収蔵品企画展
キッコーマンの広告史~1920年代から1960年代。激動の中で~
会社設立当初 ~1920年代 「キッコーマン」ブランドへの集約と全国展開~
1917年、野田醤油株式会社(現キッコーマン株式会社)は、野田と流山の醸造家8家が合同して設立されました。211もの商標を保有していた設立当初から、野田醤油は、すでに国内外で高い評価を得ていた「キッコーマン」の量産を意図して活動を行います。
設立当初の広告は「キッコーマン」ブランドへの集約と全国展開を目的としており、どれも六角形のキッコーマンマークのインパクトが大きくなっています。
「キッコーマン」を広告する、これが当時の戦略でした。
ブランド訴求 ~1930年代 シンプル、明快に~
1920年代前半から1930年代前半にかけては、販売店協力のもとロゴマーク入りの看板を掲出したり、ロゴマークが大きく描かれた新聞広告を訴求しますが、1930年代半ばになると、当時の大衆文化に寄り添った親しみやすい漫画広告を用いるようになります。
戦時色が強まるにつれて新聞広告はどんどん小さくなりますが、野田醤油は、生活に寄り添った広告を可能な限り掲載します。しかし戦況がさらにし烈になると、表現はより戦時色の高いものへと変化していきます。
空白の10年 ~1940年代~
そして1940年ごろ。ついに広告が途絶えます。
太平洋戦争開戦後の1942年2月にしょうゆは配給切符制となりました。しょうゆの自由販売が復活する1950年10月まで広告を自由に出稿することができず、「空白の10年」とも言える期間がありました。
アイ・キャッチャーの登場 ~1950年代 若年世代に認知拡大を~
「空白の10年」の影響は大きく、1949年に行った消費者調査によると、10~29歳の女性では、63%がキッコーマンブランドを知らないことがわかりました。若い世代のブランド認知を高めることが急務となっていたのです。こうしたなかで広告に新機軸を打ち出す手法として誕生したのが、グラフィックデザイナーの大橋正(ただし)とコピーライターの近藤朔(はじめ)とのコンビが生み出したキャラクター「野田キッコ」でした。しょうゆの自由販売再開前の1950年1月に、いち早く広告に野田キッコを登場させ、若い世代への訴求とブランド認知向上に努めたのです。
香味(フレーバー) ~1950年代後半から1960年代前半 「家庭料理×キッコーマン」のご提案~
「香味(フレーバー)」とは、キッコーマンしょうゆならではの本醸造の良さを、ひと言で表現した言葉です。ブランド認知が高まると、次は「キッコーマンしょうゆの良さ(特徴)」の訴求に取り組みました。それは次第に「キッコーマンしょうゆ単体」から、「家庭料理とキッコーマン(料理訴求)」に移り変わります。「しゅんの味」「味の名コンビ」など、素材を主役にキッコーマンを添え、その相性の良さを訴えたのです。
さらなる需要を求めて ~1960年代 お客様との「対話」 日本各地・世界の料理をご提案~
1960年代は、食生活の洋風化がめざましい時期でした。「日本料理だけでなく、洋・中華料理にもしょうゆは合う」の想いから、「フライパンにもキッコーマン」「大きく変わったしょうゆの常識」など、しょうゆは世界中の料理と相性が良いことを訴求します。
またそれと同時に「日本の味どころ」と題して、日本各地の郷土料理の紹介も行います。これは販売訴求だけでなく、郷土料理とキッコーマンしょうゆとの結びつきを通じて、それぞれの地域に住む方々と味の対話をおこない、地域市場との交流を深めることも、目的のひとつでした。