流山みりん醸造業のあゆみ(part2) ~明治・大正期におけるみりん醸造業の発展~
日程 | 2015年7月25日 |
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場所 | 東京本社 |
講師 | キッコーマン国際食文化研究センター 学芸員 川根正教 |
主催 | キッコーマン国際食文化研究センター |
万博と内国勧業博覧会
明治6(1873)年に開催されたウィーン万国博覧会に堀切紋次郎・秋元三左衛門はみりんを出品し、有功賞牌を受賞します。その後も内国勧業博覧会を初めとして、アラスカ・ユーコン太平洋博覧会、日英博覧会、東京大正博覧会、パナマ・太平洋万国博覧会などのさまざまな博覧会で数多くの賞を受けています。
幕末から明治初年の動乱期に流山のみりん醸造量は減少しますが、受賞歴にみるように紋次郎と三左衛門の努力によって、明治20年代から醸造量が飛躍的に増加し、野田のしょうゆと並んで流山のみりんが全国的に知られていきます。
小林一茶と新選組
みりん醸造は、流山の街の発展とどのように関わってきたのでしょうか。俳人小林一茶は5代三左衛門の秋元双樹と交流があって、酒造・みりん醸造で栄えた流山を50回以上訪れています。また、『七番日記』の文化9(1812)年3月8日の項には「八 晴 サガミ屋餐」とあり、一茶が堀切家を訪れ饗応を受けていたことがわかります。
慶応4(1868)年には、近藤勇・土方歳三が率いる新選組が流山に入ってきました。本陣とした長岡七郎兵衛方は、現在「近藤勇陣屋跡」となっています。
県庁所在地流山
流山は千葉県の前身である葛飾県・印旛県の県庁所在地でした。流山には年貢を運ぶために必要な河岸があり、県庁が置かれた田中藩本多家の加村台屋敷の規模が役所とするのに適当だったことが理由としてあげられます。そして、みりん醸造業などで栄えた有力商人が存在したことも、大きな理由の一つとして考えられます。堀切紋次郎と秋元三左衛門、しょうゆ醸造業の浅見平兵衛が新政府の御用商人を務め、財政面から県政を支えました。
県庁所在地であった流山には今でも古い街並みが残されており、近年は国登録有形文化財に登録されるなどして、整備が行われています。
流山白みりんとは
流山のみりんは白みりんといわれますが、白みりんとはどのようなみりんなのでしょうか。秋元三左衛門は、明治23(1890)年に「第三回博覧会解説書」審査請求ノ主眼という書類を千葉県知事に出しており、そこには「従来ノ方法ニ甘味多量ノ改良ヲ加ヘ食物調理ノ便利ヲ生セシメ」と書かれています。
明治31(1898)年の「味淋試験報告」では、「最も多く之を製造するの地は千葉、大阪、愛知、兵庫の四府県にして京都、新潟之に次ぎ(中略)東京に於て最も賞用するものは千葉県下流山産にして同地製出の味淋は其質濃厚にして一種佳良の気味を有す」とあります。大正3年の東京大正博覧会に出品された資料について記述している「東京大正博覧会 出品之精華」では、「天晴印味淋は煮沸するも濁らず、又之に水を割るも濁らず、香気芳烈、風味卓絶、無色透明等の幾多優越なる特色を有する」と説明しています。
まとめ
堀切紋次郎・秋元三左衛門はウィーン万国博覧会や内国勧業博覧会などへみりんを出品し、数々の賞を受けました。こうした努力があり、流山のみりん醸造業は、明治20年代から大正時代前半に第2の盛期を迎えることになります。みりん醸造業は流山の街の発展にも大きく関わり、明治の初年には、流山に葛飾県・印旛県の県庁が置かれました。