研究機関誌「FOOD CULTURE No.23」 「ドミニカの食卓を豊かにした日本人移住者」 ドミニカ共和国 日本人農業移住50年
「ドミニカの食卓を豊かにした日本人移住者」 ドミニカ共和国 日本人農業移住50年
さまざまな時代的背景により、多くの日本人が異国の地を踏んだ。そこでは、長い伝統文化を背にした日本人のとまどいがまずあり、次に日本文化が伝播し、そして現地文化との融合へと進む。その現実を、食文化に軸足を置きながら、中米ドミニカの地に移住した日本人移住者を「食」を通して紹介する。
ドミニカ共和国
まず、ドミニカ共和国(以下ドミニカと略)という国を俯瞰してみよう。カリブ海で2番目に大きいイスパニョーラ島。諸島の中ではキュ-バの次に大きい島がドミニカ共和国。島の3分の2を占め、残りがフランスを旧宗主国とするハイチ共和国になっている。ドミニカは日差しが強く手に届くところに太陽があるような気がする国である。
1492年、この島に最初に上陸したヨーロッパ人はかのコロンブス。その歴史的足跡は世界遺産に指定されている。スペイン人が築いたほかのラテン諸国同様、都市部は旧市街と新市街とに区別され、人口は約1,000万人である。
陽気で音楽とダンスが得意なドミニカの人々
ドミニカ共和国に農業移住者として50有余年を歩んだ人々を現地に訪ねた。成田からニューヨークまでは13時間。トランジェットでニューヨークに一泊、翌朝ニューアーク空港から3時間30分でサントドミンゴに着く。日本からはかくも遠い。国の玄関口、ラス・アメリカス国際空港滑走路に飛行機が着地するや否や、機内では拍手やどよめきが起きる。ドミニカ流の無事着陸の感謝の気持ちを表しているのだ。現地の人の笑顔は外国人にとっては何よりの歓迎となる。陽気で音楽好きというのが印象であり、常夏の太陽と、「紺碧」と言うにふさわしい真っ青な海は圧巻だ。この国の国民性を示す、ある表情から紹介する。よく見掛ける日常の一コマだが、これがカリブのドミニカ!と実感させられる光景がある。
首都サントドミンゴでは、市民の足としての乗合バス「グアグア(Guagua)」が走っているが、まるで「走るディスコ」の様相で、メレンゲやバチャータなどのダンス音楽が車内に大音響でかかっている。乗車、下車時刻も乗客任せで時間にまったく寛大な人々。理解しないまま途中乗車しようものなら、開放的な雰囲気のリズムにのまれそうだ。音楽は車の中、通りの家、店の中からよく聞こえ、周りの小さな子供でさえも腰を振り振り、リズムに乗っている。音楽ありきの生活はここでは普通のことなのだ。
ドミニカの音楽といえばメレンゲとバチャータに代表されるが、メレンゲは太鼓、ギター、アコーディオンで演奏される。4分の2拍子の、腰を左右に揺らせて踊るノリのいいリズムだ。バチャータは酒場などでかかる大衆的なリズム。最近の流行はメレンゲ90%、バチャータ80%、サルサ30%といわれる。
ドミニカの長距離バス
鉄道が無いドミニカ国内では、首都間長距離バスがあり便利である。首都サントドミンゴから地方への長距離バスはアウトブス(Metro Tours Caribe Tours)と言われ定員制で時間も正確で冷房、テレビ付きで国内移動には便利だ。
カリブの島の日本人農業移住者
日本からドミニカへの移民について、おさらいしておく。カリブ海に浮かぶドミニカ共和国への日本人農業移住は1956年から59年にかけて、日本政府の募集要領(要綱)に基づき募集された。示された条件を満たした応募家族が全国から殺到、その中から選ばれた249家族計1,319人が、カリブの農業に夢を抱き渡った。
入植後、募集要項で約束された土地を得ることができず、政変、干ばつなどで困窮するなど苦しい時期が続き、その後日本への集団帰国、ブラジルやパラグアイへの再移住、そして残留という流れができた。
