江戸の食文化
日程 | 2014年5月24日 |
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場所 | 野田本社 |
講師 | 原田信男先生 |
主催 | キッコーマン国際食文化研究センター |
日本が属するモンスーンアジアでは、稲作が主要な食糧生産となっているが、温暖多湿を好む米には大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから、米と魚をベースとした食文化が展開し、これに簡単に飼うことのできるブタが伴っている。ところが日本では、稲作と同時にブタも伝えられたものの、やがてブタを欠落させ肉を忌避する食文化が定着をみた。このため他のモンスーンアジア地域よりも、とくに魚に執着するという傾向が強い。また日本文化の形成に大きな影響を与えた中国文化が、料理という場面においても大きな役割を果たした。平安時代の大饗料理や鎌倉時代の精進料理には、中国料理の強い影響をみることができる。
その後、室町時代の本膳料理によって、今日に至る和食の原型が成立し、奇数の膳組を基本として、カツオやコンブの出汁を利用するという特色が生まれた。さらに戦国時代の懐石料理によって、“もてなし”や“しつらえ”を重視し、季節感や食器・盛付にも気を配るという日本料理の最高峰が築かれるに至った。ただ、これらの料理は、いずれもが儀式料理で、決まった日時に決まった場所で決まった人々しか味わうことができなかった。ところが江戸時代になると、料理屋が発達し、いつでもお金さえ出せば、どこでも料理が楽しめるようになったのである。また料理書も、それまでは料理流派の家々に伝えられたものであったが、それらが出版という事業によって社会に出回るところとなり、江戸時代には自由に料理を楽しむ文化が成立をみたのである。
そうしたなかで、戦国期に展開をみた和食の文化が庶民レベルに浸透し、広く楽しまれると同時に、江戸前の寿司やテンプラさらにはスキヤキの原型が考案され、今日における和食発展の基礎が築かれた。また醤油や味醂の大量生産は、煮物などの幅に広がりをもたせ、蒲焼きのタレなど独自の風味を和食に加えるところとなった。とくに江戸時代も後期になると、一八世紀後半の宝暦~天明期に料理文化が著しい展開を遂げ、一九世紀前半の文化~文政期に爛熟期に達した。
こうした料理文化の両輪を支えたのが、料理本と料理屋であった。江戸前期の料理百科全書的な料理書から、読んで楽しむための料理本へと変身したが、その嚆矢となったのが『豆腐百珍』で、料理法のみならず豆腐に関する和漢の知識を集めて、蘊蓄を示しながら料理を楽しむという食文化が登場をみた。また料理屋は、すでに中洲の升屋などが高級料理屋として知られていたが、山谷の八百善が江戸屈指の名店として人気を集めた。その背景には、高名な文人たちを動員して、豪華な料理本を八百善主人に書かせたほか、店の起こし絵(紙模型設計図)などを土産として売り、コピーライターなどを使って売れ行きを伸ばすなどの演出を行った出版プロデューサーの活躍もあった。
こうした料理文化の興隆は、幕府の三大改革の谷間におこったもので、消費文化を謳歌した時代の産物であったが、この時代に食は遊びとして広く庶民に楽しまれた。初鰹人気もその一つであったが、大食い・大酒飲み競争が各地で行われ、その記録が出回ったり出版されたりするなど、この時代の食文化には、食を徹底して遊び尽くすという特色がみられた。いずれにしても和食という文化が庶民レベルで花開いた時代であった。