Readings

-よみもの-

第17回 一般の部(エッセー)読売新聞社賞

『もう』の親子丼

妻は「もう」が多い。

俺がスーパーから帰ると「もう、またこんなに買って」と不満を漏らし、言い合いになると「もういい」とふてくされる。

その妻に妊娠がわかったのが十年前。しんどそうな姿を見て、「これからは俺がメシを作る」と宣言した。だが、包丁を握るなんて小学校の家庭科以来。最初に戸惑ったのは、スーパーでの買い物だ。妻のメモを片手にカートを押す。豆腐はどこだ。卵は冷蔵か。コーナーを探すだけでも、ひと苦労。そんな時、「あら、お買い物なんてえらいですね!うちのダンナなんか、妊娠中も飲み歩いてばっかりだったわ」とご近所さんに話しかけられる。何だか気恥ずかしく、急いでその場を立ち去った。

だけど、俺のダメッぷりは相変わらず。家に帰れば「もう!牛乳はまだあったのに」と叱られ、「これ、きゅうりじゃなくて、ズッキーニだよ」と呆れられた。「だったら返してくるよ」と言えば「もういい!」と取り合ってもらえない。

調理にしても、そう。妻のリクエストに応えようとしたが、こちらもうまくいかない。オムライスの予定はチャーハンになり、厚焼き玉子はスクランブルエッグになった。

「もう、あなたって、タマゴもうまく割れないのね」

殻の入ったチャーハン。味がイマイチだと妻は「もうお腹いっぱい」とラップをかけ、うまくいくと「もうちょっとお代わりある?」と言った。たまたま親子丼がヒットし、それからというもの、気づけば週に何度も食卓に並ぶようになっていた。

だけど、妊娠六ヶ月。医者が険しい顔で「少し厳しいかもしれません」と言った。どうやら胎児の心拍が弱いらしい。

「赤ちゃん、もうダメなのかなあ」

夜、夕飯をつくっていると、妻が呟いた。

「そんなことないよ……」

「もう死んじゃうのかなあ」

「そんなことないよ……」

「もう私、お母さんになる資格がないのかなぁ……」

「そんなことないっ!」

気づいたら、喉を突き上げるように声が出た。本当はこんな事を言うつもりはなかった。だけど何だか悔しくて、悲しくて、どうしようもなくて。チカラまかせに、「心拍が弱いくらいでなんだ!俺たちは絶対、親子になれるんだよ!親子丼食べたら、親子になれるんだよ」と言った。妻は「もう意味わかんなーい」と苦笑し、そのあとに「ありがとう」と言った。

ふたりで食べた親子丼は、涙でしょっぱく、でもふたりの心をふんわり包んだ。

あれから何度も家族のために親子丼を作っている。最近は「ぼく、カレーが食べたい」と言う息子をよそに、「親子なんだから食べるんだ」と無茶苦茶を言っている。

それでも、親子丼を食べるとあの日の記憶がよみがえる。やさしい気持ちになれる。

今日もおかわりを作っていると、後ろから声がするんだ。


「もう結構よ」って。

INFORMATION

第17回 一般の部(エッセー)読売新聞社賞
『もう』の親子丼
小松崎 潤(こまつざき じゅん)さん(埼玉県・42歳)
※年齢は応募時

他の作品を読む

これも好きかも

共有

XLINE
おいしい記憶