ドミニカに残留したのは移住者全体の半数に満たないが、米、野菜、コーヒー、胡椒、タバコ栽培など、現地に合った農業技術の開発に努め、また現在は商業、製造業、自動車修理業等にも活路を求め活躍している。日系人社会がまとまり、現在があるのは協同の中から生まれる「結(ゆ)い」が力を発揮し、日本の行事、祭り、運動会、野球などの慰安でも絆(きずな)を深め日系人社会を築いてきたことにある。
日本人ならではの勤勉さや誠実さで、現地の人々から敬われ、日本の古き良き共同体的な相互扶助精神に富む日本人農業者の心はここカリブの島では健在なのだ。
日系社会へ伝えられる 日本の心
そんな「日本人らしさ」からスタートした日系社会だが、移住から半世紀経った今、現地習俗への融合が進んでいる。第一陣が入植してからこれまで50年の間、日系社会は拡大した。年齢構成からうかがえるのは40歳以下の三世四世が55%に達し、ドミニカ生まれの日系人が既に半数を超えた。60歳以上の人の比率が増え高齢化が進んでおり、子供や孫に囲まれてゆったり暮らしている。
教育熱心なのも、日系社会の特徴だ。就学の機会を逃した入植当時の親たちの「子供には十分な教育を」という熱心な姿勢もあり、いまの三世(30代以上)は、大学に進む例が多い。ドミニカの教育制度は6-2-4制で、大学が4年から7年。大学を卒業した上で、日本留学を経験しドミニカ社会で活躍している人も少なくない。JICA(国際協力機構)、NGO(非政府組織)などによる教育支援が辺境の地で根付いていることが影響している。祖父母の国、日本での研修経験を積むことで、自分のルーツへの理解と尊敬がとても深まっている。こうした経験を通し、家庭で日本語を話し、日本食を食べ、日本の生活習慣が身につき継承されている。
逆に、現地の風習に日本人が溶け込みつつあるケースもある。ここドミニカでは、家族や仲間が集まりたくさんの手料理を持ち寄り、談笑する機会が実に多い。こうした現地の風習は、日系人から現地人の仲間へ、友人へと、日本人の習慣や日本食が広がる機会となっている。
昼休みの過ごし方も、日本とはまったく違う。この国の昼休みは、たっぷり2時間が一般的。昼食が3食のうちでメインの食事である事情もある。だから午前だけ、あるいは午後だけの勤務形態になっている事業所も多く、昼休みに一度家に帰って家族みんなで食卓を囲む。シエスタ(Siesta)という昼下がりに昼寝を含む休憩をとる習慣もある。この時間帯は商店、企業が休憩時間となり、家族や仲間のスキンシップ、コミュニケーションにいい意味で影響している。
ドミニカ本来のリズムに染まって生活する日系人を見ると、人間が生きる上で何が最も大事かを考えるヒントを、日本人にもたらしている気がする。今日本では、高齢化が進み、地域、家族内でのコミュニケーションが困難になりつつあるのだから、なおさら重要なヒントだ。
JICAの研修プログラムに、移住者の二世三世が日本を訪問し、職場や大学への就労体験や留学を経験することができる制度がある。彼らは初めての日本社会での研修で、両親や祖父母から聞いていた日本と、実際に訪れて知る社会の成り立ちや習慣、意識との差にとまどう場合が多い。
ひとつのエピソードを紹介しよう。
日本研修を経験した30代のある日系人が抱いた、祖父母の祖国への印象。たわわに実る柿があちこちの農家の庭先で見られた。色鮮やかな柿色の実は食をそそるものだ。農家の庭先で柿が収穫されることなく、熟し切って落ちるままにされる。だれが食べてもいいものだろうになぜ、と疑問に思ったようだ。人にやさしく親切な日系青年の気持ちが表れている考えだ。ドミニカでは、熱帯の植物とその果実、根菜類の食物は沢山あり、ヤシ、アボカドの木はその代表で、至るところで見受けられる。果物は木の所有者に関係なく、誰もが食べていい、というのが一般的習慣だという事情もあるようだ。
日系人協会会長の嶽釜徹さんは、青年の疑問に答えた。
「熟し果てる柿でも、持ち主が食べないから誰がたべてもいいということではない。よその家の柿をいただくには礼儀を尽くしてから、というのが日本人のしきたりだ」と。折に触れ「一世は礎」と話し、親から引き継いだ日本人意識を次の世代へとつなぐことが大事だ、と語る。
