流山みりん醸造業のあゆみ(part1) ~白みりんの誕生と水運~
日程 | 2015年5月31日 |
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場所 | 東京本社 |
講師 | キッコーマン国際食文化研究センター 学芸員 川根正教 |
主催 | キッコーマン国際食文化研究センター |
みりんの故郷流山
みりんの産地である流山は、慶長19(1614)年の『小金之領野馬売付之帳』という古文書に地名を確認することができますので、遅くとも17世紀の初頭には成立していた村と考えることができます。みりん醸造が始まる前の流山村は、水田・畑による農業とともに、江戸川を利用した水運の河岸としても、早くから機能していました。
流山河岸は周辺の幕府領の年貢米を主に積み出していました。流山でみりん醸造が発展したのは、流山村が河岸であったということと密接に関連しています。
流山白みりん200周年
流山で造られたみりんは白みりんと呼ばれています。『野田醤油株式会社二十年史』に「二代堀切紋次郎二十七歳の時野田高梨家の後援を得て、白味淋酒を試醸し、文化十一(1814)年、発売を開始した」と記述されており、2014年は流山白みりんが誕生してちょうど200周年になりました。
みりんの都道府県別の醸造量は、万上みりんを含め40%弱が千葉県で造られ、次いで酒造業の盛んな兵庫県、三河みりんの産地として知られる愛知県、以下広島県、和歌山県、岐阜県、徳島県、岡山県の順となっています。
白みりんの誕生
流山で造られたみりんの2大ブランドが、「万上みりん」と「天晴みりん」です。万上みりんは2代堀切紋次郎によって造られました。堀切家は、明和3(1766)年に番匠免村(現埼玉県三郷市)から流山に移り住み、最初は酒造業を営んでいました。天晴みりんの創始者は5代秋元三左衛門です。秋元家は鶴ヶ曽根村(現埼玉県八潮市)から流山に移り住み、4代三左衛門が安永4(1775)年に豆腐加工業のかたわら酒造を行います。
寛政改革の一つとして関東御免上酒造りがあります。当時江戸で消費するお酒は、伊丹・池田・灘などで造られた、いわゆる下り酒が主流になっていました。この下り酒にまけない品質の上酒を造るため、幕府が関東(武蔵・下総)の豪商に酒米を貸して造らせた酒を関東御免上酒といいます。流山では紋次郎や三左衛門などがこの関東御免上酒造りに参加しました。ところが、紋次郎と三左衛門が参加してから12年後の文化3(1806)年、豊作のため幕府は酒の勝手造り令を出し、その結果100万樽を超えるほどの大量の下り酒が江戸に入り、堀切家・秋元家などが造っていた関東御免上酒は江戸で売れなくなってしまいます。そうしたことから、二人は酒造からみりん醸造へと生産の中心を移していったと考えられます。そして、そのわずか20~30年後には、流山のみりんは江戸・京都・大坂で高い評判を得ることになります。
水運
流山で造られたみりんは、どのようにして販売され、また江戸へ運ばれていたのでしょうか。江戸時代は原則として、問屋を通じて商品が販売されました。元禄7(1694)年に江戸十組問屋が成立します。当時すでに商品ごとの問屋が成立していて、酒・醤油・酢は酒店組が扱っていました。文化6(1809)年以降の資料によれば、みりんを扱っていた下り酒問屋は38軒で推移しています。
天保改革によって株仲間は廃止されますが、商品流通に混乱をきたしたため、再び問屋制度が復活します。嘉永4(1851)年の『諸問屋名前帳』には下り酒問屋31軒、地廻り酒問屋24軒、地廻り醤油問屋24軒がみられます。明治3(1870)年の秋元本家文書に、取引先の問屋として江島屋弥右衛門・奴利屋彦吉・伊勢屋清兵衛・高崎屋長右衛門・鈴木屋新兵衛・山本長右衛門などが確認できますが、これらの問屋は嘉永4年の地廻り酒問屋と一致しており、みりんは文化・文政・天保期には下り酒問屋が、嘉永・明治期には地廻り酒問屋が扱っていたと考えられます。
流山みりんの江戸への輸送は、高瀬船による江戸川の水運が利用されました。高瀬船は箱のような構造をもっていて、軽くて浮力があるため、1000俵ちかくの米俵を積むことができたといわれます。一般的な中高瀬の場合、長さは20m、幅は4mで、1樽100kgのみりんを300樽ほど積むことができました。水運は、陸上交通に比べていかに多くのみりんを運ぶことができるかがわかります。
まとめ
なぜ流山でみりん醸造が盛んになったのでしょうか。
一つ目には流山の西、埼玉県側の古利根川流域は早稲米の産地であり、また江戸川左岸流域、流山の木村という地域から松戸にかけての下谷耕地はもち米の産地として知られています。みりんの原料はもち米とうるち米、それに焼酎の3つですが、もち米とうるち米の産地が近いということです。次に、江戸時代の初めに江戸川が開削されると、水運によって流山は大消費地である江戸と直結しました。船は朝4時頃に流山を出発すると、夕暮れには江戸に着いたそうです。つまり流山は、水運によって大消費地である江戸と直結していました。そして、醸造に必要な江戸川の水に恵まれているという立地条件があげられます。
こうしたことによって、流山ではみりん醸造が盛んになったと考えることができます。