流山白みりんの誕生とその背景
日程 | 2025年3月22日 |
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場所 | キッコーマン株式会社東京本社 KCCホール |
講師 | キッコーマン国際食文化研究センター 川根 正教 |
主催 | キッコーマン国際食文化研究センター |

はじめに
千葉県の北西部に位置し、江戸川に面して発展した流山は、江戸時代からみりんの産地として広く知られており、現在でも国内屈指の生産量を誇っています。そのみりんは、従来のみりんに比べて色が淡く澄んでいることから、白みりんと呼ばれました。流山白みりんの誕生と発展の過程を、酒造や江戸の食文化との関わりから探っていきます。
みりんとは
みりんは、米及び米こうじにしょうちゅう、またはアルコールを加えて、こしたものです。アルコール含有量が15度未満、酒税法の対象となる酒の一種で、製造・販売には免許が必要です。わが国においては16世紀末には存在し、18世紀の初めには庶民にまで普及し、甘い酒として飲まれていました。

堀切紋次郎家「万上」と秋元三左衛門家「天晴」
流山には江戸時代から続くみりんが2つあります。それが堀切紋次郎家の「万上」と秋元三左衛門家の「天晴」です。
流山における酒造業は享保年間(1716~1736)に始まり、最盛期である文化元(1804)年には12人の酒造家がいて、8,050石の酒造高がありました。幕末には流山村全体の酒造高6,450石のうち、堀切家は3,650石、秋元家は1,700石の酒造高となっています。そのなかで酒造技術を活かしながらも試行錯誤を繰り返し、みりんの開発にあたっていきました。
堀切家文書「棚勘定帳」には、文政元(1818)年以降にみりんに関する記録がみられ、以降には年々のみりん販売記録が遺され、醸造と販売が軌道にのったと考えられます。天保年間(1830~1844)にはみりん醸造に使用する米の量が酒造に使用する米の量を上回り、このころには、流山のみりんは江戸・京都・大坂で評判になっていたと考えられます。
江戸の食文化とみりん
みりんは当初、甘い酒として飲まれていました。18世紀後半から19世紀前半には、こいくちしょうゆと砂糖・みりんを使用した甘辛い江戸の味が誕生し、みりんはそれまでの飲用から調味料としての使用へと変化を遂げます。江戸における料理文化が庶民にまで広まり、すし屋・鰻屋などの飲食店が急増、本格的な料理屋の出現と、遊びとしての料理文化も栄えました。

「白みりん」という呼び名の出現
江戸末期から明治初期に作成された「手製酒味淋本直志印鑑」では、みりんは2種類に分けられており、一つは「古味」、もう一つは「秘製上味淋」となっています。江戸時代にはこの他、「上味淋」「中味淋」「下味淋」の種類分けもありました。「古味」は従来から使用されている色の濃い赤みりんと呼ばれるもの、「秘製上味淋」が後の白みりんを指していると考えられます。
明治5(1872)年に秋元三左衛門が役所へ提出した書類に「色白く清酒同様の色となり、則白味淋と唄う」とあります。以降、万博や博覧会に流山のみりんが出品されており、明治10年の第1回内国勧業博覧会の出品目録を見ると堀切紋次郎が白味淋、秋元三左衛門が味淋を出品しています。

まとめ
・流山のみりんは、文化11(1814)年に発売され、またたく間に江戸・京都・大坂の三都で評判になった
・みりん醸造に不可欠な江戸川の水に恵まれるという立地
・江戸川の西を流れる中川流域は早稲米の産地、江戸川左岸流域の下谷耕地はもち米の産地
・江戸川が開削されると、水運により大消費地江戸と直結、流山→日本橋小網町間、約33kmという至近距離
・みりんは、当初は甘い酒として飲まれていたが、18世紀後半からの料理文化の発展とともに、調味料として使われるようになった
・流山白みりんとは、それまでのみりんと比べて色が淡く澄んで、甘味が強いみりん
=調味料として料理へ使用するのに最も適したみりん⇒現在の本みりんの原形