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過去の展示

-醤から醤油へ-しょうゆ発達小史

KIKKOMAN ARCHIVES
17世紀-(2)
醤油産業の興り
 15世紀中頃から16世紀後半に至る時代に、わが国には「垂れ味噌」や「唐味噌 とうみそ 」の他に「醤油」と呼ばれる調味料があったことが、文献などから確認されている。
 16世紀後半には、朝鮮半島からの新技術の伝来と、それを使った酒造りの技術が「醤油」づくりに応用されるようになり「垂れ味噌」や「唐味噌」はすたれ、「醤油」が質的な向上を伴いながら、広く生活の中に普及していった。しかしこの時代は、まだ「溜 たま り醤油」の時代で、多くは酒造りを専業としていた人々の副業としてつくられていた。そしてこうした人たちの中から、醤油づくりを専業とする人が近畿圏を中心に出始め、醤油産業が芽生えていった。
 例えば播州・龍野の円尾 まるお 家は、16世紀後半から17世紀にかけて酒造りを始め、同時に味噌と醤油づくりを行なった。また伝承によれば、天正2年(1574)、近江国辻村の釜屋家の一族・田中喜兵衛が下総 しもおさ ・市川で、天正14年(1586)には紀州・湯浅の赤桐馬太郎が醤油づくりを始めたと伝えられている。
 17世紀に入り、徳川幕府により政権が安定し、戦乱のない世の中を背景に醤油産業化の動きは全国に広がっていったと考えられる。そして技術的に遅れていた関東でも、こうした動きが見られるようになる。
 元和2年(1616)創業とされる銚子の田中玄蕃 げんば 家(ヒゲタ印)は、摂津・西宮の酒造家・真宜 さなぎ 九郎右衛門の指導で「溜り醤油」をつくり始めた。また下総・上花輪村の梨兵左衛門家(ジョウトリ印のちにジョウジュウ印)では寛文元年(1661)に醤油づくりを開始し、元禄13年(1700)には、銚子の濱口 はまぐち 儀兵衛(ヤマサ印)が醤油づくりを始めている。
『料理物語』
『料理物語』
17世紀中期から後期の醤油のつくり方
 江戸時代に入ると、多くの文献に「醤油の製法」が登場してくる。そのうちのいくつかから近世初頭の製法を見てみよう。
『料理物語』(寛永20年<1643>刊)
 この文献には「正木醤油」と呼ばれる醤油のつくり方が書かれている。
【精白した大麦一斗と小麦三升を炒って、挽き割り、粉にする。大豆一斗を煮て、麦の粉と合せ「にわとこの葉」(スイカズラ科の落葉樹。茎・葉は煎じ薬)を蓋 ふた にして麹 こうじ をつくる。麹が十分生育した後、塩水(塩八升、水二斗)麹四升を混ぜ、三十日間寝かせてつくる】
 この記述から、当時はまだ「唐味噌」の製法との差は余りないことが判る。また大豆の使用量も麦と比べ少ない。こうしてつくられた醤油を、なぜ「正木醤油」と呼ぶのか、という理由には触れていない。
『雍州府志 ようしゅうふし (貞享元年<1684>刊)
【わが国では「 くきしる 」のことを、俗に「醤油」と呼んでいる。適量の煮た大豆と炒った大麦を合わせて麹をつくる。これを大桶に盛り込んで塩水を加える。毎日三回撹拌 かくはん し、七十日余りの後、布袋に入れて、その上に重石を置き、汁を搾る】
『本朝食鑑 ほんちょうしょっかん (元禄10年<1697>刊)
【大豆一斗を水漬けしてから十分煮る。精白した大麦一斗を炒って挽いて粉にする。これらを混合して麹をつくる。塩一斗と水一斗五から六升を混合したものと麹を一緒にして大桶の中に取る。次の日から毎日三から五回撹拌し、七十五日経ったら中に簀を丸くして立て、内に濡れ出る液(醤油)を汲み取る。これを「一番醤油」という】
【(一番醤油で出た)渣 かす と四から五升の麹、塩水(塩一斗と水四から五升)を混ぜて毎日撹拌し、三十日ないし四十日したら簀を立てて内の醤油を汲み取る。これを「二番醤油」というが、これはうまくない】
 同書には、この他に「海辺の田舎では、鰯を原料とした汁を醤油に代えている」とか「少しでもおいしい醤油づくりを競い合っている」という記述も見られる。こうしたことから、この時代になると、醤油が全国に広がっていたことが分る。また、この時代頃から、原料の配合割合が、大豆、麦、塩それぞれほぼ同量用いられるようになってきている。
下り醤油
 江戸開府により政治の中心が上方から江戸に移り、江戸は急激に人口が増えていったが、生鮮食料品を除くあらゆる生活物資は、江戸以外の地から移入しなくてはならなかった。そしてそのほとんどを上方に依存し、海運によって江戸に運び込まれた。それらは「下 くだ り物」と呼ばれ、関東地場産のもの(地廻り品)より、上質、上級であった。
 醤油も「下り醤油」と呼ばれ、大坂、堺、尼崎などの上方でつくられた醤油が江戸に送られた。「下り醤油」はその後、約200年間、江戸市民の塩味調味料として使われた。
 近年の研究から「下り醤油」は、醸造期間が短く発酵と熟成が不十分なため、「淡口 うすくち 醤油」とは違う煮炊き用の調味料であったようだ。溜りタイプの醤油から、現在の濃口 こいくち タイプの醤油へ転じる中間に位置するものと考えられる。
17世紀-(2)