青年が抱いた「食べない柿」への疑問は、もったいないという思いからだけでなく、「分け合う、助け合う」という共同体意識、移住社会の環境の中で育ったからこその印象なのだ。これは家庭教育の成果として、日系社会の若い世代に今も伝えられている。
JICAが支援する日本語教育なども、日本人としての自覚を支えるのに役立っている。日本語を習得したドミニカの日系人はバイリンガル教師として、現地で果たす役割が期待されている。
祖母から受け継いだ日本の食卓―ある日系三世の思い出
ドミニカ生まれで日系三世の日高恵美子さん。第一陣でハラバコアに入植した祖父母、さらには両親の伝えを受け継ぎ、日本人以上に日本的な部分に気づかせられるひとりである。日本語、日本らしい食卓という環境で育ち、祖父母・両親のしつけは厳しかった。そんな家庭環境の中で日本の醤油づくりの思いを綴っている。
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祖母の醤油づくりから学んだこと — 日高恵美子 |
野菜づくりが得意な日本人農家を訪ねて…
ドミニカへの日本人移住者が、ドミニカ農業に与えた功績のなかで、特筆されるべきは、野菜の栽培と消費拡大である。ドミニカの中央部のハラバコアラベガ州(La Vega)ハラバコア市(Jarabacoa)。ドミニカ中央部に位置する海抜600mの高地で、平均気温22℃内外と過ごしやすい。ドミニカ国内の農耕地としては、気候上比較的恵まれている。サントドミンゴから車で2時間。山や小川などの起伏に富んだ地形は、どこか日本の農村風景にも似ている。この地は日本人移住地(コロニア)の中でも以前から野菜作りが盛んだった。
50年前ハラバコアに日本人が入植した当時、現地のドミニカ人農家では野菜づくりの習慣はなく、イモ、豆類、マンジョカ芋、香辛料などを自給用に栽培する程度であった。日本人が移住してから野菜栽培が広がった。当時野菜が作られたのは、コロニアに与えられた耕地の庭先栽培程度であった。やがて収穫量も増え新鮮な野菜はサントドミンゴやサンチャゴなど主要都市に毎日運ばれ、得られた収入は生活を支える貴重な糧となった。
移住船に積み込んだ野菜の種
ドミニカ共和国で日本品種の野菜が伝わっているのは、日本人移住者が、横浜から出航する際に日本の種を持って海を越えたことから始まる、ともいわれている。当時は横浜から出航する際に移住船には農具、生活道具、衣類、米、味噌、野菜種子など自賄いのためのものが積まれた。入植地では、農業が軌道に乗る前は与えられた狭い耕作面積に、ぼかし肥料を自家製で工夫し丁寧に耕し、野菜の種を蒔いた。雨が少なく常に水不足にあえいでいたが、日本野菜の種子は芽を出し、自給の食糧ともなった。
「船にはブラジル、ドミニカへと大勢の移住者が乗船した。皆が相当の種を日本から持参したはず。横浜の港を出る際種苗会社の人の見送りがあった」と移住者は当時を振り返る。現在ドミニカで「日本人移住者がドミニカの食卓を豊かにした」といわれる、野菜作りを得意にするに至った経緯は、持参した「サカタのタネ」でトマト、日本キュウリ、ナスを柱に大根、葉物類など日本の野菜を普及販売したことにある。
その後一時帰国した際日本から持ち帰ったタネで、次第に大根、ホウレンソウ、ネギ、シソ、キャベツ、長ナス、ヘチマ、などと作物を増やしていった。その中でもトマトの需要が多かったのは、肉をよく使うドミニカ人の食事の付け合せであるサラダやスープなどで、トマトソースとしての用途に合っていたからだ。
こうした経緯から、一地域の小さな畑作として始まった日本人の野菜づくりは、やがて現地の人々の耕作へと広がったのだ。移住者は日本のタネを販売元の社名から「サカタのタネ」と言う(サカタのタネは昭和30年代坂田種苗という社名だった)。
望郷の念の表れ…というと大袈裟だが、スペイン語圏の現地では日本文字のタネの袋もふるさとの記憶を呼び起こすものになる。開拓の物語はこうして紡がれていった。
日本野菜の食べ方を教えながら…
