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-よみもの-
「あなたのおいしい記憶」エッセー、作文コンテスト2017 エッセー部門優秀賞
わが家はお寿司屋さん
うちはすごく貧乏だった。私が小学校に入るまで何回も引越しをした。ある時期では住むところがなく、親戚の家の屋根裏部屋を間借りしていたこともあった。それらのことについて詳しく聞いたことはないけれど、どうやら父親がすぐに勤務先とケンカをして辞めてしまうのが原因だったようだ。ちなみに父親の仕事は雇われの料理人である。いわゆる職人だ。そんなこともあって、引越しを繰り返しながら幼稚園や小学校を転々としていたこともあり、私にはあまり友達がいなかった。
私が小学生の頃は友達を自宅に招いて誕生日会をするのが流行っていた。みんなでプレゼントを持ち合い、唐揚げやらケーキやらを食べながらお祝いするのだ。友達のいない私は自分の誕生日会を開くこともなければ招待されることもなかった。最初は寂しい気持ちもあったけれど、段々とそんな想いは薄れていき諦めるようになっていった。
小学4年生になり、バスケットボールを始めた。体育の授業で学んだポートボールが楽しかったからだ。そして少しずつ友達ができるようになった。バスケの練習に打ち込み、充実した日々を送っていたある日、父親が「もうすぐ誕生日だな。友達を家に連れてきな。」と突然言い出した。全然期待はしてなかったけれど、その言葉はすごく嬉しかった。
待ちに待った誕生日当日。父親の言う通り、数人の友達を連れて部屋に入った。飾り気のない普段通りの殺風景な部屋だったけど、そこにはたくさんの魚が並べられたピカピカのガラスケースとねじり鉢巻きをした父親がいた。そう、そこはお寿司屋さんだった。「へい、いらっしゃい!さあ、今日は何にしましょう?」と父親が切り出すと、みんなが「イクラ!」「玉子!」「鉄火巻き!」と一斉に叫び出した。夢のようなひとときだった。30分もしたらイクラだ玉子だって言っても「もうねえよ!」の一点張りでカッパ巻きしか出てこなかったけど、あのときの光景・味は今でも鮮明に記憶している。今思えば、その頃は住み込みの仕事を見つけ、家族の生活が安定し始めたとはいうものの、決してそんな余裕はなかったと思う。いつも強がりで見栄っ張りな父親らしい。その日を境に、私はすっかり人気者になり友達もたくさんできた。まさに自分の人生を変えてくれた一日だった。
後から母親に聞いた話だが、父親が最初に仕事を辞めたのは、私の出産の立ち会いのために仕事を休もうとしたら、当時の会社に断られたからだそうだ。まったく・・・親父らしいよ。
今の私は父親のような職人ではないけれど、同じ「食」の世界で働くことができて幸せだし、今の仕事を心から誇りに思っている。あの時の親父みたいにおいしい記憶・おいしい思い出を与えられるような仕事をしていきたいって本気で思うよ。ありがとう、親父。
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わが家はお寿司屋さん
作・社員
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