
Readings
-よみもの-
「あなたのおいしい記憶」エッセー、作文コンテスト2020 エッセー部門優秀賞
母になった日
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
助産師さんの声が聞こえた。生まれたばかりのわが子を胸に乗せ、ふと枕元に目をやると涙目の夫とほほ笑む母の顔が見えた。私も母になったと実感した瞬間だった。
「夜ご飯はなあに?」
小学生の頃、夕食の支度をする母の横に立ち、今日あった出来事など他愛もない話をしながら、おかずを味見させてもらうのを毎日楽しみにしていた。母の作る料理の中でも、特に一番の大好物だったのは炊き込みご飯。鶏肉、ごぼう、たけのこ、蓮根、人参、しいたけ、こんにゃく・・・たくさんの具材を細かく刻み、甘辛く味付けして、お米と一緒に炊飯器で炊きあげる。毎日バスケットボールや水泳に通って、いつもお腹を空かせていた私には最高のご馳走だった。
自分自身も結婚をしてから、何度か炊き込みご飯に挑戦したものの、母の味とはなんとなく違うと日常の献立に加えることがないままだった。そして、結婚から数年が過ぎたころ、長男を懐妊することができた。
産休に入ると、出産準備のために母がたびたび来てくれるようになった。18歳で一人暮らしを始めてから、お正月と夏休みくらいにしか実家に帰ることもなかったが、久しぶりにたくさん話をすることができた。母は、家事や出産準備の買い物など、初産で何もわからない私を助けてくれた。夕方には夕食のおかずを一緒に作ってくれ、子どもの頃のように、料理をしている母の横に立って味見をしながらいろいろな話をした。
いよいよ予定日まで1週間という日、朝から顔を出してくれた母が「朝作ってきたよ」と持ってきてくれたのは、研いだお米に混ぜて炊くだけになった炊き込みご飯の具材だった。翌日に炊こう、と楽しみにしながら布団に入ったがなかなか寝付けず、うとうとしかけた明け方に陣痛で目が覚めた。事前に助産師さんから言われていたことを確認していると、出産が長引くとお腹が空くから食べ物を用意して、と言われていたことを思い出し、母の炊き込みご飯をあわてて作り始めた。陣痛の間隔がだんだん狭まっていく中でも、炊飯器から上がるいい匂いに心が落ち着いて、不安が消えていく。できあがった炊き込みご飯でおにぎりを握って、準備が完了すると、夫に付き添ってもらい、病院へ向かった。
病院に着いてから1時間半ほどで長男が無事産まれ、助産師さんの声や家族の顔を見て胸がいっぱいになった。あまりの出産の早さに、炊き込みご飯のおにぎりを食べる間もなかったが、母の炊き込みご飯のおにぎりは、私のお守りのようなものだったと感じている。幼いころから覚えていたご飯の炊ける匂いややさしい味は、ただの食べ物ではなく、毎日忙しい母の隣に立って話をして、心を通わせた思い出そのもの。母になった日、母の作る思い出の味を味わえたことで、目の前にいるこの子にも心に残る母の味、という愛情をたくさん残していこうと思うことができた。食事は体を作る大切なものと同時に、幸せな気持ちを作るものでもあると感じている。
INFORMATION
母になった日
作・社員の家族
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