入植初期から試みられた野菜栽培は、その功績が国からも認められるようになった。そこに至るまでには、日系女性の知恵が多いに発揮されている。目指すのは生野菜を食べる習慣のなかったドミニカ人に、食べ方を教え普及していくことにあった。移住女性たちの現地での試食販売は、日本野菜のシンプルなメニューとして、塩を振り掛ける手軽なことから始めた。日本の浅漬けのようなものだ。さらに油と胡椒で深みのある即席ドレッシングにして試食販売した。こうしたリヤカーでの野菜販売は、地域に溶け込むきっかけになったはずだ。中でも日本品種のトマトが人気だった。
今、サントドミンゴのスーパーの売り場では、日本人が栽培を始めた野菜は「東洋野菜」として並ぶ。「日本野菜」は、東洋野菜と総称されている。
なぜ「東洋」なのか。街には日本車が随分走っているが、意外に日本人に結びついていない。日本人は東洋の人であり、東洋人の代表は中国人というのがドミニカの一般庶民の感覚だ。日本人に対し「チーノ(Chinese)」と声をかけてくるが、これは東洋人の意味だ。
いまスーパーで並ぶ東洋野菜、大根、生姜、キュウリなどであるが、どれも地元の野菜に比べると緑色が濃いめで小ぶりのものだ。日本のキュウリ(pepino japones)などは地元の品種のキュウリ(pepino criollow)に比べると形、味の違いが明確で、酢の物などにはやはり日本キュウリがふさわしい。ほかに、中国産の野菜も東洋野菜としてコリアンダー、バジル、イタリアンパセリ、パセリ、ルッコラ、細ネギなどなどが店頭にある。
ドミニカではトマトを使う料理は実に多い。サラダはもちろん、トマトベースのデミグラスソースで和えるじっくり煮込んだ鶏肉料理やパスタなどは、トマト使用のドミニカの代表的な一品だ。野菜とポークのトマトスープもある。アビュチラ豆などの煮込みでトマトソースを使うことも多い。炊き込みご飯のソースにも欠かせない存在になった。ちなみに現在では、サントドミンゴ市の路上ではドミニカ人によるリヤカーや自転車での野菜、果物販売が盛んだ。野菜はカボチャ、イモ類、トマト、キュウリなど。果物はオレンジ、パパイヤ、バナナ、キャンディ、メロン、アセロラなどである。
慣れない熱帯地での稲づくり
さて、日本人の主食「米」である。ドミニカでは以前から長粒種による稲作が行われており、それは日本米のような粘りのあるものとは違う。移住当時農地はドミニカ国政府の管理下にあり、国指定の作物を栽培するようになっていたが、稲も同じ。熱帯の稲作の様子には、日本人は驚きを隠せなかった。
日本の米作り・田植えは、豊穣を願う神事でもあり、丁寧に始めるべきことだということを、大正、昭和の生まれの第一陣の家長たちは十分に意識していた。苗を育てる専用の箱(苗箱)にモミを蒔いて12~13㎝ほどに育てる。水を引いた田んぼを「代掻(か)き」した後に一定間隔で丁寧に植えていく。そんな米作りには自信がある日本人だったはずが、現地での稲作には思ってもみない苦労が待っていた。それは…。
ドミニカ政府の管理下の田植えで「丈が5~60㎝もある、穂が出るかと思うような苗が管理部署から届き、戸惑った。古苗の途中から上をカットして植えた。まっすぐに立った苗が並ぶ水田は、さながら割り箸が並んでいるようだった」と移住者は振り返る。当時は二毛作だったが、ドミニカの稲は丈が2mもあり、稲は風に倒れやすく、収穫量がなかなか見込めなかった。
こんなエピソードもある。日本から持参した籾(モミ)を苗代に蒔き、まだか細い苗を田んぼに植えた。現地の人はアドバイスしてくれた。「植えたらすつかり水を切ったほうがいい」と。穂の出そうな古苗の苗に戸惑っていた移住者は「日本のやり方は田植えの後はしっかり水を張るのだ」と反論した。
移住者は「これでおいしい日本の米がたべられるぞ」と白いご飯に思いをはせた。ところが翌朝のこと、田植えをしたはずの苗が一本も無くなっている。現地の人は言う、「ああ、これはフロリダの仕業だ」。冬の間アメリカから渡って越冬するフロリダ、つまり野鴨(かも)が犯人であることが分かり、せっかくの日本の種籾は、一晩で駄目になった。ドミニカの穂の出そうな古株を植えるのは「古株の苗でも、活着すると少ない水でも育つ」という現地にふさわしい米の作り方であった。現地の稲作技術は何世代にもわたってドミニカの農民が工夫し、守り育ててきたことにより存在していることを思い知らされた、と移住者は回想する。
