キッコーマン食文化講座

野田のしょうゆづくり~近代化と発展、そのオリジン~

日程 2024年9月7日
場所 キッコーマン株式会社 野田本社 会議室
講師 野田市郷土博物館 学芸員 寺内 健太郎氏
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

 

1.野田の地勢

   野田市は千葉県北西部に位置し、茨城県・埼玉県に隣接した南北に細長い地域である。最北端で利根川と江戸川が分流し、東に利根川、西に江戸川に挟まれている。江戸時代から舟運を利用し、原料や製品の輸送を行っていた。明治44年の千葉県営軽便鉄道野田線(現 東武野田線)開通、昭和3年の野田橋架橋などにより、しょうゆの流通も舟運から鉄道、自動車に移り変わっていった。

2.野田の「造家さん」

   今でも野田では醸造家を「造家さん」と呼ぶことがあり、町の人々と醸造家との距離が近い印象を受ける。関東醤油番付にも「造家中」という記述があり、当時からこうした言葉を使っていたことがわかる。
 関東醤油番付はしょうゆの印(銘柄)の番付で、当時の名声や生産量などによるランキングである。1840年の関東醤油番付には91銘柄掲載され、現在の千葉県にあるのが約50、そのうち野田が20、銚子は19である。銚子の方が数は少ないが、行司などは銚子の醸造家で占められており、銚子が格上だったことがわかる。
 一方、1853年の関東醤油番付では約110銘柄に増えており、地域も広がっている。また、行司や差添に野田のしょうゆ醸造家が増えている。野田の醸造家としては、高梨兵左衛門家(本印ジョウジュウ)、茂木七左衞門家(本印クシガタ)、茂木七郎右衛門家(本印キハク)、茂木佐平治家(本印キッコーマン)、茂木房五郎家(本印ミナカミ)、茂木勇右衞門家(本印フジノイッサン)、茂木啓三郎家(本印キッコーホマレ)などがある。野田の醸造家たちは分家によって資産を譲り受けながら、困難には助け合い、事業を拡大していった。


 

3.しょうゆづくりの近代化

 1887年には野田醤油醸造組合が設立された。醸造組合として内国勧業博覧会への出品、野田商誘銀行の設立、野田人車鉄道の敷設、千葉県営軽便鉄道野田線敷設の陳情、醸造試験所の設立、野田病院の設立などを行い、野田町やしょうゆ醸造の近代化に大きな影響を与えた。また、しょうゆづくりにおいては、各醸造家が積極的に新しい技術を取り入れてきたことも欠かせない。そして、1917年に野田醤油株式会社が設立された。1925年には第17工場が完成し、しょうゆ醸造の近代化も大きく進んだ。