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-よみもの-

「あなたのおいしい記憶」エッセー、作文コンテスト2017 エッセー部門優秀賞

おとうさんの色

(あ、いい匂い…)
久々の帰省の途で、どこからか漂ってきた温かな夕飯の匂いに、ふと昔を思い出した。食にまつわるわたしの記憶には、いつも折々の色があった。
母が多忙な我が家では、台所に父が立つ光景は珍しくなかった。元来器用ではない父なので、初めこそ不慣れな包丁で指を切ったり、鍋を噴きこぼれさせたそうだ。幼い私の口に入りきらないほどごつごつと大きい南瓜の煮付けは、しかし優しい甘さで美味しく、こっくりとしたオレンジ色と共に鮮明に思い出される。
その料理の腕は年々上達し、母が出張から戻る晩の食卓には、ホクホクとした赤魚の煮付けや、三つ葉を散らした茶碗蒸しまで並んでいたほどだ。
そんな父が、忘れられない大失敗をした。
私が中学生の頃、我が家の人気メニューに酢豚ならぬ“酢鶏”があった。から揚げと季節の野菜を炒め合わせ、父特製の甘酢ダレを絡めた、ボリューム満点の逸品だ。その日も腹ペコの私は、鮮やかな赤や黄のパプリカ入りの酢鶏を勢いよく頬張ったのだが、これがとんでもなくしょっぱいのだ。
なんと、父は急ぐあまり砂糖と塩を間違えていた。苦し紛れに砂糖水で煮詰めてみるも時すでに遅く、ごめんなあ…という父の声と、寂しげな青いワイシャツの背中が記憶に残っている。
受験を控えた高3の冬、その父が脳梗塞で倒れた。
「大酒飲みの自業自得やな」
多感な時期だった私は、一命をとりとめ眠る父の傍らで、なおも素直な言葉をかけられずにいた。
その時ふいに、苦しげな息づかいに混じり、父の口から「ごめんなあ。しょっぱい酢鶏食べさせてからに」という言葉が聞こえた。思わずハッと固まり、それから静かに涙が溢れてきた。父はずっと気にしてくれていたのだ。その愛情の深さに気付かされた出来事だった。
その後退院した父は、無事定年まで勤め上げ、今は悠々自適の生活を楽しんでいる。私はごく平凡に結婚し、年何回か両親を旅行に招待する、それなりの孝行娘のつもりだ。
あの頃とは違い、大切なことを見落としはしない。老い始めた両親に精一杯恩返しをしたい。そんなことを思いながら生家への坂道を登っているときだ。
ピコンと音がし、携帯に見慣れぬアイコンが浮かんだ。
『ちちです。なんじにかえるか。ぱえりあをつくつてまつている』
父らしい固い口調と、ひらがなのチグハグさに吹き出した後、大きなフライパン一杯の黄色いサフランライスに新鮮な魚介がたっぷり盛られたパエリアを抱えた、にこにこ顔の父の姿が思い描かれ、胸のつまるような愛しさで、画面の文字が滲んだ。
父がいつの間にラインを始め、スペイン料理までマスターしていることに驚いた。そして何より、彼はもう新しいことはできないのだと、労わるつもりで壊れ物のように扱っていた自分の思い違いにハッとした。
父はまた私たち家族の食卓に、自慢の料理で新しい色を塗り重ねていく途中なのだ。何度でも、何度でも。
私はこれから、どんな色を描けるだろうか。

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