ドミニカで日本米の品種改良
移住者の中に、稲の品種改良に立ち上がった人がいる。故谷岡義一さん(高知県出身)だ。茎が長く風雨で倒伏しやすいという現地の稲の欠点、そして何よりも日本人が食べなれた短粒種でないという品種の決定的な違い。移住当時、それを解決すべく、谷岡さんが日本稲の品種改良に取り組んで生まれた「谷岡米」は、現在のドミニカにおける日本米のルーツである。おにぎり、納豆ごはんと、日本米のごはんはカリブで健在だ。
わずかな量ではあったが、日本の米の「種モミ」を渡航時持参した人は多い。熱帯の現地では種籾は、紙袋に入れてネズミの被害が出ない納屋の高いところに保管していた。稲作を得意とする谷岡さんもそのひとりであったが、その後の彼の努力が現地での栽培に合った日本米の品種改良で「谷岡5号」を生んだ。
当時のドミニカ米は人の背丈ほどで倒れやすく、収穫が少ないことで苦慮していた。その地で谷岡5号は画期的な稲作への道を開いた。稈(くき)が固く、短い、そして多肥に耐える性質の日本品種の稲だった。その功績は移住25周年にあたり出身地の高知県から表彰されている。「谷岡米の特徴は質、量共に具(そなえ)、止葉(剣葉)は直立し倒伏は極めて少ない…」(ドミニカ25周年移住誌谷岡義一氏談より抜粋)生前の谷岡義一さんが寄せてくれた谷岡米の特徴だ。
日本の巻き寿司は日系人のご馳走
日本食の代表、寿司。それも短粒米である日本米あればこそ。日系人にとっては、日本食を作ると聞いて一番に頭に浮かぶ料理が巻き寿司だ。運動会行事、家庭での祝い事、お正月のメニューとしても定番だ。腕を振るう女性たちにとっては、ドミニカの素材を上手に生かして日本の巻き寿司を作るのは楽しみである。ドミニカの巻き寿司の食材といえばアボガドを具にし、青臭さを消すためショウガのみじん切りなどを使う。卵焼き、キュウリ、ニンジンなど、巻き寿司には色身が欠かせない。ツナや缶詰の魚を具にすることもある。こちらは青ネギの小口切りも一緒に巻きにおいを消す工夫もある。
魚の少ないドミニカでワンランク上となるのが、酢飯にさしみを載せた本格的な「握り寿司」だ。サントドミンゴには日本レストランが数軒あり、ドミニカ版寿司もメニューは豊富だ。国際食となった「寿司」は、ドミニカでも市民権を得る日が近いようだ。
日本食の基本は味噌、醤油
大豆食品の普及に果たした日系人の役割も忘れてならない。移住者の耕地に植えられた一作物に過ぎなかった大豆だが、味噌、醤油、豆腐、納豆などは日本食の基礎であることを考えると、日本人移住者には欠かせない存在だった。「日本のご飯に、豆腐の味噌汁、納豆が必要だった。祖母が作る醤油、味噌汁、豆腐、納豆は何よりのご馳走だった」。現在もハラバコア市で一年を農業とともに暮らす日高武昭さん(鹿児島県出身)は語る。
持参した日本品種の大豆は自分たちが食べる味噌、醤油、豆腐などなどの原料として、はじめは自家用に栽培した。それなりに収穫できたが、商品作物にするには現地の人々に大豆の加工品への需要がなく苦労があった。
現在移住者はスーパーに並ぶ、「Salsa de Soya」の商標の醤油を購入することが多い。日本人ならだれでも知っている「キッコーマン」のロゴはKIKKOMAN「Salsa de Soya」と表示されている。ドミニカでも東洋のソースとして、日本のKIKKOMANが、焼肉などに使われて久しい。
ドミニカ人は米を好んで食べるが、肉(鶏、豚、ヤギ、牛など)はライスに付きもの。揚げた肉に醤油、は相性がいい。この地で自家用として醤油を作り使ってきた日系人だが、結果的にドミニカ人にも広まり、食文化の多様化に貢献できたのは、移住者の努力によるところが大きい。
