくすることは、塵一つ隅に落ちていても直ぐ見えるため、自然と台所の清潔が保たれる。また衛生とか生理とかを土台にして家庭の食物を料理するのには、不衛生な戸棚も適当ではなく、台所の清潔を保つために台所用具購入費が家計のなかに占める重要性を見直すべきであるともいっている。その身近な例に布巾や塩・アルコール・炭酸ソーダなどの効能を挙げている。さらに台所で使う道具について「台所用具は人生の必要物」と記し、食物調理に必要な道具を揃えることを奨励していた。
『食道楽』の中でいくつかの台所用具を図解して紹介し、西洋風の食器についても付録のなかで69種、118点の用具をそれぞれの品質と価格を示した。この食器の購入にあたっては、よく品質を択んでその使い方に注意しないと役立たないと述べ、家庭で用いるべき台所用具の改善を説いた。

弦斎考案の料理服を着た多嘉子夫人
(神奈川近代文学館蔵)
弦斎考案の天火
(平塚市博物館蔵)
弦斎が考案したと伝えられる調理器具
(平塚市博物館蔵)
フライ鍋の図
『食道楽』
(岩波文庫)
スープ鍋の図
『食道楽』
(岩波文庫)
コーヒー挽き
『食道楽』
(岩波文庫)

まとめ

弦斎の『食道楽』は、『釣道楽』『酒道楽』『女道楽』に続く、弦斎が考えていた連作「百道楽」の第4編として著されたものである。この弦斎の連作「百道楽」には、先の4編のほか玉突道楽、囲碁道楽、芝居道楽など29種の道楽が考えられていた。道楽というタイトルからして、『食道楽』は美食を勧め、食通を気取る、いわゆるグルメ本のように思われがちである。しかし『酒道楽』が禁酒小説であったように、『食道楽』は、あくまで実用小説であり、教訓小説であり、啓蒙小説であった。また『食道楽』には、明治30年代の社会状況を反映した弦斎の主張が、食はもとより教育論、文学論、経世論、結婚論、家庭論、文明論、未来論など、あらゆる分野にわたって盛り込まれている点に特徴がある。
弦斎が「食」に執着したのは、食べ物こそ人間の根幹であるという考えがあったからである。これは、『食道楽』の合本の巻末付録に収録された「料理心得歌」の一首に「小児には徳育よりも智育よりも体育よりも食育が先き」と詠った。「食」によって、人間の性格が形成されると弦斎は信じていた。現在、「食育」や「地産地消」という言葉がさかんに使われている100年前、平塚の地に16,400坪余の広大な土地を購入し、野菜園、果樹園、草花園、温室、鶏舎、畜舎を設け、畑にはパセリ、アスパラ、アーティーチョークなどの珍しい西洋野菜を作って、弦斎は文字どおり「食育」「地産地消」と「食道楽」の世界を実践した。

平塚の村井弦斎邸内で(明治38年)
(平塚市博物館蔵)
現在の平塚市 村井弦斎公園
参考文献
  1. 1増補註釈版『食道楽』春・夏・秋・冬の巻(柴田書店)村井弦斎著
  2. 2『18年間の研究を増補したる食道楽』(對岳書店)村井弦斎著
  3. 3『食道楽(上・下)』(岩波文庫)村井弦斎著
  4. 4『父 弦斎の想出』復刻版 食道楽 解説編(柴田書店)村井米子著
  5. 5『食生活心得帖・食物に関する十八年間の研究』(新人物往来社)村井弦斎著 村井米子編
  6. 6『食道楽の人 村井弦斎』(岩波書店)黒岩比佐子著
  7. 7『時代の先駆者 よみがえる村井弦斎』平塚市博物館刊
筆者プロフィール

土井 浩(どい ひろし)
1945年 北海道生。明治大学大学院修士終了
1971年 神奈川県大磯町教育委員会を経て、1974年平塚市教育委員会へ転出
以来平塚市博物館学芸員
2002年 平塚市博物館館長
2005年 平塚市教育委員会、社会教育課勤務