キッコーマン食文化講座

江戸白みりんの誕生を探る ~堀切紋次郎家文書を読み解く~

日程 2022年8月18日
場所 流山市生涯学習センター
講師 川根正教先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

はじめに

文化・文政から天保年間(19世紀初頭から中頃)、江戸では庶民の間にまで料理文化が浸透しますが、その料理の調味料として用いられたのが流山の白みりんです。
流山のみりんについては弘化2(1845)年の『下総国旧事考』の中で、流山のみりんは三都冠をなすと記されており、遅くとも天保年間(1830~44)には、江戸・京都・大坂で広く知られ用いられていたと考えることができます。
相模屋堀切家文書は、相模屋の屋号で万上みりんを醸造・販売していた堀切紋次郎家に代々伝えられてきた古文書史料です。
この史料は平成23(2011)年に、堀切家からキッコーマン国際食文化研究センターに寄贈されました。平成26年からは本格的な整理を進め、数年内には完了する見通しとなったため、食文化講座でその概要と主だった史料を紹介しました。

堀切家文書の概要と主な史料

堀切家文書の点数は、1万1000点以上に及びます。近世文書、近代文書、年欠史料、書簡・書類一括史料に分類することができ、商業関係の史料が中心となります。
中でも堀切家の会計帳簿である「棚勘定帳」や「酒造記録」などは、みりん醸造業の推移や、流山における酒造業の変遷が分かる重要な史料です。また、明治2(1869)年に千葉県北西部地域に設置された葛飾県の関係帳簿のほか、「松尾社再建入用之控」「流山軽便鉄道改造ニ付嘆願書」などは、当時の地域の歴史を物語っています。

なぜ流山でみりん醸造業が発展したのか

みりんは16世紀末にはわが国に登場し、当初は甘く貴重な酒として武家・公家・僧侶など、当時の上層階級の人びとの間で贈答などに用いられていました。
18世紀前半には供給量が増え、多くの庶民にも、甘い酒として親しまれるようになります。そして18世紀後半になると、甘く濃い味を好む江戸の人びとによって調味料として用いられるようになり、需要は増大します。流山のみりんは甘味が強く、料理の調味料として最適なみりんでした。
流山は江戸時代の早い時期から河岸であり、みりんの原料である糯米・粳米が得やすく、また江戸川を利用することによって、船で朝出発すると夕方には大消費地江戸へ着くという至近距離に位置していました。
こうしたことによって、流山ではみりん醸造業が発展することになります。

堀切家がみりん醸造を中心にしたのはなぜか

堀切紋次郎家では酒造・みりん醸造・しょうゆ醸造を行っていました。しょうゆ醸造は三代紋次郎が「手前持ちの心得に致し」なさいといっていますので、家業の中心ではありません。では、酒造とみりん醸造のうち、なぜみりん醸造が中心になっていったのでしょうか。
みりん醸造が中心になったのは天保年間からです。この頃の酒とみりんの単価を比較すると、常にみりんの単価が酒を上回っていることが分かります。こうした市場の動向を把握しながら、より効率の良いみりん醸造を徐々に家業の中心にしていったと考えられます。

万上みりんの販売網

これまで、発売当初の万上みりんの販売方法については、明らかになっていませんでした。
会計帳簿では最も古い文化10(1813)年の「付立之覚」に、取引先として霊岸島四日市町の矢野屋伝兵衛、同じく矢野屋安次郎の名を読み取ることができます。
堀切家の本家である現三郷市の堀切浅右衛門家は酒造、その兄の文次郎家は三郷市戸ヶ崎で農業経営、弟藤兵衛は江戸勘左衛門屋敷で酒店を営んでおり、相模屋の屋号から後に矢野と改姓しています。このほか、矢野一族には矢野屋正兵衛と矢野屋儀兵衛がおり、いずれも親類関係にあったことが分かっています。
堀切家と矢野屋一族は、全て屋号印「カネカ」を用いており、万上みりんはこうしたネットワークを通して販売されたと考えることができます。

おわりに

公開講座の様子

堀切家文書は、江戸地廻り経済圏としての関東における酒造業の実像を明らかにすることができ、また流山の伝統的産業であるみりん醸造業の発展の過程が理解できる極めて価値の高い史料です。
今後活用が図られ、研究が進展することを期待したいと思います。