日本のみりんも醤油味を引き立てる。日本食をおいしくするには欠かせない。みりんの代わりに砂糖を水で溶き、焦がし、まろやかなカラメルを加えるなどで代用工夫をしてきた日本人の知恵は、日本食を伝える味のエッセンスだ。
カリブの魚、大根おろしに醤油
日本人が大好きな魚はどうか。移住時には漁業移民も入植した。ハイチとの国境、マンサニーョ湾(manzanillo)での沿岸漁業を目的としたが、ドミニカはもともとサンゴ礁の島で、大陸棚は一概に狭く、魚が育つ適地がない。入植した漁民は「漁獲を得られずして」農業移民に方向転向したり帰国組となり、記録だけが残った。現在、ドミニカでの漁業は木造カヌー、小型ボート等による小規模な沿岸漁業が中心。専業・兼業合わせ、労働人口の約5%にあたる1,500人程度の漁業従事者だと聞く。スーパーに並ぶ魚も少ないわけだ。
近年、人口漁礁を造る「魚の増殖海洋牧場」の試みが今年で10年を過ぎ、そこで漁獲された魚が量は少ないがスーパーにも並ぶようになり、魚の種類・魚料理のバリエーションも増えた。
「入植当時は近隣の川や沼では名前も知らないが、よく魚が釣れた。釣った魚は夕飯のおかずになった。入植間もない結婚式では、沼で釣った魚が料理に出たこともある。焼き魚にして醤油を垂らせば最高の日本食だった。今晩のおかず狙いに釣り糸を垂れていたものだ」と移住者は振り返る。焼き魚に大根おろしは付きものだ。はじめは、そのための日本の大根栽培だったという。
カリブの魚、とはいってもここドミニカでは、日本のスーパーの売り場のように豊富な種類の魚は見られない。種類は少ないが、港近くの魚料理専門店などで入手できる。カリブの魚料理としてレストランメニューでなじみのものはイカ、タコ、エビ、カニ、ロブスター、コンク貝などで、少ないがカンパチ、シマアジなどの入荷もある。いずれも淡白な白身の魚であり、味付けはかなり工夫されている。「魚を焼いて大根おろしで食べる」という日本の味が広がることを期待したい。
ドミニカの主食「米」の料理
ドミニカの主食は米であり、種類は長粒米。現地の人は米をどのようにして食べているのだろうか。
まずはバンデーラ(Bandera Domincana=ドミニカ共和国国旗)と形容される白い油ご飯。赤い豆スープと肉料理がセットで、一日一食はご飯が食卓に上がる。ドミニカ米ご飯の上に、豆スープと肉と野菜を添えて食べる。白いご飯に、赤い肉、青の野菜を盛りつける。ご飯は、炊き方が日本とは異なり油と塩水で米を炊く。炊きたては軟らかさもあり、日本のご飯のように、卵かけご飯にしてもおいしい。しかし冷えるとパサパサした感じになり、日本のご飯の食感とは離れる。その場合はチャーハンのように炒めて食べる。
ほかにご飯の調理法として見掛けるのは、スペインの米料理のひとつ、パエリアだ。鶏や豚肉、カボチャなどを入れてトマト味で炊くこともある。もちろん日本人移住者は今ではこうしたドミニカ米の料理法にも慣れ親しんできたが、栽培した日本の薬味野菜のネギ、ミツ葉、生姜、シソなどを隠し味として上手に取り入れてきた。
第2の主食はパンに果物
この国ではパンがお米の次に食べられている。パン屋ではバター、レーズン、ナッツが入ったパンが格安で販売されているが、ホットサンド(ハンバーガーの形)に肉、ハム、ツナなどをはさんだボリュームのあるものが人気だ。ケチャップ、マヨネーズはお好みで。一個30ペソほど。
フランスパン風のものもおいしい(8~10ペソ程度)。移住者の食卓ではパン、クラッカーなどに薄くスライスしたアボカドを挟んで食べることが多い。脂肪分の多いバターよりもアボカドはヘルシーで、ドミニカでは庭先によく植えられている。日本のスーパーで見掛けるものより大きく表面が深いグリーン色になったころが食べごろ。皮をむいてそのまま塩とレモンをふってたべたり、サラダに入れたりと身近な果物だ。あとは、日本での定番メニューでもある「ワサビ醤油で刺身として」「海苔巻きの具に」など日系人の好みの食べ方だ。
