
Readings
-よみもの-
「あなたのおいしい記憶」エッセー、作文コンテスト2017 エッセー部門最優秀賞
茶色い卵焼き
3月31日、午前7時。台所からやってくる味噌汁の香りで目が覚める。明日から社会人となる私は、新天地へと向かうため、あと2時間ほどで家を発たなければならない。
「おはよう。もう少しで朝ごはんできるからね」
いつもと変わらぬ母の横顔。いつもと変わらぬ朝のぬくもり。
「いただきます」
朝食のなかにひょっこり顔を見せるのが、少し焦げ目の強い、甘めの卵焼き。自分にとってのいわゆる『おふくろの味』だ。
「この味ともしばらくお別れか」
そんなことを考えながら真っ先に口に運んだ瞬間、胸の内側からこみ上げてくるものがあった。
社会福祉士として働く母は、私が小さいころから大忙し。しかし、どんなに忙しくても私たち家族の朝食作りを欠かすことはなかった。せめてこの食事だけは、おふくろの味を伝えたい。そんな心意気があったのかもしれない。
朝食の中で並ぶことが多かったのが、この卵焼き。私が物心のつく前からの大好物だった。母は忙しい朝にもかかわらず、私のためにわざわざ手間のかかる卵焼きを作ってくれていた。
小学生の頃、友達の弁当箱に入っていた卵焼きを見た時は、心底驚いた記憶がある。焦げ目ひとつない鮮やかな黄色で、綺麗な形をしている。自分の弁当箱に目を移すと、黄色というよりは茶色に近い、不格好な卵焼きが詰め込んである。なんだか急に恥ずかしくなって卵焼きを隠そうとしたのだが、友達に
「お前の卵焼き焦げてるじゃん!マズそう!」
という心ない一言を言われてしまった。大好きな母の料理を侮辱された悔しさとともに、綺麗な卵焼きを作ってくれない母への憎悪が入り混じって、何も言い返すことができない。涙を堪えながら卵焼きを頬張った。
その日の晩、母が仕事から帰ってくるやいなや、
「もう卵焼き作らなくていい!」
とだけ言い放って、布団の中に飛び込んだが、すぐに後悔の念に駆られた。あんなに大好きな卵焼きなのに、あんなに大好きな母の味なのに…
翌朝、勇気を振り絞ってぼそっと言った。
「昨日の話、うそ」
母は何も言わずに、にっこり笑ってくれた。母が綺麗な部分だけを私に食べさせ、切れ端の部分を自分の弁当箱に詰めていることに気付いたのは、しばらく後になってからのことだった。
そんなことを思い返しながら、茶色がかった卵焼きを黙々と味わう。口いっぱいに広がる母の愛情。この愛情に支えられて、ここまで大きくなれたんだな。
「ごちそうさま」
気が付けば大きな卵焼きを、ほとんどひとりでたいらげていた。
「今日は一段とよく食べたね」
嬉しいのか悲しいのかわからない表情で、母がぽつりと言った。
あっという間に、出発の時刻となった。玄関で母と向き合った時、色々と伝えたい想いがあったのに、口から発することができたのは「ありがとう」という一言だけだった。
「また母さんの卵焼きを食べに帰ってこよう」
そう思いながら、力強く玄関の扉を開けた。
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茶色い卵焼き
作・社員
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