ドミニカは熱帯に属するから、アボガドのように醤油味で食べる果物や、ほかにも当然ながら種類は豊富だ。季節によりいろいろな果物が出回り、価格も安く新鮮でおいしい。パイナップル、メロン、パパイヤ、マンゴーはよく民家の庭木として植えられている。これらはジュースやシェイクにして好まれている、パッションフルーツも知られている。
日本人移住者が入植時に栽培に励んだのは、食用バナナの一種ながら生では食べられない、プラタノである。現地人からバナナの根を購入し、プラタノを収穫まで10カ月かけて育てる。プラタノは米と並ぶ二大主食で、栽培すれば有利な作物であった。
希少なドミニカコーヒー
日本人のコーヒー栽培地は、最低平均気温17℃、最高平均気温25℃、年間平均降水量も平地に比べて少ないというコーヒー栽培に適した環境で栽培されている。収量は多くないがドミニカ珈琲は良質で希少価値のあるコーヒーとして日本でも珈琲通の人には貴重な味である。
ドミニカコーヒー栽培
さて、ドミニカコーヒー栽培は生産量が少なく、日本ではあまりなじみがない。入植当初は険しい山の斜面、石灰岩やサンゴ礁で出来た岩の狭い傾斜地に植えられるだけのものだった。コーヒーの木は、ほかの植物に絡まり、一見してコーヒーとは分からない。元々荒地だった所を開墾したので、ほかの木々と混在しているのだ。コーヒーの木を丁寧にツタから外して、実の顔を出す作業が続いた。
徐々に土地を整地し現在もコーヒー栽培を続けているのは、鹿児島県出身の田端初さん(92歳)。ドミニカの西部アクアネグラ地区(ハイチの国境沿い)、標高1,200mから1,400mの山の斜面で栽培している。そこで育てられたコーヒーは、昔ながらの手作業(ハンドピック)により収穫されている。豆の乾燥方法もサンドライ(天日乾燥)である。日本人移住者が営むコーヒー園として知られる。この地でのコーヒー栽培は、熱帯地域に属しながら山麓という独特の気候条件で行われており、他に例を見ない存在だ(世界各国のあらゆる分野のコーヒーの資料を編んだ大著「オール・アバウト・コーヒー」にも所収)。
コーヒーは、現地の人々の生活にどう溶け込んでいるか。忙しく車が行きかう首都サントドミンゴの大通りを一本裏道へ。木陰では、コーヒーカップを片手にチェスのようなゲームに興じたり、何をするでもなくゆったりとした時間を過ごす光景をよく目にする。木陰の光景は、時間がゆっくり流れているカリブの日常を実感できる。
ドミニカ共和国での日本食の普及は日系人の手から
10月。ドミニカ共和国ハラバコア市の農業日高武昭さんの収穫が終わった田んぼには、二番稲の「ひこばえ」が日差しに青々と照り輝いていた。熱帯の地の稲は随分駆け足で育つのだ。ここドミニカでも、この時期は子孫の交代の様子が稲を通して垣間見られる。
「ひこばえも大事に育て、2、3俵収穫を期待したい」という日高さんの思いは、次の世代への期待でもあるのだろう。漢字ではひこばえは「孫生」と書くが、ゆずり葉にも似て、洋の東西を問わず絶妙な世代交を表現している気がしてならない。
ドミニカ共和国の都市のスーパーには、量は少ないが日本野菜、味噌、醤油の調味料が並ぶ。50年前にドミニカに入植した日本人は、現地で大豆を栽培し味噌、醤油、豆腐を作り、日本食の基本を支えてきた。穀物市場を潤すほどの大豆生産まではいかないが、基本調味料を手づくりし、現地の食材を生かし、それを次の世代に伝えてきた。
ドミニカ共和国での日本食の普及は、50年前の移住者の一歩から、いま実を結ぼうとしている。
『ドミニカ共和国日本人農業移住者 50 年の道 青雲の翔』
『カリブの島の拓人たち-ドミニカ移住 25 周年記念史-』
ドミニカ日系人協会
ドミニカ日系人協会 青年部理事 神前 計資
石井 哲郎 アイ創造 KK

農業・食育のライターとして日本農業新聞、(社)農山漁村文化協会で活動農山村の地域をテーマにした著書多数
・宮城県農業大学校非常勤講師
・食品加工総覧第8巻(地域資源活用欄)執筆
・ドミニカ日本人農業移住50年の道 「青雲の翔」取材編纂協力



































